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お疲れ様会

「どう頑張っても楕円積分は積分できんのだな。先人の努力を疑うのはやっぱり時間の無駄ってことがよく分かったよ」

 榎田はいわゆる天才らしい。小学校のとき、九九にハマった榎田少年はそれ以来算数が大好きになり、小学校の算数に飽き足らず、自分の兄から中学の数学の教科書を借りて読んでいたという。そして、中学生になって初めての数学の授業を受けるときには、高校数学の内容まですべて頭に入っていたという。本人は俺にそう語った。 

 そして、大学生になった榎田がいったい何を考えているのか、俺にはまったく想像がつかない。

 榎田は俺の理解度など気にすることなく、自分の考えていることをべらべら話したがる。俺は本人がそうしたいというならそれでいいと思っている。というのも、榎田の知識と技術に、俺は何度か世話になっているからだ。


「これ使ってみ」

 俺はパソコンの前に座って、大学が一年生全員に課した英語の課題に取り組んでいた。「げっとe」なる名称のそれは、英文読解問題と解答の選択肢が無限に続く英語学習ソフトだ。これは英語の講義の担当教官が管理する成績簿とリンクしており、期限内に課題を消化し終えないと英語の単位が認定されない。しかも、英文を読まずあてずっぽうで解答する学生が後を絶たないため、その対策として解答時間にかかる時間が短すぎたり不正な操作をしたりすると、それがエラーとして教員に伝わり、該当の学生になんらかのペナルティが課せられる仕様になっている。

 しかし大学内には、すでに誰かがボランティアでバラまいたげっとeの解答が出回っており、それさえ手に入れれば、後は一定時間を置いて正しい解答をクリックしていくだけの単純作業になる。

 俺はといえば、知り合いから解答を入手はしていたが、正しい解答を機械的に入力することが苦痛に感じて来たため、それくらいなら真面目に解いて英語力の向上に努めた方がいいのではないかという理由から真面目に取り組むことにしていた。

 そんな俺に榎田が差し出したのは、大学生協で安売りされていた16GBのUSBディスクだった。榎田は、俺の返事も待たずにUSBディスクをパソコンに差し込んだ。そして、作業を中断した俺からマウスを奪い取った。

「なにすんだ」

 榎田はUSBディスクの中のファイルのひとつを呼び出した。すると、アルファベットのeを模したキャラクターが画面に登場した。英語学習教材を別のプログラムから立ち上げたらしい。見慣れたメニュー画面が開かれる。スタート、成績表、スケジュール表……といつものスタート画面だ。

「まあ、見とけって」

 ひと作業終えたらしい榎田はキーボードから手を離した。すると、榎田が手を触れていないにも関わらず画面上のカーソルが勝手に動き出し、メニュー画面のスタートボタンをクリックした。榎田は、絵の配色を吟味する画家のように見入っている。

 問題の解答画面が開き、前回続きからスタートする。画面上のカーソルは、勝手に移動して解答欄にチェックを入れ、次の問題を呼び出した。そこでも、また同様に解答にチェックを入れて次に進む。

 榎田は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。

「っし、うまくいった。後は、明日の朝まで寝てれば全部終わってるよ」

 俺は画面にくぎ付けになっていた。そうしている間にも、俺のパソコンは勝手に問題をどんどん片付けていく。

「これ、作るのにどれくらいかかったんだ」

 榎田はちょっと考えた風に目を動かした。

「一カ月くらいかな、作業時間は半日くらいで」

「普通に解いた方が、早いな」

 榎田は声をあげて笑った。別に気にすることではないらしい。

「別にいいさ、ただの趣味だよ。それに」

 と榎田は続ける。

「こいつをげっとeに苦しむ学生全員に配れば、節約される時間は俺が制作にかけた一カ月を余裕で超えるだろう。全体の幸福を考えるんだ」

「売る気なのか?」

「頒布・販売のことは何も考えてなかったな……」

 結局、榎田はこのプログラムを大学の知り合いに、無償でバラまいた。

これは小林さんから聞いた話なのだが、新入生向けの英語学習教材が、次の年からは全く新しいものに変わったそうだ。

 榎田の趣味は、本人の希望通り全体の幸福に多大な付与をしたらしかった。


「起動して次の日の朝に、”Complete”の表示が出てたのは本当に驚いたよ。思わず笑ったくらい。榎田くん、相当時間かけて作ったんだろうなって思ってた」

 小林さんは、榎田のプログラムの二人目の利用者だ。勝手に解答を続けて行くげっとeの画面を見てしきりに感心していたのを、俺はよく覚えている。

 俺と小林さんは、大学の近くの居酒屋のカウンターに座って雑談に講じていた。榎田は実験で遅れてやってきて、ようやく三人そろう。

「じゃ、皆そろったし」

 俺たちは、各々の目の前に置かれたグラスを手に取った。

 就活お疲れ様会、などという建前を用意して集まろうなどと榎田が提案するのは珍しいことだ。榎田の所属する理系の研究室は一般に厳しいが、そのぶんメンバーの結束が固いと俺は聞く。榎田も、この半年でその影響を受けたのかもしれない。

 今までは、俺が榎田か小林さんのどちらかを伴って、もう片方を訪ねるという形でなんとなく三人集まるというパターンが多かった気がする。俺にしても、榎田も小林さんも人づきあいに対してかなり無精なほうだ。そう思うと、俺たちもこの四年間で変わったものだ。

 小林さんは、いつぞやのサイン本を取り出して熱心に話をしている。榎田は小林さんの話をうなずきながら聞いている。そして俺は二人の間に挟まれる形でジンジャーエールをちびちびと飲んでいた。なんだか、俺だけ放置されているような気分になるのは気のせいだろうか。下戸の俺は酔えない。俺は近くを通りかかった店員に飲み物を追加で注文して、席を立った。

 その時、場を満たしていた会話の流れがふっと止まった。振り向くと、榎田と小林さんは、揃いも揃って不安そうな顔を俺に向けていた。

「……どうかした」

「えっと、どうしたの、トイレ?」

「すぐ戻るよ」

 さっと用を足して席に戻ると、榎田と小林さんは、さきほどとはうってかわって静かになっていた。二人とも、ぼんやりと後頭部を俺の方に向けたまま、時々場をつなぐように飲み物に手をつける。二人の間の席は空っぽになっていて、まだ俺の頼んだ飲み物は届いていないようだった。

「すみません、ちょっといいですか」

 俺は、傍を通りかかった店員さんにもう一度声をかけることにした。

「はい、どういったご用件でしょうか」

「さっき、そこの席で飲み物を注文したんですけど、もうひとつお願いしていいでしょうか」

「なんでしょうか」

 店員さんは不審げな様子をみせず必要なことだけ聞いてくる。

「ドリンクに、ストローを二つさしてあの席に持って行ってください」

 店員さんは、カウンターで黙り込む二人組に目をやって少しだけ笑った。俺はそれだけ頼んで店を出ることにした。払っていない分のお金は、今度会ったときに榎田に返そうと思った。

 自宅まで帰る途中、着信があった。差出人は榎田で、その文面にはひとこと、

「しね」

 とだけあった。俺としてはあの二人を思いやったつもりだったのに、この反応とは。礼に欠けることはなはだしい。俺はさっさと自分のやったことは忘れて、他のことを考えることにした。

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