健康的な作家
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午前零時になると、病院から処方された睡眠導入剤を飲み、すぐにベッドに入る。晩夏の夜で寝苦しさはだいぶ減った。夜間は寝る時間に充てている。昼間ひたすら原稿を書くからだ。一人の部屋で。
住んでいる自宅マンションは街でもやや山際の、空気の美味しい場所にある。毎朝、午前七時半過ぎに起き出してから、キッチンへ向かう。そしてコーヒーを一杯淹れた。今の季節、アイスコーヒーがいい。俺もコーヒー愛飲家だ。常に執筆前に一杯ブラックで飲む。
都内にある大学の文学部を中退後、この街に移り住んできて、ずっと執筆活動を続けている。メインのジャンルはハードボイルドだ。刑事が出てくる話を書く。中学時代ぐらいから、大学在学時までずっと、その手の話を小説で読んだり、テレビドラマや映画で見たりしてきたからだ。
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大抵、午前九時前に始業である。その時間帯を見計らい、出版社の人間が書斎の固定電話に電話してくるのだ。電話機にナンバーディスプレイが付いているので、誰からの電話かすぐに分かった。
この畑が長い。ずっと事件モノばかり書いていた。だが、午前九時からお昼を挟み、午後四時まで執筆したら、パソコンの電源を落とし、散歩に出かける。健康的なのだ。午後四時以降は一文字も書かない。原稿は一日にきっちり二十枚から三十枚書き、編集者とやり取りしていた。
夕食は作っていた。寡作なのだが、書いた分だけ原稿料は入ってくる。一昔前に直木賞を獲った後、ずっと貧乏生活をしていて、金はあまりない。まあ、別に金がないならないで、それなりの生活をするしかない。いつも思っていた。地味な方だと。
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普段、散歩以外、あまり外に出ることがない。まあ、出るとしたら、街の量販店に買い物に行く時ぐらいか?別に必要ないのである。外出前に必ず頓服の安定剤を飲む。元々、人前に出るのが苦手で、掛かり付けの病院で安定剤をもらっていたのである。
サイン会などを頼まれたことが数えきれないぐらいあったのだが、その手の話は断っていた。直木賞作家でも、俺の創作活動に派手さはない。コンスタントに原稿を書けば、後は自分の時間に充てる。確かに著作に増刷は掛かっていた。印税と原稿料で暮らしている。これは直木賞作家だからこそ出来るのだった。文学賞を獲ってなくても、売れている物書きは大勢いるのだが……。
昼間ずっとキーを叩き続けていた。別に金に困ることはない。昔から貧乏に慣れていたからだ。一応固定だけでなく、ガラケーも一台持っていたのだが、使うことはほとんどない。単に持っているだけで、これと言って必須ということはない。ただ、年に一度ほど、出版社の人間と会う際、上京する。その時、連絡用にガラケーを持っていっていた。
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ずっとこのまま健康的な書き手で終わると思う。別に気にしてないのだ。単にキーを叩きながら、原稿を作っていく。毎日淡々としていた。だが、それが俺のような作家の日常だろう。あくまでペースを守って、だ。派手さはない。それでも構わなかった。一作大ヒットを飛ばすよりも、僅少でいいから、個々の作品に一定の部数が出る方がいい。そう思っていた。
執筆の合間に窓を開け放ち、外を見ると、山の景色が見える。その景色を見ながら、思う。いろんな束縛から解放されていいと。パソコンと、滅多に使わないのだが、プリンターが一台あれば、仕事に事足りる。別に気にしてなかった。現役の作家として、あと何年やれるかは分からなかったのだが、今のペースが維持されればいいと。
そして今夜も眠る。睡眠導入剤は二十年前と全く変わってなくて、量も増えてない。それに飲めば快適に眠れる。寝付く時だけは、薬に頼るのだ。異常なことじゃない。今はその手の薬を飲む人が多いのだし……。俺も服薬していた。ちゃんと時間通りに。
夏の終わりで、暑さは若干引いていた。夜間、快適に睡眠を取れば、朝は普通に起き出す。確かにだるさはあるのだが、無駄に寝ることはない。睡眠時間も七時間とちょっとで足りていたのだし……。朝飲むコーヒーが気付けの一杯となり、新たな一日が始まる。書斎にこもる生活が続く。絶えずずっと、だ。相変わらず、健康的な感じに変わりはなかったのだが……。
(了)