第一話 婚約破棄ですって? ならば設計図を返していただきます
婚約破棄を告げられた瞬間、私が真っ先に考えたのは、目の前の皇太子のことでも、彼に寄り添う聖女のことでもなかった。
(――ああ、この宮殿の天井、そろそろ危ないわね)
「エレーナ・ヴァン・アローザ! 貴様との婚約は、今この場をもって破棄する!」
エルドラド帝国の皇宮、大広間。
燦然と輝く魔導シャンデリアの下で、私の婚約者である皇太子ルードヴィヒ殿下が、天を衝くような大声を張り上げていた。眩しいほどの金髪を丁寧に撫でつけ、金糸で飾られた純白の礼装に身を包んだ青年。その紫色の瞳には、帝国の頂点に立つ者特有の傲慢さが浮かんでいた。
夜会に集まった何百人もの貴族たちが、一斉に息を呑み、憐れみと嘲笑の混じった視線を私に突き刺す。
けれど、私の目は、殿下の背後にある大理石の柱に釘付けになっていた。
柱の上部、装飾的なアーチと交わる部分に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っている。それは一見すると大理石の模様のようだが、明らかに構造的な負荷が限界に達しつつあるサインだった。
この宮殿には、皇宮魔導士たちによる強力な「建築補強魔法」が施されているはずである。それなのに、なぜこんな基本構造の歪みが放置されているのか。
「聞いているのか、悪徳の血を引くエレーナ!」
ルードヴィヒ殿下は、私の沈黙を絶望と受け取ったらしい。ますます尊大な笑みを浮かべ、その隣に立つ小柄な少女の肩を抱き寄せた。
少女の名はミカ。半年前に、私が前世で暮らしていた日本から召喚された聖女だという。肩の下まで伸びた艶やかな黒髪に、純白の神官服。小柄な身体とあどけない顔立ちは、いかにも庇護欲を誘うものだった。
ミカは可憐な漆黒の瞳をうるませ、いかにも怯えた様子で私を見つめている。
「エレーナ様……そんなに怖い顔をなさらないでください。私、ただ皆さんのお役に立ちたいだけで、殿下を奪おうなんて思っていなかったのに……」
「ミカ、お前が怯える必要はない。すべてはこの傲慢な女が仕組んだ醜い陰謀なのだから」
殿下が私に向けて投げつけた罪状は、じつに盛りだくさんだった。
聖女ミカへの嫉妬に狂った嫌がらせ、果ては帝国の繁栄の象徴である「魔導宮殿」の基部を傷つけ、国家の安全を脅かそうとした破壊工作の容疑。
周囲の貴族たちが「恐ろしい」「公爵令嬢ともあろう者が、なんと浅ましい」と囁き合う。
しかし、私の心は至って冷静だった。
なぜなら私には、彼らには決して理解できない「前世の記憶」があるからだ。
前世の私は、その日本で夜遅くまで図面を引き、ヘルメットをかぶって建設現場を飛び回る「一級建築士」だった。コンクリートの配合を悩み、構造計算書と格闘し、職人たちと怒鳴り合いながらも、確かな「形」を造り上げることに命を懸けていた。
過労で倒れた後、気づけばこのエルドラド帝国の公爵令嬢として生まれ変わっていたが、幼少期に記憶を取り戻して以来、私の世界の見方は完全に「建築士」のそれだった。
だからこそ、言わせてもらいたい。
(私が宮殿を破壊しようとした? 冗談じゃないわ。私はただ、この建物の構造的欠陥を指摘しただけよ!)
私は深くため息をつきそうになるのを堪え、背筋をすっと伸ばした。背中まで伸びる銀金色の髪を優雅に結い上げ、深い青色の瞳で殿下をまっすぐに見据える。夜会のために仕立てた紺碧のドレスには、繊細な銀糸の刺繍が施されていた。公爵令嬢としての完璧な所作で、ルードヴィヒ殿下に向かって優雅に一礼する。
「……ええ、もちろんですわ、殿下。お話はしっかりと伺っております」
私の声は、大広間に驚くほど響き渡った。取り乱す様子も、涙を流す気配もない私を見て、殿下が怪訝そうに眉をひそめる。
「婚約破棄については承知いたしました。ですが殿下、その前に一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何だ。今さら見苦しく命乞いでもするつもりか?」
「いいえ」
私はにっこりと微笑み、先ほどから気になっていた天井のアーチを扇で指し示した。
「この宮殿、最後に構造の点検をなさったのは、いつですの?」
「……は?」
ルードヴィヒ殿下は、完全に思考が停止したような間抜けな声を漏らした。大広間を包んでいた緊張感も、私の突拍子もない質問によって、一瞬にして妙な空気へと変わる。
「貴様、何を言っている? 今の話と何の関係があるのだ!」
「大ありですわ。私が宮殿に『破壊工作』をしたとおっしゃいましたが、私は一か月前、この大広間の支持構造に深刻な歪みが生じているという報告書を、殿下を通じて建築局に提出いたしました。……まさか、お読みになっていませんの?」
私の問いかけに、殿下の顔がわずかに引きつった。
図星である。彼は私からの報告書を「平民じみた机上の空論」と切り捨て、内容も見ずに握り潰したのだ。
「ふ、ふん! あのような忌々しい紙切れ、読む価値もない! この皇宮は、初代皇帝陛下より続く偉大なる魔導結界と、聖女ミカの清らかな魔力によって完璧に維持されているのだ! 泥や石を積むだけの平民の知恵など、我が帝国の栄光には必要ない!」
殿下が胸を張ると、隣のミカも我が意を得たりとばかりに頷いた。
「そうです、エレーナ様。私の『聖女の結界』があれば、この王都の建物は絶対に壊れたりしません。あなたがいくら難しい理屈を並べて私の魔法を否定しようとしても、神様から授かった力は嘘をつきません!」
可憐な声で放たれたその言葉に、私は内心で盛大な嘲笑を浴びせた。
(神様から授かった力は嘘をつかなくても、建物は物理法則に従うのよ、聖女様)
このエルドラド帝国は、千年以上の歴史を誇る強力な魔法国家だ。
王都にそびえ立つ美しい宮殿、貴族たちの壮麗な屋敷、巨大な水道橋や街を囲む城壁に至るまで、すべてが「魔法による補強」を前提として建てられている。
だが、前世で一級建築士だった私から見れば、この国の建築思想はあまりにも歪で、致命的な欠陥を抱えていた。
帝国の建築士たちは、魔法でいくらでも強度を補えると思い込んでいる。その結果、基礎の強固さ、柱の配置、重量の分散といった、建築における最も基本的な「構造計算」の技術が千年間まったく進歩していないのだ。
言わば、自重で崩壊するはずの欠陥住宅を、魔法という名の強力な接着剤で無理やり繋ぎ止めているようなものである。
しかもその接着剤は、魔力を持つ貴族たちが定期的に「魔力を供給」し続けなければ、すぐに効果を失ってしまう。貴族たちは建物の維持を独占し、高額な維持費を平民からむしり取ることで権力を保ってきた。
「建物は嘘をつかない。嘘をつくのは、設計する人間よ」
私が前世から大切にしている言葉を小さく呟くと、殿下はさらに不快そうに顔を歪めた。
「何をブツブツと言っている! エレーナ、貴様の罪は明白だ。我が婚約者の座を剥奪するだけでなく、ヴァン・アローザ公爵家からも義絶とする! そして、貴様には帝国北西部の最果て『黒土領』への追放を命じる!」
ルードヴィヒ殿下は、さらに意地の悪い笑みを浮かべた。
「ただし、単なる追放では生ぬるい。貴様には、あの呪われた土地の暫定管理官を命じる。領地の維持も、領民の生活も、すべて貴様の責任だ。帝国からの支援は一切ないものと思え!」
「……暫定管理官、ですか?」
「そうだ! まともな建物一つ建てられぬ泥の土地で、せいぜい自慢の知識とやらを振りかざすがいい! なお、暫定管理官には、正式な領主に準ずる行政権と開発権を与える。ただし、帝国からの資金援助は一切認めん!」
なるほど。どうやら殿下は、私に最も過酷な罰を与えたつもりらしい。
だが、建築士としての私には、その命令が別の意味を持って聞こえていた。
(つまり、あの土地の建築や開発を、私の裁量で進めても構わないということですわね?)
会場のあちこちから「黒土領だって?」「あの一年中泥にまみれた呪われた土地か」という囁きが漏れた。
黒土領は、地盤が軟弱で、毎年のように川が氾濫し、まともな建物すら建てられないとされる帝国最悪の貧困地域だ。
皇太子は、贅沢に慣れた公爵令嬢の私が、その泥だらけの辺境で絶望し、泣き叫んで許しを乞う姿を期待しているのだろう。
けれど、私の胸の中で鳴り響いたのは、絶望の悲鳴ではなく、建築士としての歓喜の鼓動だった。
(黒土領……! 確かあの土地は、地質調査のデータによれば、特異な鉱物を含む粘土層が広がっているはず。それに、帝国建築局のしがらみや、利権にまみれた貴族たちの目が一切届かない辺境じゃない!)
これまでは公爵令嬢という身分制度の壁に阻まれ、前世の知識を活かす機会がなかった。だが、追放されて自由になれるというのなら、話は別だ。
「殿下。婚約破棄、および黒土領の暫定管理官への任命、謹んでお受けいたしますわ」
私が満面の笑みで答えると、ルードヴィヒ殿下は拍子抜けしたように目を見開いた。
「た、ただ、一つだけお願いがございます」
「な、何だ!? 今さら泣きついたところで、処分は変えんぞ!」
「いえ、そうではなく。以前、私が殿下にお渡しした『皇宮の構造改善計画書』、および帝都のグランドデザインに関する私の私的な設計図面一式を、今ここで返していただきたいのです」
私の要求に、殿下は鼻で笑った。
「ふん、あの平民じみた、数字ばかりが並んだ無価値なゴミのことか! 建築局の引き出しに眠っていたのを持ってきたが……このようなもの、我が帝国には毛頭不要だ!」
殿下は懐から、私が血の滲むような思いで書き上げた分厚い束を取り出すと、それを私の目の前で、バリバリと派手な音を立てて引き裂いた。
紙吹雪のようになった図面の破片が、大広間の床に散らばる。貴族たちが嘲笑の声を上げる中、私はその破片をじっと見つめた。
「……そうですか。未練なく破り捨ててくださって、かえって清々いたしましたわ。では、今後この宮殿、あるいはこの帝都に何が起きようとも、私には一切関係ございませんね」
私が冷徹な笑みを浮かべたその瞬間。
――ピキッ。
周囲の嘲笑にかき消されるほどの、小さな、けれど確かな音が響いた。
ルードヴィヒ殿下のすぐ後ろにある大理石の柱の亀裂が、今、確実に数ミリほど下に伸びたのを、私の目は見逃さなかった。
「ふん、負け惜しみを! さあ、早々に私の目の前から消え失せるがいい、エレーナ!」
「それでは、ごきげんよう。ルードヴィヒ殿下、そして聖女様。どうかその素晴らしい『魔法』で、いつまでもそのお命を繋ぎ止めておきなさいませ」
私は完璧なカーテシーを捧げると、一度も振り返ることなく、大広間の扉へと歩き出した。ドレスの裾を翻す私の背中に、もう未練など一欠片もなかった。
(さようなら、魔法まみれの欠陥住宅。私の技術をゴミと呼んだこと、せいぜい後悔なさい)
夜会から数日後、私は最低限の荷物と生活資金だけを馬車に積み込み、帝都を後にした。
アローザ公爵家からは完全に義絶され、同行するのは帝国が手配した御者と役人だけという味気ない旅だったが、私の心はかつてないほど軽やかだった。
馬車の窓から、遠ざかっていく帝都の街並みを眺める。
太陽の光を浴びて輝く白い尖塔や、宙に浮くように架けられた美しい橋。一見するとまるでおとぎ話の国のような美しさだが、一級建築士の視点を通せば、それは破滅へのカウントダウンを刻む砂時計にしか見えない。
(あの水道橋、アーチの頂点に不自然な負荷がかかっているわ。魔力供給が少しでも滞れば、ドミノ倒しみたいに崩壊する。……まあ、今の私にはどうでもいいことだけれど)
私は手元にある、黒土領の古ぼけた地図を広げた。
帝国北西部に位置するその土地は、広大な一級河川の急流がもたらす堆積土によって作られた平野部だ。毎年のように氾濫が起きるため、誰も住みたがらない見捨てられた土地。
だが、地図に書き込まれた等高線や、過去の治水記録(といっても、魔法で無理やり水をせき止めようとして失敗した拙い記録だが)を読み解いていくうちに、私の胸はワクワクとした興奮で満たされていった。
「……黒土領。なるほど、排水不良、地盤の軟弱さ、それに建物の老朽化。課題は山積みですが、立地そのものは交易の要所になり得る素晴らしい場所。これは想像以上に面白そうですわね」
私は思わず笑みをこぼした。
前世で、誰もが「あんな狭くて傾斜のきつい土地に家なんて建てられない」と諦めた狭小地に、完璧な構造のデザイナーズハウスを建ててみせたときの記憶が蘇る。建築士にとって、悪条件であればあるほど、それを技術でねじ伏せるカタルシスは大きいのだ。
(ルードヴィヒ殿下は、私がここで泥にまみれて絶望することを期待しているのでしょうけれど……)
私は地図を丁寧に折りたたみ、ぎゅっと握りしめた。
「私を追放した帝国が崩れようとも、私の造った街は決して崩れない。見せてあげますわ。魔法なんて一つも使わなくても、人が本当に豊かに、安全に暮らせる本物の街というものを!」
馬車がガタゴトと音を立てながら、帝都から北西へと続く街道を進んでいく。
エレーナの、泥まみれの大地から始まる、前代未聞の国家傾覆(都市開発)劇が、今ここからはじまろうとしていた。




