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新たなるクマ現る!

 ここはとある教会。

 参列者が集まり、壇上にはウエディングドレスに身を包んだ女性がいた。隣にはお相手の男性が寄り添い、神父の言葉を心に受け止めている。

 今、まさに結婚式の真っ最中。

 そして、相手の男性、白いタキシードに着飾った新郎が、

「汝を妻とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓います」

 誓いの言葉を述べていく。言葉一つ一つを真摯に心に噛みしめていくように。

「幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることをここに誓います」

 言い終えると、新郎は新婦に視線を向け、優しく微笑む。

 そして、新婦もまたそんな新郎に微笑みを返した。

 こうしてここに二人の誓いが成立し、新たな夫婦が──

「私は誓いません」

 ──誕生しなかった。

「私は貴方と結婚します」

 そう言うやいなや、新婦が両手で握りしめたのは、目の前に立つ神父の手だった。

「OH、NO」

 予期せぬ行動にたじろぐ神父の頭には、恋愛と書かれた不可思議な旗が刺さり、はためいていた。


 ここはとあるサーキット場。

 大観衆に埋め尽くされ、大きなうねりのような歓声が巻き起こり、幾つものエンジン音が今か今かと唸り声を上げる。華やかなレースクイーンたちはレースマシンの側で色を添え、車内に乗り込んだレーサーとエンジニアたちが最終調整とばかりに会話の応酬を繰り返し、今まさに場内は最高潮を迎えていた。

 レーススタートまで残り10分。

 そんななか、ポールポジションを勝ち取ったレーサーが一人、親友ともいえるエンジニアに対して高揚した言葉を投げかけていた。

「このレース、このまま勝ち取ってみせる」

「ああ、お前ならできる。俺たちが強いってことを証明して見せてくれ」

「任せてくれ。それに、言ってあるんだ彼女に」

 レーサーはチラリと前に立つ女性を見る。

「優勝したら結婚しようって」

「ほんとかよ!?」

「ああ」

「お前らしいよ。まったく……。でも、無茶だけはするなよ」

「ふっ、何言ってんだ。少しぐらい無茶しなけりゃ優勝なんてできないぜ」

「おいおい」

 エンジニアはあきれ顔だ。

「おっと、そろそろ時間か準備はいいな」

「ああ、俺が一位の表彰台に上がった姿、お前に見せてやるさ」

「馬鹿が」

 レーサーは最後に前に立っていた女性と目配せすると、メットのシールドを下げた。

 そして、そのメットの頭頂部には死亡と書かれた旗が揺らめいていた。


 そして、ここにもう一人、頭に旗を刺した男がいた。

 名前を、城田みのりと言う。


 クマのぬいぐるみ、いわゆるテディベアの姿にさせられている俺は、とりあえず確かめるようにみのりの股間に手をあててみた。

「ある!」

「この変態が!!」

 みのりの拳が顔面を直撃した。

 俺は息すらできず、代わりに天井がミシミシと悲鳴を上げる。

 男の腕力は恐ろしく強く、十秒ほど、クマのぬいぐるみの俺は白い天井に張り付いていた後に落下した……。

 しかし、なぜこんなことになっているんだ。

 髪は女性の時と変わらず目立つ緑色のショートヘアのままだが、顔も体型も別物だ。一言でいえば芝生頭のゴリラ。

 それなのに声だけは変わらず、いつもの強情そうな女性声。

 しかし、それがなかったら、みのりだと理解するのにもう少し時間がかかったことだろう。

 傍から見たら、胸元の空いたローブに身を包んだ変態だからな。

 とりあえず、テーブルの上に戻った俺は椅子に座るみのりに説明を要求することにした。

「さて、正月早々何でこんなことになってるのか説明……って、待てよ。こんなことできる奴なんて、もしかして、あの紫頭巾の女に会ったのか!?」

「……………………」

「なんだよその目……。怖い……。悪かった。もう触らないから許してくれ」

「……ふざけてるんじゃないわよね?」

「いや、真剣に謝ってます。この通り、ごめんなさい」

 土下座をして頭を垂れる。

「まだ、怒ってますか?」

 顔をあげると、みのりは細い目をしてじっと刺さるような目線を向けてきている。

 どういうわけか、俺の瞳から冷たい何かが溢れてくる。

 それでも、みのりは何も言わずすっとこちらをいぶかしむ様に見続けるだけ。

「……本当に知らないみたいね」

「ん? 知らない? 何が?」

 どうやら、みのりは怒っていた訳では無いようだ。だが知らないとはどういうことだろうか?

「私をこんな姿にしたのは……あんたみたいな、テディベアなのよ」

 え?

 ………………。

 …………。

 ……。

「お、俺と同じ?」

「そうよ。あんただと思って呼び止めたら、突然飛びかかってきて、気づいたらこの姿よ。でも、日が暮れててよかったわ。目立たなくて済んだし」

 いやいや、こんな姿の男が暗闇の中、後ろに歩いていたら、どれだけ怖い思いをすることか。

 もし、前を歩いていた女性がいたのなら、心情を察してやまない。

 そんな風に心中で愛想を尽かす余裕はあるものの、別所では疑問がいくつも湧いてくる。

「……どこで会ったんだ? えっと、どんな姿だった? 何か言ったりはしてなかったのか? 近くにほかに誰かいなかったのか? 何でもいいから教えろ!」

 なぜ、こんなにも焦る気持ちが湧き出るのか。

 わかっている。

 人の姿に戻る手掛かりかもしれないからに決まっている。

「ちょっと、何? 服が伸びる!」

「え!? あ! すまん。いつの間に……」

「もう! ……正直、一瞬だからよくわからなかったわよ。暗かったし。場所は、二丁目の桜通りを曲がってその道の途中よ。ほかには特に何も、毛色だって覚えてないし」

「そうか……」

「それよりも、元に戻る方法わかんない?」

「わかると思うか? 自分のことでさえ空気を掴むような状態だっていうのに」

「そうよね……」

 みのりは心底落胆しているのだろう酷く情けない表情を浮かべている。しかし、男であるその顔はむさ苦しさしか感じない。

「そうだな。とりあえず、その頭のそれ引っこ抜いてみたらどうだ?」

「頭? 頭って何よ?」

「いやいや、その間抜けな旗だよ、旗」

 みのりの頭の上で三角の白い旗が先ほどから一向に取れることもなく、みのりが動くたびに律儀にはためいていた。

 そして、そこには仰々しく達筆に漢と書かれていた。所謂、漢と書いておとこと読むというあれだろう。

「旗? 何もないじゃないよ」

 みのりは頭に触れて見せ、また頭上付近を髪でも洗うかのように両手で交互に振っても見せるが全く気付かない。

 旗に触れることすらできていない。

 旗が蜃気楼にでもなったかのように透けて手が素通りしてしまっていた。

 試しに鏡の前に立ってもらったが、鏡にも旗は写っていなかった。

 どうやら、見えているのは俺だけのようだ。

「とりあえず、頭下げてみろよ。そうそう、では! ……よっこらせっと」

 みのりの頭に足を乗せ、旗を掴むと思いっきり引っ張ってみた。

だが。

「…………無理か。ああ、でも俺は触れられたな」

 旗から放した手をまじまじと見る。

「ねえ、ほんとにあるんでしょうね? 私が分からないからって、ふんずけてる訳じゃないわよね?」

「ああ、なるほどそういう手があったか。ちっ、もっと思いっきりやればよかった失敗した」

「あん?」

「やめろ! その目怖いから……。しかし、どうしたもんか……」

「ねえ? ……もしかして、あんたと同じで一生このままなの?」

「俺と同じってのは余計だが、しかし、一生あの腕力のままか……」

 部屋に重たい空気が漂い、沈黙に包まれた。

 そして、五秒後。

 お互いに頷き合うと、

「「探そう」」

 意気ぴったりに声を上げていた。

「とりあえず、遭遇したところに行ってみるか。懐中電灯はどこだった? ん? 何だよ?早くしろよ? ん? ……どうした?」

「……ごめんなさい……出掛ける前に、その……トイレに……」

「ああ、なんだよ、行って来いよ。準備しておくから」

 そう返事をしたのに、みのりは動かず、なんだかもじもじして要領を得ない。

 そして、みるみる内に顔を赤くしていく。

「……やり……えて」

 言いづらそうに口を何度も開閉させていたかと思ったら、細々とした声で何かを口にする。

 しかし、聞こえない。

「え? なに?」

 俺が聞き返すと、みのりは恥ずかしそうに俯いてもう一度、口を開いた。

「……やり方教えて」

 初めて、みのりが可愛らしいと思えた。

 しかし、初めてみるその姿がまさか男の姿とはな。


 そして、探し求めた結果──夜が明けた。

 それどころか、今はもう、太陽が上空で爛々と輝いている。

「もう駄目……」

「男だろ、しっかりしろよ」

「私は女よ!」

 そう、怒鳴るのはダウンジャケットにジーパンズ姿に着替えたみのり。

 そんな彼は長い石段を手すりに掴まりながら、のろのろと一段一段上っていく。

「それに、あんたにはしっかりとか言われたくないわ……」

 そう言って、みのりに睨まれる。

 そんな俺はといえば、みのりが肩から掛けているトートバッグの中から顔だけを出して、冬の寒空の中汗かく男の顔を見ながら、「大変だろうな」などと全く感情の籠っていない他人事の感想を心内で呟いていた。

「仕方ないだろ、さすがにこんな大勢いる前で動くなんてことできるわけがない」

「わかってるわよ!」

 そう。石段を登るのは俺とみのりだけではない。

 犇めき合うぐらいに、上に下へと幾重もの人々が横行していた。

 中には、着物姿の人たちもちらほらと。

 それもそのはず、石段の先には神様が祭られた社が鎮座しており、皆が皆、今年を良き一年にしようと、参拝に訪れていた。

 要は、初詣というわけだ。

 しかし、正月の神社にとっては溢れる人の波など、例年通りの有り触れた光景だ。大して驚くようなことでもないわけだが。

 さて、我が町より、二駅進んだ町にあるこの神社、名は浅羽神社。

参拝数五十万以上とまではいかないまでも、近郊に住む人にとどまらず郊外からも参拝者が訪れ、それなりに有名な神社だ。

「それにしても、占い師が神社にお願い事をするってのもどうなんだ?」

「占い師だからよ。私は神様とか運命とか信じてるのよ」

「そういうもんか」

「そういうもんよ」

 そうして、二人で他愛ない会話を続けながら、なんとか拝殿に辿り着いていた。

 雑踏の所為か、ぬいぐるみと人が会話をしてようとも奇異な目で見られることはなかった。

 拝殿の前まで来ると、みのりは賽銭箱に五円を二枚投げ込むと、一礼、二拍手。

「どうか、どうか、私をこんな姿にした犯人がみつかりますように……」

 有りっ丈の力を込めるように神に願っていた。

 そして、俺もまた一礼、二拍手。

「元の体に戻してなどと贅沢はいいません、どうかもっといい家主に巡り合えます──」

「え、何?」

 みのりのその声は酷く重々しい。

「……犯人が見つかりますように」

 そう言い終えると、二人揃って拝殿に一礼した。

「それじゃ、とりあえずご飯ね」

 振り返り、拝殿に背を向け、みのりは歩き出す。

「何か食べないとやってられないわ。何がいいかしら? お蕎麦か天丼か、奮発して鰻とか! どれがいいと思う?」

「…………」

 みのりが何かのたまっているが俺は今、それどころではない。

「なに? 黙って、どれも気に入らないの? ここにきて洋食はいやだからね私」

 まだ、何か言っているが全く耳に入らない。

 驚きのあまりそれどころではない。

「……なあ、ここって何の神様を祭ってるんだっけか?」

「もう、どうしたの? それ、さっき言ったじゃない。縁結びの神様よ。って、そうじゃなくて、ご飯どうするの?」

「なるほど……、俺も神様を信じてみようかな」

 そうも、言いたくなる。目の前に広がる光景を目の当たりにしてしまうと。

 拝殿に一礼し、振り返ると順番待ちに多くの人たちが並んでいた。そこまでなら、さほど驚くこともないのだが、その人たちの半分以上の頭に、みのりと同じような旗が刺さっていたのだ。

 そして、その旗すべてに消失という文字が書いてある。

「財布がない、財布がない、え? え? うそ。どこかに忘れて──」

「あれ? おじさん? その頭……ヅラだったん──」

「えっ…………ケイタイのデータが無くなって──」

「ゆうこさん、人がいっぱいいるから手を離さないでって、あんた誰!?」

「すいません、背がこのくらいで黒いズボンに灰色のベストの男の子を──」

「ねえ!? 貴方!? か、体が透けて──」

「急に何か寒くなって……スースーして……ない! ない! ない! パンツが──」

「ん? ここはどこ? 私は誰? 貴方様はどなたで──」

 物凄い騒ぎになっていた。

 そんな光景を唖然と見ていたのだが、何時しか、

「えっと……やりたい放題だな」

 それを通り越して、呆れて笑っていた。

「これって、そうよね」

 みのりもこの奇々怪々の光景に旗が見えなくとも、誰の仕業か察しがついたようだ。

 歩みを止めて、黒山の人だかりをじっと見つめていた。

 そして、

「見つけた!」

そう叫んだ矢先、

「ごらあああああああああああああ!! きゃつめがああああああああああああああ!!」

 混乱して秩序のない黒山の中に一瞬も躊躇することなく、ダイブした。そして、みのりは人波をもろともせずに駆け抜けていく。

 そんな状況に俺は、揺れる鞄から投げ出されないよう必死にしがみ付くのがやっとだった。

 目の端で捉える風景は、ものすごい速さで流れ、気づく度、気づく度、変わっていく。参道の乾物屋かと思えば、厨房の中だったり、そう思えば、非常階段を駆け登り、滑り台を駆け下りて、コタツに寄り添う老夫婦がお茶を飲んでいたり、標識が真横を幾度も通り過ぎていく。

 だが、目まぐるしく流れていた景色は唐突にその流れを止める。

「もう、逃げられないわよ」

 そう、遂にみのりは犯人を追いつめていた。誰の物ともわからない大きな屋敷の大広間に。

 この大広間、三面障子に仕切られ、上手には鎧や兜、刀に滝の絵が描かれた掛け軸が飾られ、床の畳みからは井草の匂いが仄かに漂っていた。

 そうやって、周囲に目を配る余裕のできた俺はやっとのこと、飾られる鎧を背にし、追い詰められる犯人のその姿をありありと捉えることができていた。

 その姿は、見紛うことなく黒いクマのぬいぐるみだった。

 そいつは俺と大した違いはなく、精々、赤いスカーフを首に巻いているぐらいのもので、顔も背丈も大差なく同じテディベアだった。

「己は、一体なんなんや!」

 もちろん、話すし、動く。

 今は男性の肩に乗り、豪く苛立ちを露にしている。

「さっきから、わいのことばかり掴みかかりおってからに、何もんやねん己は!」

 そして、どうやら、関西方面の出身らしい。

「そんなことはどうでもいいのよ! 早く私の姿を元に戻しなさい。いえ、戻せゴラアアアアアアアア!」

 黒クマに対し聞く耳持たず、みのりは絶叫と共に持っていたバッグを振り回した。

 そして、目の前の男の顔面に叩きつける。

「んがっ!」

 男は吹き飛ばされ、勢いよく壁にぶち当たり、掛け軸ごと崩れ落ちた。

「なんて凶暴な男なんや……」

 黒クマは殴られる寸前、男から飛び降りていたようで、今は顎から垂れ落ちる冷や汗でも拭うような身振りを見している。

 そんな姿を、俺は倒れながら、柱にぶつけ痛めた顔を抑えつつ、見ていた。

「ほんま、恐ろしゅう男や……」

「男? ……私は──」

 ブチッと、何かが切れる音が耳に届いた。

「──私は、女よ!!}

 みのりは絶叫、そして、

 畳が割れた。

 みのりが黒クマを叩きつけようとした拳はかわされ、換わりに畳に突き刺さる。

 現実に、人が、畳みを打ち破る姿を初めて目の当たりにしてしまった。

「うおっ……みのりさん……貴女はどこに向かっているの?」

「お、おそろし、おそろしすぎるやん……」

 みのりは腕を畳に突き刺したまま、膝を曲げ、息を切らし、肩を揺らしていた。

 そんな姿に黒クマは怯え、

「こ、こりゃあかんで……」

 狼狽した。

「み、みなさん、はよう出てきて下さい、お仕事ですぅ」

 黒クマが必死になってそう叫ぶと、三面の障子が一斉に開かれる。

 開かれた先に立っていたのは、何十人もの男衆だった。

 手には木製のバットやら、刀やら、銃やら品揃えよく武器を持っている。

 着物やスーツを着こなして、オールバックに金髪に、スキンヘッドにリーゼントと髪型もきっちり決めて、頬に傷などあったりして、それはもう、身震いするほど怖い方々ばかりだった。

「クスッ」

 そんななか、俺はついつい笑いを零す。

「いや……笑っちゃいけないし、笑える状況でもないんだが……」

 そうやって、頭で状況整理しようとしても、

「クスッ」

 つい笑いを零してしまう。

 だって、強面の方々の頭の上には、何とも滑稽にあの旗が刺さっている。そして、催眠と書かれたその旗は、真面目な顔した方々の上でゆらっゆらっと揺れていた。

 俺がそうして笑いを堪えてる最中、

「みなさん、よろしくお願いしますぅ」

 黒クマの号令がかかり、俺は、

「ふがっ!?」

 踏まれた。

 男衆は一斉にみのりへと襲い掛かっていく。

「邪魔をすんなああああああああああああ!」

 みのりも負けじと男衆に応戦していく。もう、心まで男になってしまったみたいだ。

 一瞬で、部屋の中は地獄絵図と化していた。

 何度も何度も血しぶきが飛び散り、骨の砕ける音が一向に止むことはなく、畳みは引き裂かれ、障子が宙を舞い、柱には穴が空き、男達の怒号と悶絶が入り混じり、狂気の沙汰という表現さえも虚ろに思えてくる。

 そんな、状況下であっても黒クマは冷静に今のうちにと、静かにこの部屋を去ろうとしていた。

「易々と逃がすと思ってるのか?」

 俺は足蹴にされた痛みを堪え、逃げようとする黒クマの前に立ち塞がる。

「ぬわぁっ!? クマが動いとるぅ!?」

「お前もだろうが!」

 つい、ツッコミを入れてしまった。

「そやった、そやった、わいとしたことが、あかんなほんま。いや、しかし、ようやっと合点がいったわ。通りでわいのこと見ても気にせんと襲い掛かってきたいう訳か。納得、納得。ほな、そこ通してんか?」

 すらすらと口を動かす黒クマは、笑みを浮かべたかと思うと、流れるようにして、手刀を切って何食わぬ顔して道を譲って貰いにくる。

 そんな、何とも自然な行動についつい体が動き避けていた。

「どうぞ、どうぞ、どうぞ。って、通すか!」

「おっ! いいノリやな! あんさん体も同じやし、相棒にならしませんか?」

「断る。相棒ならもういるから」

「なんや、つまらんの……。ほな、また機会ありましたらお会いしましょ」

 性懲りもなく、また通り抜けようとする。

「いや、通しはしないって」

「しつこいですな、あんさんも……」

「しつこいもなになにもな……もし、ここを通りたかったら、この俺を倒してからにしてくれ」

「ほな、そうします」

 そう言うやいなや、黒クマの拳が俺の頬に突き刺さっていた。

「おぶっ!?」

 廊下に吹き飛ばされかと思った時には、縁側の窓硝子を割って、自分の頭が突き刺っていた。

「ちっ、油断した……」

 窓硝子から顔を引っこ抜き、再び黒クマの前に立ち塞がる。

「お前、なかなかやるじゃないか、そうかなら、こっちも本気を出して……ってあれ? あれれ?」

 急に眩暈が襲ってきたと思った時には、足にさえ力が入らず、膝から崩れ落ちていく。

「な、一体何を……」

「残念やな、チャンスは一回。金出しても戻ってきまへんのやで。ほな、さいなら」

「くそっ、覚えてろよ……がくっ」

 去り行く黒クマに向かってそう言葉を吐き出すのが精いっぱい、意識が朦朧とし、もう眠たくて眠たくて仕方がない。もう目の前で人が宙を舞い窓ごと庭に吹き飛んでいく夢まで、見始めている。

「ほんま、恐ろしいやっちゃ……」

 夢の中で誰かの呟きが聞こえた気がした。

「うがっ!?」

 そう思っていたら、いつの間にか俺は空を飛び、隣には頭から血を流した厳めしい顔の男が一緒に空を飛んでいる。

 そして、バシャン! っと、大きな水しぶきをあげて水の中に沈んでいく。

 ひんやりとして心地いい。なんてさわやかな夢。

 このまま目を瞑ってもっと深い眠りに。

 ………………。

 …………。

 ……。




「死ぬ、死ぬ、死ぬ!」

 俺は急いで水の中から這い出ると、必死になって何度も何度も空気を肺に送り込んだ。

 そうして、少し落ち着きを取り戻し、やっと自分が庭の池に落とされたことに気づく。

「はぁ、はぁ、はぁ、危なかった。本当に危なかった」

 顔から、滴り落ちる水滴を見つめながら、死の淵に立っていたことを思い出し身震いしてしまう。

 次いで、全身に痛みが走る。

「いつぅ!?」

 今頃になって、体が受けた衝撃を思い出したようだ。

 特に頭が。

「あれ?」

 っと、そこに違和感があった。頭にいつもついていないはずの物がついている。

 手の感触からそれは棒状の物だとわかる。

「……旗か」

 そう気付いた途端、思わず、苛立ちを覚え握っていたその旗を潰していた。

 のだが。

「ん? あれ? 取れた?」

 なんの抵抗もなく頭に刺さっていた旗は取れていた。

 そして、手の中で潰れるそれには雑魚キャラという文字が書かれていた。

「なにかおかしいとは思ってたが……」

 自分の不甲斐無さについため息が漏れる。

 だが、すぐさま黒クマへの憎さがこみ上げ、あの野郎と顔を上げ、睨みつけていた。

 黒クマは、廊下を駆けていた。追うものはいない。

 みのりは男衆に羽交い絞めにされ、尚且つ体も押さえつけられて動けずにいる。

 つまり、このままでは、逃げられる。

 瞬間、一歩、足を踏み出す。

 だが、その行動が全てを俺に悟らせる。

 無理だと。

 水を吸って全身が重くなっている今のこの体、黒クマまでの距離、追いつくことは物理的に不可能。気持ちでどうこうできるような状況ではない。

 あきらめろ。

 その五文字が頭を過る。

 もう、無理する必要がどこにある。

 事実、はっきりとした理由は定かではないが、俺の旗は取れた。当初の目的である旗を取るその方法を知り得たようなものだ。

 このまま取り逃がしたとしても……。

「アホか! このまま馬鹿にされて夜もろくに眠れないわ! あの笑い顔を蒼白に染めてやるまでは……」

 だから、

「抵抗しろ! 抗え!」

 俺は敷地内に響き渡るほどの大声をあげていた。

 その声に、驚き、黒クマは足を止める。

「お、おどかすなや。もう、真剣になり過ぎでっせお二人さん。遊びでっしゃろ遊び。でも、まあ、楽しかったですけどね。では、ほんまにこの辺で」

 黒クマは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、優雅にこの場を後にした。

「行かせません!」

 そうなってしまうかと思った時、黒クマの前に立ち塞がる女性が一人。

「あら、あら、べっぴんさんやないですか。ん? 彼らのお友達か何かで?」

「妹です」

 黒クマの前に仁王立ちする、ワンピース姿の女性はみのりの妹、あおいだった。

「いやはや、難儀ですなほんま」

「ナイスよ! あおい! 一歩も通しちゃだめだからね」

「え? え? えっと、その声? え!? 姉さんなの!?」

「話はあとよ。まずはその綿の塊を灰にしてからね」

 その声には必死さはなかった。

 もう男衆の呪縛から逃れたみのりは指を鳴らし、ゆっくりと黒クマに影を落としていく。

「に、にいさん?」

 黒クマは天を仰ぎ、口をあんぐり開け、間抜け面をさらしていた。

「あ、あの、あにさん方はどないしはったんですか? 七、八人はいはりましたやろ?」

「あら、その人たちなら後ろで自分自身と闘ってるわよ、ほら」

 促され、黒クマは振り向く。

「一体何が?」

 男衆が動きを止めているのを目の当たりにし、訝しみ苦い顔をさらしていた。

「私にはね、一応、頼りになるクマがいるのよ」

「……はあ~~ん。なるほど。あのクマはんも不思議な力をお持ちで」

 そう言って、横目でこちらを見てくる黒クマの表情は引きつっていた。これから、襲いくる恐怖を想像し始めているのだろう。

「さあ、覚悟してよね。姿を戻してもらうだけじゃもう満足できないから」

「あはは、おそまつさまですぅ」

 そこにはもう黒クマはおらず、いたのは茫然自失の青クマだった。


「アハハハハハハハハハアハハハハハハハハハ、アッゴホッゴホッ、ダメやっぱり可笑しすぎる」

 みのりの妹、あおいの笑い声で部屋は一杯になっていた。

「笑いすぎよ、あおい!」

「だって、思い出したら、アハハハハハハハハハハハ──」

 夕暮れ時、俺たちは、みのりの自室へと帰って来ていた。

 今、無事にみのりを男の姿から、解放し、安堵の時を迎えている。

 そう、

「それ以上、笑うと」

「いたい! いたい! 姉さんやめ!」

 ソファの上で平和にみのりが妹に対し、逆エビ固めを決めている。

「でも、結局逃げられるとはな」

「本当よ。あの黒クマ今度会った時は覚えてなさいよ!」

「いっ!? いたい! 姉さん! ダメそれ以上はダメ!」

 苦しそうにもがくあおいの瞳は濡れていた。

 さすがに可哀想になったのか、みのりもやっと体を離す。

「はぁ、はぁ、はぁ……でも、皆、無事でよかった」

「あれは……な」

「空からあんな大きな隕石が落ちてきた時は腰ぬけちゃいましたもん」

「……よく生きてたわよね、私たち」

「ああ、ほんとに……」

 あの時は、俺も走馬灯を垣間見た。

 男衆とみのりの頭に刺さった旗の文字が唐突に『落下』の二文字に変わったと思ったら、空に突如として光る玉が現れたと来たもんだ。そして、あろうことかこちらに向かって落ちてくるのだから……。

 死を予感する。

「もう、思い出すのはやめにしないか?」

「そうね」

「同感です」

 つまりは、隕石なんていう予期できぬ事が起こってしまいまんまと黒クマに逃げられたという次第だ。

 不服だがあちらさんの方が一枚上手だったと言う訳だ。

「何にせよ。姉さんが元に戻れたんだし……クスッ。よかったんじゃない?」

「あ・お・い?」

 目が恐いぞ、みのり。

 しかし、本当に、よかった。これであの腕力に晒されることもないわけだ。

「でも水に濡らしたら抜けるとか、案外単純だったな」

「単純すぎなのよ、あんなに苦労したのに。あれはないでしょ、あれは」

「もういいだろ? そろそろ、機嫌直したらどうだ? おら、こっち来てコーヒーでも飲めよ?」

 二人と話しながら、俺はテーブルの上でインスタントコーヒーを用意していた。

「……ありがと」

「ほら、妹もな?」

「ありがとうございます」

 俺は二人が座るであろう、空いた席の前に一つずつコーヒーカップを置いていく。

「ねえ? コーヒーはいいんだけどさ。あんた顔がウマ面になってるわよ?」

「は? なに訳の分からないことを……」

 そう馬鹿げたことをと思っていたのだが、ふと、黒クマの顔が浮かび、急いで洗面台に駆ける。

「き、気色悪い……」

 洗面台の鏡に映っていたのは、顔だけ馬の顔となったぬいぐるみの姿だった。


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