2.喪失
=福岡県北部=住宅街=民家の一室=
こくり、こくりと。
勉強机に向かった少年が、船をこいでいる。
「……、……、……ッ、……グゥ」
カク、カクン、カックン、ガックンと首の動きが段々とアクロバティックになっていく中、小さなイビキまでもが聴こえてきた。少年の右手のシャーペンは、もはやノートにミミズのような紋様を描くのみ。左手の数学の参考書も閉じてしまっている。
完全に、勉強中に意識を刈り取られたパターンだった。
危ういバランスで成り立つ首の動き。しかし、均衡はいつしか破られるもの――
「……、……。ふがッ!」
ガクンッ! と首が勢いよく傾き、少年は妙な声を上げてビクンと体を震わせた。
「はっ。……いかん、眠っていた」
目を瞬かせて口元のよだれを拭い、少年はくいっと眼鏡のズレを直す。
机の右端に置いた腕時計に視線をやり、時間を確認した。
「……まだ十二時か。おかしいな。今日はそんなに疲れてないんだけど」
伸びをしつつも、訝しげな顔。居眠りをしてしまったのが信じられない、といった様子で、少年はぺたりと自分の頬を撫でた。
高校三年生の冬。受験生は追い込みの季節だ。少年――佐京悠介もまた例外でなく、来たるセンター試験に備え、自室で勉強に打ち込んでいたのであった。
『真面目』。
佐京悠介という少年のぱっと見の印象を、一言で表せばそうなるだろう。
平均的な身長、筋肉に乏しい体。校則に則った坊ちゃん系ヘアスタイル。見るからに『堅物』という印象を与える、野暮ったい黒縁の眼鏡。レンズの奥の瞳は常時ジト目で、黙っていれば気難しい学者か何かのように見える。
佐京を紹介すれば、初対面の者は十中八九『真面目、融通が利かない、ガリ勉、堅物』などといった単語を連想するはずだ。
しかし、実際のところ、彼はそんな人間ではない。
流石にここしばらくは受験ということもあって、勉強は割と真面目にするし、成績も良い方ではある。だが性根は少々捻くれており、言動も少しばかり――風変わりだ。さらに授業をサボる、課題はやらない、特技は一夜漬けと、往年の行いだけを抽出すればどちらかというと真面目系クズと言えるだろう。
そしてなにより、
「はぁ。中途半端な居眠りのせいで、学習意欲が削がれてしまった――」
虚脱した表情のまま、佐京は呟く。
「――こうなれば、妹の可愛い寝顔でも眺めて、英気を養う他あるまい」
にへら、とだらしなく顔面を崩壊させ、席を立つ。
彼は、重度のシスコンであった。
佐京には、奈々という名前の、ひとりの妹がいる。小学校五年生の十一歳。お人形のように整った顔にさらさらのお御髪、保護欲を掻きたてる華奢な体つきで、街を歩けばモデルや子役としてスカウトがかかるほどに愛らしい少女だ。
妹を紹介すると大抵「似てないね!」と言われるが、佐京は気にしない。むしろ中途半端に自分に――両親に似なくて良かったと思っているぐらいだ。自分の容姿などどうでもよくなるほど、奈々は自慢の妹だった。
赤の他人から見れば、妹を可愛がる佐京はデレデレし過ぎて気持ちの悪い存在だが、当の奈々は佐京によく懐いており、兄妹仲は至って良好だ。
「突撃お部屋訪問……ッッ!」
にやにやと変質者のような笑みを浮かべ、佐京は音を立てないように廊下に出る。
奈々の部屋は、廊下を挟んで佐京の部屋の反対側だ。
愛しの妹の安眠妨害にならぬよう、廊下の明かりを消した佐京は、そっとドアノブに手をかけた。少しだけ開いたドアの隙間に体を滑り込ませ、室内の空気を乱すことなく、奈々の部屋へ侵入を果たす。まるで一流の暗殺者のような、洗練された身のこなし。部屋に入るや否や、佐京は音もなく床に這いつくばった。
(床の軋みさえ許さぬ絶技――刮目せよ!)
ふっ、とひとりドヤ顔を浮かべ、そのままある種の虫を連想させる動きで、カサカサとベッドに近づいていく。
数秒とせず、ベッドサイド、枕元に到着。
(さて、それでは寝顔を拝見……!)
ごろりと床の上で仰向けになり、腹筋の力でゆらりと上体を起こす。
満面の笑みを浮かべた佐京が、ベッドを見やると――
――もぬけの殻であった。
「…………」
すっ、と佐京の顔から表情が抜け落ちる。
(……。いや待て、これはおかしい)
しばし呆然としていた佐京だったが、すぐに怪訝な顔をする。
妹は何処に行ったのか。
奈々はまだ小学五年生。零時過ぎともなれば、普通は眠っている。
「まだ起きてるのかね?」
明日学校だけど夜更かしして大丈夫なのだろうか、と心配しながら、佐京は隠密行動を放棄してやおら立ち上がった。
そして、気付く。
もぬけの殻だと思っていたベッド。そのシーツと掛け布団の間に、ピンク色の布地が見えていた。
ぴら、と掛け布団をめくる。
「……パジャマ?」
パジャマであった。ピンク色のコットン100%、可愛いうさぎちゃんがプリントされているそれは、間違いなく奈々の物。
「なんでパジャマだけ?」
首を傾げた佐京は、それを手に取ろうとして触れ、動きを止めた。
温かかったのだ。それは、俗に言う、『人肌の温かさ』だった。
「…………」
一時停止していた佐京だったが、数秒して、おもむろにパジャマを取り上げ、
「す――ぅ」
それに顔をうずめて香りを吸い込んだ。
「ふむ……奈々の匂いがするな……」
真面目くさって呟くが、その顔には困惑の色が浮かんでいた。
パジャマから漂う香り。そしてほのかな温かさ。これは、佐京が触れる直前まで、奈々がこのパジャマを着ていたことを示すものだった。
布団の中に手をすべり込ませてみても、人肌のぬくもりがある。
「む……これは、パジャマのズボンに……、ぱんつか……!」
ベッドの中から更に布切れを発見し、佐京の顔が驚きに染まる。
「……。温かいだと……? コレもさっきまで穿いていたのか……? いや、でも、なぜ脱いだ?」
脱いで、そしてなぜベッドの中に放置していたのか? 意味が分からない。
部屋に突撃してきた兄に逆ドッキリをしかけ、ベッドの中に身代わりの抱き枕を入れておいた――というならば、まだ理解できる。
が、人肌に温めたパジャマ一式を入れておくというのは、手間がかかる上に、佐京が襲撃してくるタイミングを完璧に予想できていなければ、意味をなさないことだ。
「……まあ、いずれにせよ一杯食わされた……のかな、これは」
奈々のぱんつを左手に握ったまま、佐京はぼりぼりと頭をかいた。そのまま部屋を出て、階段を降りていく。
「奈々ー、まだ起きてるんだろう? 今回はまた、ヘンに手の込んだことしたなぁ。お兄ちゃんイロイロとビックリしちゃったぞ」
などといいながら、リビングに入った佐京は。
「……。ん?」
動きを止める。
リビングの中には、誰もいなかった。
「あれ?」
普段ならこの時間帯は、両親がまだ起きているはずだ。しかし、明かりはついているのに、父も母も姿が見えない。
異常はそれだけではなかった。
つけっ放しのテレビ。
どうやらニュース番組らしく、スタジオが映っており、画面下部には『新型ロケット打ち上げ成功、今後の日本の宇宙開発の行方は?』というテロップが見える。
しかし、画面の中には、肝心の『人』が誰もいなかった。キャスターがいるべき場所には、洋服が何着か散らばっているだけ。カメラも動かず、音声も流れていない。
「……放送事故、か?」
ぽつり、と。
佐京はどこか空恐ろしいものを感じながら、小さく呟いた。背筋から這い上がってくる、得体の知れない感覚。だが、それが何なのかは、わからなかった。
「……奈々ーっ? 母さーん? 親父ーっ? いないの?」
声を上げるも、家はしん、と沈黙だけを返してきた。
「…………」
不気味な静けさ――
静寂の中、佐京は独り立ち尽くす。
「冗談はよしてくれよ、心臓に悪い」
喉がからからに乾いていた。冬だから、空気が乾燥しているのだろう。佐京は喉を気遣うように、そっと首に手を当てた。
「み、水でも飲むか……」
引きつった笑みを浮かべ、キッチンに入る。そしてコップを手に取ったとき、床に散らばる衣類に気がついた。
「…………」
男物のジャージの上下。女物のセーターとズボン。
恐る恐る。手を伸ばす。触れた。
「…………!」
人肌の、温かさ。
「奈々ッ! 母さん、親父ッ!! いるんだろう?! なぁ!」
たまらず、佐京は叫ぶ。
「奈々ーッ! お兄ちゃんの負けだ! もう出てきてくれよ、頼むから!」
リビングを出て、小走りで家中を駆け回る。佐京家が家族四人で暮らす一戸建ては、そう広いものではない。あっという間に捜索活動は終わった。
が、誰もいない。書斎も、両親の部屋も寝室も、トイレも風呂場も物置きも。
「よしてくれよ……、どこ行ったんだよ……」
おろおろとうろたえる佐京を、普段の飄々とした彼しか知らない者が見れば、それだけで驚いただろう。それほど、佐京は混乱していた。
「何処に……あっ、そうか、外に隠れてるのか?」
閃いた、と佐京は玄関に向かい、外へ出ようとサンダルに足を突っ込んだ。
そしてドアノブに手をかけたところで、玄関はしっかりと施錠されており、その上ドアチェーンまで掛かっていることに気付く。
密室。そんな言葉が脳裏をよぎる。
「……ま、窓から出たのか……凝った真似するな、まったく……」
ハハハ、と乾いた笑い声が空虚に響いた。チェーンを外し、鍵を開け、ドアノブをひねる。ドアを開けた瞬間、真冬の冷たい風が吹きつけてきた。
「奈々ー? ……いないのかーぁ?」
ヒュウウゥゥ……と風が唸る。ぶるりと身を震わせ、
「母さん? 親父ー?」
控え目に家族を呼ぶ。そのまま家の敷地をぐるりと一周したが、愛しの妹は何処にもいなかった。車庫には父の愛車である銀色のセダン。佐京を置いて皆が出かけている、という可能性も低そうだ。
新月の夜。住宅街は、不気味に静まり返っている。風が吹きつける玄関前で、佐京は為す術もなく立ち尽くしていた。近所の家々にも明かりは灯っているが、人が生活している気配や音、そういったものが一切、感じられない。
それは、気のせいかも知れない。佐京の感覚が、過敏になっているだけかも知れない。しかし、ぞわり、と寒さではない冷たいものが、背筋を這い上がってくる。夜の闇が、いつもより濃い。異様な雰囲気。
それ以上、外の空気に耐えられず、佐京は家の中に引っ込んだ。
乱暴に靴を脱ぎ散らかし、途方に暮れた表情のままリビングに入った。
どっか、と力尽きたようにソファに腰を下ろす。暖かいリビングに入っても、体は凍えているかのように細かく震えていた。幽鬼のように色を失った顔のまま、テレビを見やる。相変わらず画面に変化はない。一ミリたりとも、変わっていなかった。
誰もいないスタジオが映っているだけだ。
「…………」
ソファの上に転がっていたリモコンを手に取り、チャンネルを回す。
思わず、叫び出しそうになった。
ニュースなどの、生中継するタイプの番組は軒並み壊滅だった。スタジオには誰も映っておらず、カメラも動かない。その他の局は砂嵐で、壊れたテープレコーダーのように、同じVTRを延々と流し続けているチャンネルもあった。
蒸発。そんな言葉を連想した。
もしかすると世界中の人間が、自分一人を残して消えてしまったのではないか――?
「そんな、そんなことがっ」
あってたまるかッ、と吐き捨てるように言う。体の震えが、いよいよ止まらなくなってきた。頭痛を堪えるように右手で額を押さえ、佐京は重い、重い溜息をついた。
佐京悠介という人間は、人との交流を好む。
家族とのやりとり、特に妹とのスキンシップ。友人との絡み、ふざけ合い。
そういったものから生まれる、笑いや思い出、愉快な毎日を――『日常』というものを――佐京はこよなく愛していた。
そんな彼が、最も恐れるものは何か。
孤独だ。
独りが耐えられない。怖いのだ。幼い頃は、目を覚ましたら家族や友人が消え去っているのではないか、という根拠のない強迫観念に駆られ、なかなか一人で眠ることができなかった。それでよく両親に「一緒に寝て」と泣きついたものだ。
流石に小学校高学年にもなれば、そうそう非現実的なことは起きない『現実』に慣れていき、高三になった現在では、そんな不安は存在さえ意識していなかった。
しかし、今。
目を覚ましたら、家族は消えていた。テレビの中の人も。
「こんな、こんなことが、現実に――」
あっていいのか。うわごとのように呟く。
ふと。これは新手のドッキリか何かではないか、と。そんな考えが佐京の頭をよぎった。こうやって自分が途方に暮れ、怯えているところを隠しカメラで撮影し、十分に笑いが取れたところで、頃合いを見計らって奈々が『ドッキリ成功!!』と書いた板を手に現れるのだ。
そうであってくれと祈る。
しかし、もしも、奈々の部屋に潜入するところから撮影されていたならば、色々とやらかしたなと佐京は自嘲する。妹のパジャマを堪能する姿なんぞお茶の間に流された日には、流石の佐京も大手を振って外を歩けない――そして、そこまで考えてから、自分が左手に奈々のぱんつを握り締めたままであることに気付いた。
「こりゃ放送事故だな」
苦笑する。にぎにぎと綿100%の感触を堪能していると、段々と心が落ち着いてきた。そしてふと、手の中のぱんつに視線を落とした佐京は、何を思ったかおもむろにそれを頭に装備する。
「――アァ~ソイヤッソイヤッ!」
突然叫んで飛び上がり、「ウェ~イ!!」と腰を振りながら乱舞。その場でギュルギュルと回転してから、「ポゥッ!」と謎のポーズでキメる。
「…………」
しん、と家は静まり返っていた。
「…………はぁ」
両手で顔を覆い、どっかとソファに座り込む。この時点で、混乱は抜け切っていなかったが、佐京の精神状態は僅かながらに安定しつつあった。少しだけ冷えた頭で、佐京は状況を整理する。
「奈々はいない。母さんも親父も。――少なくとも、家の中にいないのは確実」
そして、とテレビを見る。誰も映っていない生中継。
「……服を残して、人類が消えてしまったのか。あるいはそういう設定のドッキリか」
ドッキリである可能性は、ゼロではない。まだ、ゼロではない。佐京はそう考えた。テレビやら何やらをいじれば、こんな映像を流すこともできる。
「……よし。とりあえず、誰かに電話してみよう」
友人に連絡を取る。これが、『本当に人が消えた』のかどうかを確かめるのに、一番手っ取り早い方法であった。
スマホは自室に置きっぱなしだったので、とりあえず二階に戻る。
「さて。となると、誰に電話をかけようか」
電話帳を開いて、リストをスライドさせながら、佐京は「うーむ」と唸った。
時刻は午前零時過ぎ。この時間に電話をかけるのは――受験前ということもあり――少々非常識だ。メールで済ましてもいいが、もし相手が寝ていたりメールに気付かなかったりした場合は、明日の朝までやきもきして返事を待たねばならない。
複数人に一斉にメールを送信すれば、返信がくる可能性はかなり高くなるが、それはそれで状況説明が面倒くさいことになる。
どうしたものか。佐京は悩む。しかしそんな折、
「……あ、いたわ、一人電話かけても迷惑にならない奴が」
電話帳のリストの中に、『迷惑にならない友人』の名を見つける。
「多分起きてるよな……不良だし」
画面には『望月 望』とあった。佐京は躊躇なく、通話ボタンを押した。
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
呼び出し音が鳴る。
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
鳴り続ける。
佐京の顔が、段々と不安の色に染まっていく。
十数秒ほど経ったであろうか。長いようで短い時間。受話器から『カチャッ』と電話に出る小さな音が聴こえ、佐京はほぅっと安堵の息を吐き出した。
「ああ、もしもし? 夜分遅くにすまないね――」
『――ただいま、電話に出ることができません。ピーッという発信音の後に――』
「…………」
ぎり、とスマホを持つ手に力が入り、フレームが軋みを上げる。
自分が衝撃を受けた、という事実に、さらに衝撃を受けた。
心のどこかで――この状況がドッキリによるものだと、佐京は決めつけていた。『電話をかけても相手が出ない』という可能性を、無意識のうちに排除して、想定していなかったのだ。そして、そのことを今になって自覚した。
『ピーッ』
録音開始の発信音が、やけに大きく聴こえた。
「……もしもし。佐京だけど、……こんな夜遅くに電話をかけてすまないね。とりあえず、何というべきかな。家族が急にいなくなっちゃってね……ちょっと動転していた。また今度掛け直すよ。それじゃ」
口早に告げて、通話を切る。
スマホを机の上に投げ出し、「はぁ~っ……」と盛大に溜息をついた。
「……フッ。まあ、まずは一人といったところか」
引きつった強がりの笑みを浮かべ、佐京は髪をかき上げる。左手で頭部の綿100%の精神安定剤を撫でながら、新たな通話相手を探すため電話帳を開いた。
「しかし、時間が、なぁ……」
誰に電話をかけたものか、と愚痴るように小さく呟く。
「まあ、もしも人が消えてるなら、いくら電話しても問題ないか……」
よしんば電話に出たとしても、謝れば済む話だ。
暗い笑みを浮かべた佐京は、しかし、電話帳の中のひとりに目を付けて「おや」という表情を浮かべた。
「……マユちゃんならイケる気がする」
天真爛漫で活発な少女の顔を思い浮かべる。
守谷真由美。近所に住んでいる、佐京の幼馴染だ。
マユと佐京は幼稚園から仲が良く、昔はよくおままごとなどをして遊んでいた。少々捻くれた佐京と超純粋でまっすぐなマユ、一周回って馬が合ったのかも知れない。高校が別々になってからは少し疎遠になってしまったが、今でも互いに『ゆーちゃん』『マユちゃん』と呼び合う仲だ(特に佐京は『マユ』としか呼んでいないので、『守谷』と言われても一瞬誰だかわからない)。
目を細めて記憶をたどると――最後に直接会ったのは、三ヶ月前の夏祭りだったか。
「確か、料理の専門学校か何かを目指してる、って言ってたよな」
大学受験ガチ勢、ではなかったはず。だからというわけではないが、少々電話をかけて勉強の邪魔をしても、怒らないでくれるだろう。そう信じたい。優しい子なので、笑って許してくれるはずだ。
「もっともこの時間だと、マユちゃんもう寝てるかもな……」
苦笑しながら、通話ボタンを押した。
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
呼び出し音。
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
なかなか出ない。佐京の緊張が高まる。
『トゥルルルル……トゥルルルル……カチャ ふぁい! もしもし!』
耳に押し当てたスマホから、間延びしたマユの声が聞こえてきたとき、佐京は盛大に安堵の息を吐き出した。
(消えてなかった。マユちゃん消えてなかったよ)
望月は、何らかの事情で電話に出られなかっただけなのだろう。やっぱりドッキリだったか、と佐京は笑みを浮かべた。
「……もしもし、マユちゃん?」
『ありぇ? ……あ、ゆーちゃんだ! 久しぶりー!』
一瞬の沈黙は、おそらくスマホの画面を見て誰からの着信か確認したのだろう。
「久しぶり。マユちゃん、今寝てた?」
『うん、寝てたー!』
佐京の問いに、明るくマユが答える。就寝中を叩き起こされたというのに、マイナスの感情が一切含まれていない、ぽやぽやとした声。ああ、いつものマユちゃんだ、と何だか涙が出てきそうな佐京であった。
「そっかーそりゃ悪かった。ごめんねマユちゃん、起こしちゃって」
『んーんー、いいよいいよ! わたし寝起きは良いから、ノーマンタイ!』
「それを言うなら無問題だよ、マユちゃん」
『細かいことはいいの! ……ところでゆーちゃん、久しぶりだけど、どしたの? こんな時間に』
「ああ、それなんだけどね」
くっくっくと、佐京は喉を鳴らして笑った。家族が姿を隠し、テレビに細工された程度で、慌てまくっていた自分が何とも滑稽に思えたからだ。
「いやーさっき居眠りから目を覚ましたらさ、家族が消えちゃって」
『消えた、って? どーゆーこと?』
「もうそのまんまだよ。多分ドッキリかイタズラだと思うんだけど」
『うん』
「僕が起きるのを見計らって、どっかに隠れちゃったみたいでさ。ご丁寧にも着てた服だけ残しといて、いかにも『消えちゃいました!』って感じを演出してるんだよ。テレビにも細工して、誰もいないスタジオの映像流したり砂嵐にしたりして……」
『ん~……?』
マユの疑問形の唸り声。おそらく口早に告げられた佐京の言葉を、ゆっくりと咀嚼しているのだろう。
『……つまり、手が込んでるんだね!』
「そうそう。流石にビックリしたよ」
『ゆーちゃんってば、見かけの割に寂しがり屋だもんね!』
「『見かけの割に』って、どういうことさ……っていうか、コレって、やっぱりドッキリなのかな。超可愛い奈々ならともかく、一般人の僕はターゲットにされる理由に心当たりがないんだけど」
『ドッキリって、……テレビ~?』
「……かなぁ? この会話も中継されてたりして」
『えー! わたし今ダメだよぉオシャレしてないもん!』
マユのとぼけた発言に、思わず佐京は「ブフォッ」と吹き出した。
「だ、大丈夫だよ、マユちゃんはいつでも可愛いから」
『もーまたそんなこと言って! でもわたしは引っかからないんだからね!』
「ハハハっ、手厳しいね」
和やかに笑う佐京。楽しげにマユと会話する姿には、ひねくれ者など見る影もない。学校のクラスメイトが見れば、さぞかし驚くことだろう。
『あー、なんだか久しぶりにゆーちゃんとお話してたら、喉乾いちゃった』
雑談がひと段落したところで、ふぅー、と電話口で一息つくマユ。
「ごめんねー付き合わせちゃって。でもありがとう、元気出たよマユちゃん」
『いいのー。でもわたしも興奮して目が覚めちゃった』
「そっかーコーフンしちゃったかー」
『ん~っゆーちゃんの言い方なんだかやらしい!』
「ハハハごめんごめん」
スマホの向こうから、モゾモゾと衣擦れの音が聞こえてくる。『んしょ、んしょ』という声も。どうやら布団から抜け出しているらしい。佐京はスマホを一旦耳から離して、画面の時計を確認した。
「さて……それじゃあ、そろそろ失礼しようかな。こんな夜中に、あんまり長電話しても申し訳ないしね」
『ん、そーお? まあ、また寂しくなったら、いつでもお姉ちゃんに電話するのですよ、ゆーちゃん!』
ふっふーん、と同い年のくせに気取った感じのマユの声。電話口でさぞかし無い胸を張っていることだろう、と佐京は失礼極まりないことを思った。
「ああ、そうさせてもらうよ。ありがとう」
マユのおかげで、久しぶりに心から和めた。電話なので見えないのは分かっていたが、佐京は微笑みながら小さく頷いた。
しかし。
(奈々たちが何処に行ったのか分からない、という問題はそのままだな)
そもそも、現在の状況がドッキリや悪戯によるものだったとしても、いつ終了するのか。
(正直なところ、悪戯ならもう飽きたな)
うーむ、と眉をひそめる佐京をよそに、電話からはトン、トン、トン、と柔らかい連続音が聴こえてくる。おそらく、マユが木の階段を降りている音だ。
『よーし、それじゃーお姉ちゃんは眠気覚ましのジュースを飲んで、もう一度寝直すとするよ!』
「んんん? なかなか高度なプレイだね」
『高度なぷれーい! ……。あれ?』
その時、電話の向こう側で、マユの足音が止まった。
「……どうしたの?」
急に黙り込んでしまったマユに、佐京は心配げな声をかける。
『ん~。……ん~?』
佐京の言葉に答えず、マユは何やら困惑した様子。トタトタトタッとマユが家の中を動き回る音、パタンパタンと扉を開ける音、そして『え? あれ?』という混乱の声。
『…………』
やがて、沈黙。佐京は、自分の胃がきりきりと痛み始めるのを感じた。
「……マユちゃん? どうしたの?」
『……う、うん……えっと……』
マユが曖昧に返事をするが、困惑の色が強く、要領を得ない。
『……ねえ、ゆーちゃん』
「なに?」
『今、わたしね、下のリビングにいるんだけどね』
「……うん」
マユの声は、微かに震えていた。佐京は、嫌な予感がした。とてつもなく嫌な予感が。
『ねえ、ゆーちゃん……わたしも、パパとママ、いない……!』
「……、ほう」
佐京は、間抜けな声を絞り出すのがやっとだった。
『それでね、ゆーちゃん……床に、パパとママの服が、落ちてる……』
「……テレビは? どうなってる?」
『さっきからついてる……けど……。誰も映ってないよ……』
「…………」
自分だけでは、なかった。
が、同じ境遇の人がいても、全く嬉しくなかった。
佐京は表情を険しくした。一体、何が起きているのか。どうしたら、いいのか。
『ゆーちゃん、これも……ドッキリなの? イタズラ、なの……?』
ピンポイントで佐京とマユを狙って? ――あり得なくは、ない。が、その可能性は限りなく低い。
言ったマユも、聞いた佐京も、そんなことはわかっていた。
「……マユちゃん」
『玄関のカギも閉まってるし……わたし、パパもママも、こんなコトしないと思う……』
こんなに元気のない、それでいて張り詰めた雰囲気のマユの声は、聞いたことがなかった。佐京はそんな彼女から、水をなみなみと湛えたグラスを連想した。
いっぱいになった水が表面でふるふると震えており、少しでも突けば溢れ出す。
そんな予感と、懼れ。
「そうだね。ウチの親ならともかく、マユちゃんの親御さんで、それはないなぁ」
佐京は努めて穏やかな声を出し、ゆっくりとした語調でマユに同意する。
マユの両親は、マユと同様にピュアで子供思いな人たちだ。愛娘を本気で怖がらせるような真似はしないだろう。
『うん……絶対ヘンだよ……! ヤだ、ゆーちゃん、怖い……わたし怖い……』
今にも今にも泣き出しそうな声。
これは直接会いに行って、慰めると同時に状況を確認する必要がある。佐京はそう判断した。
「わかったよ、マユちゃんちょっと待ってて。今からそっちに――」
行くから、と言おうとした、そのとき。
ヴン、ヴヴンと、部屋の明かりが明滅した。
『えっ、何ッ?!』
電話の向こうから、動転したマユの声が聴こえる。
「電圧が……不安定になってる?」
眉をひそめた佐京は、明滅する部屋の明かりを見上げて訝しげに呟いた。
その瞬間、バンッと部屋の明かりが消えた。視界が暗闇に染まる。
『ゆーちゃんッ怖いよぉ―― プツッ』
と同時に、通話が強制的に切れた。
「えっ!? もしもし? マユちゃん!?」
慌てて声を上げるも、ツーッツーッという通話終了音が響くのみ。
スマホの画面を確認すると、アンテナが『圏外』となっていた。
「『圏外』……!?」
信じられないモノを見るような目で、佐京はスマホを凝視した。
腰かけていたベッドから立ち上がり、暗闇の中、佐京は手探りで部屋のカーテンを開け放つ。新月の夜――窓の外は真っ暗で、住宅街には一切明かりが見えなかった。大規模な停電。
しかし信じられないのは、スマホの『圏外』表示だ。これは家の電話が使えないのとはワケが違う。
「ちょっとくらい停電が起きても、普通は何処かの基地局が生きてるはずだ……」
それがない、ということはつまり、この停電が少なくとも『地方』レベルのものであるということ。
「ひょっとすれば日本全土の電力が一斉にダウン……? まさか、な……」
はっ、と乾いた笑みを漏らす。今日は日付が変わってから驚きっぱなしで、なんだかもう疲れてきた。
口の奥が酸っぱいような苦いような感覚。佐京は極端なストレスや緊張が吐き気として出てくるタイプだ。ごくりと生唾を飲み込んで、込み上がる吐き気を無理やり封じ込める。
ここに至って、佐京は半ば確信していた。観念した、といってもいい。
原因も条件も全く分からないが、日本から――ひょっとすれば世界から――多くの人間が、消えている。
「……まあいい。とりあえずマユちゃん家に行こう」
ただでさえ怖がっていたのだ、停電と通話の強制終了のせいで、マユは今頃はパニックになっているだろう。早くそばに行って安心させてあげたかった。そして何より佐京自身も心細かった。いつもは手狭に感じていた佐京家の一戸建ても、独り身には広すぎる。
そうと決まれば、すぐにでも家を飛び出したい佐京であったが、人工の明かりが一切存在しない夜の世界は驚くほど暗く、歩くことすらおぼつかない。
『停電』という現象、夜の真の暗さ、『知識』としては知っていたが、想像するのと実際に体験するのとでは全く違った。
「本当に何も見えないな……!」
スマホのライトを頼りに、壁伝いに階段を降りていく。
目指すは物置き。仕舞い込んでいた防災グッズの中に、超強力な懐中電灯があったことを思い出したのだ。マユの家は佐京の家から自転車で五分ほどだが、自転車とスマホのライトだけでは心もとなかった。
「たしかここら辺に、あった、は、ずッ!」
一階の物置に入り、乱雑に詰まれた雑貨の山を押しのけ、「よいせっ!」と避難用品の詰まったリュックを引きずり出す。
目的の懐中電灯は、リュックの側面、飲み物のペットボトルを入れる場所に無造作に突っ込まれていた。
「電池は大丈夫かな?」
買ってから数年放置していたが、持ちのよいマンガン電池を入れている。多分大丈夫だろう、と思いながら、佐京はそれに手を伸ばした。
銀色の懐中電灯。長さは三十センチ弱とかなり大型で、単一電池が詰まっている持ち手の部分には、オーロラの帯を連想させる優美な金の装飾が施されていた。
(……あれ、こんな飾りついてたっけ)
違和感を覚えつつも、佐京の指が『それ』に触れた瞬間。
頭の中に、ずるりと『何か』が入り込んだ。
「んんんんんっ?!」
異様な感覚。ぐらりと視界がぶれ、足をもつれさせた佐京はそのまま転倒。
「ぁ痛ァッ!」
妙な体勢で転んだせいで壁に後頭部を強打し、まぶたの裏で星が散る。
「オゥフ……ッ」
涙目になった佐京は、後頭部に手を回して床の上で悶え苦しんだ。そしてふと、頭の中に入り込んだ『何か』が、きれいさっぱり消失していることに気付く。
「…………」
始まりは唐突だったが、終わりも唐突。
上体を起こし、こんこん、と頭をノックするも、本当に何の違和感もない。
「……何だったんだ、今の」
ただただ意味が分からず、ぽつりと呟くしかなかった。
「……はぁ。まあいい。今はそれよりマユちゃんだ」
何かあるたびにイチイチ呆然自失していたら、夜が明けてしまう。ため息一つ、佐京は気分を入れ替えた。
強力な光源も手に入れた。早く、マユの家に行かねば。
床に転がり落ちていた懐中電灯を拾い上げる。そしてそのまま、何とはなしに、スイッチを入れた。
その瞬間。
シュッ! という空気が灼ける音が響き、懐中電灯から青白い光が迸る。
「えっ」
佐京が驚く間もなく、真っすぐ伸びた青白い光は、廊下の先の玄関の扉に突き刺さり。
呆気なく焼き切って、貫通した。
「ええぇェェちょちょちょっとッ!」
驚きと焦りのあまり、取り落としそうになった懐中電灯のスイッチを、慌ててオフにする。ブレる佐京の手。その動きを忠実にトレースした青の熱線は、そのままぐにゃぐにゃと扉の上を這い回り、そして綺麗にそれを焼き切った。
「…………」
呆然と、懐中電灯を右手に、扉へと歩み寄る。
玄関の扉。分厚い木製の扉。子供の落書きのようなぐにゃぐにゃとした形で、まるで鋭利な刃物でくり抜かれたかのように、焼き切られていた。
扉に開けられた隙間から、ヒュウウゥゥ、と冬の冷たい空気が入り込む。
「えぇー……」
恐る恐る、といった風に、佐京は手の中の懐中電灯に視線を注いだ。
可もなく不可もなく、ただ優美な装飾が施されているだけの、懐中電灯。
「……どうなってんのコレ……」
呟きが、小さく響いて、暗闇に溶けて消えた。