猫の首に鈴をつける
いざやるとなっても、誰もやりたがらないような難しいことの例え。
転入前に、長期夏期休暇に入ってしまった。
それでも一定期間中は夏期講習とやらのために学校へと足を運ばなければならぬ。慣れぬ道のりで、危うく何度か迷子になりかけた。
千耳霜ノ石高校。千耳市では言わずと知れた名門校であり、毎年優秀な生徒を世に送り出しているという。
「裏」の人間である私が、このような優良な学校の生徒になれたのは誠に喜ばしいことである。
もっとも、念願の初登校が叶わなかったのは残念ではあるが。
「ふへぁあ~……やっと終わったぁ」
「茉莉菜さん、お疲れ様です」
「うむ、ご苦労」
教室で机に突っ伏して溶けている茉莉菜を見下ろす私たちであったが、正直に言えば机というのは何故かひんやりしていて気持ちがいい。かんかん照りで暑さが続いた日にはもってこいである。私もできれば床にぺたりと頬をくっつけたいものだ。
「ほら、早く帰りますよ。ご親戚の方が首を長くして茉莉菜さんのことお待ちになってます」
「いーよ先行っててぇ~」
「何をおっしゃっているのです。帰りますよ」
「帰ってってばぁ。今日は暑くて怠いしぃ」
あ、これはまずい。そう思い、あかりの腕を引くが気にも留めてくれず。
「茉莉菜さん、」
「いいから行ってよ。この粗暴女」
ああ、やはり。茉莉菜の機嫌が、一気に悪化した。
「あんたの顔なんか見たくない。なんであんたまだ私につきまとってくんの? うざいんだけど」
言葉を失ったあかりは、行き場を失った手を引っ込め、俯いてしまった。
あかりの別人格が発現して以来、茉莉菜はずっとこの調子である。あれ程あかりと仲睦まじく接していたはずが、今となっては跡形もない。
あかりはあかりで、自分が「裏」の人間であると知って相当衝撃を受けたらしく、未だにきちんとは立ち直れていない。おまけに友人との関係が悪天候となっている始末。救いようがない。
「何してんの? 早く消えてよ。あんたとなんか口も聞きたくないんだから」
かつての友人を、顔も見ぬまま突き放し、拳を握る。
動揺するあかりの顔も、彼女には見えていない。
「……ごめんなさい」
あかりは、走って行ってしまった。
女の扱いとは、実に面倒であると霧雨から聞いた。
男には到底理解に及ばぬところでやけに引っかかり、疑問を抱き、時に攻撃する。それはまた時に、全く無関係の人間を巻き込んでしまうこともあるらしい。
こんなことで揉めている場合ではない、という時に限って、女はヒステリックを起こす。本人にとっては大事なことでも、周りにとってはそうでもない。それをどうにか上手く伝えるための技術が男には必要なのだと、あのパーマ男は言っていた。
無理難題である。到底私にはできそうもない。
意識したわけでもなくあかりを追っていた私は、あと少しで追い付くと見込み、「フリード」と呟く。胸元に現れた白い獣をあかりの背中に投げつけると、ムササビの如く四肢をバッと広げてピッタリとくっついた。
「きゃっ!?」
廊下の真ん中で転倒してしまったあかりには申し訳ないが、頭の弱い私にはこうするしか思いつかなかった。
フリードはあかりの首元までよじ登ると、その頬をペロペロと舐めた。少しだけ、塩気を感じる。
しばらく茫然自失としていたが、やがて我に返り、素直に笑っていた。
「やだぁ、くすぐったいですよぉ」
手を出し阻止する素振りは見せても、嫌がっている雰囲気ではない。
あかりのメンタルが心配な私であったが、彼女がまだ笑ってくれるのを見て、少しだけ胸を撫で下ろした。
「あかり、大丈夫か?」
「ああ、ネコさん。怪我はありませんのでご心配なく」
「いや、そうではなく……いや、何でもない」
あかりは首を傾げていたが、私の取り越し苦労だったのだろうか。
寧ろ心配すべきは茉莉菜の方ではなかっただろうかと、迷い始めていた。
「……茉莉菜さんは、ちょっと混乱しているだけです」
それはまるで、私の心を見透かしたかのようだった。
太陽の如く暖かなその眼差しは、やはり“姉”としてのそれだった。
「私、分かるのです。彼女の友人ですから。ネコさんを殺そうとした私が怖くて、距離を置いているだけなのです。……だから、大丈夫です。時間が全てを解決してくれますから」
けれどもその言葉は、私に向けられたものではなかった。
一番混乱しているのは、他でもないーーあかり本人だった。
「あかり、」
「ネコさんだって、私が怖いのに無理しなくていいですよ」
「あかり、違う。私は」
「優しくしないでください!」
伸ばした手を、振り払われた。
少しでも、あかりのことを大丈夫だと思っていた、数秒前の自分を殺してやりたい。彼女は、どう見ても大丈夫ではない。
「私はあなたを殺そうとしたのですよ!? なのになんで優しくできるんですか!? このままだと私、本当にあなたのこと……!!」
「あかり、落ち着け。私は」
「思い切り罵倒してくれれば良かったのに、どうしてあなたはそんな中途半端なんですかっ!! 私が嫌いなら嫌いって、どうして言ってくれないんですかっ!!」
「あかりっ!!」
私の感情にいち早く反応したフリードが、彼女の首筋に噛み付いた。
「あぃっ……!」
痛みで声を上げた瞬間に口を離す。
黙り込んで、傷口を押さえたのを見て、少しずつ彼女に近づいた。
「あかり。私はあかりが何者であろうと構わないのだ」
「…………」
「あかりがいてくれたから、あかりが私を拾ってくれたから、今私はこうして生きていられる。それだけでも……どうかわかって欲しい」
「…………」
手がぶらんと下がる。首筋には、フリードの噛み跡がくっきり残っていた。
人形のように動かない、血の繋がった姉をーーフリードごと、抱き締めた。
「誰が何と言おうと、あかりは……私の大切な姉だ」
ぽとり、と。
温かな雫が肌に落ちたような、そんな気がした。




