(4)
*
「ほんと、コロは我が家の天使だね」
姉の有希はコロの頭をくしゃくしゃ撫でながらよくそう口にした。
もともと仲の良い笑顔の絶えない家庭だったが、コロが来てから更に家は明るくなった。
家の中を無邪気に走り回る姿、寝ころぶ姿、何をしていても僕達をとろけるような幸せで包み込んだ。悪さをしたりする事もあったが、それでもその可愛さに最後には笑顔でコロを許してしまう。
そんなぬいぐるみのようなコロだったが、その姿はみるみるうちに大きくなった。一年も経った頃には、中学生の僕の身長と変わらぬほどの大きさになっていた。
「秋田犬ってこんなにおっきくなるんだね」
母さんの言葉に僕も大きく頷いた。じゃれているつもりでも、油断すれば押し倒されてしまうほどに力も強くなっていた。
けど、もちろんそんな事で僕達のコロに対する愛は変わらない。むしろ深まる一方だった。すくすく育つコロに感慨に浸りながら、ふわふわの毛並に覆われた無垢な顔に、僕達はまた笑顔になった。
*
「秋田犬か。俺なんか余裕でぺしゃんこに出来る図体のでかさだよな」
「コロはそんな乱暴な事しないよ」
「それくらいでけえって言いたかっただけだよ。まあ、なかなか幸せもんじゃねえか」
「ん?」
「お前さんとこのコロってやつ。たいそう愛されてたみてえじゃねえか」
「まあね。皆コロが大好きだったよ」
僕は胸を張って言って見せた。その言葉に一切の偽りはなかった。
「……ダッフルの所の飼い主さんは、どんな人なんだ?」
少し聞くのが怖かった。どこにいるとも分からないダッフルの飼い主。僕はそこに暗い予想を立ててしまっている。ダッフルの答えがその通りのものなら、僕はその答えに耐えられないかもしれない。
「優しい人だよ。とてつもなくな」
ダッフルは夜空を見上げた。まるでそこに僕の知らないご主人がいるかのように。
「あの人は、捨てられた俺の事を拾って、面倒みてくれたんだよ」
予想していたものとは少しばかり違った。絶望的な悲しさではなかった。そこにはほっとする暖かさはあった。少なくとも、ダッフルの今の飼い主は素晴らしい人だった。でも、そこにあるのは、その前にある無責任な人間がいたという、悲しみを含んでいた。
*
ダッフルの最初の飼い主は若い夫婦だった。僕ら人間なら一目見ただけで関わりたくないようなチャラついた見た目と、見た目通りの無責任で怠惰な生活を送る二人のもとに、ダッフルは飼われていた。何故そんな事になってしまったのかは分からない。それこそ物心がついた頃から、ダッフルにとっての居場所はそこだった。
食事は残飯で、ちゃんとしたドッグフードなんてものはほとんどもらえる事はなかった。散歩なんてもってのほかで、自分の存在に構ってもらえる事なんてまるでなかった。
でも、それはまだ後に捨てられる事を考えればましな方だった。
「ねえ。かわいくないからもういらない」
そう言ったのは女の方だった。
「だな」
彼らの言葉の意味は当時分からなかった。今になってそういった言葉だったのだという事が分かった。ダッフルの気持ちやら命を考えるだけの心も頭も彼らにはなかった。そんな簡単なやり取りだけで、ダッフルは家を追い出されたのだ。
車に乗せられ、どことも分からない土地に、放り投げるように捨てられた。そして何の後悔も未練もみせずに車は走り去って行った。
ダッフルは茫然と車のテールランプを見つめた。
恵まれた環境ではなかった。それでも、例え残飯でも空腹を満たす事は出来た。
一瞬にして何もかもがなくなった。もはや彼らを恨む気持ちもなかった。もともとまともな人間には見えなかったし、同じ空間にいる中でろくでもない輩だという事は重々承知していた。しかしここまでとは思っていなかった。恨むよりも、呆れに近い気持ちだった。
――どうすりゃいいんだよ、これ
置かれた状況はまさに絶望だった。