~1~
僕は必死に逃げていた。
慣れ親しんだ、愛する家族のいる家から、死に物狂いで逃げ出したんだ。
走って、走って、心臓が破裂するんじゃないかと思うほど、走り続けた。
すぐ後ろを追ってきているような気がして、怖くて後ろを振り返ることもできなかった。
つかまったら殺されてしまう。
新しく来たアイツラは、僕を噛み殺してしまうんだ。
逃げる僕の背中に、お母さんの声が聞こえてきたけど、僕は止まることができなかった。
そして、気がついたら全く知らないところに来ていた。
今までは、家の周りが僕の全てだったのに、そこが安心できる場所だったのに、あまりにもビックリしすぎて、僕は遠くまで来過ぎてしまったらしい。
まだ、心臓がバクバクしてる。
僕は、痛む心臓を落ち着かせようと、物陰に隠れて静かにしていた。
そうしながら、周囲に耳をすませる。
知らない土地に来てしまったのだから、いつ何が襲ってくるかも分からない。だから、いつでも逃げ出せるように、僕は全身を固くしながら様子を伺っていた。
やっと心臓が落ち着くと、急にお腹が空いてきた。
(帰りたいな。でも、帰ってもきっとあの犬がいる)
脳裏にさっきのことがよみがえる。
(怖いよ。殺されるかも知れない。あの犬がいなくならなければ、僕は安心して帰れないよ)
必死に逃げてきたけれど、帰ろうと思えば家までの道は分かるはずだ。
すぐにでも帰りたい。
でも……。
結局、悩みに悩んで、しばらく様子を見ようと考えた。
そして僕は、小さな庭の片隅に建てられていた物置の下で夜を明かした。
次の日は雨だった。
朝から冷たい雨が降り注ぎ、僕は物置の下に入ったまま、空腹と闘った。
目をつぶれば、優しいお母さんとお父さん、我がままだけど、よく遊んでくれた女の子のことが思い出された。女の子の名前は……サオリ。
僕はサオリと遊んでいる夢を見続けた。
3日目の朝、僕はサオリの元へ帰りたくて鳴いた。
サオリー。サオリー。迎えに来てよ、サオリー。
でも、その声はか細くニャーニャーと聞こえたらしく、家の中からブカブカのサンダルを履いた女の子が、バタバタと近づいてきた。
僕は、サオリが迎えに来てくれたのかと思って、つい物置の下から顔を出した。
その拍子に、女の子と目が合った。
「わー! ネコちゃん!」
その声を聞いた途端、僕の体は硬直した。
(サオリじゃない!)
違うと思った瞬間、物置の下にもぐりこんだ。
それからは、とにかく動かないようにじっとしていた。どんなにお腹が空いても、そこに居さえすれば安全だと思い込んでいたんだ。
でも、何日も食べずにいたら、目が回りだした。
女の子は朝と夕方、僕のところにゴハンを持ってきてくれた。
それは、美味しそうな鰹節の匂いだったり、煮干の匂いだったりした。
とうとう我慢ができなくなって、今にも倒れそうになりながら、僕は何とかエサだけを盗もうと考えた。そして、そーと、そーと物置の下から顔を出してエサを食べ始めた。
食べ始めると美味しくて、夢中になっていた。
気がついたら、女の子が少し離れたところでニコニコしながら僕を見ていた。
僕はビックリして、物置の下に戻った。
「ネコちゃん、大丈夫よ。
何もしないから、いじめたりしない、約束するから。
一人は寂しいでしょ。そこは寒いでしょ。
ねぇ、出てきて。お母さんもお父さんも、あなたのことを飼ってもいいって言ってるの。
あなたが私の膝に乗ってくれたら、一緒にいていいって言ってるの。
だからお願い。でてきて」
僕は女の子の言葉の全てが分かったわけじゃないけど、ただ『お父さん』『お母さん』と言う言葉だけは理解できた。
(そうか、お父さんとお母さんはこの家で、僕が出てくるのをじっと待ってるんだな。
それでこの子に、僕が出てくるように話してくれってお願いしたんだ。きっと、そうなんだ!)
そう思ったら、僕は早くお父さんとお母さんに会いたくなって、女の子の元に近寄った。
ちょっとでもいじめようとしたら、すぐに逃げられるように、身をかがめながら。
女の子は僕の怖そうな姿を見ると、手を出すことなく、じっとしていてくれた。
ただ、優しく僕に笑いかけて、話しかけてくれるだけだった。
僕は女の子の膝に手をかけた。
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