犬を叩く棒はすぐに見つかる
人を傷つけるのは容易い。
色々とツッコミどころが多かったが、霧雨の頭から血が出ていたことと、謎の少年が記憶喪失であることを踏まえてとりあえずは病院へ送ってやった。
転んで怪我したとか抜かしている霧雨はともかく、少年の方はどうもわからない。まず髪色からしておかしい。浅葱色の髪なんて初めて見た。目だって金色でまさしく猫のようだったし。
手入れの行き届いていないボサボサの髪がいたたまれないので、看護師にシャンプーをさせるように頼んだ。
あの少年のおかしいところは見た目以外にもあった。まず喋り方。あんな喋り方する人間は時代劇役者でもない限りまずいない。今時の外国人だってあんな喋り方はしないだろう。
他にも嚥下障害の疑いがあったり、ネコと呼ばれるのが好きとか感性にも問題があったりとか、挙げたらきりがない程色々と変なものを持っていた。
そして、ここで発覚したことがひとつ。さっきのメールの「ネコさん」とはこの少年のことであるということ。これは本当の猫よりも扱いが難しそうだ。
「あかり。なんであんなの拾ってきた?」
「あんなのではありません。ネコさんです」
「何だっていいだろう。どうしてあんな面倒くさそうな奴拾ってきたんだ」
ネコとかいう奴は今まだシャワールームにいるはず。今のうちにあかりを説得して、ネコを手放させよう。
「お兄様は、ネコさんのどこが気に召さないのですか? 確かにネコさんは少し変わっておりますけれども、話せばわかる方ですよ」
「そんなことは訊いてない! あかり、お前は人一人を家に招き入れることに抵抗が無さすぎだ! 犬や猫みたいにほいほい拾ってくるんじゃねぇ!!」
「まぁ酷い。お兄様、いくらお兄様だからって言っていいことと悪いことがあるのではございませんこと?」
「だって当然だろう! よりにもよって記憶喪失で障害持ちの人間を拾ってくるなんて! その辺の汚い野良よりもよっぽど質が悪いだろうが!!」
本人がいたら確実に傷つくであろうことをぶちまける。あかりを説得するにはこれ位しないといけない。2人生活するだけでも精一杯なのに、ここにもう一人加わるなんて真っ平御免だ。
「第一お金はどうする!? 部屋は!? 食事はっ!? まさか飲み物だけで人一人生きていけるなんざ考えてねーよなぁっ!?」
「……お兄様」
「人を養うってそういうことなんだよ!! あかり、お前はまだ子供なんだ、ことの重大さを全く理解できていない!! 子供は黙って大人の言うことをーー」
「お兄様っ!!」
ハッとする。あかりの視点が少しずれている。
まさかと思い振り返ると、そこにはすっかり汚れの落ちた浅葱色の少年が立ちすくんで、無表情でこちらをじっと眺めていた。
「……ネコさん」
「お前……まさか今の話……」
こちらが存在に気付いたと知るや否や、少年は儚げな笑顔をそっと浮かべた。
「良いのだ、あかり。私は元より一方的に厄介になっていただけなのだから」
「ネコさん。違うんです、これは」
「兄者は私が嫌いなのだろう? ならばそれで良い。無理して一つ屋根の下で暮らすことはない」
血の気が引く。
やってしまった、という後悔が頭の中で渦を巻いている。
「私はまた別の場所を探す。なに、大したことではない。私は私を引き取ってくれる家の下へ赴くまでだ」
馬鹿だ。
僕は馬鹿だ。変なところがたくさんあるとはいえ、彼はまだ少年なんだ。見たところではあかりより下か同じくらいの子供だというのに。
「あかり。短い間だったが世話になった。ありがとう」
「ネコ……さん」
どうして、あんなに泣きそうな顔で笑うなんて器用な真似ができるのか。
どうして、僕はこんなにも愚かなのか。
浅葱色の少年は、不器用な笑顔のまま会釈して、踵を返して行ってしまった。
愚かな僕は、引き留めるということすらせず、妹とただ黙って見送ることしかしなかった。
「さぁて、ここで問題で~す」
何時の間にいたのか、霧雨がいつもと変わらない口調で発言する。
「記憶を失い彷徨っていても誰も彼の保護者を名乗り出ない。それどころか彼は嚥下障害の疑いがある。そんな彼を引き取ってくれる家庭は全体の何パーセントでしょーおか?」
「……霧雨、空気読め」
「読んでるよー。読んだ上で言ってんの。わかる?」
霧雨は、相変わらずの掴めない笑顔で、尤もなことを口にする。
「自分のしたことの重大さを全く理解できていない。それは灯夜も同じじゃない?
彼は君のせいでまたひとりぼっちだ。見た目が見た目だし、誰も彼を相手にしようとはしないだろう」
「このままだと彼は確実に人としての心を失う。そうなったらどんな人生を歩むのだろうね? 自棄になって自殺するか犯罪に手を染めるか。大きく分けてこの2通りの道しかないと思う。君に人生を滅茶苦茶にされたも同然さ」
「そんな彼に対して今君にできることがひとつだけあるけど、何だと思う?」
答えられない。多分、少し考えたらわかることなのだろうけれど。
まともに考えることすらできなくなった僕を蔑むように、その男は目の奥に冷徹なものを孕みながらこう言った。
「『追え』」