佐倉と桜
この作品はわたくし高木翔矢と、打押先生という方とのコラボ作品となります。
◆
死体があった。
校舎の裏側。普段は誰も通らないような人気のない場所に、女子生徒の死体が。
人を殺せるような凶器が落ちていないところから見て、多分屋上から飛び降りたのだろう。
靴は履いたまま。一々脱いで揃えるとか、そんな事を考える余裕すらなかったのかもしれない。
女子生徒の表情からはもう、喜びも悲しみも、どんな感情も読み取れない。
漫画やドラマの中ではありふれている、だからこそ現実味には欠ける光景。
雨が死体から流れる血を洗い流し、僕の身体からも体温を奪っていく。
張りつくシャツと、耳障りな雨音が酷く不快だった。
名前も知らない女子生徒の死体を、僕はただ見下ろしていた。
◇◇
「っぶ!」
鈍い痛みが、顔面に走った。
両手で顔を抑えながら、僕は思わずその場にうずくまってしまう。
「大丈夫かよ、マサキ。思いっきり顔面にぶつかったぞ」
同級生の声に指の隙間からチラリと覗けば、サッカーボールが地面を転々としていた。
どうやら僕の鼻に激突したのはこれらしい。
「どうしたんだよ、急にぼーっとしたりして」
「いや、なんか、あれ……?」
思い出すのは血まみれで倒れていた女子生徒の死体。
でもいまのいままでサッカーをしてたのは確かなわけで……。
「なんだろ……白昼夢でも見たのかな」
そんな漫画みたいなの初めてだけど。
でもそんな初のレア体験が、女の子が死んでるところっていうのはぞっとしない話だ。
「白昼夢って……お前はラノベの主人公か?」
「それならジャンルはラブコメハーレムがいいな」
「お前いい性格……って、鼻血出てんぞ」
「えっ?」
痛みでそれどころじゃなかったが、口の中にヌメっとした何かが流れてきて、慌てて上を向く。
とりあえずポケットからティッシュを取り出して鼻に詰め、応急措置を済ませる。
変なところに力を加えてしまって、痛みで涙が出そうになった。
「保健室行ってきた方がいんじゃないか? 先生には俺が言っとくぜ」
「ん、じゃあお願い」
鼻の頭をそっと手で押さえながら校舎に向かう。
その途中でなんとなく夢に出てきた女の子の顔を思い出して、どこかで見た事があるような気がしたけど、結局思い出せなかった。
「どうしたの? 嘘ついたら伸びちゃった?」
「もし本当に伸びてたら、先生治せるんですか?」
「試してみる?」
「結構です。サッカーしてたら、ボールがぶつかっただけなんで」
「それは残念。どっちの意味でも」
快活に喋る白衣を着た細身の女性は、細かな顔の皴さえ糧にした年相応の美人顔で、秘かに男子の人気を集めている。
美人の保険医なんてインクの上にしかいないような存在だけど、この先生目当てで保健室に来る人は意外と少ない。なぜなら――
「痛い! 痛いですって」
「我慢してね。診てるから」
「いや、だからもっと優しく」
「いいからいいから、我慢我慢」
綺麗な顔に似合わず、この先生は割と大雑把なのだ。とても怪我してる部位に触っているとは思えない無遠慮さで、僕の鼻を診察していく。
「骨に異常はないみたいね。念のために湿布でも張っとく?」
本日二度目の涙目になりながら、僕は先生の魔手から逃れられた事にホッと息をつく。
「見栄えが悪くなるからやめときます。ほっといても大丈夫なんですよね?」
「多分ね」
不安の残る答えを告げた後で、もう二言先生がつけ加える。
「でもさすがに運動するのは危ないから、授業が終わるまではここで休んでいきなさい。ちゃんと汚れ落とすならベッドを使ってもいいから」
「あっ、ありがとうございます」
授業に戻るのは嫌だったので、喜んでお言葉に甘える。
「じゃあ私はちょっと職員室に行かなきゃならないから出るわね」
そう言うと、先生は立ち上がってカーテンで隠れたベッドの方を見た。
「加古さん」
先生の呼び掛けに、カーテンの向こうから返事が返ってくる。
「分かってます。急を要するなら呼びに行って、それ以外ならソファで休ませておけばいいんですよね」
「さすが、すっかりこの部屋の主ね」
「主は先生です」
「じゃあ第二の主で」
笑いながら言葉を返し、先生は保健室から出て行った。
ベッドに人がいた事に気付いてなかった僕は、なんとなく話し掛けた方がいい気がして、でも何を話していいか分からくて頭を掻く。
そこでふと、加古という名字に聞き覚えがあった事を思い出す。
「加古、桜さん?」
「……誰?」
不機嫌なのか警戒しているのか分からない――多分どっちもだろうが――問い掛けが聞こえてくる。
「えっと加古さんと同じクラスの一年三組で、マサキって言うんだけど、知ってるわけ……ないよね?」
半ば確信しながら一応確認する。
答えは想定通り。けど後に続いた言葉は予測していても避けたかった指摘だった。
「知らないけど、普通こういう時はフルネームで答えるものじゃない? 少なくとも名字か」
「あっ、いや、それは……」
「それとも、私に名前で呼んでほしいの?」
からかいを含ませた声音に、顔が赤くなる。
こっちの顔は彼女には見えてないはずなのに、誤魔化すように視線を斜め上に逸らしてしまう。
「佐倉将来。少佐中佐の佐に倉庫の倉、将来って書いてマサキ」
「さくら……」
自分の名前と同じ名字を加古さんが小さく繰り返す。
なんとなく気まずい沈黙が流れ、だから言いたくなかったんだと心の中で愚痴る。
だがすぐに、カーテンの向こうから笑いが零れる気配がした。
「過去の桜に未来の桜、か。まるで漫画みたいね。最初に名乗らなかったのは運命でも感じちゃったから?」
「いや、ちがっ……! 僕、そんなに痛くないから」
「そう。つまり私じゃ運命の相手には不足ってわけね」
わざとらしく大きなため息をついて、彼女がカーテンを開ける。
「そういうわけじゃ……」
言い訳しようと、ようやく姿を晒した彼女の顔を見て、言葉を失う。
それは彼女の言うように運命と言っても過言ではなかったかもしれない。
ただし名前なんかとは関係なしに。
彼女の顔は、さっき白昼夢で見た、自殺して死んだ女の子と瓜二つだった。
頭から血を流し、雨に濡れながら物言わぬ死体となっていた、あの女の子と。
「どうしたの? 私に見惚れてるにしても、驚き過ぎじゃない?」
ベッドに座ったまま、加古さんが首をかしげる。
そこでやっと自失から立ち直った僕は、誤魔化すために曖昧に笑う。
「それはむしろ、そっちが自信過剰過ぎじゃない?」
「ちょわ」
「あぶなっ!」
いきなり投げつけられたティッシュを寸前のところでかわす。
よけなければ、確実に怪我している鼻に当たっていた。
「それだけの反射神経があるのに、どうしてサッカーボールはよけられなかったの?」
「一度食らったから、同じ失敗は繰り返さないんだよ」
悪びれもしない加古さんの質問に、ため息混じりに答える。
表情豊かな加古さんの姿を見て、僕は頭の中にこべりつく夢の光景を振り払った。
こんなに生き生きしてる加古さんが死んでるところを想像するなんて、悪趣味にも程がある。
『痛い、痛いですって』
ん?
『我慢してね。診てるから』
『いや、だからもっと優しく』
『いいからいいから、我慢我慢』
『痛い痛い痛い痛い痛い!』
「ちょ、何録ってんの!?」
いきなり聞こえてきた会話は、さっき保険医に鼻を診てもらっていた時のものだった。僕が痛がる悲痛な声が情けない感じで明瞭に録音されている。
「文明の利器って凄いわよね。これさえあればボイスレコーダもビデオカメラもいらないわ」
「そんな使い方して褒めたって、機械は喜ばないよ! とんだ無駄遣いだよ!」
「当たり前よ。機械が喜ぶわけないじゃない」
「そんな常識的見解いらないから! どうでもいいから! 早く消してよそれ!」
スマートフォンを握りながらしみじみ呟く加古さんは、僕の叫びを聞いても一向に携帯を操作する様子を見せない。
しかしよく考えれば、まだ一言も話してなかった状況で加古さんはこの音声を録画していた事になる。しかも話し掛けたのは僕からで、最初は思いっきり警戒されていた。つまり加古さんは、関わる予定もない見ず知らずの他人の痛がる声を録音してたって事で……。
こわっ! 加古さん超こわっ! やばい悪趣味!
「なんか失礼な事考えてない?」
『痛い痛いいた……』
「考えてません考えてませんからお願いだからもうやめてくださいお願いします」
リピートし始めた加古さんに電光石火で頭を下げる。
仕方ないな、とにっこり笑いながらスマートフォンをしまう加古さん。
初対面なのに全力で嫌がらせされるって、僕なんかした?
「マサキ君って割と面白いのね」
加古さんが言っているのは、確実に道化の意味での面白いだろうなと思いながら、僕も彼女に対する感想を口にする。
「加古さんはいい性格してるね」
「ん? それってどういう意味かな?」
「もちろん、性格がいいって意味だよ」
脅しのように持ち上げられたスマフォを見て、言い方を直す。
本当はそのままの意味なんだけど、加古さんの笑顔とスマフォは正直者を許してくれない。これはもしかたら、先生の言った通り本当に鼻が伸びるかもしれない。
「どうしたの? 顔引き攣らせて」
「な、ナンデモナイヨ」
伸びた鼻を先生に治療される様子を想像して、背筋に寒気が走ったとはとても言えない。
保健室の主は、怖い女性にしかなれないのだろうか。
「そ、そういえば今週末ってもう学祭だね」
詮索されないために、半ば強引に話題を逸らす。
だが直後に、僕は自分の失策に気付く。
「そうみたいね。私は出ないけど」
殆ど興味のなさそうなその態度に、僕はなんと続けていいか分からず黙り込む。
加古桜。彼女は不登校の生徒だ。
いや、こうやって登校はしているわけだから、その言い方は的確ではないかもしれない。正確に言えば、彼女は保健室登校を続ける生徒だった。
まだ僕らの学年が入学して三か月ほどしか経っていないが、彼女はものの一週間程度でクラスから姿を消した。
僕が加古さんの顔を覚えていなかったのも、それが理由だ。
一度も話す機会がないまま、加古さんは教室に来る事がなくなった。
その理由を僕は知らない。
だから不用意に学校やクラスに関わる話題なんて振ってはいけないのだ。
いや、たとえ知っていたとしても、彼女の傷に触れてしまうような事を、大して関わりもない僕が気軽に話していいはずがない。
「学校祭か。私達のクラスの出し物って都市伝説とか名物料理とか、とにかくそんな地元の研究だっけ?」
「そうだけど……なんで知ってるの?」
「先生から聞いたの。あ、担任の不動先生の方にね」
「そうなんだ……」
なんでもないように話す加古さんに、どう答えるのが正しいのか悩んで、曖昧に頷く。
そんな僕の様子を見て、加古さんは苦笑いを浮かべた。
「マサキ君、顔に出過ぎ。それじゃ私の方が気まずくなるじゃない」
「あっ、ごめん……」
謝って、けど何を話していいか分からずに黙り込む僕に、加古さんは仕方ないなぁと笑う。
「私は別に、つらい事があってクラスに行かなくなったとかじゃないから、そんなに気を遣う事ないわよ」
「じゃあ、なんで来ないの?」
「いじめられるから」
つい突っ込んだ質問をしてしまった僕に、加古さんはノータイムで答えた。
思わず言葉に詰まるが、なんとか続けて訊ねる。
「いじめられてるって、そんなの普通につらい事じゃない?」
「別にいじめられた事があるわけじゃないわよ。ただ通い続けたら絶対いじめられるから、行かないってだけ」
「んと……嫌がらせとかされてたの?」
「そういうわけじゃないんだけどね……」
加古さんの話はいまいち要領を得なくて、分かりづらい。
実際にいじめられてたわけじゃないのに、いじめられるのが分かるっていうのは、どういう事だろう。
クラスの女子に何かしてしまったんだろうか。
そんな事を考えた瞬間、見た事もない光景が浮かんできた。
――クラスの女子三人組に囲まれる加古さん。
――怒鳴り声を上げた加古さんの胸倉を、三人組の一人である金髪が掴む。
――その金髪は脅すように一言二言呟いた後、加古さんを突き飛ばして去っていく。
まるで本当に見た事があるみたいに、はっきりとそんな光景が思い出された。
「まあ簡単に言えば、可憐な私は女子から嫉妬の的ってわけですよ。男子が私の取り合いしちゃうから、優しい私はみんなが争わないように、こうして私の次に美人な保健室の先生に匿ってもらってるってわけ」
おどけて笑いながら加古さんは語った。
僕はいきなり浮かんできた、いじめられる加古さんの姿に何も言えなくなってしまう。
白昼夢の事もあって、加古さんと不幸なイメージを結びつけやすくなっているのかもしれなかった。
「んん? その熱い視線は、マサキ君も私に惚れちゃった?」
考え込んでいたせいで見つめる形になり、勘違いした加古さんが顔を覗き込んでくる。
僕は上体をのけ反らせて、身体を離しながら目を逸らした。
「ごめん。Sの女子って守備範囲外なんだ」
「つまりMの女子がいいと。マサキ君は変態だね」
「それどっちにしても変態扱いされるやつでしょ!」
「あ、よく気付いたね」
そんな事を話してる内にチャイムが鳴る。
着替えもあるので、そろそろ教室に戻らないと授業に遅刻するかもしれない。
「それじゃ、そろそろ教室に戻るね」
「うん。バイバイ」
加古さんはあっさりと手を振ってくる。
頷いて、保健室を出ようとドアに手を掛けたところで、少し悩んだけど振り返る。
「また、話しに来てもいい?」
加古さんは驚いたのか軽く目を見開いて、すぐに楽しそうな笑みを浮かべた。
「やっぱり私に惚れちゃったんじゃない?」