3.悪夢
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――そうですね、日常生活には、支障は出ないでしょう――
カルテの束をめくりながら、中年の眼鏡の男は言った。
しかし、と申し訳なさそうな顔で、彼は言葉を続ける。
――正直なところ、アスリートとしては厳しいものがあります――
すっ、とレントゲン写真を指さして見せる。
白く浮かび上がって見える、右脚の骨。
そこに幾重にも絡みつく、呪いの鎖のような、ワイヤーの束。
――おそらくですが、もう――
やめてくれ。
――もう、以前のように走るのは、難しいかと――
やめてくれよ。
――目の前が、真っ暗になった。
†††
がくん、がくんと。
揺れている。世界が、揺さぶられている。
「ぐっ、……ぅ……」
三半規管をシェイクされる気持ち悪さに、望月は呻き声を上げた。
体中が痛い。そして異様にだるかった。意識が、記憶が、あやふやで判然としない――自分が何処にいるのか、何故体が痛いのか、わからない。思い出せない。
疲れていた。きつかった。このまま再び、眠りに落ちてしまいたい。泥のような無意識の海に、何も考えずに沈んでいきたい――
「――ッ! ――ねぇ――!! おき――たら――! ねぇ――!!」
しかし、断続的に与えられる不快な揺れと、耳をつんざく甲高い声が、望月に休息を許さなかった。
強制される。意識の覚醒を――
「――ねえ! ねえってば! 起きてよ、起きてよぉ!! ねえったらぁ!!」
本格的に活動を再開した聴覚が、悲痛な少女の叫びを捉える。
うるさい。脳髄にキンキンと響く声だ。ただでさえ頭部が、じくじくと熱を帯びた痛みに苛まれているというのに。
がくんがくんと、自分が揺れているのがわかる。いや、揺れているというよりも、揺さぶられているのか。下手人は考えるまでもない、この声の主だろう。
「……やめろ。……、揺さぶるな」
呻くようにして、何とか声を絞り出す。老人のようなかすれた声が出た。さらに喉が異常にむず痒くなり、ケホケホッと咳き込む。肺の奥から血の匂い。呼吸をするたびに胸が痛んだ。
「気がついたの!?」
揺れが一瞬止まり、目の前で嬉しそうな声がする。
が、安心したのも束の間、続いて「よかったーッ!」と無邪気な快哉が聞こえたかと思うと、あろうことか、再びガクガクと体が細かく揺さぶられ始めた。
イラッ、と望月の苛立ちが、瞬間的にメーターを振り切った。
「揺さぶるなッつってんだろうが……! 傷に響くんだよ……ッ!」
胸の痛みのせいでそれほど声量は出なかったが、望月の苛立ちが滲み出る、ドスの利いた声が響いた。
ひっ、と少女が息を飲む気配。望月はゲホッ、ともう一度咳き込んでから、ゆっくりと上体を起こす。
ぱちぱちと目を瞬いたが、何も見えないままだ。どうやら完全な暗闇らしい。
全身の痛みにもう一度呻いてから、望月は改めて眼前の気配に向き直った。
「……いいか。応急処置の知識がないなら、怪我人には余程のことがない限り触るな。特に意識がないヤツを揺さぶるなんざ論外だ。下手すると容態が悪化して、最悪死ぬかもしれないんだぞ」
痛みのせいもあり、低く恫喝するような声が出る。
「……え、だって、……ご、ごめん、なさぃ……」
今にも泣き出しそうな、気の毒なほど萎縮してしまった声。それを聞いて望月は、「ちょっと乱暴に言いすぎた」と反省した。
「すまん、ちょっと言い方キツかった。……基本的には、倒れて呼吸しにくそうだったら、ちょっと体勢を変えて楽に息できるようにしてやる、くらいがベターだ。次の機会、――『次の機会』なんざ無いに限るが――、気をつけたらいいさ」
「……うん」
しゅん、と元気のない少女の声。
頷いた望月は、これ以上何か言うこともあるまいと判断し、
「ところで、随分と暗いな。何も見えん」
話題を変えた。
「うん……停電しちゃったみたいで、本当に暗いの。月も出てないし……」
沈んだ声のまま、少女がガサゴソと何かをあさる音。
突然、パッと白の光が視界を塗りつぶし、その眩しさに望月は目を細めた。
「ごめんなさい、わたしスマホ失くしちゃったから……コレ、お兄さんの借りたの」
画面が発する薄明かりの中、申し訳なさそうな顔で少女が差し出すスマホは、確かに望月のものだった。
「気にすんな。緊急事態だから、な……」
少女からスマホを受け取り、それを松明のように掲げて周囲を照らす。
薄明かりに慣れた目に、最初に飛び込んできたのは、頭上からぶら下がる電車の座席だった。
「こりゃあ見事に横転してんな」
望月が横たわっていたのは、元々電車の天井だったところで、ちょうど車両の真ん中あたりだった。周囲には砕け散った窓ガラスの破片と、ちぎれた紙の広告が散乱している。
右手側を光で照らすと、連結部のドア越しに、同じように横転した車両が見える。左手側には――
「こりゃあ……見事に、ブッ潰れてんな……」
連結部のドア――今いる三両目と、二両目をつなぐ部分――は、ガラスが完全に粉砕されており、そしてそこからぐしゃぐしゃに歪んで潰れた二両目の内部が、かろうじて見えていた。
フレームがよじれて、かなり体積を減じてしまっている二両目。わずかに、生存可能な空間が残っているようにも見えるが、衝突時そこにいたらどうなっていたかは、想像に難くない。
ましてや、あのまま一両目に留まっていたならば――
「あの……」
この規模の事故で大した怪我もなく、よく生き残ったものだ、と望月が感慨深げにしていると、目の前で体操座りをしていた少女が、控え目に声をかけてきた。
「ん? どうした」
「あの、……助けてくれて、ありがとうございました」
居住まいを正し、かしこまった様子で、少女がぺこりと頭を下げる。
「…………」
一瞬、呆気に取られる望月。
ケバい恰好で、取り乱しているか、泣き喚いているか、ガクガクと自分を揺さぶる姿しか見たことのなかった少女。そんな彼女が、思いの外しっかりとした態度でお礼を言ってきたので、咄嗟に言葉を返せなかった。
「……いや、まあ。どういたしまして」
ひらひらと手を振りながら、肩をすくめる。当然のこと、というよりも、望月は自分にできる最善のことをしたまでだった。二人とも大した怪我もなかったのは、単に運が良かっただけのこと。
気恥ずかしげに視線を逸らした望月を、少女はただ、照れたように笑って見ていた。
「それにしても、随分と酷い事故になっちまったな。……駅員とか警察とかは、いないのか? 出来ればとっとと病院に行きたいんだが」
気恥ずかしさを隠す話題転換。生き延びた、という安心感が、望月の口調を軽くした。
「……それが、」
が、望月の言葉に一転、少女の表情がどんよりと曇る。
ここに至って望月は、そもそもの事故の原因――乗客が自分たち以外消えてしまった、という事態を思い出す。今まできれいさっぱり意識から抜け落ちていたのは、頭を強打したことによる記憶障害か、あるいは、――ただの現実逃避か。
「……まだ来てねえの?」
不安げな望月の言葉に、多少の願望が含まれていたことは、否定できない。
「その、借りたケータイで、110番も119番もかけた、んですけど……」
敬語のまま、歯切れの悪い少女。
「……まさか、誰も出ません、とか言わないよな?」
「うん。誰も出ません……」
「そ、そうか……」
望月は、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
最寄りの交番に電話をかけた、というのならともかく、110番と119番にかけて『誰も出ない』というのは、本来あり得ないことだ。
――オペレータ全員が、消えでもしない限り。
「ちょっと俺もかけてみるわ」
スマホを右手に持ち直し、110番をプッシュしようとする望月。
「あ、でも多分ダメ――」
少女が全てを言い終える前に、画面を見て望月も悟った。
「――『圏外』になってる……な……」
出る出ないの問題以前に、そもそも発信すらできないという事実。
「…………」
二人の間に、重い沈黙が降りてくる。
「……もしかして、わたしたち以外の人が、全部、消えてたり、とか……」
少女の呟きが、尻すぼみになって、消えていった。
「うーん……」
スマホを手の中で弄びながら、肯定でも否定でもない唸り声をひとつ。望月はじくじくと痛むたんこぶを撫でながら、天を仰いだ。
世界中の人間の、消失。
この状況からは、その可能性も、否定はできなかった。原因はサッパリだが。
「っう……ひぅ……」
暗闇の中、押し殺したような少女の嗚咽。またグズり始めているらしい。
この娘よく泣くな、と思った望月だが、それも仕方のないことだとすぐに考え直した。見た目はケバくても、おそらく自分よりかなり幼い。そして一人で電車に乗っていた望月とは違い、この少女は姉と同乗していたのだという。
目の前で家族が消えたのだ。まだイマイチ現実感のない、夢を見ているような気分の望月よりは、生々しい恐怖があるのだろう――
「ひっ……えっ、ぐ……。うぅ……」
――それにしても、目の前で女の子にさめざめと泣かれるのは、あまり気分の良いものではない。
「……なぁ。お前、名前は?」
「ぅえ?」
唐突な望月の問いかけに、少女が妙な声を上げる。
「……。小牧。小牧怜奈、……です」
しばらくの、呆気に取られていたような沈黙ののち、少女は『小牧』と名乗った。
「そうか。俺は望月。望月望。こんな状況で言うのも何だが、よろしくな」
「えっ、あっ、はい……」
突然の自己紹介タイムに、小牧は混乱しているようだった。
「…………」
沈黙。そこから話が続かない。普段の望月なら何か話せるはずだったが、話題が見つからなかった。
(……ま、この状況下じゃ、話の弾ませようもないわな……)
小さく肩をすくめた。不意を突いて泣き止ませただけ、それでよしとする。開き直った望月は、手の中のスマホに目を落とした。
『圏外』の表示は相変わらず。念のため、電波の設定も確認してみたが、やはり回線そのものが死んでいるようだった。当たり前だがネットも繋がらず、駅のフリーwifiなども飛んでいない。
そして、何とはなしに着信履歴を見て、三十分ほど前に『佐京 悠介』からの着信があり、留守電が残されていることに気付いた。すぐに再生。
『――もしもし。佐京だけど、……こんな夜遅くに電話をかけてすまないね。とりあえず、何というべきかな。家族が急にいなくなっちゃってね……ちょっと動転していた。また今度掛け直すよ。それじゃ』
音声はここで終わっていた。留守電のデータを改めて保存しつつ、望月は「うーむ」と神妙な顔で唸る。
「何か、あったんですか?」
望月の雰囲気の変化を感じたらしく、小牧が控え目に尋ねてきた。
「友達の留守電が入ってた。ソイツも『家族が消えた』らしい」
「……え、それって!」
「ああ。少なくとも、ソイツは『消えてない』ってことだ」
小牧に着信履歴を見せつつ、笑みを浮かべる望月。『圏外』なせいで折り返し電話をかけられないのは残念だが、自分たち以外にも人はいる、とわかっただけでも僥倖だろう。
「さーて……。いつまでも、こんなトコに引き籠ってても埒が明かねえ。暗すぎるのが難ありだが、ちょっくら動いてみるか」
「えっ、外に出るんですかっ!?」
「おう」
満身創痍でありながらもアクティブな望月に、動揺した小牧の声が裏返る。
「う、動けるんですか?」
「動けないほどのケガはしてないな」
メッチャ痛いけど、と心の中で付け足しながら、望月はよろよろと立ち上がった。
「……。やっぱジッとしといた方がよくないですか……?」
壁に手を突いて何とかなっている、という状態の望月を見て、小牧が心配げな顔をする。
「正直、そうしたいのは山々なんだが……こうもガラスが散らばってたらなぁ。オチオチ横にもなれねえ」
細かく砕け散ったガラス片が、靴底に擦れてジャリッと音を立てた。
それもそうですね、と納得した小牧に肩を貸してもらいつつ、スマホのライトを頼りに車外へと脱出する。
外は本当に真っ暗だった。スマホ以外に何か光源が欲しいところ。
とりあえず望月は、駅のホームに上がることにした。静まり返った駅からは、自分たち以外に人の気配が感じられない。痛む体に鞭打って、何とかホームに体を引きずり上げ、駅の中へ。駅員の休憩所のような場所に押し入る。
「あ~……。畳だ……」
靴を脱ぐことすらせずに、入り口から畳の上に倒れ伏す望月。その横で、ブーツを脱いだ小牧がいそいそと部屋に上がり込んでいく。
「ここなら何か見つかるかも……あ、望月さん、ケータイ借りますね」
「おう、頼む……」
小牧にケータイを渡し、自分は目を閉じて体から力を抜いた。
がさごそ、と部屋をあさる音。時折「う~」だとか「ぬぅ~!」だとか、小牧の唸り声が聞こえる。
その間、望月は畳の匂いに包まれて、鈍い痛みと平穏の中、ふわふわとまどろんでいた。
「あ、懐中電灯みっけ!」
どれほど時間が経っただろうか、数十秒、あるいは数分。明るい小牧の声と同時に、まぶたの裏側が少し明るくなった。
ぱち、と薄眼を開けると、眩しい光がこちらを向いている。
「……眩しいんだが」
「あっごめんなさい!」
控え目な望月の抗議に、小牧は慌てて懐中電灯を逸らす。
「これで探し物がやりやすくなるね!」
うきうきとした様子の小牧。その挙動は、どこか意識的にはしゃいでいるようにも見える。薄明かりの中、小牧の後ろ姿とふりふり揺れる尻をぼんやり眺めながら、無理をしているのかな、と望月はただそれだけを思った。
やがて、一分としないうちに、小牧が棚から応急箱や包帯を見つけ出してくる。
「よっこら、せっ、と……」
気合いを入れて上体を起こす。正直なところ、このままずっと畳に寝転がっていたかったのだが、傷が化膿すると困るので最低限の処置はしておかねばならない。
「……悪い。ちょっと上着脱ぐの、手伝ってくれないか」
ジャケットを脱ごうと、数十秒もぞもぞ格闘して、望月は諦める。左腕が思うように動かなかった。肩に痛みと、違和感がある。
小牧の手を借りて、ガラスの破片でぼろぼろになったジャケットを脱ぎ、続いて長袖のシャツを引き剥がすようにして脱ぎ去る。
「くっ……」
食いしばった望月の歯の隙間から、呻きが漏れる。乾いてシャツにくっ付いていた血が、べりべりと剥がされた。肩の傷口が燃えるように痛む。
「わっ、ヒドい……」
懐中電灯で肩の傷を照らした小牧が、思わず、といった様子で声を上げた。横目で傷に目をやった望月も、「うへぇ」という表情になる。
左肩の皮膚が、ごっそりとこそぎ取られていた。懐中電灯に照らされて、滲み出る血液とリンパ液がてらてらと光って見える。皮膚をやられただけで傷そのものは深くはないが、おそらく打撲もしているだろう。
望月はじくじくと痛む傷口から目を逸らし、顔をしかめた。今までは我慢できていたというのに、実際に『痛そうな傷口』を見ると、本当に痛みが酷くなるのだから不思議なものだ。
とはいえ、ここまでは前座。本当に『痛い』のはこれからだ。
「……あの、消毒……しても大丈夫、ですか。コレ……」
「ああ。ひと思いにやってくれ」
心配げな小牧に、げっそりとした表情で望月はそう答えた。
畳の上に懐中電灯を立てて置き、その上に透明なコップをかぶせて即席のランプにする。小牧がカチャカチャとピンセットで脱脂綿をつまみ、消毒液を染み込ませた。
「じゃあ、いきますよ?」
「おう」
小牧が脱脂綿でぽんぽんと、望月の肩の傷を消毒していく。顔を強張らせた望月はその間、脳内で柵を飛び越える羊を数え、何とかノーリアクションで痛みに耐えた。
「えっと。一応終わった、かな……?」
「……ふぅ。サンクス。んじゃ包帯巻くか」
小牧に手伝ってもらいつつ包帯を巻き、とりあえず肩の傷の処置は完了。
続いて、顔やら手足の擦り傷切り傷を大まかに消毒し、包帯を巻いて望月の応急手当ては終わった。
その次は小牧の番だ。望月が引きずったときにできた膝の擦り傷や、細かい切り傷を手当てしていく。
「でも、こうしてみると、わたし全然ケガしてない……」
絆創膏を貼った膝の擦り傷を眺めながら、小牧が独り言のように小さく呟いた。
「運が良かったんだな」
自分の傷をチェックしていた望月は、小牧の方を見ることもなく、素っ気なく答える。
「……、……」
そんな望月の方を向き、小牧は何かを言おうとして、結局、何も言えずに口をつぐんだ。
薄明かりの中、傷だらけの裸の上体を晒している望月。包帯の隙間から、程よく鍛えられた背中の筋肉が、しなやかに動く様がよく見て取れた。
斜め後ろから、小牧は、望月の顔を見つめる。
冬の夜。暖房のない室内の空気は、それなりに肌寒い。寒さに加えて傷の痛みもあるだろうに、しかし、そんな苦痛の色は一切気取らせない、強く精悍な、男の顔。
「……ん? どうした?」
じぃっとこちらを見つめる小牧の視線に気づき、望月が声をかける。
「えっ。ぇえっと、その」
その声に、初めて自分が望月の顔に見惚れていたことに気付く。狼狽した小牧はしばし目を泳がせ、
「な、なんか、望月さんの顔に見覚えがあるなぁ~、って。それで、ちょっと見てたんです」
嘘ではなかった。傷の手当てで、顔を至近距離から見たときは何とも思わなかったのだが、斜め後ろの角度から見た望月の顔は、何か記憶に引っ掛かるものがあったのだ。いつ、どこで見たのかは、思い出せなかったが。
「……そっか」
素っ気なくそう答えた望月は、興味を失ったかのように小牧から視線を逸らした。
そのまま望月は傍に置いてあったシャツを手に取り、着ようと試みるが、左腕が動かず上手くいかない。いそいそと近寄った小牧が、それを手伝う。
「すまん、助かる」
「いえいえ」
申し訳なさそうな顔の望月に革ジャンを着せてあげながら、何だか新婚さんみたい、と小牧はそんなことを思った。
「……しかし、こうしてみると酷ェ格好だなこりゃ」
すっかり擦り切れてボロボロになってしまった革ジャンを撫でながら、望月がぼやくようにして言う。全体的にダメージファッションになってしまった望月は、茶髪やピアスも相まって、どことなく世紀末な雰囲気を漂わせている。
「仕方ないですよ、あんなコトがあったんだから……それに、わたしだって」
擦り切れだらけのスカートを撫でながら、小牧が苦笑いした。それに釣られるようにして、望月も小さく笑う。
「……さて」
ひとしきり笑ったあとで、真面目な顔を作った望月は、小牧に向き直った。
「それで、どうしようか。これから」
望月の言葉に、小牧の表情が暗く沈む。
「…………。どうしたら、いいんだろ」
うつむいた小牧は、手の爪を見ながら、ぽつりと呟いた。
実際のところ、この状況下で何をどうしたらいいのか、望月も見当がつかない。
(『どうしたらいいか』、というよりも、『俺はどうしたいか』、だな)
顎に手を当てて、望月は思考を切り替える。
真っ先に思い浮かんだのは、家族の安否の確認だ。そして次に思い浮かんだのが、佐京の顔。先ほどの留守電を思い出す。
しばらくして、望月は考えをまとめた。
「とりあえず、家族がどうなってるかも心配だし、さっき電話くれてた友達の様子も見に行きたいな、俺は」
「……それって、……どうするんですか?」
「とりあえず、今は動かない。移動するには暗すぎて危ないし、正直もうちょっと休みたい。動くとしたら、夜が明けて明るくなってからだな」
つまり、夜が明けるまでは待機、という結論。
「……じゃあ、わたしもそうします」
小牧はそう答えて、畳の上、体操座りのように膝を抱えた。
しばし、先ほどのように、沈黙が降りる。
壁に背を預けるようにして、望月は畳の上に座り直した。しんしんと冷える冬の空気に、冷たくなった足を手の平で擦る。望月は動かない頭上のエアコンを見上げて、小さく溜息をついた。
「寒くないか?」
「……正直、ちょっと」
「なんか、膝掛けみたいなもんはないのかな、っと」
「あっいいですよ、わたしが探しますから!」
よっこらせっと気合を入れて立ち上がろうとする望月を、小牧が慌てて押しとどめる。
立ち上がった小牧が、がらり、と入り口右手の引き戸を開けると、それは呆気なく見つかった。
「あ、お布団ありますよ!」
「おっ、それは助かるな!」
夜が明けるまで、暖房なしの部屋で畳の上にゴロ寝はキツい。布団が見つかったのは僥倖だった。布団を抱えた小牧が、笑顔で部屋の真ん中にそれを敷こうとする。
そして、動きを止めた。
「…………」
笑顔のまま固まっている小牧を、怪訝な顔で見ていた望月だが、すぐに気付く。
布団が、ひと組しかない。
「…………」
どちらからともなく視線を絡ませ、すぐに逸らした。
「……まあ、アレだ。俺はあんま寒くねえから、小牧ちゃんが使うといい」
「なっなに言ってるんですか、大怪我してるのに! 望月さんが休むべきですよ!」
「大丈夫だって、大怪我ってほどじゃねえし。それにホラ、革ジャンって暖かいんだ」
「そういう問題じゃありません! 第一、寒いって言い出したの望月さんが先じゃないですか!」
「いや、しかし、なあ」
望月は渋面を作った。寒いし、身体の節々が痛むのも確かだ。が、女の子は放っておいて、自分だけ布団の中でぬくぬくと過ごすなど、男としての矜持に反する。
「小牧ちゃんが」
「いえいえ望月さんが」
「いやいや小牧ちゃんが」
「いーえ望月さんが!」
しばし、望月と小牧の間で譲り合いが続いた。
「……ああ、んもうッ!」
敷かれた布団を挟んで延々と続く、不毛な言い合いに先に業を煮やしたのは、小牧の方だった。
「わかりましたっ、こうなったらもう、二人で一緒に寝ましょう!」
バシバシと枕を叩きながら、心なしか顔を赤くして、口角泡を飛ばす勢いで小牧が言う。それに対して、ふむ、と望月は顎を撫でた。
「小牧ちゃんがそれでいいなら、そうしようか」
交代で眠る、という手もあったが、それだと体が休まらない。小牧に言われるまでもなく、一緒に布団を使うのが一番合理的だということは、望月にも分かっていた。それでも望月の方から言わなかったのは、単に遠慮してのことだった。
「えっ」
照れも逡巡もなしに首肯した望月に、提案した小牧が逆に焦りを見せる。ここで躊躇うと話がこじれるのが目に見えていたので、硬直している小牧の代わりに、望月は淡々と布団を整えた。ついでに、戸棚からタオルを取ってきて、それを丸め枕の代わりとする。
「俺はこのタオル使うから、枕は小牧ちゃんが使ってくれ」
「え……あ、はい……」
さっさと敷布団に寝転がり、早くも目を閉じて眠る態勢の望月。やや呆然としつつも、小牧もおずおずと、望月の隣で横になる。
「明かりはどうする?」
「あ……えっと、消しといた方が良い、ですよね? 電池、切れちゃうから……」
「OK、じゃあ消しとこう」
布団から手を伸ばし、懐中電灯のスイッチを切る。部屋が暗闇で包まれた。
ふぁさり、と布団をかぶり、望月はほぅっと小さく溜息をついた。柔らかい布団の感触が心地よい。すぐ隣にいる小牧の体温の御蔭で、かなり暖かく感じる。
「……っ!」
肩の力が抜けてリラックスしている望月とは対照的に、小牧はガチガチに固まっているようだった。暗闇の中でも、押し殺したような息遣いから、小牧の緊張感が手に取るようにわかる。
(まあ、まだ中学生くらいだしな)
妙にマセてるよりは可愛いか、と少し微笑ましい気分になりながら、望月はそんなことを考えた。
実際のところ、望月は出るところが出ているグラマラスでセクシーな女性が好みなので、『小牧怜奈』という少女は完全に性の対象外だ。望月本人が小牧と同年代であれば、話は別だったであろうが。
(佐京じゃあるまいし)
俺にロリコンの趣味はないね、と、心の中で友人をばっさり切って捨てる望月。
とはいえ、このままでは小牧が緊張して休めそうにない。望月としては何とか安心させてあげたいところだったが、まさか「小牧ちゃんじゃ欲情しないから安心してくれ」などと言うわけにもいかない。
(とっとと寝るか)
自分が熟睡してしまえば安心できるだろう、と結論を出し、望月はさっさと眠ってしまうことにした。
数分とせず、望月は深い眠りに落ちていき、すやすやと規則正しく寝息を立て始める。
「……ホントに寝ちゃった」
その隣、縮こまっていた小牧は、体の力を抜いて拍子抜けしたように小さく呟いた。
いや、分かってはいたのだ。そもそも望月は怪我人だし、いやらしいことをしたりされたり、といった雰囲気ではないということは。
しかし、緊張するな、といわれても無理な話だ。異性との交遊といえば、(幼稚園時代のほっぺのチューを除いて)手を握ったことぐらいしかない小牧からすれば、『年上の男子と同衾する』などという事態は、人生の中でも指折りのビッグイベントであった。結局、何の間違いも起きなかったが。
布団の中、望月を起こさないように小さく身じろぎした小牧は、ぺたりと自分の頬に手を添えた。
「お化粧、落としたかったな……」
何だか肌がべとべとして、気持ちが悪い。小牧はほぅっと嘆息した。
今日に限って、濃い目の派手な化粧だ。中学二年生、どちらかといえば『不真面目な学生』タイプの小牧だったが、普段は化粧などしない。今日――午前零時を回ったので、正確には昨日――の夕方から、姉の夜遊びに連れ出され、着せ替え人形のように派手に飾りつけられただけだった。
「……お姉ちゃん」
小牧の胸の奥が、きぅっと引きつるように痛んだ。
姉が消えてしまった、という事実を、恐怖と共に改めて思い出す。姉だけではなく、他の乗客も、駅員も消えてしまった。110番と119番にも、誰も出てこなかった。望月いわく、彼の友人の一人は『消えていない』そうだが、自分の家族はどうだろうか。友達はどうだろうか。
怖い。
布団の中でぶるりと身を震わせる。くすん、と鼻を鳴らした小牧は、何とはなしに、部屋の隅の窓へと視線を向けた。
休憩室の窓からは、寝転がっていると、満天の星がよく見えた。
新月の夜。うっすらと赤く染まる夜空には、星々の煌めきがよく映える。人工の光のない世界では、星はいつもより美しく、いきいきと輝いているように見えた。
「……。えッ」
ぼんやりと虚ろな表情で空を眺めていた小牧だが、唐突に『それ』に気付き、思わず上体を起こしかける。
空が赤い。
大規模な停電で光を奪われたはずの世界で、しかし、空の色が赤いのだ。
「……何あれ」
疑問が口を突いて出る。不気味な色だった。どこか不吉で、胸の奥がざわざわするような、そんな色。
一瞬、望月を起こそうかとも考えた小牧だったが、特に緊急性も無い、この程度のことで休息を邪魔するのは、憚られた。
「何だろう……」
小牧はただ、不安げな表情で、窓の外を見つめることしかできなかった。