5.移動
窓から差し込む光に、望月はぱちりと目を開いた。
まず目に飛び込んできたのは、ベニヤ板の安っぽい扉だ。
一瞬、自分が何処にいるのか分からなかった。そしてすぐに昨夜の出来事を思い出し、枕代わりのタオルに顔をうずめて溜息をつく。
(夢じゃなかった……ってか)
胸の内、月並みな台詞をひとりごち、寝転がったまま周囲を見回した。
見知らぬ部屋、古びた本棚、傷だらけのちゃぶ台、かすかな畳の香り。昨夜は暗すぎてよく分からなかったが、小さく手狭な部屋だ。やはり本格的に寝泊りするような場所ではないのだろう、布団が見つかったのは僥倖と思うべきか。
同じ布団の中、どうやら小牧はまだ眠っているらしい。背中にじんわりと感じる体温、微かに聞こえる寝息。そっと腕時計を確認すると、午前八時を過ぎたところだった。本来なら通学の電車に揺られている時間だ。
そう、本来なら――。望月は再び溜息をついた。
正直なところ、相変わらず肩の傷は痛むし、全身のダルさも抜け切っていない。切実に、このまま二度寝を決め込んでしまいたかった。
しかし――状況が状況だけに動かざるを得まいと判断し、望月は疲れた身体に鞭打って無理やり起き上がる。
「……ん」
その動きに、小牧が小さく声を上げた。どうやらそれほど深い眠りではなかったらしい。ぐりぐりと両手で顔を擦りながら、小牧もまた上体を起こす。
ぼんやりと寝ぼけ眼で隣の望月を見やること数秒。
「……えっ。ひゃっ!?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で飛び上がる小牧。寝起きで隣に誰かがいる、という事態に仰天したのか、そのまま慌てた様子で「あっえっえっ?!」と周囲をきょろきょろと見回している。
「えっなんでわたしこんな……あれ、ここどこ、えっ?! ……あっ!」
一頻り狼狽したところで昨夜の一件を思い出したらしく、そのまま黙り込んでしまう。二の句が継げずにいる小牧に、望月は「気持ちは分かるぞ」と言わんばかりの疲れた笑みを浮かべてみせた。
「おはよう、小牧ちゃん」
「あっ、お、おはようございます……」
「ちゃんと眠れた?」
「……たぶん」
自信なさげに答える小牧に、望月は「そっか」とだけ呟いて立ち上がった。
起床の挨拶もそこそこに、休憩所から出て駅の周辺を見て回る。望月たちが一夜を過ごした『東塩田』駅は田畑と民家しかないような田舎だ。辺りには人っ子一人おらず、ただ駅員と一般人の服がちらほら落ちており、キーが挿さりっぱなしの無人のタクシーがエンストを起こしていた。
「やっぱり誰もいないな」
休憩所に戻って、鮭おにぎりを頬張りながら望月。「そうですね……」と気弱に頷く小牧は、ちゃぶ台を挟んだ望月の対面で、ハムと卵のサンドイッチをちびちびと齧っている。ペットボトルのお茶、各種おにぎりやサンドイッチ――全て駅前のしょぼくれたコンビニから失敬してきたものだ。無論、店内には制服が散らばっているのみで、誰もいなかった。
「…………」
重苦しい雰囲気での朝食。冬の朝は少々冷え込む。コンビニで見つけたホッカイロのお陰で、昨夜に比べると随分マシだが。
「温かいお茶でも、あればよかったんだけどな」
「……そうですね。全部、温くなってましたし……」
その温くなってしまったハチミツレモンを飲みながら、淡い笑みを浮かべる小牧。全く、元気がない。食事もあまり喉を通らないようだった。
(……まあ、無理もないか)
こんな状況では――と望月は小さく肩をすくめる。小牧とは対照的に、望月の肉体は貪欲だった。傷を癒すためにカロリーを求めている。ホッカイロで身体を暖めながら、望月はモリモリと食事を詰め込んでいった。
「ところで……小牧ちゃん、どこ住みなの」
辛子高菜おにぎりにかぶりつきながら、望月。
「『織尾』です。『織尾』駅で降りるつもりでした」
「織尾か。地味に遠いな」
ここ東塩田駅から大きな川を越えてさらに三駅ほど離れている。おにぎりを咀嚼しながら、望月は移動手段をどうするか考え始めた。
「……あの、望月さんは?」
「俺? 俺は津久井だよ」
「……そう、なんですか。すぐ近くじゃないですか」
小牧が無理に明るい笑顔を作って言う。おにぎりをお茶で流し込んだ望月は、
「そうだけど、とりあえず小牧ちゃんを家まで送ろうと思う」
「えっ?」
その申し出に、小牧は驚いた様子だった。
「……いいんですか」
「もちろん。これも何かの縁だし、送るよ」
「……ありがとうございます。でも、先に望月さんの家に行きましょう」
「俺は……別に、それほど急いでないし。小牧ちゃんが先でも――」
「わたしだって急いでないです」
俯いて、小牧は言った。
「急いでないです。……怖いんです」
望月は口をつぐむ。何を、とは問わなかった。おそらく自分と同じ心境だろうと思ったからだ。
現実に直面するのが怖い――
「そう、か。わかった、じゃあ先に俺の家に戻ってみようか。その後、小牧ちゃんの家を見に行こう」
「……はい」
「じゃあ、食べ終わったら足を探そっか」
すっかり冷えてしまい、あまり美味しくない唐揚げを頬張る。
「……足、ですか?」
「ん、移動手段。原付か車か……最悪自転車でもいい」
「原付? 車? 望月さん、免許持ってるんですか?」
「いや、持ってないよ」
「えっ」
事も無げに答える望月、呆気に取られる小牧。
「持ってないけど、動かし方は知ってる」
「……。えっと」
何か言いたげな様子の小牧に、望月は苦笑いを浮かべて、
「……親父が土建屋でさ。敷地で動かしてたんだ、トラックとか色々……だから、マニュアルでもオートマでも大概は乗れるよ」
「ええっ、すごいですね!」
「数少ない特技の一つだよ」
「あっ、でも鍵とかは……」
「そこら辺の家を訪ねてみよう。誰かがいればそれで良し。いなかったら窓をぶち破って探せば鍵も見つかるだろう……道が塞がってて動けないようなら、乗り捨てて別の車探してもいいな。そうするとバイクの方が小回りが利くか……?」
まるで自分自身に問いかけるかのように、後半はほぼ独り言となる。そんな望月を小牧は感心したように見ていた。
「望月さんって……凄くしっかりしてますよね。尊敬しちゃいます」
思い出すのはやはり昨夜の一件だ。望月が咄嗟に小牧を抱えて逃げていなければ、今頃彼女は列車の中で挽肉になっていただろう。命の恩人と考えると、いくら感謝してもしたりない。
しかし、小牧の素直な賛辞に、望月は照れる風もなく肩をすくめた。
「そうでもない。あんまり深く考えないようにしてるんだ」
「……? 色々考えてませんか?」
「いや。手っ取り早いところから片付けてるだけ」
根本的な部分は考えないようにしている――この状況が何故発生したか、とか、自分の家族がどうなっているか、とか。
動く前にいちいち全て考えていたら、不安で頭がどうにかなってしまいそうだ。だから、目の前の問題から先に片付けていく。他のことを考えずに済むように。
(ああクソッタレ、腹が痛くなってきた)
望月はストレスが腹痛となって現れるタイプだ。野菜ジュースを飲みながら、ついつい険しい顔をしてしまう。
「……どうかしましたか?」
「いや、大丈夫だ」
心配げな小牧に笑ってみせ、最後に板チョコをバリバリとワイルドに噛み砕く。高カロリーかつ甘いものを摂取しすぎたせいで胸焼けが酷い。が、あいにくコンビニにはサラダの類が置いていなかったので、朝食はこれで終了となった。
駅員室から出て、食べかすや袋などをゴミ箱にまとめて放り込む。
「よし。じゃあ足を探す前に色々準備しようかな」
「あの……わたし、ちょっとお手洗いに……」
「ん、分かった。俺はもう少し駅員室を見てみるよ。あとコレ」
小牧に、先ほどコンビニで手に入れた1.5Lのペットボトルの水を手渡す。
「水、出ないかもしれないから」
「ありがとうございます、あの、すぐ戻ってきますから」
「大丈夫、駅員室にいるからさ。急がなくていいよ」
俺は消えてなくならないから――とは口に出さなかったが。
「……はい」
それでも不安げな様子を隠せない小牧は、ペットボトルを手に小走りでトイレの方へと消えていった。
(飲料水を使うのは勿体無いかもしれないけどな……)
その背中を見送って、心の中で独り呟く望月。仮に世界中の人間が消えてしまったのなら、ペットボトル入りの飲料水は比較的貴重な物資と言えるだろう。
しかし、水に関してだけは、望月はどちらかというと楽観的だった。
(……いざとなりゃ井戸あるしな)
望月の実家の庭に一つと、近所にも小さなものがいくつか。少なくとも実家を生活の拠点とするならば、生活用水は十分に賄える。飲料水も蒸留すればどうにかなるはずだ。
何故、望月が近所の井戸事情まで把握しているかというと、掘削したのが実家の土建屋だからだ。望月の父親は土木工事の傍らで、『災害時の断水対策』と銘打って家庭用の井戸掘削も手がけていた。
(足りなくなれば、新しくどこかに掘ってもいい)
望月も現場で少し手伝ったことがあるので、人力の井戸掘り機の使い方は心得ているし、いざとなれば軽トラで運搬可能な掘削機も扱える。少なくとも津久井周辺は水脈がそれなりに浅い。よほど固い地盤でない限り掘削できるだろう。
(……まあ、その辺は家の様子見てから考えるか)
世界中の人間が消えた、と仮定するのはまだ時期尚早だ。
昨夜、友人の佐京が残していた留守電を思い出す。
『――家族が急にいなくなっちゃってね……ちょっと動転していた』
少なくとも、佐京は消えていない。ただ佐京の家族は消えている。小牧は消えていないが、小牧の姉は消えた。その共通点はどこにある――?
「……はぁ」
望月は頭を振って、余計な思考を打ち消す。今は、目の前の事態に集中したい。
しばらくして、望月が駅員室で見つけた避難用品やリュックサックをチェックしていると、小牧が戻ってきた。
「すいません、遅くなりました」
「お帰り。一応リュックとか――」
見つかった、と言おうとして望月の言葉が止まる。
戻ってきた小牧は、さっぱりと化粧を落としていた。明るい茶髪と派手な服装、その中であどけない顔が少し浮いて見える。
「……お化粧、落としたんだ」
「……ヘンですか?」
スカートの端をぎゅっと握って、身を縮こまらせる小牧。「いや、全然」と望月はノータイムで首を振る。
「すっぴんの方が可愛いじゃん」
本心からの言葉だ。小牧は可愛らしい顔立ちなので、ゴテゴテ飾り付ける必要性を感じない。むしろあの化粧はケバ過ぎた。
「え、……そう、です?」
「ああ、ずっと良いよ」
望月が頷くと、微かに頬を赤らめた小牧は「えっと……」と、髪の毛の先をいじっている。素直な照れ方に、望月も思わず微笑ましい気持ちになった。
このまま小牧の照れ顔を眺めるのも乙なものだったが――望月は気持ちを切り替え、右肩にリュックサックを引っさげて立ち上がる。
「さて、じゃあ、そろそろ行こうか」
「……はい」
望月の真面目な顔を見て、小牧も表情を引き締めた。
二人して駅を出る。まず駅前のコンビニに寄り、リュックの中に入るだけ水や携帯食糧、電池などを詰めていく。
そうこうするうちに、時刻は午前九時になろうとしていた。コンビニを出た望月は、路上、東の空を厳しい面持ちで見やる。
なだらかに続く山々の向こう側から、もうもうと黒い煙が立ち昇っていた。東の空全体が霞んで見えるほど、大規模なもの。
「……あれ、何なんでしょうね」
「火事だろうな。それもけっこうデカい」
「…………」
しばらく、会話もないまま東の空を眺める。望月は厳しい顔のまま、小牧はひたすら不安げに。
(……まあ、突然人間が消えたら、火事の一つや二つも起きるだろうよ)
そして消防はおらず、水道も止まっているので延焼を防ぐこともできない。一度燃え始めたら全てを焼き尽くすまで止まらないだろう。
不幸中の幸いだったのは、『消失』が発生したのが真夜中だったことだろうか。これが夕飯時だったら、火事はもっと酷いことになっていたはずだ。
尤も、望月はその『不幸中の幸い』を、素直に喜ぶ気には到底なれなかったが。
「行こう」
「……はい」
東塩田駅は、小高い丘の上にある。駅前のロータリーを抜けて、二人でてくてくと坂を下っていく。坂の下には国道に繋がる道路が東西に伸びており、道沿いに民家や商店が立ち並んでいた。
「いっぱい家がありますね、車も」
「そうだな」
路上には何両か事故車両が見かけられた。いずれも走行中に突然制御を失ったかのように、路肩や道沿いの建物に突っ込んでいる。割れたフロントガラスの向こう側には、しぼんだエアバックに運転者の服が張り付いているのが見えた。
カァッ、カァッ、カァッ――
ばさばさ、と羽音を立てて、鴉が数羽飛んでいく。空を見上げた二人は、そのまま顔を見合わせた。
「……鴉はいるんだな」
「みたいですね……」
なんで人間だけ……と小牧が小さく呟いた。
「……それで、どの家から行きます?」
「うーん。待って、その前に」
歩きながら、望月は前方の建物を指差す。
――交番だ。
「ちょっと見てみよう」
当たり前だが、交番には誰もいなかった。
ただ、警察官の制服一式が、落ちている。
まるで抜け殻のように――。
「…………」
望月は無言で制服を漁った。
腰のベルトと、ホルスター、そして拳銃。
無造作に拳銃のシリンダー――蓮根状の回転式弾倉――を振り出し、弾丸を確認する。実包が五発、しっかりとそこに収まっていた。
「……拳銃、ですか」
望月の背後、小牧が慄くように震える声で尋ねる。
振り返って、望月は重々しく頷いた。手の中の拳銃に視線を落とす。
「だな。弾丸も入ってる」
「……そんなもの、どうするんですか」
「一応持っておく。何かの役に立つだろうし」
慎重に回転式弾倉を戻し、拳銃をホルスターに仕舞う望月。そのままホルスターを自分のベルトに付け替える。
「……役に、立つんでしょうか」
「俺たち以外に誰かいるかもしれない。そしてそれが良い人とは限らない」
硬い声で言い切る望月に、小牧ははっと目を見開いた。
「人に向かって使う、ってことですか?」
「あんまり使いたくはないね」
即答する。怯える小牧を安心させるように、望月は柔らかな笑みを浮かべた。
「まあそれ以外だと、イノシシとか出てきたときかな。いずれにしても、ヤバそうなときは逃げるのが一番だけど」
「そう、ですか……でも、使い方、とか……」
「ああ、それなら大丈夫」
ぽんぽんと、ホルスターを軽く叩きながら望月。
「昔、タイに旅行に行ったとき実銃の体験をしたことがある。この拳銃そのものは使ったことないけど、似たようなリボルバーは撃ったから、……まあ、当たるかどうかは別として、撃つことはできるよ」
「ええー! すごいですね!」
望月が経験者とわかると、小牧は少し安心したようだ。
「望月さんって、色々できるんですね!」
「まあな。なんなら、小牧ちゃんも撃ってみる?」
「えっ、……わ、わたしはいいです。ほら、弾丸も勿体無いですし」
望月が悪戯っぽい笑みを浮かべてホルスターを示すと、小牧は慌てて首を振った。完全に興味がないわけではないようだったが。
その後、さらに交番の奥の部屋なども探ってみたが、『消失』時にいた警察官は一人きりだったらしく、追加で拳銃を手に入れることはできなかった。予備の実包が保管されている――かも知れない金庫は見つかったが、暗証番号がわからず、こじ開けることもできなさそうだったので早々に諦める。
新たに『拳銃』という想定外の武器を手に入れてしまったものの、当初の予定通り、望月たちは周囲の民家を訪ねて回った。
しかし。
やはり、誰もいない。
「……緊張しますね」
「今更感あるけどな」
とある民家の軒先で、辺りを憚るかのように小声で話す二人。誰も出てこないので、仕方なく窓をぶち破って中に侵入することにしたのだ。今まで散々コンビニや駅員室で物資を漁り、交番では拳銃まで手に入れたものの――何故かガラス窓を叩き割るのは、それなりに抵抗があった。
望月はリュックからセロテープを取り出して、ガラスにぺたぺたと貼り付けていく。そして、その辺で拾った石ころでピンポイントに窓を叩き割った。パシッ、と乾いた、それでいて控えめな音が響き、ガラスに穴が開く。セロテープのおかげで欠片も飛び散らない。
「まるで空き巣ですね」
「全くな。お邪魔しまーす」
開いた穴から鍵を開け、靴を脱いで家の中へ。まるで初めて友人の家を訪ねたときのように、他所の家の匂いがする。
それは、何の変哲もない一軒家だった。
生活感はそのままに、家人が誰もいないという一点を除いて。
二人で手分けして探すと、鍵は呆気なく見つかった。電話の横の棚に、家の鍵とまとめて置いてあったのだ。
同じようなことを近くの民家で数回繰り返して、車の鍵をいくつか手に入れる。田舎なので乗用車は必須だ。ほとんどの家に車あるいはバイクがあり、移動手段は簡単に調達することができた。
その上で、各車のガソリンの残量をチェックして回り、一番余裕のあった農家のトラックを当座の足にする。更に荷台には原付を載せてロープで固定しておいた。これでいざとなれば容易く車を乗り捨てられるだろう。
「オートマか。こりゃ運転しやすくていいな」
一応、望月はマニュアルでも運転できるが、初めて乗る車ならオートマの方が気が楽だ。
「わたし、こういう車に乗るの、初めてです」
助手席に乗り込む小牧は、心なしかはしゃいでいるようにも見える。
「そっか、視点が高いから意外と速く感じるよ」
エンジンを回し、望月は危なげのないハンドルさばきで車道へと乗り出した。
「……一応、安全運転で行く」
「はい」
最初に向かうのは、津久井にある望月の実家だ。国道へ乗り出し、路肩や中央分離帯に突っ込んだ事故車を回避しながら、真っ直ぐ東へと向かう。
「…………」
見慣れた景色を、しかし望月は運転しながら、新鮮な気持ちで眺めていた。既に何度も通ったことのある道だが、自分で運転するのは初めてだ。
(と、いうより公道を走るのが初めてだな)
今まで車を走らせたことがあるのは、家の近くの私道と、広いとは言えない敷地のみ。それもゴーカート気分で転がしていただけだった。こうして公道を疾走していると、法定速度を守っていても、えも言えぬ緊張と高揚感がある。
「……制限速度だけは守ってる、ってのも皮肉なもんだけどな」
だって無免許だぜこれ、と望月が言うと「それもそうですね」と小牧が笑う。
「望月さん、運転上手ですね」
「言ったろ、数少ない特技だって。乗り心地はどうかな?」
「悪くないです」
助手席の窓から外を眺めながら、小牧は自然な笑みを浮かべている。
望月は「何か音楽でもかけようか」と言いかけて、やめた。他人の車なので何の曲が入っているかもわからないし、ラジオをつけても悲しい現実に行き当たるだけだと気付いたからだ。
「……望月さんって、」
窓の景色から視線を外し、望月の横顔を見ながら小牧が口を開く。
「兄弟とかって、いるんですか」
「ああ、……うん。小学生の弟がいるよ」
「やっぱり!」
ちらりと横を見ると、小牧はニコニコと笑みを浮かべていた。
「なんで?」
「だって望月さんって、なんかお兄ちゃんっぽいです」
「……そうかな。俺も小牧ちゃんみたいな可愛い妹が欲しかったよ」
ふぅ、と嘆息して笑う。
望月の弟は、幼い頃は病弱だったこともあり、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。しかし成長し、身体が丈夫になるに従って段々と生意気なクソガキと化してきたので、最近はよく喧嘩するようになっていたのだ。勿論、喧嘩といってもじゃれ合いに近いようなものだったが――いずれにせよ、可愛い妹が欲しかった、というのは割と本心だ。
ただ、このとき望月は、一つだけ嘘をついていた。
実は望月には、姉もいる。歳の離れた大学生の姉が。
県外で独り暮らししているので、今から帰宅したところで、万が一にも遭遇することはない。故に口には出さなかった。
小牧との会話で、『姉』について触れるのは鬼門のように思えたから――
「…………」
そんな望月をよそに、小牧は照れたように頬を染めて、窓の外を眺めていた。が、突然ハッと目を見開いて「ああっ!」と大声を上げる。
「どうした!?」
思わず急ブレーキを踏みそうになる望月。
「人です! 人がいます!」
小牧が興奮した様子で窓の外を指差す。
国道沿いの大型スーパー。ほとんど車の停まっていないがらんどうの駐車場に、ワゴン車やバイクが複数台固まっている。そしてその周囲には何人か人影も見えた。
「あれは……」
トラックを一旦停止させ、そのバイクに着目した望月は眉をひそめる。
「望月さんっ人ですよ! お話して――」
興奮した小牧の声は、「ブオオォォンッ!」という甲高い排気音に遮られた。
ブォンオオヲンッオオヲンヲン――ッッ!
高らかにコール音を鳴り響かせながら、バイクが一斉にこちらへと向かってくる。派手な電飾、馬鹿でかい排気音、異様な形に改造された車種の数々。
車体にペイントされた凶悪な髑髏のマークに、小牧は喜びの表情のまま固まって、「あっ……」と何かを察したようだ。
(面倒だな……)
思わず舌打ちする。望月は知っていた。あの、炎を噴き上げる髑髏のマークを。
咄嗟に進行方向を見やり、車線上には特に障害物がないことを確認する。が、こちらは普通型のトラック、それに対し連中は比較的小回りの利く単車だ。振り切れないし、下手に逃げようとすればもっと面倒なことになるに違いない。
ちら、と隣の席を見やる。先ほどとは打って変わって、身を縮こまらせた小牧が不安げに見返してきた。ぱっと見では、あの集団には女がいない。そして望月が助手席に乗せているのは可愛い女の子だ。警察も大人も消え去ったこの状況――改造バイクを乗り回す連中が全て悪だとは思わないが、それでも『あの』マークはよろしくない。
「小牧ちゃん、俺が連中の相手するから、適当に話合わせてくんない?」
敢えて軽い口調で、望月。
「わ、わかりました」
「相槌打つくらいでいいからさ」
腰のホルスターを強く意識しながら、望月は運転席の窓を開ける。
果たして、爆音を轟かせながら、単車の群れがまるで獲物を追い込むシャチのように近づいてきた。