尾を振る犬は叩かれず
従順な者は酷いことをされないということ。
ネコが倒れた原因は栄養失調による免疫力低下だった。
真っ青な顔で息も絶え絶えになりながら看護師に点滴を打たれる少年の姿は、とても見るに耐えられるものではなかった。
倒れた直後から意識がなく、今はあかりが祈るように彼の手を取って見守っている。
僕は一体何をしているのだろう。嫌われたと思い込ませて、追い込んで。体が悪いことくらいわかっていたはずなのに、精神的にも傷つけるなんて。
あまり釈然としない話ではあるが、霧雨の言うことは全て正しかった。この少年のことだから、多分自ら命を絶つ方を選んだに違いない。人に迷惑をかけないようにと考える人間というのは決まって自殺という選択肢を選ぶ。自殺は自殺で死体処理とかで他者に迷惑かけてるんだけどな。
点滴を打ち始めて一時間程経っただろうか。顔色も良くなり呼吸も安定してきて、その時になってようやくネコがうっすらと目を開けた。
しかし、そこにあかりはいない。明日は学校なので、これ以上ここにいたら学業に支障をきたすと判断した僕が家へ帰らせたからだ。
それに僕自身、彼とは2人きりで少し話をしてみたかったし。
「……兄者?」
「おはよう、ネコスケ。気分はどうだ?」
「ネコスケではない、私はネコだ」
「そんな返しができるなら元気なんだな」
思わず顔が綻んだ。何に驚いたのか、少年はきょとんとしている。
「兄者も、そんな顔になるのか」
「僕だって人の子だ。笑う時は笑うさ」
不思議そうに、仰向けのまま目を皿のようにして僕を観察していた少年の顔に、ほんの少し幼さが浮き出た。
かと思えば、ふと思い出したように周りをきょろきょろし始めた。
「……あかりは?」
「帰らせた。明日は学校だからな。……あ、学校ってわかるか?」
ネコが変に知識も欠落しているとあかりから聞いていたので、すぐに訊ねる。
しかしネコはその問いかけ自体がおかしく思えたようで、カメラを連写させた時のシャッターみたいに何度も瞬きをしていた。
「学び舎のこと、ではなかったか?」
「あ、ああ。そうだよ」
これには少し驚いた。「食べる」を知らない奴が「学校」を知っているものなのか。こいつの記憶の欠落は一体何が基準なんだろう?
「あかり……私を嫌っていなかったか?」
唐突なその問いかけに、僕は耳を疑った。
「は? んなわけないだろ。あかりはお前を可愛がってるじゃないか。さっきだって俺が言わなかったらずっとここでお前の手握ってただろうし」
「でも……」
何故か首筋を触るネコ。
なんとなく赤く腫れているように見えたが、形がぼんやりしていてよく見えない。
ーー何かあったのか?
「……まさかとは思うけど。お前、あかりに何か言われたのか?」
「!」
途端に怯えるような目に変わり、顔を青くしながら頭から毛布を被った。
「ネコ? おいネコ、どうした?」
「……れた」
「え?」
「首を……絞められた……」
体をぶるぶる震わせ、同じように震える声を、僕の耳はなんとか拾い上げる。
ーー首を絞められた?
「誰に?」
「……あかり……」
ーーあかりだって?
その名前を聞いて、咄嗟に脳内で否定する。そんな馬鹿なことがあるはずがない。思わず笑ってしまいそうだった。
「おいおい、落ち着けネコ。あかりがそんなことするわけないだろ。何かの間違いだ」
「……間違い?」
軽く笑いながら、すこしだけはみ出している浅葱色の髪を撫でる。意外としなやかで、本物の猫を触っているかのような手触りだ。
「あかりはな、お前の為にこの僕にまで噛みついてくるような女だぞ? 殺す動機なんてないじゃないか」
こればかりは自信がある。あかりとは10年の付き合いだ。絶対にそんなことはあり得ないと断言できる。
こいつは記憶が混乱しているだけなんだ。あかりが見ず知らずの人を殺そうとするなんて、あるわけがない。
毛布を少しだけ浮かせると、浅葱色の頭と金色の瞳をひょっこりと覗かせる。最初は変な色だと思っていたが、今見るとどちらも宝石みたいで綺麗だった。
「そう……だな。その通りだ。あかりがそんなことするわけないな」
「そうそう、ないない」
「あかりは優しい。怖くない」
「あいつは虫一匹殺せないような奴なんだ。あり得ないって」
安心しきったネコは、無邪気に笑っていた。
「馬鹿だなぁ灯夜は」
その頃、霧雨は対象に聞こえない範囲での音量と距離でひとりごちていた。
「証言者はもう一人いるのに。現実から目を背けるのは良くないよ~?」
くすくす笑いながら、探偵は風のように去っていった。