狼に衣
見た目は慈悲深そうだが、内心は凶悪であること。
悲鳴は背後音楽としてしか聞こえず、逃げ惑う生徒たちは背景でしかない。
突如現れたその生物は、殺気だけで人が殺せるのではないかというくらいの圧力を生み出しながら、私に焦点を合わせていた。
黒い獣。
本能が警鐘を鳴らす。
止まない鼓動。
動かない足。
「へぇ、君喋れたんだ? しかも結構いい声。声優になったら?」
喋る動物にも一切動じることなく、寧ろ感心している霧雨には、さすがと言うべきか、呆れるべきかも分からぬ。
『戯れ言を。小僧、死にたくなければ其所を退け』
「んーとね、やだ」
考える素振りはあったが、明らかに考えるふりである。ここまで平常心を保てるとなると、もはや尊敬の域に達する。
『貴様、分かっているのか? そいつと関わることがどういうことか。それと関わったところで貴様には何のメリットもないだろう』
「メリット? ーーあははっ」
小馬鹿にするように、霧雨が笑い声を上げた。
「確かにネコくんに関われば命が危ういし、こうして君みたいな殺し屋に遭遇することも少なくない。しかも世界中の化け物が俺たちめがけて飛んでくるだろう。そうなったら怪我だけじゃ済まないよね。自分だけじゃない。自分と関わった人間全員が死ぬことだって考えられる」
『分かっているのならーー』
「でもさぁ」
ズボンの右ポケットから苦無の如く複数のボールペンやシャープペンを取り出し、霧雨は嗤った。
「それって最高に面白くない?」
初めてだった。
人の言葉に、ここまで温度を感じないなんてことはーー恐らく記憶を失う前も含めたって、一度もなかったに違いない。
『……小僧、気は確かか?』
「失礼だなぁ。俺は至って正常だよ? みんな誰しも一度は考えるじゃん? 職場や学校に隕石でも降らないかなーって。明日が来なければいいのにーって。それが今まさに現実になってるんだよ? こんないいこと滅多にないじゃないか」
楽しそうにそう語る霧雨に、少なからず異常性を見出した。
こいつは、私とは違う。キリアたちと同じ……いや、もっと黒く歪んだものを抱えている。この男は、人の死を素直に喜べる人種だ。
「だいたいそれを言ったら君だっておかしいよ。俺に退けと言う前に俺ごと殺せばいい話じゃないか」
「正気か霧雨!?」
世迷い言に間髪入れずに叫ぶが、霧雨の態度に一切の変化は見られぬ。狂気の沙汰である。
「もしかして君、低脳な魔獣じゃなくて、いわゆる“優秀な殺し屋”とやらなんじゃないの?」
優秀な殺し屋。どこかで聞いたフレーズだ。しかし霧雨はいつその言葉を聞いたのだろう。
そこで何かを察したらしい狼はそっと目を閉じ、尾を丸めながら座り込み、首を下げて体を丸くする。
すると、黒いオーラが体の芯へ集まるかのように収束していき、やがてその姿がくっきりと現れた。
火のように赤い髪。赤い花をあしらったような胸当てを下着の如く着けており、首には赤いリボンが結ばれていた。地面に落ちるくらいある長い髪のせいで、下は赤いビキニパンツのようなものと赤紫のニーハイソックスくらいしか見当たらない。
開けたその右目はルビーのように美しく、顔を上げた瞬間に見えた谷間に一時の幸福を得て、すぐに目を逸らす。
「こりゃ随分とエロスを感じる格好だねぇ」
「『裏』では普通だ。それよりも貴様、妙に『裏』の事情に詳しいようだが、一体どこでそのような話を?」
「裏」では普通なのか……。
「俺も長いこと探偵やってるからねぇ。いつの間にか耳にいろんなモノが入っちゃってるのはよくあるのさ」
「……つまり黙秘すると?」
否定も肯定もせず、ただ笑っているだけ。
この男の謎が、また更に深まった。
「ふん、まあ良い。『表』の人間にできることなど、たかが知れている」
「あっそう……ところで君は誰に依頼されてここまで来たのかな? ジンがここにいるって情報はどこから入ったの?」
「答える義理はない」
「デスヨネー」
立ち上がった彼女の足は、まるで鋼鉄の狼のようであった。爪は鋭くなっているが、多様な動きができるようにするためなのか、部品のひとつひとつが細かくかつ頑丈に、立体パズルの如く連なっていた。
「どうにかターゲットのみを殺してさっさと仕事を終わらせるつもりだったが、気が変わった。お望み通り、貴様もまとめてジンを殺す」
「へぇ……やれるものならやってみな?」
もはや霧雨が何を考えているのか、わからなかった。




