希望
目が覚めた。ずいぶん昔のことを夢で思いだしていた。寝床から起き上がって、適当に朝食を食べ身支度を整え、家を出る。
大学の近くのファミレスを通りかかったとき、窓辺の席に榎田と小林さんんが並んで座っているのを見つけた。二人とも、自分の目の前に置かれた飲み物を凝視したまま言葉を交わしている様子はなかった。目の前のことに神経をとがらせているからか、俺に気付いた様子はない。思わず笑ってしまうそうになった。
ゼミに着くと、教授はすでに自室で仕事を始めていた。
「ちょうどいいところに来た、今日の午後、ひとつ頼みをしてもいいかな」
先生はそう言って自分の机の方に俺を呼び寄せた。
「なんでしょうか」
「今日の午後、私が審査員をしている文学賞の関係者がここに来る予定になっているんだ。だが、駅からこの場所までは遠くて場所が分かりにくいだろう? だから、使い走りで申し訳ないが、その子をここまで案内してもらえないだろうか。私は、少し準備することがあってね」
「はあ、分かりました」
教授から集合時間とその場所、それと客人の名前を教えてもらった。
「どうした、何か都合が悪いのか」
俺はその名前を聞いて少しだけ動揺してしまっていた。
「いえ、なんでもないです。出かけるときに、また声掛けます」
そう言って教授の部屋を辞去し、学生部屋に戻る。
机の上の文献を手に取ってパラパラめくるが、まったく内容が頭に入って来ない。その代わり、馬鹿みたいなことを考えていた。
俺は四月からある出版社に就職する。きっと柳沢も、自身の原稿の打ち合わせのために出版社に出入りすることがあるだろう。さらに、もし、俺が雑誌の連載や単行本の企画出版の担当を任されることになれば、柳沢ともう一度会うことができるばかりでなく、やつの書いた物語を本にして世に送り出すことができるかもしれない。
そんなことは起こり得るだろうか。榎田に話したら、ドラマの見過ぎだと一笑に付されてしまうだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていたから、後からやってきた小林さんの、
「あれ、寝てる?」
というつぶやきで、ようやく約束の時間が迫っていることに気がついた。慌てて学生部屋を飛び出す。俺は柄にもなく緊張していた。
これまでずっとと生きてきて分かった。俺は凡人だ。それはよく理解した。だが、与えられた職務を満了できるくらいの能力は身に付けてきたつもりだ。次に必要なのは、ちょっとだけハードルが下がったように思える、自分の夢を実現するための能力だ。
駅前に着いた。目的の人物は、うすいすみれ色のカーディガンに黒のスカートを穿いて、髪を短く切った女性だ。改札のすぐ脇で、腕時計を眺めている。
教授から話を聞いたときは、何かの冗談かと思った。
その人物に、自信のなさを感じさせるようなところはもうない。俺が声をかけるよりも先に、柳沢理子は時計から顔をあげた。目と口を漫画みたいにまんまるにしている。俺は思わず笑ってしまった。
話したいことは山ほどある。俺は、頭の中から過去の記憶が本流のように溢れそうになるのをとどめながら、第一声に何と言うべきかを考えていた。
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