猫の子を貰うよう
簡単に養子をとったり、結婚したりすること。
久々に空を見た時、その空のあまりの蒼さに驚いた記憶がある。
何故自分が空を見上げるシチュエーションになったのかは定かではない。
ただ、その日はとにかくカラッとした晴天だったという印象だけが頭に焼き付いている。
つい先刻まで周りに誰かがいた気がしたけれど、気づけば自分はひとりぼっちだった。
それでも歩かなければ、前を見なければ、生きていけないことは直感でわかっていた。
でも、じゃあどこへ行くというのか。
蒸し暑くて雨など降る気配のない道を裸足で歩いて、毛穴という毛穴から汗を流して、どこへ向かおうというのか。
ここは何処なのかもわからぬ。常々空ばかり見上げておったものだから。
私は……どこから来たのであろうか。気づけば焼けるような地面を裸足で歩いていたというのに、それすらもとんと見当もつかぬとは。
私は、ヒトである。
名前は、ーーーー
目を開けると、私は柔らかいふわふわしたものに包まれていた。
視界が開けても焦点や意識までが同時に冴えるわけではない。徐々に徐々に頭が回るようになった時、私の目はすっかり周りを正確に映し出せるようになっていた。どうやら私は、どこかの宿屋のベッドに眠っていたようである。
まずは匂い。この匂いはどうも私も嗅いだことのないもののようだ。何かの花の匂いだろうかと思ったが、見たところそれらしきものはどこにもない。
ただ、クマのような可愛らしい姿の布の人形ばかりが並んでいるだけである。
ピンクの毛布を剥いだ後、すぐ傍に机らしきものを見つける。さらにその傍には本棚。そこに並んでいる本を見て、私はようやくここが宿屋ではなく民家であることに気がついた。
どうやら私は、他人の家に厄介になっているらしい。そう推察し、それなら迷惑の少ないうちに出て行くのが賢明であると、部屋の窓から飛び出そうとした時だった。
「……起きたの?」
今まさに窓へ向かおうとしていた時、家主らしき女の声に体が静止した。
「起きたなら、食べてください。これは、あなたのために作ったのですよ」
振り返ると、黒い髪と黒い瞳の少女が、黒い服を着てトレイを持っている姿があった。トレイにはトーストと目玉焼きとコーンスープが、それぞれに合った器に盛り付けられて乗っかっていた。申し訳程度に、ガラスコップの中に注がれたミルクも添えられている。
これら全てを、私のために作ったと彼女は言った。ならば受け取るのが筋というものではなかろうか。
「…………」
しかし、いざ受け取ったものの、どうしたら良いのかわからぬ。これが何というものなのかという知識はあるものの、何をするものなのかまではとんと抜けていた。
少女はじっと私を見ている。何を考えているのやら、感情も読めぬその顔で、コテンと首を傾げた。
「……どうかなさいました?」
「……どうすれば良い?」
「どうって……食べればいいのですのよ?」
「たべる……とは、何だ?」
すると彼女は目をぱちくりとまるくして、くつくつと喉を鳴らすように笑った。それが私には馬鹿にされたやら恥ずかしいやらで気持ちが悪くなり、ほとんど無意識で眉間に皺をよせた。
「ああ、ごめんなさい。あなたがあまりに面白いから、つい」
「つい?」
「本当にごめんなさい。こんなこと言う人、私初めてでしたから」
馬鹿にしている、ということなのだろうか。しかし彼女の笑顔には毒気というものを感じない。悪気はなかったのだと、言っているのかもしれぬ。
彼女はトーストの一部を千切り、転がすように口の中へと放り込む。しばらくモゴモゴさせた後、ごくりとそれを飲み込んだ。
「こうするんです。ほら、やってみて」
何をしたのかよくわからなかったものの、とりあえず彼女を真似てトーストを千切った。
口の中に入れ、顎を動かす。トーストが歯に当たって砕けていくのがよくわかる。しかしどのタイミングで飲み込めば良いのかがわからぬ。彼女は割と早い段階で飲み込んでいたような気がするから、そろそろなのだろう。
そう思って飲み込もうとした時、喉の奥から何かが込み上げてくるような気味の悪いものに襲われた。彼女が慌てて白い布のようなものを私の口にあてがってくれたので、ペースト状になったトーストを素直に吐き出すことができた。
「……大丈夫ですか?」
「……申し訳ない。折角作ってくれたと言うのに」
「良いんです。無理して食べなくっても。何かのアレルギーだったのですか?」
「あれるぎー?」
「ああ、そうですよね。アレルギーというのは、普通の人には何ともないものでも、その人にとっては毒になることを言うんですよ」
「毒……」
恐らくこの少女は、私に毒など盛っておらぬのだろう。ただそれが、たまたま偶然私には害あるものであったというだけのこと。
どうやら私はこの生涯、一度もトーストを口にしたことがないようである。となれば、卵はどうだろう。卵もだめな気がする。というより、「たべる」という動作自体、行っていたかどうかも怪しい。コーンスープはいけそうな気もするが、どうだろうか。
あれやこれやと考えていると、頭が急に揺れ、目の前が真っ暗になる。これはだめだと思い、急いでベッドへと潜り込んだ。
「具合が悪いのですか?」
「少し……多分、眠れば良くなる」
このまま本当に眠ろうかと思ったけれど、目を閉じたらどうなるか想像して、例え様のない不安の津波に襲われる。
ここで眠って、そのまま目が醒めなかったら。この少女はどう思うのだろう。第一私自身も、まだ自分が何者であるかすらもわかっておらぬのだ。これでは死んでも死に切れぬ。
「寒いのですか?」
身体が震えているのを見てそう思ったのだろう。少女は私の手を握り、私の手を温めてくれた。
「細いですね。それに冷たい。ご飯食べないと死んじゃいますよ?」
さり気ない言葉にどきりとした。
彼女にそんなつもりはなかったのだろうけれど、私には胸を貫くほどに的を射た発言であった。
たべる、というのがわからぬ私だったが、それが生きるためには必要なことであるということは不思議と理解できた。同時に、それを選択せぬことは死を意味するということも。
「……死ぬ、とは何だ?」
「え? えっと……」
彼女は何やら勘違いして、難しくことを捉えている。私が訊きたいのはそういうことではない。
「私は、死ぬのが怖い。けれど、それと同じくらい、生きるのが怖いのだ」
何も覚えていない自分のことも、この先の人生を全て切り捨てることも、全てが私にとっては恐怖だった。
未知のものと恐怖とは直結していると、どこかで教わったような気がする。まさにその通りである。私は今それを、身を持って体感している。それが事実であるということは、もはや否定のしようがない。
「それじゃあ」
そんな私に、彼女はさらりと、流れるように言う。
「生きてみましょうよ。案外、怖くないかもしれませんよ?」
思わず目を見開き、改めて彼女を見上げる。
吸い込まれそうなほど大きな瞳。真っ黒であるが、星空の如く輝いている。
その瞳を、不覚にも好きになってしまいそうだった。
「私は、古賀あかりといいます。あなたは?」
私は、ヒトである。
名前は、まだない。