6,7,8,9,10章 改訂版 2018.8.17 file: 大洋を二度越えて2018-12S2(10章のみ)
第六章 叫び
オスロ行きのジェット機はエンジンが後部にあり、前方にあるヨーロ・クラスの座席ではエンジン音が殆んど聞こえず静かだった。コーチ・クラスよりも座席がゆったりとして足も伸ばせ、考え事も解けたので秀雄は心身ともにゆったりとしていた。機内でスチュワーデスが配っていたヨーロッパ各国の新聞の中からウォール・ストリート・ジャーナルを見つけ、それを読みながら会合への気分転換を急いだ。新聞は英文であったがヨーロッパ版で薄かった。
重要なニュースだけを拾い読みした時、ジェット機は厚い雲を通り抜けて雲海の上に出た。久しぶりに見る太陽は高緯度のせいか水平線すれすれで淡く輝いていた。隣りの空いた席からスウェーデン語のストックホルムの朝刊、ドーゲン・ブローデットを借りてアパートの宣伝欄に目を通していた。その時、厚化粧をしたダーク・ブロンドのスチュワーデスが来て、
「カフェ エラ テー(コーヒー又は紅茶)?」と、早口のスウェーデン語で尋ねた。もしこの時、英文の新聞を読んでいたら、英語で尋ねていたはずだがと秀雄は思いながら、
「カフェ、タック」と、スチュワーデスの澄みきった薄青色の目を見ながら素早く答え、コーヒーを貰った。大学のスウェーデン語講座では習わなかったが、スウェーデン人は何かと言った後でタック(ありがとう)と感謝の意を付け加える癖があることを知り、感じが良いので、自分もその真似をするようになっていた。スチュワーデスの厚化粧が気になったのか、ふと、輝子が厚化粧すると、けさのジャネファーみたいなのかどうかと、コクのある美味しいブラック・コーヒーを飲みながら考え苦笑した。
一時間足らずでオスロ空港に着き、オスロ市行きの高速電車に乗る。乗車時間は二十分少々だが、発表するために準備していた書類を引き出した。目を通しながら頭の中で一ページづつ要点を再確認し、キャリオンバッグに収めた。
オスロ駅に着き、駅前でタクシーを拾い、行き先の書かれた紙切れを運転手に見せた。
うかつにも空港で両替することを忘れていたので、スウェーデンのクーローナ紙幣で支払いたいと言うと、初めのうちは嫌がられた。しかし、ノルウェーのクーローナ紙幣を持っていなかったので、チップを多めにして受け取ってもらうことにした。
両国とも通貨単位はクローナなのだが、それぞれ違ったクローナ紙幣なのだ。言語も良く似ているがノルウェーはスウェーデンをあまり良く思わないないらしい。タクシーの運転手の機嫌は良くなかったが、スウェーデンよりも英語が通じるので、ストックホルムよりは居心地が良いと感じた。十分足らずで、友人オウケのいる理学研究所に着き、受付でオウケを待つ。
数分待っていると身長二メートル近くもあるオウケが現れた。彼は研究所で行われている様々な実験で必要な計器の調達や製作の主任をしており、秀雄と同じ計器開発の専門家であった。彼の研究室に行きここで行われている色々なプロジェクトの説明を三十分くらい聞き、会合の始まる時間を待った。会合とは言っても、様々な分野から三人の研究者が秀雄の計器開発の話を聞きたいまでのことであった。秀雄の発表は新しく改良された計器の主な要点で、会社の機密事項を除いて説明した。三人からの質問は計器専門分野でないらしい初歩的な内容だったので、気楽に応答出来て内心ほっとした。
会合の後、オウケの研究室に戻り、昼食時間になるまで彼の開発中の計器の問題点を論議し合った。
「ヒデオ、わざわざ遠いところから来て頂き、改良計器の説明をしてくれて感謝しています。私としては大変興味がありましたが、他の三人にとっては少しは勉強になったと思います。ところで、採用のことですけど、貴方の国籍がヨーロッパ圏外なのでここで採用される可能性は低いと思います。ですけど、今会った三人のプロジェクトは我々の研究室では手に負えないと思いますので、予算次第では貴方にコンサルタントとして来てもらう可能性があります。ここまで来て頂き恐縮ですが、今のところそれがいつになるのかはっきりと言えません」と、いつもながらの堅苦しく丁寧な英語で言った。
「もちろんそれは分かっているし、貴方の知っているスウェーデンのケンさんからも同じようなことを聞かされているから、心配しなくていいよ。でも、コンサルタントなら喜んで引き受けるから、その時は是非連絡して欲しい」
「もちろん、連絡します」
研究所の食堂でオウケと軽い昼食をした後、秀雄はタクシーで予約してあったオスロ駅前のホテルに行った。前もって、オウケに手持ちのドル紙幣をノルウェーのクーローナに交換して貰っていたので、タクシーの支払いは問題なく済んだ。チェックインするには早過ぎたので、ネクタイを外しスーツケースからセーターなどを取り出し、荷物をホテルに預けてフィールドコート姿で街の中をぶらつくことにした。
ストックホルムと比べ、雪はあまり積もっていなく、気温も少し高かったが肌寒く感じた。波止場まで来てそれがなぜか理解できた。北海から吹いてくる風が強く、しかも湿気が多いので寒さが身にしみて感じるのだと思った。しかし、この寒い中、波止場に停泊した小舟の上では、防寒着姿の漁夫達が素手で網の手入れをしていた。やはりワイシャツの上にセータでは寒いのだと分かり、風当たりの少ない街の中心部に向かって歩くことにした。
ぶらぶらと当てもなく歩いているうちにノーベルの胸像の前を通って駅前ホテルに戻ってしまった。既に二時間以上も歩いていたことになる。不思議にも輝子やジャネファーのことはほとんど考えず、二度目だが久しぶりに見るオスロの街並に没頭していた。
ホテルのチェックインを終え、自分の部屋に入った秀雄は、まず電話を、メモ用紙とボールペンをと、ひとりごとを言いながら準備した。日本の電話局にかけ、輝子の両親の電話番号を捜査してもらう。正確な住所は思い出せなかったが、町名と両親の店の大ざっぱな名前だけで電話番号が分かり、予想通りに進んだことで一安心した。しかし、ヨーロッパと日本との時差八時間を考えると、日本はもう夜遅かったので、かけるには遅すぎた。
秀雄はまた外出することにし、トックリセーターに着替え、コートをつかんで部屋を出た。ホテルのロビーで観光宣伝パンフレットの並べてある前に立ち止まり、何枚か選び、ロビーの椅子に座ってパンフレットを注意深く読み始めた。国立美術館とオスロ宮殿の衛兵交替式を見物することにしたが、時間的にそれらを見るにはもう遅すぎていることに気が付き、パンフレットをコートのポケットに無造作に詰め込み、ホテルを出た。
また暇潰しに街並をぶらぶらと歩き始める。アメリカのファースト・フード・レストランの前を歩いていた時、急に空腹を感じ、中に入った。メニューは英語でも書かれてあったのでアメリカと錯覚してか、英語でハンバーガーなどを注文した。食べた後、歩道に出ると暗くなっており、人並みが多くなっていた。昼間より賑やかで少し陽気な空気が漂っていた。ストックホルムには陽気な感じがなかったことと対照的だった。二時間近く当てもなくぶらぶらと街並を歩いていると疲れを感じ、ホテルに戻る。することもないので、ベッドの上に寝転んでいたら、いつの間にか服を着たまま眠ってしまった。
突然、秀雄は目を覚まし時計を見た。もう午前一時過ぎており、日本は午前九時過ぎだと分かり、ベッドから起き上がって急いで顔をお湯で洗った。机の椅子に座り少し躊躇したが、思い切って輝子の両親の電話番号をドキドキしながらかけた。日本のダイヤル音が聞こえ出し、受け取られるまで心臓がドキドキしたままだった。
「もしもし....」 と、聞き憶えのある輝子の母親が出てきた。高校時代、秀雄の家には電話がなかったので近所のタバコ屋の公衆電話から輝子に電話をかけていた。かけるといつも母親が最初に出てきたので、会ったことは一度もなかったが、二十数年経った今でも母親の声を覚えていたのだ。
「もしもし、こちら加藤秀雄と申しまして、二十年くらい前、輝子さんとお付き合いしていたのですが、え〜と、突然電話かけてすみませんが、輝子さんを探しているところなんです」
「えっ!」と、かなり驚いた様な声の後、少しばかり黙り込んでしまってから母親が言い出した。
「あの〜、輝子のことは、すみませんが、輝子の姉、雅子に聞いて頂けませんでしょうか?」
「はあ〜、そうですか。じゃあ、雅子姉さんのお電話番号を教えて頂けませんでしょうか?」
「はい、少々お待ちください」
何も怪しまれず姉の電話番号を貰い、秀雄は胸を撫で下ろした。しかし、何故母親が輝子のことを喋りたくないのだろうかと腑に落ちなかった。輝子と母の関係は昔よりもさらに悪くなっているのだろうと憶測した。輝子の姉とは直接会話をしたことはなかったが、躊躇せずに姉の番号を今度はドキドキせずにかけることができた。
「もしもし、武田ですが」と、輝子の姉が出てきた。
「もしもし、こちら二十年くらい前、輝子さんと交際していたカトウ・ヒデオですが.....」と、名前をゆっくりとはっきりした口調で言った。
「えっ! 加藤秀雄くん? 秀雄くんなん?」
「はい、そうですけど、今さっきお母さんに電話したところ、輝ちゃんのことはお姉さんに聞いてくれと言われたので掛けているところです」
「で、秀雄くんは今どっから掛けてん?」
「え〜と、今は旅行中で、ノルウェーのオスロからですけど、留学したままアメリカに居残っています。で、留学した時から輝ちゃんには全く連絡していなかったので、とても気になっているんです」
「ああ〜そうだったん、行ったままだったんねぇ.....」と、言って、言葉が途切れた。
「ええそうですけど、輝ちゃんはお元気ですか?」
「.....あのねぇ」と、言って少しためらってから続け出した。
「.....あの子もう居ないんよ、二十年くらい前に死んだんよ」
「えっ!.....」と、言った秀雄は喉を詰まらせ、頭が真っ白になり、椅子から崩れ落ちそうになった。なんとか気を取り戻して
「あの〜、亡くなったって?.....ど〜」と、枯れたような声でようやく尋ねた。
「輝子が二十五歳の時、睡眠薬を飲んで自殺したんよ.....」
「えっ! どうして、そんな.....」と、秀雄は弱々しく声を詰まらせながら尋ねた。
「京都の就職先でうまく行かんで、家に戻って来んだけど、何とかかんとかいっぱい義母との間でいざこざがあって、でも義母の親戚の見合い相手を押し付けられたことが本当に苦になったらしいんよ」
「そうだったんですか、可哀想に、......もしその頃、僕が手紙を出しておけば良かったかもしれないけど.....」と、言って声を詰まらせた。
「そうね、輝ちゃんも秀雄くんと連絡したいと言ってたし、私も秀雄くんの住所をあんたのお母さんに聞けばと言ったんだけど......」
「やっぱり僕が何も言わず留学したのが間違いだったんです。僕が悪かったんです。取り返しのつかないことになってしまって」と、言ってすすり泣き出した。
「秀雄くん、あんたのせいじゃないんよ。私だって自分から進んで秀雄くんの住所を聞けば良かったんだから。こんなことになるんとは誰も思ってはいなかったんよ」
「あの頃、僕はホームシックになるのが怖くて、ましてや輝ちゃんのことを思うとホームシックになって大学も卒業せずに帰国していたかも知れず、それが怖かったんです。ですから渡米する時、輝ちゃんのことは無理矢理に忘れようとしてたんです。すみません。僕が悪かったんです。......ごめんね輝ちゃん」と、言って喉を詰まらせながら泣き出した。
「秀雄くん、あんたのせいじゃないんよ。あの子は自分の辛いことは滅多に人に言わん方だったんで、そうなってしまったわけで、秀雄くんのせいじゃないんよ....」
「でも、僕が手紙一つでも書いておけば..........」と、泣くばかりで言葉にならなかった。
「だけど、もう昔のことだから、あまり気にしないでいいんよ」
秀雄は泣くばかりで答えなかった。しばらくして、雅子が言い出した。
「ところで、秀雄くんはアメリカで今まで何してたん?」
秀雄はやっと声が出せるようになってから答え出した。
「大学を卒業して、電子工学の技師になっているんですけど、先月アメリカの会社を辞めて、新しい仕事を探すために北欧を旅行しているところです」
「で、一人で旅行しているん?」
「はい、そうです」
「家族は?」
「いええ、いません。まだ僕ひとりです」
「えっ、そうなん、まだ結婚していないん?」
「はい、まだしていません」
「でも....こんなこと聞いていいかしら、なんでまだ独身でいるん?」
「輝ちゃんのことがどうしても忘れ切れず、もしかすると輝ちゃんがまだ結婚していなければと、勝手にそう思っていたんです」
「まさか、今までずーっと、そう思っとった訳じゃないんよね?」
「はい、綺麗だった輝ちゃんのことですからきっと誰かと結婚しているのではと、思っていました。でも、もしかしてはと思い、今になって電話をかけたわけです。でもこんなに遅くなってしまって」
「恋愛って、若い時はなかなか思うように行かんもんだけど、あんた達二人は本当にタイミングが悪かったん、ねぇ〜」
「あの頃は、本当に未熟だったから、思ったことをうまく言えず、こうなったみたいです」
「うん、そういうこともあるんよねぇ。ところで、時には日本に帰ることもあるん?」
「ええ、近いうちに帰国して両親のところに少しの間滞在する予定です。で帰ったら真っ先に輝ちゃんのお墓参りをするようにします」
「ご両親のお住まいはどこなん?」
「お姉さんと同じ○○市で、昔と同じところです」
「輝ちゃんのお墓は郊外だけど、それほど遠くはないんよ。実母のお墓と同じところなんよ」
「あ〜ぁそうですか。じゃあ、輝ちゃんは天国でお母さんと一緒になられたと思います」
「そう、私も輝ちゃんは天国で幸せになっとると思うんよ」
「そうでしょうね、きっと。あの〜、僕は自分の将来のことばかり心配して、輝ちゃんの気持ちを良く知らずにいて、本当に身勝手だったと後悔しています。天国で輝ちゃんに会って謝りたい気持ちで胸いっぱいです」
「ねぇ〜、秀雄くん、そんなにまで思い込まんで、お願いだから」
「はい、でも、全く思いもしなかったので、今のところ頭の中が物凄く混乱していて」
「それ分かるよ。でももう過去のことだから、あんまり考え込まんでね。お墓参りの時は私も秀雄くんと一緒に行くから、その時には連絡して頂戴ね?」
「はい、そうする様にします。それでは帰国する前に連絡しますので、お墓参りの時はよろしくお願いします」
「はい、じゃあその時、ゆっくりと話をしょうね。今日はお電話ありがとう、じゃ〜ね」
秀雄は涙ぐんだまま受話器をそっとかけ、手を受話器に乗せたままぼーっとして動かなかった。自分自身、これは人生で最悪な出来事だと思った。これほど失望したことはなかったし、死んでも良いとさえ思うほど悲しくて仕方がないのだ。こうなったのは自分の取った判断の間違いだと思えてならなく、深く深く後悔した。しかし、輝子がなぜ母に住所を尋ねなかったのかと、口おしく思え、なぜ尋ねなかったのか思い当たる一齣を思い出していた......。
秀雄の大学受験日の数日前に届いた輝子の手紙を母は受験が終わるまでの一週間ほど、手渡さなかったことがあった。手紙には受験後に会おうという内容だったのだが、そのことを知らなかった秀雄は受験後、急ぎもせず下宿先などを調べて翌日帰路に立った。夜遅く帰宅し、母から輝子の手紙を受け取った。翌朝、輝子に電話をかけたが、彼女の都合が悪くて会うことができたのはその次の日だった。
秀雄は母の思い過ぎた行動に腹を立てたが、その話を秀雄から聞いた輝子は愛する息子の将来の為ならどこの母親でもそうしただろうと、母に同情するような言い方をしたのを思い出した。こういったいきさつからすると、輝子は秀雄の住所を尋ね難かったのだろうと察することができた。
大学二年か三年頃、輝子が故郷に戻って来てある大企業の受付嬢をしていることと、暗い顔をして教会の礼拝堂に座っていた、ということが母の手紙に書いてあったことを思い出した。もしその時からでも輝子と文通を再開していれば、彼女は自殺はしなかったと思えて仕方なかった。しかし、その頃はホームシックになるのが怖くて、母の手紙は読んだ後、暖炉に投げ込んで燃やしてしまったほどだった。無論、母には輝子のことは何一つも書かなかったのだ。その時、一言でも母に輝子のことを打ち分けていれば、事は違ったかもしれず、若かった為か融通の利かなかったことが無性に残念に思った。
もしも、渡米する前に『輝子との別れが本当に辛いのだ』と母に告白していたら、母は自分の長い将来のためには輝子を諦めなさいと言ったに違いなかったかも知れない。多分、そう言われると思って告白しなかったのかも知れない。だが、告白していたらならば、暗い顔をして教会に来ていた輝子に母が話しかけていたかも知れなかった。それに、人一倍に世話を焼く母なので、息子の愛する輝子ために何だかの手配を配っていたかも知れない。残念ながら渡米した時の秀雄はそこまでは考えていなかった。それに、もし辛い別れをしたことを母が知っていれば、母と輝子はもっと身近な関係となっていたはずで、そうなっていたら輝子は暗い顔を隠していたかも知れなかった。だが、義母が見合いを押し付けていることを母に告げていたとも思え、何れにしても秀雄は自分の取った未熟な判断を酷く後悔した。
秀雄は電話の前に座ったまま涙が止まらず顎まで濡らしていた。どのくらい時間が経っただろうか、ゆっくりと立ち上がり、服を脱ぎベッドに入った。涙は止まることもなく、こめかみを流れ、枕カバーをべっとりと濡らしていた。中々眠れるような状態ではなかったが、何も考えないように寝ようとしているうちに眠ってしまった。
外がかなり明るくなってきて、秀雄はやっと目が醒めた。時間はすでに午前十時を過ぎていた。もう会うことの出来ない輝子のことを思い浮かべるとまた涙が溢れて来て、絶望的な思いになり、悲壮な声を出し、身体を震わせながら泣き出した。しばらく大泣きをした後、ぼんやりと輝子の姿を思い浮かべながらベッドの上に座っていた。彼女への思いが消えて行くのを待っていたが、消えることがないのに気が付き、立ち上がった。
輝子の存在しない新しい世界に住まなければいけないのだと考え、熱いシャワーを浴びて、頭をスッキリさせなければと思った。シャワーを浴びながら、これからの行動や目標を考え出した。その日の予定は宮殿の衛兵交替式の見物と国立美術館に行くことであった。こんなことはどうでもいいように思えたが、何かをしないといけないと思い、出かける支度をした。
秀雄は宮殿に向かって歩いて行き、正午の衛兵交替式を何も考えずうわの空で見物した。その後、美術館に向かった。美術館にはノルウェーの世界的に有名な画家ムンクの絵が展示してあり、見たこともないムンクの絵が沢山あった。ぼんやりと見物した衛兵交替式と違い、次から次へと壁に掛かった絵をじっくりと観覧して行った。ムンクの代表作である『叫び』は皮肉にも米国シカゴ美術館に貸し出されていて不在だった。
ここまで来ておりながら実物を見られないのが残念で、両手を頬に当て「叫び」たい気がし、一人で苦笑した。しかし、その絵の置き換え品として小さな絵葉書の『叫び』を見ながら、自分が人生最悪の過ちをしたことで本当に叫びたいような気持ちになった。だからこそ、この絵の絶望的な雰囲気が十分に伝わってくるところに価値がある傑作だと思った。
見ているうちに、この叫んでいる人物が今の自分であるかの様に錯覚し始め出した。自分をその絵の場所に立たせ、叫んでいるのだ。その時、はっと気がついたのは、この人物は叫んだ後、どうしたのだろうか?ということだ。もしムンクが生きていれば訊いてみたいという衝動につき抜かれた。もしかすると、その人物はその絵に描かれている青黒い海に飛び込んだのだろうか? そう言った思念を深く抱いたまま、美術館を後にした。
午後、ホテルの部屋に戻った秀雄はスカンジナビア航空に電話をかけ、翌日のコペンハーゲン行きの座席を確保した。オスロの街は十分に見物したので予定を短縮してしまったのだ。輝子のことは考えないようにし、ジャネファーに会いたい気持ちになろうとしていたが、その気持ちにはほとんどなれず、早く輝子の墓参りをしたい気持ちでいっぱいだった。
秀雄の頭の中には常にいくつかの大まかな人生の目標があり、その目標に向かって生きているが、中には無意識なものもあった。輝子との再会はその無意識な目標の一つであり、しかも、それは最も肝心な目標であった。そのことを今になって気が付き、それができなくなった今、これからどうすべきか考え切れず頭の中は混乱しているのだ。
翌日オスロよりコペンハーゲンに着く。北欧ではあるが南下したせいか雪も無く、一月とは言ってもストックホルムやオスロよりも暖かかった。市の中心部は人出が多く、カメラをぶら下げた観光客らしいグループが沢山いて歩道は混雑していた。秀雄の頭の中は輝子のことばかりになりがちだったが、混雑した歩道を歩くにはそうさせる余地を作らせなかった。
コペンハーゲンは初めてなので、一通りの観光をするため、英語ガイド付きの観光バスに乗った。ストックホルムと違い、観光バスには十数人の客が乗っていた。女性バスガイドの英語の発音の仕方がスウェーデン人とは違っていることに気が付いた。ストックホルムナの言ってた『スウェーデン南部ではジャガイモを口にほうばったような話し方をする』ということを思い出していた。
スウェーデン南部と接するデンマーク語もそういった話し方をするようで、バスガイドが喋っているコペンハーゲンの発音がコーベンハーヴェンと聞こえた。スウェーデン南部の話し方はデンマーク語から由来しているのではと、秀雄は推測した。デンマーク語とノルウェー語はスウェーデン語に良く似ていて、意味の解る単語が時々目に入ったが、耳にするデンマーク語はドイツ語のような感じでさっぱり分からなかった。
観光客が多数乗っていたせいか、バスガイドは録音されたような説明で予定通りのコースを順調にガイドして、バスは一時間後終点、駅前に戻った。観光客達はガイドにチップをあげながらバスから降りていった。中にはわざわざとバスの運転手にもチップをあげる者もいたが、秀雄はガイドだけにチップを手渡した。
バスから降りた秀雄は海岸に向かって歩き、海岸に着くと海岸線を辿って人魚の見えるところまで歩いた。英語のパンフレットに記述されている通り本当に『小さな』人魚だった。そこにいた旅行者らしい三十代くらいの茶髪の女性に秀雄は英語で頼んで、人魚をバックに写真を撮ってもらった。その女性から、どこから来たのかと東欧系アクセントの英語で尋ねられ、日本人だけどアメリカから来ていると答えると、その女性はルーマニアから来ていて旅行中だと言った。これからどこへ行くのかと秀雄が尋ねると、辿々しい英語で答え、理解できたのは市の中心部に戻る様子だった。
自分の行き先も中心近くまで同じ方角だったのでその女性から同行を求められ一緒に歩いていた。しかし、辿々しい英語を話すだけでなく発音も悪くて理解し難くて会話は進まなかった。海岸沿いの歩道が終わり、宮殿の入り口に近づいた辺りで、秀雄は自分の予定コースを変え、軍艦の停泊している桟橋へ向かうことにし、何を喋っているのか分からない女性と別れた。
桟橋に近づくと白地に細い赤十字架デザインのデンマークの国旗を輝した軍艦が見え始めた。軍艦を眺めながら、こんな小さな国でも海軍がありフリゲート級の軍艦を持っているのだと感心した。この旅で見たスウェーデンやノルウェーも小さな国でありながら、体裁良く軍隊を持っているみたいだった。予想できる敵は数年前崩壊したばかりのソ連だったかもしれないが、勝手に領海を侵略されないための最小限の規模なのだろうと自分なりに考えた。
この北欧の街で見かける軍人の服装は秀雄にとっては見慣れた米軍の軍服からかけ離れ、エキゾチックで、映画などで見かける仮想国の着飾った軍服の様に見えた。こんな平和な国々でも軍人は軍服姿で街中を堂々と歩いているのを見てきて、「日本とは違うなぁ」と独り言みたいにつぶやいた。その時、母が自衛隊を毛嫌いしていることを思い出し、若い時戦争で空襲の恐怖や物のない苦労を経験した母に、平和でも軍隊や軍人はいるんだよと、言ってやりたい気がした。
ホテルに戻り、スカジナビア航空に電話をかけ、翌日のストックホルム行きの座席を予約をした。これで北欧三国間の周回券を使い切ったことになる。まだ見たいところもあるが、春か夏の暖かい時期にまた戻って来た方がいいと思った。その時、憂鬱な冬と違い、春を思うことは人の心を明るくするということを秀雄は自覚してはいなかったが、春のコペンハーゲンを無意識に想像していたのかも知れなかった。そうでなくても、コペンハーゲンがオスロよりもさらに陽気な雰囲気であったことも秀雄を明るくしたのかも知れなかった。
輝子の自殺を自分の責任として感じる暗い罪悪感は自滅的で、生き甲斐もなくなるだけだと考え始め、そう言った考え方は捨てなくてはと自分に言い聞かせるようになっていた。と同時に、ジャネファーと会っておく必要があると思うようにもなっていた。不思議にも輝子を愛しているという感情は愛していたという過去形に変わり、人生の中で一番好きだったのは輝子だったと思うようになってきている自分に気が付いた。だが誰が二番目に好きなのか、好きだったのか考えても分からなかった。しかし、それはどうでもいいことだと思った。
第七章 決心
翌日午後ストックホルムのアーランダ空港に舞い戻った秀雄は空港の宿泊案内板の前に立っていた。色々なホテル案内を見ながら、数日前に泊まったホテル以外に適当な値段のホテルはないかと探してみた。しかし、やはり立地条件が良いのでまた同じホテルに泊まることにした。
一応二晩泊まることにし、もしストックホルムに長く滞在することになれば、予約を延長するか、もっと安いところを探せば良いと思った。ホテル・ガムラ・スタンに電話をかけて二晩の予約を取り、ストックホルム行きの航空バスに乗る。バスの窓から見えるストックホルムの空は相変わらずどんよりと曇っていた。
ホテルにチェックインし、自分の部屋からジャネファーに電話をかけてみたが不在だった。留守番電話のメッセージがスウェーデン語だったので全部は理解できなかったが、メッセージの終わった後のピーという信号音を聞いた後、泊まっているホテルの名前と電話番号を残しておいた。
することがないので、ベッドの上に寝ころんで天井を見つめていた。ぼーっとしながら、ストックホルムに何日くらい留まるべきか考え出した。だが留まるには毎日何をするのかと、それを考えなければ答えが出ず、いくら考えても何もすることがないのに気が付いた。
そんなことを考えているうちに、最初にすべきことは日本に帰って輝子の墓参りをすることだと気が付いた。ベッドから飛び降り、スカンジナビア航空に電話をかけた。日本行きの便を調べてもらったところ、ほぼ毎日空席が十分にあることが分かり、予約は取らなかった。一番早く日本に行くとすればホテルの予約が切れる明後日出発すれば良いと決め込んだ。
受話器を置いた後、またベッドの上に寝ころんで天井を見ながら考えていた。なぜ、輝子の姉と話している時、すぐに帰国することを思い付かなかったのだろうかと、自分自身を疑った。あの時は輝子の死を知り、酷く当惑していたからだと思った。明日はジャネファーのいる観光バスのオフィスに行き、別れを告げることにし、その後で日本行きの予約を取って、両親と輝子の姉に電話で帰国の日程を知らせれば良いと思った。
ベッドの上に寝転んだまま、輝子の居ないこの世界で生きて行く自分の将来を色々な角度から想像してみた。しかし、まず最初に日本に長く留まるか、帰国後すぐにアメリカに戻るかどうかはっきりと答えが出せず迷っていた。一時間くらい色々と考えていたら、電話が鳴った。ホテルのフロントからで、面会者がロビーで待っているとの知らせだった。面会者がジャネファーであることを察し、時計を見た。もう夕方になっていることに気が付き、コートを持ってエレベーターで一階に降りた。
狭いロビーのソファーに座っていたジャネファーはエレベーターから出てきた秀雄に気が付くとすぐに立ち上がり、微笑みながら両腕を開いて
「ヒデオ!」と、呼んだ。秀雄も笑顔で
「ジャネファー!」と、言って、二人は駆け寄り、抱擁し合い唇を合わせた。
「戻ってきてくれたのね! う〜ん、また会えてよかった!」
「うん、戻ってきたけど、長くは居られないよ、滞在は二晩だけにしようと思っているんだ」と、言った秀雄はジャネファーの顔から笑顔は消え行くのを見て、「ごめんね」と、声を落として謝った。
「オスロはどうだったの?」と、ジャネファーも声を落として尋ねた。ロビーはフロント・デスクの係員のいるカウンターからでも秀雄たちの会話が聞こえるくらいの狭さなので、秀雄は辺りを見回しながら低い声で言った。
「うん、ノルショッピングと同じ理由だった。ただし、コンサルタントの可能性はないとは言えないけど、それがいつあるのか全く分からないのだから、ダメなのと同じだと思う」「じゃあ、今度は日本に行くの?」
「うん、そうだけど、ちょっと複雑なんだ。ここでは話し難いからどこか静かなところへ行こうか?」
「そうね、夕食でもしながら?」
「うん、そうだね、少し早いけど、どこか手頃なところで」
二人はホテル出てノルマルムの方へ向かって歩き出した。橋を渡りノルマルムに入り、ネオンサインで明るい歩道を歩いていた。
*
数日前、ジャネファーと夕食をしたガルマ・スタンの高級レストランとは違い、あまり静かではないが、最初に見つかったごく一般的なファミリー・レストランに入った。ミートボールとパスタとグリーンピーを盛った一品料理を食べながら話し合っていた。
「初めて君に会った時は、オスロで仕事がありそうな気がして、ここに長く居れると思っていたんだけど、でも今はその可能性は全く無くなって、これからどうするかを考え直してみたんだ。それで、ここに長く滞在するとして、毎日何をするのかも考えてみんだけど、何もないんだよ。何もせずぶらぶらするにも限度があるし」
「う〜ん、そうね、毎日何もせず私が仕事から帰るのを待つのも退屈しちゃうわよぉ」と、茶目っぽい顔しながらジャネファーが言った。
「そうだよ、そんなことをしてたら身も頭も空になってしまうよ。だけど、面白いことも考えてみたんだよ? それは百キロ滑るクロスカントリー・スキー・レースだけど、レースは三月だからそれまでの二ヶ月間のトレーニングをする場所もないし、本当にここに長くいるわけにいかないよ」
「そのレースって、あの有名なワサレースのことでしょ?」
「うん、そうなんだけど、ここから北にあるところだろう?」
「そう。そのトレーニングなら、私の両親がウップサラの近くにコッテージを持っていて、その辺りは雪が積もっているから、う〜ん、そこでトレーニングすればいいと思うけど。両親に聞いてみるわよぉ、あなたがレースまで泊まってて良いかどうか?」
「ありがたいけど、いやそんなことは聞かなくていいよ。もう明後日、日本に飛び立とうと考えているんだから」
ジャネファーはがっかりした顔で言った。
「そんなに早く日本に行かなくちゃいけないの?」
「うん、それはね、ちょっと複雑なんだ.... 此の前に言ったことけど、昔の恋人が忘れられないっていうこと、覚えてる?」
「それで?」と、ジャネファーは不審な顔をした。
「彼女を探そうと思って、オスロのホテルから彼女の両親の家に電話をかけてみて分かったのだけど、彼女は二十年か前に自殺してたんだ。アメリカに留学する時、僕は彼女に片思いしていたと思って、彼女を忘れるため何も言わずに日本を出たんだ。だけど、片思いではなかったらしいんだ。もしも何らかの形で交際を続けていたら自殺はしなかった様に思えてならないんだ。だから彼女のお墓の前で謝って、最後の別れを言って置きたいんだ、そうでもしないと、僕は自分の心の整理が出来なくて」と、言って秀雄は目を落した。ジャネファーは意外なことを聞かされて動揺し、肩をすぼめ両手で胸を被せた。
「御免なさい。そうとは知らず、無茶なことを言って....」
「いや、謝らなくて良いんだよ、君は知らなかったんだから。それに、これはもう昔のことで終わったことだから、墓参りしたら心が晴れると思うし、そう期待しているんだ。そして墓参りした後、日本で仕事を探してみるけど、海外関係の職務という条件付きで探すことにしているんだ」
「じゃあ、もし日本で就職できたら、う〜ん、あなたのところに尋ねて行って良いかしら?」
「えっ!」と、秀雄は思いもせぬことを耳にし、驚いて目を大きく開いた。
「う〜ん、日本の伝統的なものを一度は見てみたいと思っていたから。でも、それはあなたの心の整理が出来た後のことだけど....う〜ん」
「うん、心の整理は付くと思う。そうしたら君に電話をするから、日本で就職できなくても、僕が日本にいる時日本に来てくれたら嬉しいなぁ」と、言いながら笑顔を見せた。ジャネファーも微笑んだ。
「本当に日本に行けるかどうかは後で考えるわ。でもあなたって、う〜ん、すごく倫理的なのね、亡くなった昔の恋人のお墓参りをして謝るなんてよぉ、素敵だわぁ〜」
「ちゃんと区切りを付けておかないと、再出発が出来ない堅気なんだ」
「再出発って、新しい恋愛とかいったことかしら?」と、ジャネファーは言いニッコリとした。
「うん、そういうこと」と、秀雄も微笑みジャネファーをじっくりと見つめた。二人とも額を近づけながらにっこりと笑った。その時、七〜八人の若者グループがレストランに入って来て隣のテーブルに座りだした。あたりが急に騒々しくなったので、秀雄は
「もうそろそろ、ここを出ようか?」と、言いながらウエイトレスに手を振った。
レストランを出た二人はあてもなく歩きながら静かなパブみたいなところを探していた。ストックホルムは数日前と比べかなり気温が低くなっていた。寒かったので秀雄はジャネファーの肩を庇うように強く引き寄せて歩いていた。
「ねぇ、あなたのホテルはどうかしら?」
「ホテルのロビーは狭くて話をし難いと思わない?」
「あなたの部屋は?」
秀雄は自分の耳を疑ったが、
「うーん、僕の部屋はすごく狭いけど、テーブルと椅子があるから、何か飲み物とつまみ物を買って行こうか?」
「紅茶とか言った温かい飲み物と、クッキーはどうかしら?」
「紅茶なら、ホテルのロビーにあるから買わなくても良いけど、クッキーは買って行った方がいいかな? だけど、僕の部屋は本当に狭いんだよ?」と、ジャネファーが本気で自分の部屋に来るのか念を押す様に言った。
「二人くらいは座れるでしょう、よぉ?」
「うん、なんとか座れるとは思うけど、まあ中を見てみれば分かるよ」
中世期のままのガルマ・スタンに魅力があって、このホテルを選んだのだが、一人用の為か部屋は狭く、その代わりに値段は安くて三流並のホテルみたいなところなのだ。
「今日、初めてホテルのロビーに入ったけど、あのホテルは庶民的なところだと聞いていた通りだったわ」
「だから、庶民的な値段で、僕には丁度いいところか」
ホテルの玄関を入ると右側にフロン卜・デスクがあり、反対側にはソファーが一つとコーヒー・テーブルだけで、小さなロビーを埋めていた。狭い空間は重々しいインテリアでこじんまりとしてスウェーデンの一般家庭のリビングルームの様な雰囲気もあった。いつもの夜勤の係員はロビーのソファーに一人で座って紅茶を飲みながら新聞を読んでいた。数日前泊まった時、秀雄は暇つぶしに彼と紅茶を飲みながら雑談をしたこともあった。
ジャネファーと秀雄はホテルに入ると、互いに腕をとったままフロントへ進んで行った。秀雄は係員からいやなことでも尋ねられはしないかと気にかかっており、ジャネファーは少し恥ずかしくなり、二人ともやや緊張した顔付きをしていた。
係員は入ってきた秀雄に気がつくと、立ち上がってフロント・デスクに戻り、部屋番号も聞かず、さりげなく秀雄に部屋のカギを渡し、
「グッドナット(おやすみなさい)」と、二人に言った。係員が不信な顔もせず何も聞かなかったので二人共ほっとして、微笑みながら、
「グッドナット」と、言って腕を組んだまま静かにフロントの前を通って、エレベーターに向かった。旧式のエレベーターは昇りのボタンを押すとエレベーターの中の電気が点き、秀雄は磨りガラス窓の付いたエレベーターのドアを手で開け、シャネファーを先に入らせた。エレべーターのドアが閉まると、秀雄は目的階のボタンを押した。ジャネファーに振り向き、彼女をそっと引き寄せて彼女の唇にキスをした。ジャネファーも両腕で秀雄を抱きしめ、二人は固く抱き合った。短いような長いようなキスはエレベーターが三階で止まってもすぐには終わらなかった。
女性とホテルの部屋に入ることで緊張しているせいか、鍵穴に鍵を通そうとする秀雄の手は震えて、鍵をガチャガチャとドアに当てながらやっとドアを開けた。ジャネファーを先に二人は部屋に入って行った。ジャネファーのコートをハンガーにかけた後、自分のコートをかけながら棒の様に突っ立ているジャネファーに、
「どこでもいいから腰かけて」と、言った。
狭い部屋には小さな机と椅子が一個づつ窓際に列べてあり、人間が二人立てるくらい離れたところには、幅が一メートルもないベッドが一つ置かれてあった。洋服ダンスはベッドの足元側の壁に置いてあり、そこも二人くらい歩ける幅の通路が作られていて、その通路を突きあたって左に行くとバスルームのドアがあり、突きあたる手前で右に行くとベッドと机の間の通路があった。
ジャネファーは机にもたれかかって部屋の中を見回しながら言った。
「部屋はきれいじゃない?」
「うん、質素だけど、きれいにしてあるし、ちゃんと整っていると思う。でも、ベッドは一人でも狭いけど、北欧はこの値段ならどこへ泊まってもこれくらいの幅みたい、オスロもコペンハーゲンもこう言った感じだった」と、言いながら棒の様に立っているジャネファーの真正面に行き、べッドに腰掛けた。
ジャネファーを見上げて、彼女にも座る様にと椅子とベッドを手招きした。椅子に座ることは『ノー』を示し、ベッドなら『イエス』と言うことは純情そうなジャネファーでも分かっている。ここまで来ていながら、秀雄が紳士振りを示したことが彼女には滑稽に見えた。エレべ一夕一で激しくキスして以来、燃えており、意地もあった。一応椅子に目を向けたが、
「そうね、ユースホステルのベッドの幅と同じくらい」と、言いながら彼に向い合う様な格好でベッドに腰掛けた。
秀雄はジャネファーに向かい合う様に座り直し、彼女の両肩に手をかけて彼女のダークブルーの瞳を見つめ始めた。二人はしばらく緊張気味に見つめ合っていたが、秀雄が何かを言おうとして、声を出しそこね、人さし指で天井の電灯を指さした。ジャネファーに気を配ったのか、小さなベッドランプのスイッチを入れてから立ち上がり、ドアへ行き天井の電気を消した。
薄暗くなった中でジャネファーがセーターを脱ぐと、ストロベリーブロンドのヘヤーが静電気でパチパチと音を上げ、赤い髪が空中に舞い上がった。静電気で乱れた髪を手で直しながら、自分の前で立ったままセーターを抜いだ秀雄を見上げていた。ためらっていた彼女は思い切った様にトックリセーターの裾をめくり上げ出したが、手を止めてしまった。そして、照れながら両手を秀雄に突き出した。秀雄は微笑みながら彼女の前にかがみ、彼女のトックリセーターを下から上へと引き上げていった。透き通る様な白い北欧の肌をストロベリーブロンドの髪の下になまめかしく映し出した。秀雄もトックリセーターとアンダーシャツを同時に抜いで、ジャネファーの肩から首元にとキスのシャワーを洛びせながら、ブラジヤーのホックを外した。ベッドランプを消すとカーテンを通して外の明りが入り、目が慣れてくると、二人の姿が見えるほどだった。二人は狭いべッドの上で時間の経つのを忘れていた。
一時間、それとも二時間もたっただろうか、秀雄はしのび泣きをしているジャネファーに気が付いて尋ねた。
「泣いているの?」
ジャネファーは何も言わず、すすり泣き、秀雄の胸の上に涙をこぼした。
「なぜ泣いているの?」
「もうすぐお別れね」と、ジャネファーは甘い声で震えるように吱いた。秀雄はあまりにも自分だけの将来に重視して輝子を諦めた失敗を二度と繰り返したくないと自分自身に誓っていた。ジャネファーを諦めるのは同じ失敗を繰り返す樣な気がしていたが、どう言って良いのか分からず黙っていた。
「ねぇ、明後日何時に出発?」
「空席はほぼ毎日あるので、まだ予約は取っていなんだ」
「予約を取っていないのなら、長くここにいて欲しいわ、よぉ?」
「うん、君とずーっと一緒にいたいし、君と一緒に人生の再出発をしたいんだけど、国籍だけはどうしょうにもならないし、本当にここで生活が成り立つかどうかが心配なんだ」と、憂鬱そうに言った。ジャネファーは秀雄と生活することを考えていたらしく、
「生活のことはあまり心配しないで。アパートの一部屋余っている友達がいるから、その人に聞いてみるわよぉ。贅沢はできないけど、わたしの収入でなんとかなるわよぉ。そのうちビザのこともなんとかなると思うの。そうすればで就職も出来るし、う〜ん」と、ジャネファーは言った。
秀雄はそんなに物事を甘く考える彼女に年の差を感じると同時に、他人の世話になりたくなかったのだ。生活費を分担したとしても、物価の高いストックホルムでは持っている資金では半年どころか数ヶ月で空になってしまう。それに、留学した当初経験した、気兼ねしながら居候した辛さを思うと、二度と居候はしたくなかった。しかも、年上の男である自分が若い娘に面倒を見てもらうことにも抵抗感があった。
「君がそう言ってくれるのは有難いけど、僕がまともに就職するまで君に面倒をかけることはできないよ」
「そんなこと面倒じゃないわよぉ。わたし、あなたと一緒なら苦労も楽しいと思う、う〜ん」
「ジャネファー、それ本気で言ってるのかい?」
「本気よ! わたしも人生のどん底から再出発したいし、もうこれ以上悪いことはないはず。でもあなたと一緒でないと、わたし一人では再出発する勇気が出て来ないわよぉ」
秀雄はジャネファーが何を言い出したのか分からなかった。理由を聞いても彼女はその理由を言おうとはしなかった。それに彼女さえも自分の昔のことは聞かなかったので、そのことは彼女の暗い過去の経験と察し、それ以上触れなかった。しかし、あくまでも他人、ましてや若いジャネファーの面倒にはなりたくなくて、頑固に断った。
「僕たち、数日前会ったばかりで、お互いにあまり知らないのだから、君に僕の面倒を見てもらうわけにはいかないよ」
「長く知り会っていても、明日のことは分からないわ。それにわたしたち以前から知り合っているみたいなところがあるじゃない、よぉ?」と、ジャネファーはだたをこねた。拒否するだけでは通じそうもないので、異国で慣れるまでの不便かも知れない生活に飛び込むことに不安を感じていて、
「そうだけど、僕の住み慣れたアメリカを諦めることを考えて欲しい、これは僕にとっては大きな決心なんだから」と、言ってしまった。
「分かるわ、じゃあ、やっぱりアメリカへ帰ってしまうのね?」
「もし、ここでうまく行かなければ、そうなるかも知れない」
「そうならない様に、わたしにも手伝わさせて?」
その言葉で彼女の真剣さがもっとはっきりと分かり、彼女の眼を覗き込みながら、
「分かったよ、君の心が、それなら、ともかく手頃なところを早く探し出して、ここで生活ができるどうか、その様子を見てみたい」と、ついに自我を抑えた。
ノルショッピングの知人の話しではスウェーデン人でさえ採用の可能性が低くいので実際には計器開発の仕事は見付からないかもしれないと言ったところ、ジャネファーは以前と全く同じ分野の仕事を探すよりも少しは分野を変えることを薦めた。そうすればストックホルムでも電子工学関係の仕事が見付かる可能性が秀雄にも見えたが、しかし、それにはビザの問題があり、まともな仕事に付けるのは無理なことと、分かっていた。旅行者としての三ヶ月の滞在期間が切れば不法でこの国に住むことになると、ジャネファーに言ったところ、
「もし、あなたがスウェーデンから追い出されたら、う〜ん、わたしを一緒連れて行って?」
「さっきまでは、このストックホルムを出たくないと言ってたけど?」
「ストックホルムはいつだって戻ってくればいいけど、今あなたと別れたらもう二度と会えない様な気がするからよぉ」
「分かった、君の気持ちが本当に良く分かったよ。じゃあ、このことはまた明日になって考えない? もう夜遅いから」と、秀雄は言った。
「明日明後日もここにいるって約束して?」
「うん、もちろんここにいるけど、もし心配だったら僕のパスポートを君に預けて持っていてもいいよ?」
「ただ約束だけでいいの。今日は何もかも素晴らしくて、あまりにも良いから何か悪いことでも起きやしないかと怖くなっちゃたのよぉ」
「そんなこと心配しなくていいよ。明日になったらもっと具体的な良い案が出てくるかもしれないから」
「うん、そうね、わたしも色々と知っている人に聞いてみるわ、よぉ」
真夜中過ぎ二人はホテルを出て、急ぎ足で地下鉄の中央駅へ向かった。地下鉄のプラットホームには人影はほとんどなく、プラットホームに降りた二人は抱き合ったまま立っていた。
「最終電車には間に合ったわ」
「間に合わなければ、僕の部屋に泊まっても良かったんだけど」
「う〜ん、ガルマ・スタンから通勤なんて、みんなの憧れだわよぉ!」
「じゃあ、明日その用意をして来れば?」
「ふふっ、あなたのベッドは狭すぎて眠られないわ。でも考えておくわよぉ」
二人は何も言わず頰を摺りよせ合い、甘いムードに溺れていた。電車はなかなか来なくても良かった。しかし、やがてガラガラに近い電車がプラットホームへ入って来た。ドアが開くと、キスをして、ジャネファーは電車に乗り、ドアの前で振り返って立っていた。
「じゃあ明日の朝、君のオフィスへコーヒーを持って行くからね!」
「Ok, god natt (good night), I love you!」
「God natt, I love you too!」と、二人ともスウェーデン語と英語で別れを告げあった。
第八章 流氷
電車が出ていった後、秀雄は地下鉄の駅の階段を走り上がって、オペラハウスの方向へ向かって歩き出した。長い間忘れていた恋の味を感じ浮きうきとし、素晴らしかった今宵の出来事に浮かれていた。二十年もの歳月をかけて築いたアメリカでの人生を今、いとも簡単に捨て去ろうとしていることにこだわりはなかった。
侮辱を感じながら仕事をしていた、職員同士の目に見えない競争の激しいアメリカの職場はどこへ就職しても数年経てば同じようなことが繰り返すはずで、いっそのこと新しい環境に飛び込んで、屈辱的な過去を洗い捨てることでかえってすっきりとした気持にもなっていた。これから先どうなるかは明日考えればいいし、当分の間はその日暮らしでも良いとさえ思った。ジャネファーと共に頑張って行けば、いずれは良いことが起きるはずだと揺ぎない自信が湧いて来たのだ。
オペラハウスからはホテルに向かって、外灯に照らされた川沿いの石畳みの舗道を寒さ忘れて歩いていた。ジャネファーと二人で見つめた普遍に流れる流氷を見ながら、彼女とのある会話を思い出していた。
『子供の頃は冬になると、あの流氷がぎっしりと川を覆って、その上を歩けるくらいだったのよぉ』
『流氷は薄くみえるけど、本当に歩けたのかい?』
『さぁね〜、割れて落ちたら危ないから、やったことはないわ』
『そうだね、あの水温だったら数分でも浸かったら、もうだめだろうね』
『そうよ、溺れなくたって凍死した人がいたわよぉ』
数日前と比べ流氷が川の表面をかなり覆っていたので、流氷の厚さが気になり秀雄は川岸の二十段近くもある長い階段を降りて行った。誰も階段を降りたことがないらしく、数センチ積った雪には足跡はなかった。足元に注意しながら階段を水面近くまで降りる。
水面近くの階段は、雪の下には氷が張っており、それに気が付いた秀雄は慎重に足元を確かめて、水際近くにしゃがんだ。左手の手袋を抜いで階段の雪の上に置き、右から流れて来た分厚いガラス板の様な流氷を素手で強く掴んで引き上げようとした。流氷は思ったより大きくしかも重たかった。その惰性に引かれてバランスを少し崩したが、バランスがすぐに取り戻せると思い、すぐには流氷を手放さなかった。しかし、その瞬間踏んばっていた足元が思いもなく突然滑べったのだ。素早く、掴んでいた流氷を押し離す様にして手離し、その反動でバランスを取り戻そうとした。だが、上半身はすでに川の方に傾いてしまっており、それに気が付いたのはもう手遅れだった。手袋をした右手で何かを掴もうとしたが、雪の下の氷を触っただけで、顔を洗う様な格好で川へ落ちてしまった。
流れの早い深い方向に落ちたので、水面の下に階段がある浅い方向へ泳ごうとした。しかし、流氷と衣類が邪魔になり、しかも身を切る様な冷たい水で身体がこわばって、もがきにしかならなかった。スポーツで鍛えた筋肉は氷のように冷たい水には無力に等しかった。水面下の階段の方へなんとか進んだものの、すでに流されており、深すぎて足は届かなかった。一秒でも早く水から出なくてはと、必死になって階段へ向かって泳いだというより、もがいたが、その甲斐もなくどんどんと流氷と共に流されて行った。身体を動かすと、着ている服の下に冷たい水が入れ替わりに入ってきて、さらに冷たく感じたので、無駄に身体を動かすのを止め、冷静になって下流に上陸できそうなところを見回した。
百メールくらい下流に上流向きの階段があるのを見付け、川岸の石垣沿いにそって流されるように泳いだ。と同時に出来る限りの大声を出して英語とスウェーデン語で叫んだ。
「ヘルプ、ヘルプ、ミー(英語:助けてくれ)」
「イエルプ、イエルプ、メー(スウェーデン語:助けてくれ)」
何度も何度も叫んだが、明々と外灯に照らされた深夜の街には誰ひとりもいなかった。秀雄の声はだんだんと薄くなくなり、カラカラと流氷のぶっつかり合う音だけが聞こえていた。もうすでに、息が止まるほどに身体が硬直し始めていた。
何分くらい経っただろうか、冷たさによる身体の痛みは痺れて感覚がなくなりし始めていた。下流の階段に着いたのは全身が階段にぶっつかったことで分かり、水から這い上がったのは本能であった。四つん這いで二十数段もある高い階段の上まで這い上ろうとしたが、もう手足を動かす力はほとんどなかった。這うように何段か上がったところで横たわり、切れかかったゼンマイ人形の如く、動かなくなってしまった。すでに冷たさも痛さも感じなくなり静かに目を閉じた。頭の中は自分の一生の場面がパラパラと巡り展開し始めていた。
混沌した秀雄の眼に浮かんできたのはトンネルの様なまぶしい光線が天から降りてきて、自分自身グルグルとその光の中を舞い上がっている光景であった。舞い上がりながら、階段に横たわっている自分の命の抜けた身がらを見降ろしているのである。光りのトンネルを見上げるとその先に人影があり、しかもその人物が自分を手招きしているかのように思えた。
第九章 旅立ち
やっと明るくなってきた九時過ぎ、ジャネファーはオペラハウスの前にある、誰もいない観光バスのガラス張りの小さなオフィスに、いつもにはなく晴々しい気持で入って行った。コー卜を壁に掛け、切符売場の椅子に腰掛けて、秀雄がコーヒーを持って来るのを待ちながら、ガラス越しに外を見回していた。昨日と同じく観光客は一人も来そうにもなく、通行人も見えなかった。
落ち着いた静かな冬のストックホルムでは珍しくもパトカーのサイレンが聞こえ出し、だんだんと近づいてきて、オペラハウスの前の川岸で駐車した。二人の若い警察官がパトカーから飛び出して、あわただしく階段を降りて行った。不審に思ったジャネファーはコートをひっかけ、オフィスのドアに鍵をかけて川岸へ急いで行った。一人の警察官は階段の上に戻って来ており、パトカーの側に立ち、窓越しにマイクを掴み無線機で何か話していた。もう一方の警察官は水際に横たわった人物の検査をしていた。
階段の上にいるジャネファーにはそれが誰であるかは分からなかったが、見覚えのあるオリーブ色のコートに気が付き、階段を降りようとした。無線機で話し中の警察官が片腕でジャネファーを止めようとしたが、ジャネファーは振り切って階段を降りて行った。まさかとは思いながら、横たわっている人物のそばまで降りて、その横顔を覗いた。まさしくもそれは秀雄であった。血の気のない白い顔はまるで眠むっているかのようで、彼に触わろうとしたところ、検査していた警察官が立ち上がり彼女に振り向いて、首を横に振りながら彼女をふさいだ。
「あぁ〜、いや! ヒデオ! どうして? どうしてなの? 今朝、会いに来るって約束したのによぉ」と、スウェーデン語で叫び、もうそれ以上声にはならなず、ジャネファーは後ろへ振らつき始めた。警察官は今にも倒れそうな彼女を素早く抱きかかえて尋ねた。
「お友達ですね?」
泣き顔のジャネファーはなにも言わず、頷いた。
「もう手遅れなんです、すみません」と、気の毒そうに言って、彼女の腕を取って階段の上に上がろうとした。しかし、警察官に抱えられたジャネファーは横たわった秀雄のそばから動こうともせず、頭を後ろに垂れたまま潤んだ瞳で呆然としていた。もう一人の警察官も降りてきて、よろめく足どりのジャネファーを両側から支えながら階段を上がり、パトカーに導いた。
その日ジャネファーは悲嘆な思いで仕事にならず、家に戻り自分の部屋に引き込んだ。恋人が新しく出来たばかりだったせいか、悲痛な思いは一時的でそれほど長く深くもなかった。だが、次第に現実の悩みに呪われ出していた。それは新鮮な気持ちで大学受験の準備に取り掛かろうとした意欲が消えかかっていることだった。意気消沈した彼女には悪夢が待っていた。
翌日、警察から呼び出され、秀雄との関係について取り調べを受けたのだ。二晩前の彼との行動を一部始終問い掛けられ、プライベートなことにも触れた。だが、最も重要な点は秀雄が川に落た時、ジャネファーはどこにいたかであった。そのアリバイとして、トンネルバーナのプラットホームまで秀雄が見送ってくれたことを証明することだった。しかし、目撃者は見つかっておらず、彼女は重要参考人とみなされてしまったのだ。
数日後、警察から電話があり、幸いにも秀雄の左手袋が上流側の階段で発見されると同時に秀雄の足跡だけがその階段の雪に残っていたことで、彼の凍死は単なる自らの事故と推測された。下流の階段から這い上がっていたことは、自殺ではなかったという裏付けとなり、遺書のないことやジャネファーの証言からして、自殺の可能性は無かったものと刑事は判断していた。ジャネファーは重要参考人から除外されることになり、悪夢は一段落した。
*
警察は秀雄の持っていた米国パスポートを元に米国大使館を通じて秀雄の身元引き取り人の捜査を依頼していたが、パスポートに書かれていた住所が不在のアパートだったため、捜査は行き詰まっていた。ホテルの部屋に残されていたメモ用紙に手書きされた日本の電話番号が見つかり、日本人通訳を通して通話先の武田雅子と連絡することができた。しかし、雅子は秀雄とは無縁関係と分かり、身元引取人の捜査は難航していた。
ところが、雅子はストックホルム警察からの電話が秀雄に関することだったので、これはただ事ではないと思い、以前通っていた教会に行き、秀雄の母と連絡を取ったのだ。母親はまさか自分の息子が警察沙汰になったとは信じられず、東京のスウェーデン大使館に電話で問い合わせた。大使館が本国に問い合わせたのが、きっかけで捜査は前進したのだ。
信頼できる息子のことだから何かの間違いではと思い、最悪のことは毛頭なくスウェーデン大使館からの連絡を待っていた。数日後、大使館から思いもせぬ悲報を知らされた母親は半信半疑で身元引き取り人として、急遽ストックホルムへ行くことになった。大使館は秀雄が川に落ちて凍死したと云うことだけで、詳しい情報は持っていなかったのだ。
母親は牧師に電話し、葬儀について相談する為、教会に行った。身なりに細かい母親は葬儀でもないのであるから黒色系にするほどでもなく、洋服ダンスの中を見ながら迷っていた。いつもなら明かるい色彩のドレスを好んで着る方だが、明るい色は避けて出かけて行った。
以前、礼拝堂で葬儀に参列したことはあったが、それは親戚でない年配の信者の葬儀だった。したがって、葬儀の一部始終詳しいことは知らなかった。だが、キリスト教の葬儀は仏教のとは違う意味があることは知っていた。しかし、牧師は母親の長男の葬儀なので配慮してか、キリスト教の葬儀は息子の冥福を祈ることでもなく供養することでもないのだと、重ねて説明し、母親の理解を確認した。
牧師と会った後、雅子に直接に礼を告げるため雅子に教会に来てもらい、礼拝堂の控え室で面会した。双方とも丁寧に挨拶を交わした後、小さなテーブルに向かいあって腰掛けた。母親は、気品のある明るい色合いのワンピースで現れた雅子を見て、そのハイセンスな着こなしに思わず目を丸くした。
母親は喪服ではないがグレーのカーディガンに黒っぽいアンサンブル姿の自分を見た雅子は地味な年寄りとではと、思っているのではと気になった。雅子は高校時代教会に来ていたが、結婚してからは来ていなかったので、これまで互いに面識はなかった。しかし、輝子と似た特徴があり、輝子ほどではないが丸み帯びた頬を持ち、目元も良く似ているところがあると、母親はそう思った。
一まず、母親が電話をかけたことの礼を言い、スウェーデン大使館からの電話の内容を話してくれた。雅子はストックホルム警察からの電話では秀雄との関係を尋ねられただけで何も聞いておらず、初めて悲報を聞かされて言葉を失った。と同時に、秀雄が『天国に行って輝子に謝りたい』と言ったことを思い出した。そのことを母親に言うべきかどうか迷っていた。しかし、そのことを言う前に、秀雄と輝子二人のいきさつを母親がどれだけ知っているのか分からなかったので、二人の関係を少しづつ語り始めた。
母親は留学前までの二人の関係は良く覚えていたようだが、驚くことには留学後のことは全く知っていなかった。雅子は留学後の輝子の経緯と、秀雄のとの電話会話の一部始終を話した。この時、母親は初めて輝子の自殺を知ると同時に、息子が最後まで独身でいた理由が輝子のことだったと知り、ひどく驚い様子だった。母親は、
「息子の気持を全く知らず留学させたことで、二人に可哀想なことをさせてしまって」と、言って嘆き、雅子の前で頭を深く下げて泣きながら謝った。雅子も貰い泣きし始め、
「加藤さん、謝らないでください。あの二人の心は誰も知らなかったんですから、仕方がなかったんです」と、懸命に慰めた。
「え〜でも、あの子は私には何でも話す方だったのに、なぜか輝子さんのことは何も言わずに留学してしまって、私、親として、落度でした。あれほど仲の良かった二人のことを知っておりながら、なぜか先のことは一言も尋ねずにいて。.....この様な事になってしまって本当にかわいそうで、仕方がないです。.....でも今はきっと、あの二人は天国で一緒になっていると思いますわ」と、母親は信念深く言い終えながら、ゆっくりと頭を上げた。
「私もそう思います」と、雅子も泣きながら言い、テーブルの上の母親の両手にそっと手をかけた。母親は両手で雅子の両手を優しく握った。スウェーデンから帰ったら、また会うことを約束して雅子と別れた。
その後、母親は寒冷のスウェーデン行きの支度で数日、忙しく歩き回っていた。着たこともない羽毛の入ったキルティングのオーバーコートや雪国で履くようなキルティングのブーツやスキー手袋などを市内のデパートやスポーツ用品店などで買い物し、旅の準備をした。しかし、旅の準備は出来たものの、パスポートが出来るまでの一週間待つのは長く感じた。
秀雄の死後十日目、ストックホルムに着いた母親は日本領事館で日本人女性係員と会い、息子の遺体や遺品のなどの受け取りや搬送などについて懇談した。係員と一緒にストックホルム警察に行き担当刑事と会い、冷凍室に保管されている秀雄の遺体を公式に確認した。名目上一瞬の確認後、刑事と係員は速やかにその場を去り、しばらくの間、母親一人そこに残させた。
息子との無言の対面は思っていた通り悲壮だった。「辛い思いをさせてごめんね」と言った途端、感情を抑えきれず苦しい声を出して涙ぐんだ。日本から持って来た、秀雄が高校生時代持っていた『夏の思い出』の木製オルゴールのゼンマイを捻って秀雄の耳元に置き、聴かせた。音楽が終わると、「いつか天国でまた会うね」と、言って秀雄の髪を優しく撫でた。
冷凍室から出た後、担当刑事の事務室に行き、秀雄のスーツケースなどの遺品を受け取り、事故の説明を聞かされた。秀雄は真夜中、流氷の流れる川に過って落ち、百二十メートル流され、自力で川から這い上がったが低体温症のため凍死したと、刑事はスウェーデン語の死亡報告書を読んだ。領事館の係員が口頭で日本語に訳し、そのコピーを母親に手渡した。母親は意志の強かった息子だったので自殺したとは思えず、本当に事故だったのかどうかはっきりと確認して欲しいと、係員に頼んだ。係員は刑事とスウェーデン語で話し合い、単なる事故であったことを確認し、母親に伝えた。その後、刑事は英語で、
「あなたの息子さんは、凍り水の川から這い上がって、瀕死状態でありながら、階段を十段近くも登られたのです。それは想像に絶する逞ましい体力と気力をお持ちだったと察しております」と、付け加えた。係員が和訳すると、母親は
「有り難うございます、分かりました」と、カタカナ発音の英語で答え頷いた。最後まで頑張った息子のことを知り、母親は安らぎを得たのだ。
その後、事故の至るまでの経緯を母親は係員を通して刑事から聞き取ると、母親はその時息子と一緒にいた女性に面会したいと係員に切願した。係員の任務としては、それは私的便宜となり業務外ではあったが、係員はジャネファーの仕事先に電話をかけた。係員はジャネファーの心境を聞かされたが、なんとか面会の取り合わせした。
というのは、ジャネファーにとってはすでに終わったことで、忘れてしまいたいことであった。しかし、秀雄の母親がどうしても自分に会って秀雄の最後の日のことを聞きたがっているということで、ジャネファーはこれ限りという約束で会うことに合意したのだ。そんな訳で、面会はできるだけ早めに済ませたくて、できればその日にしたかったが、係員の言う翌日にすることにも同意した。
翌日会うという取り合わせが決まり、スウェーデン語の電話は終わった。係員は面会場所と時間を丁寧に書き取り、母親に手渡した。しかし、係員は母親に翌日の都合が悪いと言って、手際よく逃げたのだ。スウェーデン語を理解する人口がごくわずかなので、秘密会話に適すると、西洋では良く言われているが、まさにその通りだった。もしも、この電話会話が英語であったなら、側で聞いていた母親が不審に思ったであろう。
母親はホテルに戻り、日本語版のストックホルム市内案内パンフレットから日本人の経営する和食レストランを探し、電話をかけ日本語で夕食の予約を取った。その晩一人でレストランに行き、注文を取りに来た日本人ウエイトレスに食事の注文をした。その時、ウエイトレスに事情を話し、翌日の通訳を探していることを伝えた。ウエイトレスはキッチンに戻り、若い日本人ウエイトレスを連れて来て、大学生で時間的に割と暇なので通訳のアルバイトをさせては、と言って自分の娘を紹介した。学生はスウェーデン生まれで、スウェーデン語は日本語より上手です、と流暢な日本語で喋った。
翌日、母親は学生通訳と一緒に観光バスの切符売り場に行き、ジャネファーと対面した。高めのポニーテールをしたジャネファーと会った瞬間、母親は一瞬はっとした。髪と目の色は違っていても、ジャネファーの容貌が輝子に良く似たところがあり、息子が彼女に会っていた心境が汲み取れた。
通訳を通して、どんなことを話していたのかとジャネファーに尋ねた。ジャネファーは秀雄がアメリカの会社を辞めて、知人を辿ってここで仕事を探していたことやクロスカントリー・スキー・レースに参加したかったこと、一緒にディスコ・ダンスをしたことなどと、ジャネファーは思い出すまま話していた。だが、彼との最後の話は、二人で住むアパート探しのことだった、と言った時、ジャネファーは急に目頭が暑くなり、
「彼とは本当に短い時間でしたが、とても楽しかったですよぉ、う〜ん、いい人でしたよぉ、すみません、もうこれ以上言葉になりません」と、スウェーデン語で言って喉を詰まらせた。通訳が日本語に訳すと、母親は、
「有難う、有難う、有難う、もうそれでいいです」と、何度も頭を下げながら英語で答えた。
その後、母親の要望でジャネファーは秀雄の最後の場所である川沿いの階段に母親を連れて行った。階段には雪が積もっており、滑りやすい状態ではあったが、母親はジャネファーと通訳と一緒に階段を注意深くゆっくりと降りて行った。ジャネファーは水際から数段上の階段で立ち止まり、横たわっていた秀雄の姿を思い出しながらしゃがみ、うつ伏せるような姿勢をし、母親を見上げた。母親はジェスチャーと片言の英語でジャネファーに
「ここだったの?」と、念を押した後、そこに跪き、持って来た花束を包み紙から外し、そっと雪の上に置いた。両手を固く組んで長い長い黙祷をし、ハンカチで目元を拭いて立ち上がった。ふらつきがちな母親は通訳に腕を取られて階段を上がって行った。その途中、母親は何度か立ち止まり、振り返って秀雄の横たわっていた階段を見詰めていた。
母親はハンドバッグから小さなカメラを取り出し、階段の上から花束の置かれた水際の階段と流氷の写真を撮った。通訳にカメラを渡し、ジャネファーと一緒の写真を川越しに見えるガムラスタンを背景に撮って欲しいと、手振りをしながら英語でジャネファーに並んでもらった。写真を撮った後、母親はジャネファーに深く頭を下げて英語で礼を言い、通訳と共に川岸を去った。階段の上に残されたジャネファーは水際に置かれた花束と去って行く母親の後ろ姿を悄然と見届けていた。
数日後、ストックホルムで火葬してもらい、遺品の中からカメラやネクタイ、手帳などほんのわずかの手持ち品だけを持ち帰ることにし、五日間の滞在後、遺骨を持ってストックホルムを去った。
帰国した母親は真っ先に雅子と会い、秀雄の死は自殺ではなかったことを伝えた。ジャネファーのことは何も言わず、単なる事故であったことで、雅子の気持ちを治めるように心がけた。その後、秀雄の遺灰を輝子の墓石のそばに納骨できるかどうか話し合った。輝子の名前は実母の墓石に刻まれおり、墓石は郊外にある公営霊園に置かれていた。その墓地の名義は雅子なので合葬も可能であった。しかし、母親はキリスト教徒として埋葬することを希望したため、結局は同じ公営霊園内で輝子の墓石に一番近い場所に十字架の刻まれた秀雄の墓石を立てることになった。
母親は牧師と会い葬儀について具体的な準備をし始めた。もう死後二週間以上も経ち、すでに火葬されていたので、急いで葬儀をする必要はなかった。葬儀に多くの参列者が来れるようにと日数を十分に与え、予定を立て易くすることにした。牧師の提案で、ペンテコステ(聖霊降臨祭)の行事のように息子の死から五十日目に当たる日に葬儀として、教会で秀雄の召天記念礼拝を行うことに決めた。
召天記念日の朝は良く晴れた二月末のまだ肌寒い土曜日であった。礼拝堂には親戚や雅子、秀雄や輝子の旧友達、日曜学校の恩師等、教会の信者たちなど百人近くが、すでに着席して礼拝の始まるのを待っていた。静かにパイプオルガンの前奏が始まり出すと、参列者全員が起立し、牧師を先頭に秀雄の両親と弟家族の入場を迎えた。遺族らが着席すると、参列者も着席した。オルガンの前奏が静かに終わると全員黙祷し、牧師の厳かに捧げる祈祷を聞いた。その後、オルガンの前奏と共に全員起立して讃美歌312番「いつくしみ深き」を斉唱し、着席すると牧師の説教が始まった。説教の冒頭は秀雄の信仰や人柄、略歴を紹介され、亡き輝子との繋がりも語られた。説教として牧師は聖書のヨハネ伝、第11章25、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。』を朗読され、その解釈をされた。説教が終わると静かにオルガンの演奏が始まり、一同起立し黙祷、牧師が神に祈りを捧げた。そして、喪主である母親と父親が献花をし、弟家族、雅子、親族、友達や信者達の順番で献花した。最後に参列者全員が起立し、賛美歌320番「主よみもとに近づかん」を斉唱し、秀雄の天国への旅立ちを見送った。
第十章 再会
やっとここ数日の出来事を思い出してしまうと、秀雄は目を開きゆっくりと起き上がった。辺りを見回したが、何もかも眩しいほどに真っ白でまるで深い霧の中ような感じで目の焦点を合わせるところがなかった。自分がどこにいるのか分からず、ぼんやりと立ったまま辺りを見回していた。
次第に自分自身の身体に気が付き始め出した。凍り水に浸かり身体の感覚がなくなり気を失ったのだが、そのずぶ濡れの重たい衣類を着ている感覚がないのだ。何も身に着けていないのか、またはすごく薄い生地の衣類を羽織っているみたいで身体が動きやすく、しかも暖かいことに気が付いた。流氷の流れる川から這い上がって、どのくらい気を失っていたのか検討も付かなかった。しかし、何の痛みもなく、身体には全く異常なところもなく、意識がはっきりとしていることに気が付いた。
ここはどこなのだろうかと考えている時、遠くから霧を分けながらが自分のいる方向に近づいてくる人物がぼんやりと目に入った。その人物の身体は見えないが頭の動きからして、自分の方に向かって歩いているようなのだ。近づいてくるにつれ、だんだんと顔が見え出してきた。はっきりと見え出し、それが誰であるか分かり、はっとした。それは間違いもなく、二十五年前に別れた輝子なのだ。秀雄は瞼を上げて『て・る・こ』と唇を震わせた。そして、大声で
「輝ちゃん!」と、呼んで身体を飛び上げて喜び、両手を大きく振った。呼び声に気付いた輝子は手を振り急ぎ足になり出した。秀雄も手を振りながら輝子の方へ向かって駆け出した。ようやっと離れ離れだった二人は再会することが出来たのだ。
「秀雄くん、やっと会えたねぇ!」と、輝子は言いながら両手を前にさし伸ばし微笑んだ。その顔は十八歳の時のままだが、肌色は薄く白っぽいが唇や目、睫毛にはまだ薄っすらと色が残っていた。黒髪はいつものように高めのポニーテールだった。輝子の身体は霧に隠れてはっきりと見えないが、あるものとして不思議には思わず、ニコニコしながら、
「輝ちゃん! 僕は君のことが忘れられなくて、ずーっと思い続けていたんだよ」と、言って両手を差し伸べ、輝子の両腕をしっかりと掴んだ。
「うん、それ知ってたよ、それにいつもわたしを探していたことも」
「えっ! いつも君を探していたって、それどういう意味?」と、秀雄は少し驚いた。
「そうよ、あなたがいつもわたしに似た人ばかり逢ってたじゃない」と、笑い顔で輝子が言った。高校時代は『秀雄くん』だったのが『あなた』と呼ばれて嬉しかったが、さらに驚いた顔で尋ねた。
「そう言われば似た人が何人かいたけど、でもそれ、どうして知っているんだい?」と、言って、秀雄は気まずそうな顔をした。
「わたしはあなたの心の中にいつもいたんよ」
「ということは、僕をいつも見ていたわけかい?」と、秀雄はさらに気まずくなり、焦りを感じ出した。
「いや、目で見ていたんじゃなくて、あなたの思っていることがわたしの心で感じ取れていたんよ」と、言って微笑んだ。それを聞いて、ほっとした秀雄は
「ふ〜ん、留学する前、君の思っていることが感じ取れなくて、僕の片思いだと決め込んで、君を忘れようとしてたんだ。そういった訳で手紙も書かずにいて、本当に僕は悪かったと思っている」と、謝った。
「あの頃のわたし達は未熟だったし、それに、あの時、わたしはあなたほどに心が決まってなかったんよ。だからあなたが誤解したのは、わたしにも責任があったと思うん。そういうことがはっきりと分かるようになったんのはここに来てからで、あなたの思っていることが感じ取れるようになったんよ」
「ふ〜ん、そうだったの。で、ここは何処?」
「下界ではここを天国と言っとるけど、あなたも後で分かってくるけど、天国にも色々とあるんよ、ここは天国の入口で待合場なんよ」と、言って辺りを見回しながら右手で真っ白な空間を指した。
「あ〜あ! そうか、やっぱり僕は死んだのか」と、言いながら自分の両手の平や腕を見回した。
「それも後で分かってくるけど、死ぬっていう表現はここでは使わんのよ」
「ふ〜ん、そうだね。こんなふうに君と話しているんだから、生きているんだよね。ということは下界で死んだことはここで生き還っているんだ」
「そう、あなたは蘇ったんよ。わたしも蘇ってこの待合場であなたの来るのをずーっと待っていたんよ」
「へ〜っ! だけど二十年近くも、ここでよく待っていてくれたね」と、秀雄は目を丸くしながら言った。
「秀雄くん、二十年って下界ではすごく長く感じるけど、ここではそうじゃないんよ。時間の概念って全くないんよ。それも後で分かってくるよ。だからあなたの来るまでの二十年間って一瞬の間なんよ」
「ふ〜ん、でも、僕がここへ来るっていうことをよく知っていたんだね〜」
「うん、あなたの思っていることからして、いつかここに来るって分かってたんよ」
「じゃあ、君が僕をここに来れるようにしてくれたわけだぁ〜」
「いや、そうじゃないんよ。わたしにはそんなことはできないから、それはあなたの運命だったんよ。わたしだって、ここに来たのもわたしの運命だったから」
「ふ〜ん。 運命だったのかぁ〜。君と別れ離れだった二十年って長かったし、辛かったよ君がいなくて。どうしてこんな運命になったんだろう?」と、秀雄は考え込み出した。
「もう過去のことは考えなくて良いんよ? こうして会えたんだから」
「うん、そうだけど」と、言って秀雄は困ったような顔をして、輝子の顔をじーっと見つめた。
「ところで、僕はもう四十代なのに、君はまだ十八歳みたいだよ」
「ふふっ! あなたもわたしと同じで二十五年前に別れた時のままよ」と、輝子は秀雄の顔を覗き込みながら微笑んだ。
「へーっ! ここでは歳を取らないの?」と、言って、笑顔になり秀雄は自分の頰や髪を撫で回した。
「うん。そうとも言えるねぇ、でも本当はそうじゃなくて、お互いに思っていた通りに見えるだけのこと、心の中でそう見えているんよ、お互いに。それにあなたの歩んだこの二十年間の経験をわたしはいつも感じていたから、意識的にはあなたと同じ年齢だと思うよ」と、輝子言いながら秀雄に近づき、両手を彼の両肩に当て、ゆっくりと背中に回していった。
輝子の暖かい手を感じながら、秀雄も輝子の腰に両手を巻き、彼女を抱き寄せて頰と頰を擦り合わせた。高校時代、夜の公園のベンチで身体を寄せ合って座り、お互いの温もりを感じ合っていたことはあったが、これが二人にとっては初めての抱擁であった。
「あ〜ぁ! 君に会いたかった、この時を本当に長い間待っていたんだよ、愛してる君を!」と、輝子の耳元で呟く様に語った。
「わたしもあなたを愛してる! これでやっと達成したんよ、わたし達の愛は。そしてこの幸せは変わることなくずーっと続くんよ、永遠に!」と、輝子がそっと呟いた。『愛してる』という言葉は二人の間で使うのはこれが初めてだった。
二十五年間もの長い間、この時を待っていた秀雄は輝子の身体の暖かさを感じ、彼女の背中を優しく撫でながら、込み上がって来る幸せを胸いっぱいに感じ、涙ぐんだ。輝子も込み上げてくる幸せで涙ぐみ、震えながら秀雄をさらに強く抱きしめた。
「秀雄くん、わたし達、これから天国に行くんよ! そしてそこで永遠に愛し合い幸せに過ごすん」
「だんだんと分かってきたよ、もう別れることなく、このまま永遠に続くっていうことが。幸せでいっぱいだよ、輝ちゃん!」
「秀雄くん、わたしも幸せいっぱいよ!」
二人の魂は固く抱き合ったままゆっくりと旋回し始め、礼拝堂で参列者が斉唱する賛美歌320番「主よみもとに近づかん」の響く中、昇天して行った。