4.炎上
=福岡県北部=繁華街=中心部=
「おい、消防車まだ来ねえのかよ!?」
堪りかねたように、一人の少年が叫んだ。
「電話がつながらねーんだよ! 水道も止まってるし、どうすりゃいいんだ……」
その隣、携帯を持った少年が、途方に暮れた様子で答える。
若者たちは、ただ茫然と、『それ』を見上げていた。
街の中心で、雑居ビルが、燃えている。
まるで冗談のような燃え方だった。巨大なたいまつのように、ビル全体が業火に包まれている。最初はボヤ騒ぎ程度の火勢だったのが、消防が来ないまま、放置された結果がこれだった。停電で暗くなった街の一角を、紅蓮の炎が煌々と照らす。
「助けてくれェ――!」
「熱いぃッッイヤあぁ――ッ!」
その隣、延焼で燃え始めているビルの上階、煙の噴き出す窓から、数人の少年少女が身を乗り出して叫んでいた。ビルの中のカラオケ屋に入っていたため、火事に気付くのが遅れて逃げ損なったのだ。
しかし、助けを求められても、野次馬の少年少女たちには何もできなかった。水道が止まっているため消火活動もできず、ビルの高さ故に、彼らを飛び降りさせてそれを受け止めることもできない。
ただ、見守ることしか、できなかった。
「熱い、熱いいぃぃッ」
炎の熱気から逃れるように、限界まで窓から身を乗り出す少年少女たち。が、その中の一人の少年が、身を乗り出し過ぎてぐらりとバランスを崩した。
「あっ、あっ」
慌てて身を引こうとするも、遅い。そのままずり落ちるようにして空中に放り出され、絶叫を上げながら落下し始める。野次馬の全員が、息を飲んだ。
地上十数階の高さから、少年が空を切ってアスファルトに叩きつけられるまで、数秒とかからなかった。
激突。形容しがたい、鈍い音が響く。
落下地点の周囲から、さぁっと人の波が引いていった。不気味な沈黙。頭から地面に突っ込んだ少年は、そのままぴくりともしない。少年の身体から、アスファルトの上にじわじわと血の染みが広がっていく。
「……いやあああぁぁァァ――――ッ!!!」
誰かが悲鳴を上げた。それを皮切りに、野次馬が再び騒ぎ始める。
「いやだ……いやだッ、助けてくれェ――!」
「誰かーッ、助けてぇ――ッッ!」
ビルの上階で凍りついていた残りの少年少女たちも、狂乱状態で叫び始めた。眼下で、物言わぬ肉塊と化してしまった少年。その姿こそが、自分たちの末路であると悟ってしまったが故に。
目を見開いて硬直する者、悲鳴を上げる者、慟哭する者。燃え盛る炎に照らされた現場は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
しかし、そんな人の群れから離れて、静かに騒ぎを観察するグループがひとつ。
ジャージや学ラン、何人かは特攻服に身を包み、顔つきは明らかに未成年であるにもかかわらず煙草を咥えた、いかにも『関わり合いになりたくない』危険な香りがする若者の集団。
「うわあ、グロいなぁアレ。怖いわー」
その中の一人、グループの中心にいる安っぽい金髪の青年が、まるきり怖がっていない軽薄な口調で楽しげにコメントした。そのまま「なあ?」と周りの仲間に首を傾げて見せると、傍に控えていた不良たちは「そうっスね」と口々に同意を示す。そこには、青年に対する畏怖の感情が見え隠れしていた。
青年の名は、林ざ切亜。
福岡県の沿岸部一帯を傘下にする暴走族【暴朧剄騎】の中で、高校生以下の構成員を取り仕切り、十八歳という異例の若さで副長にまで上り詰めた男だった。
「うわっ、また一人落ちてきたし」
ザキアの呟きは、野次馬の悲鳴にかき消された。ビルの火がいよいよ上階にまで回り始めたらしく、熱気に耐えかねた少年少女たちが次々に飛び降り始めたのだ。
「すげえ。すげえ、すげえなあ」
熱に浮かされたかのように、うわごとのような言葉を繰り返すザキア。目を見開いて、少年少女がビルから飛び降りる様を、食い入るように見つめている。炎の光をちらちらと反射する瞳は、極度の興奮で瞳孔が大きく開いており、その俳優のように整った顔には、見る者に怖気を覚えさせるような、冷たい薄ら笑いが浮かんでいた。
ザキアの周囲の不良たちは、皆一様に青褪めたまま気まずげに顔を見合わせる。不良で、暴走族で、荒事に慣れてるとはいっても、所詮は日本育ちの若者だ。人という生命が、地面に激突して血しぶきを上げ、一つの肉塊に変化する。そんな悪夢のような光景を目の当たりにして、吐き気を堪えるので精一杯だった。
しかし、そんな中で、この金髪の青年は興奮し、あまつさえはしゃいですらいる。同じ『人』という枠組みの中にありながら、自分たちとは根本的に、決定的に、そして致命的に、精神の構造が異なる存在。異彩を放つとはこういうことか。他でもない『それ』が、ザキアが恐れられ、彼という人間を若くして暴走族のサブリーダーにまで押し上げた要因だった。
「はーっ。もう落ちてこねえかな」
もう終わっちまったか、とでも言わんばかりに無邪気な笑みを浮かべて一息つくザキア。その熱を帯びた視線は、足から地面に落ちたため即死できなかった少女に固定されていた。
呻きながら、アスファルトを引っかくようにして手を動かし、細かく痙攣している少女。脚部はぐちゃぐちゃで、腰のあたりからも白い骨が飛び出ていた。おびただしい出血量。助けを求めるか細い声。手当てを施さなければ死に至るのは、誰の目にも明らかだった。しかし、そのあまりに凄惨な姿から、誰も近寄ろうとはしない、近寄ることができない。そしてそんな彼女の傷を治療する術を持つ者も、この場にはいなかった。
「ありゃあ……ダメっスね」
ザキアの取り巻きの一人、特攻服にリーゼントというオールドファッションな不良が、誰に言うとでもなく呟いた。
「だなあ。それにあんなグチャグチャじゃあ、ヤるときも使いモンにならねえな」
頷いたザキアが、事も無げに答える。この状況下でそっち方面に考えが働くのか、と畏怖の感情が一周回って呆れ顔になるリーゼントだったが、それ以上は特に何も言おうとしなかった。
「さて、っと。そろそろ飽きたし、メシでも食いに行くか」
やがて、興味を失ったようにくるりと火災現場に背を向けたザキアは、場違いに明るい声で提案する。
「メシ……っスか?」
「ん? お前ら腹減ってねえの?」
当惑する不良たちに、きょとんとした顔をするザキア。
「いやだって、ザキアくん……ホラ、人いないじゃん。停電だし」
学ランをだらしなく着崩した、しかしそれ以外は割と普通な見てくれの少年が、道路の向こうの無人のラーメン屋を目で示しながら、遠慮がちに言う。
「ああ。別に、メシ屋に行こうってワケじゃねえんだ。コンビニにでも行こうと思ってな。今なら何でも、取り放題の食い放題だろ?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべるザキア。その言葉に、「なるほど」と不良たちも納得したように頷く。とはいえ、彼らの多くはまだ吐き気を引きずっていて、食欲など皆無に近かったのだが。
「……よく考えたら、今ならどこ行ってもカネ取り放題じゃね?」
丸坊主でジャージ姿の不良が、「いいことおもいついた!」とでも言わんばかりに、ぎょろりとした目に欲望の光をたたえて声を上げる。
それに対してザキアは、今更そんなことに気付いたのか、と呆れ顔で、
「バーカ。こんなときに、カネなんざいくら持っててもクソの役にも立ちゃしねえよ。……いや、便所紙くらいにゃなるか? ははっ」
少しだけ無邪気に笑って、しかし直後、別人のように表情を引き締めたザキアは、ぽんぽんとジャケットの下、腰の部分のふくらみを叩いて見せる。
「こういうときはな、カネなんかじゃねえ。『力』が一番モノを言うんだよ」
にいっ、と凄惨な笑みを浮かべるザキア。まるで、猛獣を前にしているかのような威圧感に、不良たちは一様に緊張した面持ちで生唾を飲み込んだ。
ザキアの腰。ジャケットの下の、皮のホルスター。
そこに隠されているのは、黒光りする鉄の塊。
『拳銃』という名の凶器だった。
先ほどまでザキアたちは、煙草をくゆらせながら歓楽街をぶらついていた。そこで運悪く警察官に遭遇し、喫煙を見咎められて補導されかけていたのだ。
が、少し気が遠くなったと思えば、周囲の人間は服を残して消え去っていた。ザキアたちを指導していた警察官もだ。ザキアは残されていた拳銃を、当然のように我が物とした。
「やー。楽しいな。すげえワクワクする」
口の端を吊り上げて、ザキアは笑う。
狂人に刃物、という言葉がある。
非常に危険であることの例えだが、これが、ザキアに拳銃、という組み合わせになれば、どうなるであろうか。
人の皮をかぶった怪物に、こんなものを持たせると、いったい何が起こるのだろうか。
「…………」
やくざじみた暴走族の若者をして、想像したくもない凶悪な組み合わせだった。
「さーて何食おっかなあ。やっぱおでんかな、それとも肉まんかな。停電だけど、まだ温かいだろ」
へらへらとした軽薄な表情に戻り、ザキアはスキップでもしそうな軽やかな足取りで歩いていく。
人が消えた、とか、停電だ、とか。なぜこんなことになってしまったのか、とか。
不便なことも、分からないことも、色々とあったが、ザキアにとってはそんなものは全てどうでもよかった。
『大人』が消えた。この事実があればいい。
「……おい、お前ら、なにボーッとしてんだ。行くぞ」
ザキアがちらりと振り返り、立ち尽くしていた不良仲間に声をかける。
不良たちは、悪い夢でもみているような、狐に化かされているような、どこか空恐ろしい気持ちになりながらも、ぞろぞろとザキアの背中についていった。
†††
=福岡県北部=海辺の田舎町=新興住宅地=
両親の消えてしまった寒々しい家の中で、マユは静かに涙を流していた。
停電で明かりの消えた真っ暗なリビングで、綺麗な毛並みのゴールデンレトリバーを抱きしめ、声も無くすすり泣く。
怖くて、心細くて、どうしていいのか分からなくて。そんな中でも、マユの愛犬・ラッキーは消えていなかったのだ。それだけが唯一の救いで、マユの心の支えだった。
くぅーん、と主を気遣うような鳴き声とともに、ラッキーがぺろぺろとマユの頬から涙を舐めとる。ぐすん、と鼻を鳴らしたマユは、「ありがと、ラッキー……」と小さく呟いて、ラッキーの頭を撫でた。
恐怖から逃れるように、ぎゅっと目を閉じてラッキーの身体に顔をうずめ、その鼓動と体温に意識を集中していたマユだったが、ぴくりとラッキーが首を巡らせたのを感じて顔を上げる。
「……どうしたの? ラッキー」
マユの問いかけに、ラッキーはただ、おん、と窓に向かって吠えた。
窓の外。青白い光が、ちらちらとカーテン越しに見えた。
ちりんちりん、という自転車のベルの音。続けて外から、「マユちゃーん! 居るかーい!?」という声が聞こえてくる。
「!! ゆーちゃん!?」
勢いよく立ち上がって転びかけながら、慌ててリビングの窓を開け放つと、ちょうど佐京が庭に自転車を押しながら入ってきているところだった。
「ゆーちゃん? ゆーちゃんなの?」
「マユちゃん! ごめんね、遅くなって!」
佐京は、右手に眩く青白い光を放つ懐中電灯を持っているようだ。光に目が慣れていないマユは、眩しさのあまり目を細める。逆光で顔がよく見えなかった。光が強すぎて、涙が滲み出てくる。
「ゆーちゃん? ほんとにゆーちゃん? オバケじゃない?」
「ホントもホント。ほーら、足もちゃんとついてるよ」
ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねて、「ね?」と首を傾げる佐京。
ゆーちゃんだ。ゆーちゃんが、来てくれた。ぐずっ、と鼻をすすったマユは、眩しさのせいじゃない、熱い涙が、こみ上げてくるのを感じた。
「うっ……ぅぅっ、ゆ゛ぅ゛ち゛ゃ~ん!!」
裸足のまま庭に駆け出し、ぼろぼろと涙をこぼしながら佐京に飛びつく。
「怖がっだよ゛ぉ~!!」
「おーよしよし。もう大丈夫だよ」
マユを抱きとめた佐京は、ゆっくりと身体を揺すりながら、マユの艶やかな髪の毛をすくようにして撫でた。
「あっ、マユちゃんパジャマのまんまじゃないか。これじゃあ風邪引いちゃうよ、ほら」
そしてすぐに、マユが薄いパジャマしか着ていないことに気付く。佐京は慌てて自分のダッフルコートを脱ぎ、マユの肩にかけた。
「ありがとう、ゆーちゃん。……でも、」
おん、おん、とラッキーの吠える声。佐京が声のした方に懐中電灯を向けると、リビングの窓から勢いよく飛び出したラッキーが、ふさふさの尻尾を振りながら駆け寄ってきた。マユは儚い笑みを浮かべて、
「さっきまでラッキーに抱きついてたから、あんまり寒くなかったの。ね、ゆーちゃん。ラッキーは、消えてなかったよ」
しゃがみこみ、足元でお座りのまま尻尾を振るラッキーの頭を撫でる。
「…………」
それに対して、佐京は、無言だった。
「……。ゆーちゃん?」
沈黙に違和感を覚えたマユは、ラッキーを撫でながら佐京の顔を見上げる。
佐京は――じぃっと、厳しい表情でラッキーに視線を注いでいた。
怖い顔だ、とマユは思った。前に佐京がラッキーと会ったときは、マユと取りあうようにしてじゃれ合っていたというのに、今はまるで親の仇でも見ているような顔だった。
「ねえ、ゆーちゃん、どうしたの?」
えも言われぬ不安が湧き上がってきて、たまらずにマユはもう一度声をかける。目の前の佐京が、自分の知っている佐京とは違うような。実は別人ではないか、と、そんな風に感じてしまう、不安。
「ん。ああ、ごめん。ちょっと考え事してたよ」
はっと気を取り直したように、佐京はマユの方を見て優しく微笑んだ。
いつも通りの、優しい笑顔。
しかし、その取って付けたような、『普通』を演出するような態度に、マユは違和感を強くした。
「……ねえ、ゆーちゃん、大丈夫? なんか……なんか、ヘンだよ?」
「そうかな」
「うん……」
「……こんな状況だから、ね。僕もどうしたらいいか、分からないんだ」
疲れたような笑みを浮かべて、佐京は小さく言った。
「……そっか。そう、だよね」
佐京の言葉に、マユは表情を暗く沈ませて、うつむいた。
状況が状況なのだ。佐京の態度が『ヘン』なのも当たり前か――、と。
一応、マユは納得した。
しかし、先ほどから佐京を見ていて、どうしてもひとつ、気になることがある。
しばし迷ったマユだが、ここは思い切って訊いてみることにした。
「ねえ、ゆーちゃん」
「ん? 何だい、マユちゃん」
佐京が穏やかに答える。
マユは佐京の目をまっすぐに見つめながら、問うた。
「……なんでパンツかぶってるの?」
マユの問いに、佐京は雷に打たれたような顔をした。思わず、といった様子で、動揺を隠しきれない佐京の手が頭部に伸び、そこにしっかりと存在する柔らかな布地をとらえた。
「…………」
どう見ても変態だ。言い逃れのしようがない。
「……なんでだろうね」
無造作に頭からぱんつを取り去った佐京は、心底疲れきったような顔で答えた。
「ゆーちゃん……」
完全に可哀そうなものを見る目になったマユは、そっと佐京を抱き締める。
「ゆーちゃんも怖かったんだね……」
「……マユちゃん」
逆にマユに慰められ、複雑な顔をする佐京。
(なんか、好意的に解釈してくれた……)
佐京が錯乱のあまり、ぱんつをかぶるという奇行に及んだ――とマユは解釈したらしい。あながち的外れでもなかったが、佐京を買いかぶり過ぎなきらいもある。
「マユちゃん……ありがとう」
そっとマユの肩を抱いて、佐京はマユの優しさに、心からのお礼を言った。マユに見えないよう、ズボンの後ろポケットにぱんつを仕舞いつつ。
(マユちゃんはやっぱ良い子や……普通ならドン引きしてお友達関係終了だよ)
ドン引きどころか、自分のことを心配までしてくれている。
なんと心の優しい娘だろうか。マユの優しさに触れ、佐京は感極まって落涙せんばかりの心境だった。
しかしそのとき、佐京の胸に顔をうずめたまま、マユがぼそりと言った。
「でもね、ゆーちゃん。流石にパンツかぶってるのはドン引き……」
「うん、まあ、だろうね」
†††
すやすやと。
守谷家のリビングのソファで、布団にくるまったマユが、穏やかな寝息を立てている。
「……はあ」
それを見守りながら、リビングの床に腰を下ろす佐京は、小さく溜息をついた。
あれから紆余曲折があって、佐京はマユの傍にいることになった。
女の子が夜に独りの身で、頭にぱんつを装備していたような変態をよくもまあ家に上げたものだ、とは思わないでもないが――マユも一人ぼっちよりは、例え変態でも傍にいてくれた方が良いのだろう。
いずれにせよ、孤独にならずに済んだのは、佐京にとってもありがたい話だった。
(まあ、被害が最小限に収まってよかったな)
自分の頭を撫でながら、佐京は思う。
もしもぱんつをかぶった状態で、マユ以外の他の人を相手にしていたら、色々と終了していた可能性が高い。一番最初にマユに指摘してもらえてよかった、と思うべきだろう。
――他の人。
このとき佐京は、自分とマユ以外にも、『この世界』に人が存在することを確信していた。
手元で弄んでいた懐中電灯を、おもむろに構える。
「射程は1メートルくらいで。威力は弱め」
小さく呟きながら、かちりとスイッチを入れた。
シュンッ、という空気を焼き焦がす音とともに、懐中電灯のレンズから青白い光がほとばしる。
そしてその光は、佐京の言葉通りに、レンズから一メートルほどのところでぴたりと静止した。
物理的にあり得ない現象。しかしそれを無感動に一瞥した佐京は、座ったまま懐中電灯をくるくると振り回す。部屋の暗闇を切り裂く青白い残像。
銀色の懐中電灯から、光がまるで刃のように伸びる様は、まるでSF映画の中で宇宙騎士が振り回す光剣のようだった。
佐京の隣、リビングの床に寝転んでいたラッキーが、突然の青白い光に驚いたのか身を起こす。興味を惹かれているらしく、光の刃に触ろうと前足を持ち上げる。
「やめとけ、触ったら火傷じゃ済まないぞ」
べし、とその前足を軽くはたいて、佐京は懐中電灯をラッキーから遠ざけた。心なしかしょんぼりとしたラッキーは、ふてくされたように再び床に寝転がる。悪いね、と佐京は小さく肩をすくめた。
「――神器【ブリューナク】。敵を穿ち貫く光の槍、か」
佐京がスイッチを切ると、青白い光線はふっと嘘のように消え失せて、再びリビングを暗闇が包んだ。
あの時――佐京が初めて、この懐中電灯に触れた時。
佐京の頭の中に、ずるりと入り込んできたモノがあった。脳内に蛇が潜り込むような感覚で、しかし、その違和感は一瞬で消失してしまった。
だから、その『何か』は消え去ったもの――と思い込んでいたが、違った。それは佐京の脳内にすっかり馴染んでしまったのだ。
こんこん、と頭をノックするように叩きながら、佐京は心の中で問う。
この懐中電灯は何だ、と。
『器械:神器【ブリューナク】』
『器士:佐京悠介』
『位階Ⅲ』
『拒否反応:高熱』
『・敵を穿ち貫く光の槍』
『・威力と射程は使い手の意志と電池に依存する』
『・電力の供給が途切れた場合は効果を発揮しない』
すぐさま脳内の『知識』が、すらすらとその問いに答える。まるで頭の中にもう一人、別の自分がいるような感覚。佐京は小さく溜息をついた。
あの時以来、佐京の脳内には、佐京の知らない知識がしっかりと根付いていた。
そしてその知識は、佐京に様々なことを教えてくれる――
「さて、これからどうしたものかねえ……」
独り言に、くぅーん、とラッキーが答える。
佐京が手を伸ばしてラッキーの頭を撫で、耳の後ろをぐりぐりとしてやると、ラッキーは気持ちよさそうに目を細めた。
それを見ながら、しかし、佐京は複雑な心境だ。
「この『知識』が本当なら……お前も『コピー』なんだよなあ……」
「?」
佐京の言葉に、ラッキーはつぶらな瞳で、ただ首を傾げるのみだ。その動作は、佐京がよく知るマユの愛犬、『ラッキー』そのものであった。
「……まあ、少なくとも、『お前』に罪はないよなあ」
くぅーん、という鳴き声が返ってくる。
「さて、……そろそろ、僕も寝ようかな……」
守谷家の布団か何かを拝借しようと、のろのろと立ち上がる。守谷家の構造を思い出して、佐京はマユの両親の布団を借りることにした。
マユが眠るソファの横に布団を敷きながら、今日一番の重い溜息をつく。
「はあ……マユちゃんに、どう説明したものかなぁ……」
また頭がおかしくなった、とでも思われそうだ。佐京は皮肉な笑みを浮かべようとしたが、最早心労で、作り笑いを浮かべる気力すらなかった。
ソファで眠る、マユの寝顔を見やる。
毛布にくるまって、小さく身体を丸めた、華奢な少女を。
せめて――、いまひととき、その眠りの安らかならんことを。
佐京は、切に願った。
†††
夜は更ける。
時は流れる。
全ての者に、平等に。
†††
市街区の、とある民家の一室で。
古風な片眼鏡をかけた青年は、非常用の電灯の明かりの中、深刻な表情で分厚い本をめくっていた。
「『転移』……『異次元』……『複製』……」
うわ言のように呟きながら、本の紙面を埋め尽くす複雑な形の文字を読み取っていく。
「『門』……『異世界』……『器械』……」
青年は凄まじい速度でページをめくり、その内容を咀嚼し、頭の中に入れていった。
が、あるページに行き当たったとき、その動きがぴたりと止まる。
そのページには、古風な筆致で、異形の怪物たちが描かれていた。
「『敵』……『怪物』……『侵、攻』……?」
呆然と、呟く。
「……!」
思考の空白は一瞬。
顔から血の気が引いた青年は、鬼気迫る勢いで、本の続きに目を通し始めた――
†††
そこから少し離れた住宅街の、とある民家で。
「何じゃこら……」
寝間着を着た面長の少年が、途方に暮れていた。
玄関のタイルに、長剣が突き刺さっている。
それも、鞘ごと。
先ほど、寝ていたところを轟音と家の揺れで叩き起こされ、地震と勘違いして避難しようとしたらコレだった。
見上げると天井に大穴が開いており、二階と屋根を貫通して星空がよく見えた。
どうやらこの剣、空高くから落ちてきたものらしい。
(でも、なんだってこんなモンが……)
目の前の剣に視線を注ぐ。
真っ黒な鞘に、惚れ惚れとするような金色の装飾。無骨で、それでいて禍々しさを感じさせる攻撃的な造り。柄頭には大粒の赤い宝石がはめ込まれている。
「……どうしょっかコレ」
助けを求めるような少年の呟きに、しかし、誰も答えない。
停電はしてるわ、なんか得体の知れない剣が玄関に突き刺さってるわ、家族は消えているわで、少年は何をどうすればいいのかさっぱり分からなかった。
(……とりあえず、これ、抜けるんかなぁ?)
邪魔だしどけておくか、と少年は手を伸ばし、剣の柄を握った。
†††
内陸部の、田舎町の住宅街で。
「冴~、危ないよ~、戻ろうよ~」
「うるさい真人間。怖いならついてくるな」
「こっ怖いわけじゃないさ、ただ冴が心配で――」
「黙れ、うるさい」
マグライトの明かりを揺らしながら、賑やかな二人組の姿があった。
一人は、なよなよとした雰囲気の、背の高い少年。年の頃は高校生ほどか。
もう一人は小柄で、黒髪を異様に長く伸ばした少女。こちらは、中学生のようだ。
少年は少女を『冴』と呼び、少女は少年を『真人間』と呼ぶ。全く仲は良さそうではないが、何処となく顔立ちが似ているところを見るに、兄妹らしい。
「もう戻ろうよ~、絶対おかしいって。せめて明るくなるまで待った方が――」
「うるさい。だから怖いなら一人で戻れ」
心配する兄に対し、妹はどこどこまでもぶっきらぼうで冷たい。
「ああもう、なんで母さんたち消えちゃったんだよ~……」
「あっ、何かある」
「えぇっなになにっ!?」
「うるさいイチイチ大声出すな死ね」
少女がライトで照らす先――住宅街の道のど真ん中。
「……。これは……なんだい?」
「……。剣?」
アスファルトに、ひと振りの細身の剣が、突き立っていた。
銀色の刀身。蛇をかたどった柄頭の装飾。
まるで、美術館にでも飾っていそうな、見事な剣だった。
「…………」
日常から逸脱した奇妙な光景に、しばらくライトを持ったまま、呆然と立ち尽くす兄妹。
「……なんだろ、これ」
先に動いたのは、妹の方だった。
「わっ、冴! 触らない方がいいよ、危ないよ~!」
「うるさい真人間。危なくない、ちょっと触ってみるだけ」
兄の制止を振り切り、少女の細い指が、剣の柄に触れる。
「あぁっ!?」
その途端、少女はがくりと地面に膝をついた。
「冴~ッ!」
兄は悲鳴を上げんばかりの勢いで飛び上がり、妹に駆け寄る。
「どうしたんだい!? 何かあったの!?」
「……う~」
兄の問いかけに、少女は額を押さえて、ただ唸るのみ。
「やっぱり危なかったんだ! このっ、こんなもの~ッ!」
怒りの表情となった兄は、剣を引き抜こうと手を伸ばす。が、
「触るなッ!!」
腹に響くような大声で叫んだ少女が、兄を、剣に触れる寸前で突き飛ばした。
どんっ、と鈍い音が響き、兄の身体が宙に舞った。
そのまま民家のブロック塀に背中から叩きつけられ、兄は「ぐぇっ」と潰れたカエルのような声を出す。あまりの衝撃と痛みにしばらくそれ以上の声が出せなかったが、どうにかして上体を起こし、恐る恐る妹を見やった。
「さ、冴……? いつの間に、こんなに力が、強くなったの……?」
「…………」
兄の問いに、しかし少女は答えない。
ただ、無言のうちに、剣をアスファルトから引き抜いた。
「……冴?」
痛みにあえぎながら、妹の後ろ姿に声をかける兄。
「……えへへ」
小さく笑った妹が、くるりと振り返った時、彼は悲鳴を上げそうになった。
暗闇の中、少女の両の瞳が、妖しい紅い光を放っている。
「さっ、冴ッ!?」
「……わかっちゃった」
「えっ、な、何が!? どうしちゃったんだい、冴ッ!?」
「あたし、わかっちゃった、お兄ちゃん」
ぞわり、と兄の全身が総毛立った。
――いま、妹は何と言った?
「『お兄、ちゃん』……?」
信じられないものを見るような目で、兄は妹を見つめ、おののく。
「ちょっと散歩してくる。先に帰ってて、お兄ちゃん」
そんな兄をよそに、くるりと背を向ける少女。
「ちょっ、ちょっと待っ――」
呼びとめる兄の声は、びゅごぅ、と風を切り裂く音にかき消された。
剣を手にした少女が、一陣の風のように、猛烈な速さで走り出した。
恐ろしいほどの身体能力。瞬きほどの時間で一区画を駆け抜け、身をかがめたかと思うと、たんったんっと道路からブロック塀へ、ブロック塀から民家の屋根へ飛び移る。
まるで、漫画に出てくる忍者のような動き。
おおよそ、女子中学生――いや、人間にできる動きとは思えなかった。
「…………」
呆気に取られる兄をよそに、少女はそのまま、夜の闇の向こうへと消えていった――
†††
都市部から距離を取った、とある山間部で。
新月の夜。本来ならば星明かりのみが支配する暗闇の世界。
しかし、古びた民家が、田畑が、枯れ木の山肌が。
煌々と真っ赤に照らし出されている。
――屹立する巨大な光の柱によって。
畑の真ん中、ごうごうと篝火が燃え盛るかのように、赤い光が渦を巻いていた。高さは少なく見積もっても百メートル、幅は数十メートルもある円筒形だ。形が固定された竜巻のようにも見える。
しかしその圧倒的な存在感とは裏腹に、柱は一切音を立てることなく、ただただ静かに四方八方へ赤い光を投げかけていた。見れば見るほど違和感のある光景だろう。田畑が広がり家屋の建ち並ぶ田舎町に、不吉な赤い光の柱が傲然と佇んでいるのだから。
尤も、その光景を目にしているのは、数羽の鴉と、山間部に潜む夜行性の動物たちだけだったが――冷たい冬の風が吹き荒む中で、ただ寡黙に、柱は存在し続けている。
――と。
光の中、柱の根元付近に、小さな黒い影が浮かび上がる。
柱に比すると、あまりに小さい。人型をしているが、背丈はせいぜい小学生ほどだ。頭が大きく、手足が長く、そのシルエットは『人間』と考えるとあまりに歪だった。
ヒョコヒョコとどこかひょうきんな動きで、影はゆっくりと着実に歩いてくる。
やがて、それは柱の光の中から、姿を現した。
「ギィッ……」
ぎょろりとした黄色い瞳、緑色の肌、口の端から飛び出た犬歯。前傾気味の猫背な身体を粗末な衣で包み、その手にはトゲ付きの棍棒を握っている。
あるいは、ファンタジー小説やゲームを好む者なら、『彼』のことをこう呼んでいたかも知れない。
――小鬼と。
柱の放つ光と、闇夜の暗さの差に目を白黒させながらも、ゴブリンはきょろきょろと周囲を見回し、やがて「ギギィ」と耳障りな唸り声を上げて柱の中へと戻っていった。
それから数分ほど。
再び柱に浮かび上がる影。ぽつぽつと、小さく歪なシルエットが増えていく。
増えていく。
果たして、数十を超えるゴブリンたちがぞろぞろと柱から出てきた。棍棒を、手斧を、錆付いた槍を、長剣を、それぞれの手に握り締めて――
しばらく恐る恐るといった様子で周囲を見回していた彼らだったが、やがて近くに危険な存在がいないことを悟り、「ギギッ!」「ギイイッッ!」と歓喜の雄叫びを上げる。
「オンッ、オンオンッ!」
と、そのとき、鉄を引っかくようなゴブリンたちの雄叫びに吠え声。
見れば、民家の軒先で鎖につながれた犬が威勢よく吠え掛かってきている。ぎらりと目を光らせたゴブリンたちは、武器を振り上げて我先にと犬の元へ殺到した。
本能的に命の危機を感じ、怯えた犬が小屋に引っ込むがもう遅い。難なく民家の柵を乗り越えたゴブリンたちが小屋から犬を引きずり出し、その手の棍棒で寄ってたかってタコ殴りにする。そして息の根を止めたかさえ確認せずに、そのまま鋭い歯を剥き出しにして食らいついた。
バリバリ、ガリガリ、グチャクチャ、ペチャペチャと肉を咀嚼する音が響く。あっという間に犬は骨と皮を残すだけとなり、何匹かのゴブリンが不満げな声を上げた。
そう、足りるわけがないのだ。この頭数に対して、これっぽっちでは。
すんすん、と鼻を鳴らしたゴブリンの一匹が、食べ物の匂いを感知して民家へと押し入っていく。それを見た他の個体も、庭のガラス窓を叩き割り、扉をこじ開け、好き勝手に家主のいない家を漁り始めた。
さらに、一匹のゴブリンが仲間に騒がしく何かを告げ、光の柱へと戻っていく。
そしてしばらく時間が過ぎた後、光の中に再びぽつぽつと影が浮かび上がった。
ギャアギャア、ギィギィと騒がしい声。
先ほど戻った個体を先頭に、続々と姿を現すゴブリンの群れ。
あっという間に百に近い数まで膨れ上がったゴブリンたちは、そのまま好き勝手に散らばり、食料を求めて周囲を探り始めた――
時は流れる。全ての者に、平等に。
――そして、一夜が明けた。