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信用再生  作者: さねなる
第1章 信用崩壊
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5/25

第5話 未着

【2028年9月19日 12時18分(日本時間)|日本・東京|東和第一銀行 本店|瀬川智之】


昼休みという言葉は、もう意味を失っていた。

フロアの端に置かれた弁当の箱は、誰のものか分からないまま積み上がっていた。蓋の隙間から、冷めた揚げ物の匂いが少しだけ漏れている。誰かが注文したものなのだろうが、取りに行く人間も、食べる人間もいなかった。

私は自席に戻れないまま、決済統括部の奥に設けられた臨時の確認卓に座っていた。

正面のモニターには、朝から同じ種類の警告が並び続けている。


>Settlement Hold(決済保留)

>Collateral Exception(担保例外)

>Source Ledger Not Verified(参照元台帳を確認できません)


赤い行は、消えなかった。

ひとつ処理しても、次の赤が上から落ちてくる。処理というより、赤い紙を一枚ずつ箱に移しているだけだった。箱の底には穴が開いていて、同じ紙がまた戻ってくる。そんな感覚だった。


「瀬川さん、これ、止めてるんですか」


隣の若い行員が、画面から目を離さずに聞いた。

私は少しだけ答えるのに迷った。


「止めてるわけじゃない」

「じゃあ、何ですか」

「通せない」


自分で言ってから、その違いが外から見ればほとんど同じだと気づいた。

止めているのではない。通せない。だが、受け取る側からすれば、金は届いていない。支払った側からすれば、支払ったはずの金が宙に浮いている。システムの内部でどんな言葉を使っても、外に出た瞬間、それはただの未着になる。


長谷川部長代理が、会議室から戻ってきた。ネクタイの結び目が朝よりも明らかに下がっている。


「本部長から指示。対外的には、決済不能という表現は使わない。確認中、または一部処理遅延。いいな」


誰も返事をしなかった。

長谷川は、もう一度言った。


「決済不能じゃない。確認中だ」


その言葉を聞きながら、私は画面の右端に出ている件数を見た。

保留件数は、国内法人分だけで二百を超えていた。金額欄には、普段なら支店と法人営業部だけが気にする数字が、無造作に並んでいる。数千万円、数億円、十数億円。その横に、同じ赤い記号がついていた。

ひとつひとつは、ただの振込ではない。

買掛金の支払い。部品代。物流費。外注費。給料の原資。借入返済。保証金の移動。月末ではない。五十日でもない。それでも、企業の金は毎日動いている。

その流れの一部が、見えないところで細くなっていた。


「東央精機工業から、法人営業に強い照会が入っています」


別の端末を見ていた行員が言った。


「東央精機」


名前には聞き覚えがあった。中堅の部品メーカーで、自動車、産業機械、医療機器向けの精密部品を扱っている。メイン行ではないが、東和第一にも決済口座がある。海外からの入金と、国内仕入先への支払いが多い会社だったはずだ。


「金額は」

「三件、合計で四億八千万円。うち一件が十四時半着金指定です」


長谷川が短く息を吐いた。


「指定時刻まで、まだある」

「先方は、支払指図は朝九時台に出していると言っています」

「受付は」

「受付済みです。ただ、決済完了ステータスが返っていません」


私は、その言葉に目を上げた。

受付済み。完了未返却。

この二つの間にある空白は、普段なら誰も意識しない。支払う側は「振り込んだ」と言い、受け取る側は「入金された」と確認する。銀行の中で行われる照合、流動性の手当て、日中の資金繰り、担保の差入れ、相手方とのネッティング。そういうものは、すべて水道管の内側の話だった。

蛇口をひねれば水が出る。

社会は、そういう前提で動いている。

だが、いまは水道管の内側で、誰の水なのか分からなくなっていた。


「瀬川さん、法人営業から電話です」


内線が光っていた。

私は受話器を取った。


「決済統括部、瀬川です」


相手は支店の法人担当だった。声が上ずっている。


「すみません、東央精機の川辺部長が、こちらに来られています。どう説明すればいいですか」

「現時点では、支払指図は受付済み。ただし、決済完了の確認に通常より時間を要している。そう伝えてください」

「それだと納得されません」

「納得される説明は、まだありません」


言ってから、少し強すぎたと思った。

受話器の向こうで、支店の空気が詰まったのが分かった。

私は続けた。


「原因は、個別企業の残高不足ではありません。御社側の操作ミスでもありません。ただ、完了時刻は保証できません」

「川辺部長に代わります」

「え」


止める間もなく、受話器の向こうで音が変わった。

低い男の声が入った。


「東央精機の川辺です」


一瞬、フロアの音が遠のいた。

私は椅子に座り直した。


「東和第一銀行、決済統括部の瀬川です」

「御行の担当者から、支払いは受付済みだが、着金は確認できないと言われました。こちらの理解で合っていますか」


声は荒くなかった。

だからこそ、余計に重かった。


「現時点では、その理解で結構です」

「資金は、当社口座から落ちていますか」


私は端末を確認した。


「出金処理は、内部上は予約状態です。確定出金ではありません」

「では、当社の資金はまだ残っている?」

「勘定上は、保留状態です」

「使えますか」


私は答えられなかった。

使えるか。

それは、単純な質問だった。だが、いま一番答えにくい質問だった。


「通常の再振込や取消処理は、現時点では推奨できません。二重処理になる可能性があります」

「では、当社は支払ったことにもならず、取り消すこともできないということですか」


私は、画面の赤い行を見た。

そこには、何の感情もない。


「現在、確認中です」


自分の声が、急に薄く聞こえた。

川辺は少し黙った。

その沈黙の間に、支店のざわめきが受話器越しに聞こえた。誰かが小声で「まだです」と言っている。別の電話が鳴っている。プリンターが動いている。


「瀬川さん」

「はい」

「これは、全銀の問題ですか。それとも、御行の流動性の問題ですか」


その質問で、私は川辺という人物を少しだけ理解した。

ただ怒っているだけの人間ではない。企業の金の流れを見ている人間だ。決済が遅れたとき、まずどこを疑うべきかを知っている。


「現時点で、全銀システムの全面停止とは認識していません」

「では、御行側ですか」

「当行単独の問題とも確認されていません」

「確認されていない、という言葉が多いですね」

「申し訳ありません」


謝罪は、便利な言葉だった。

だが、何も動かさない。

川辺の声が、少しだけ硬くなった。


「十四時半までに一件入らないと、相手先の出荷が止まります。今日の出荷が止まれば、明日の朝、うちのラインが一部止まります。金額の問題ではありません。順番の問題です」


順番。

金融の世界では、優先順位という言葉になる。支払順位、決済順位、担保順位、弁済順位。だが、工場では順番そのものが現物になる。部品が届かなければ、次の工程が動かない。次の工程が動かなければ、人が立っていても、機械は回らない。


「状況が更新され次第、支店を通じてご連絡します」

「直接連絡はいただけませんか」

「対外連絡は、担当支店を経由することになります」

「そうですか」


川辺は、それ以上食い下がらなかった。

ただ、最後に言った。


「銀行の中では保留でも、外では未着です。こちらでは、未着として扱います」


電話が切れた。

私は、受話器を置いたあともしばらく手を離せなかった。


未着。


たった二文字だった。

だが、決済不能よりも、ずっと生々しかった。


【2028年9月19日 12時46分(日本時間)|日本・東京|東和第一銀行 本店|瀬川智之】


午後に入る前に、金融庁と日銀からの照会が正式に入った。

正確には、正式な照会の前の、実務確認だった。文書番号のついたものではない。だが、受け取る側にとっては正式なものと変わらない。宛先には、主要行の担当部署が並んでいた。

メールの件名は、短かった。


>Urgent Request for Settlement Status(決済状況に関する緊急照会)


本文には、十三時時点での未完了件数、未完了金額、原因分類、顧客影響、流動性対応、担保差入れ状況を報告するよう記載されていた。

長谷川が、そのメールを読んで、笑わない笑い方をした。


「十三時時点って、あと十四分だぞ」


誰も返事をしない。

私たちは数字を集め始めた。

だが、数字は簡単に集まらなかった。

未完了件数といっても、どこまでを未完了とするのか。受付済みで、まだ外部ステータスが返っていないもの。内部照合で止まっているもの。担保例外で保留されたもの。相手方銀行からの確認待ちのもの。顧客から取消依頼が出ているが、取消も確定できないもの。

分類しようとすればするほど、実態から離れていく。


「原因分類はどうしますか」


若い行員が聞いた。

長谷川は、少し考えてから言った。


「システム障害とは書くな」

「では、事務遅延ですか」

「それも違う」

「流動性不足?」

「それは絶対に書くな」


私は、空欄のまま残っている原因欄を見た。

原因はある。

だが、その原因をそのまま書くことはできない。

米国東海岸の金融持株会社。ロンドンで発覚した担保照合の不一致。複数台帳。再利用された担保。誰が本当の権利者なのか分からない資産。そこから派生する国際決済の疑義。さらに、その疑義を前提にした国内銀行間の与信枠見直し。

これらを一行にまとめる言葉は、まだなかった。

長谷川が、私の画面を見た。


「瀬川、原因欄の案、出せるか」


私は少し考えた。


「外部参照データの照合遅延に伴う決済確認保留、ですかね」

「長いな」

「短くすると、嘘になります」


長谷川は、何か言いかけてやめた。

そのとき、フロアの前方にある大型モニターで、ニュース速報の字幕が流れた。


>米金融持株会社HRFG、担保管理に関する調査報道を否定


音声は消されていた。

字幕だけが、画面の下を滑っていく。


>複数の欧州金融機関で短期資金取引に慎重姿勢

>国内大手行、一部法人決済に遅延との情報


誰かがリモコンを探そうとして、途中でやめた。

消しても、同じことだった。

情報は、もう外に出ていた。


【2028年9月19日 13時07分(日本時間)|日本・東京|東和第一銀行 本店|瀬川智之】


十三時時点の報告は、未完成のまま送られた。

未完成でも送るしかなかった。数字の横には、暫定、確認中、精査中という言葉が並んだ。金融機関の報告書で、これほど確認中という文字を見たのは初めてだった。

送信直後、私の端末に社内通知が出た。


>Do not classify as payment failure.(決済不能として分類しないこと)

>Use “processing delay” until further notice.(当面は「処理遅延」と表現すること)


私は、その通知を見ながら、川辺の言葉を思い出していた。

銀行の中では保留でも、外では未着です。

まったくその通りだった。

決済不能と言わないことはできる。処理遅延と言い換えることもできる。だが、言葉を変えても、相手の口座残高は増えない。工場の出荷指示は復活しない。現場の担当者が、仕入先に頭を下げなくて済むわけでもない。

言葉は、銀行の内側を守る。

金は、社会の外側を動かす。

その二つが、初めてずれ始めていた。


「瀬川さん」


若い行員が、また私を呼んだ。


「今度は、個人の給与振込予定データです。法人から、前倒しで照会が来ています」

「給与日は今日じゃないだろ」

「はい。でも、資金移動を今日しておかないと間に合わない会社があるようです」


私は、椅子の背にもたれた。

ついに、そこまで来たかと思った。

企業間の支払いは、まだ説明できる。仕入、出荷、決済、与信。難しい言葉に包めば、一般の人間からは少し遠ざけられる。

だが、給与は違う。

給料が届かないという話になれば、誰も金融用語を待ってくれない。


「件数は」

「まだ少ないです。ただ、問い合わせは増えています」

「少ないうちに、分類しておけ。給与原資、外注費、仕入、借入返済、税公金。全部分ける」

「原因欄は」


私は、画面を見たまま答えた。


「同じでいい。外部参照データの照合遅延に伴う決済確認保留」


若い行員は、キーボードを打ち始めた。

その指先が、少し震えていた。

私も同じだった。


【2028年9月19日 13時32分(日本時間)|日本・東京|東和第一銀行 本店|瀬川智之】


午後一時半を過ぎたころ、赤い照会の数は少しだけ減った。

一瞬、フロアの空気が緩みかけた。

だが、すぐに分かった。

解消したのではない。

処理対象から外されたのだ。

画面の別タブに、新しい分類が追加されていた。


>Manual Review Required(手動確認が必要)


人間が見る。

それは、システムが見切れなくなったときに使われる言葉だった。

普段なら、手動確認は例外処理のためにある。少数の異常値を、人間が確認して戻す。だが、いまは例外のほうが増えていた。例外が増えすぎれば、それはもう例外ではない。

長谷川が、手元の紙を握ったまま立っていた。


「本部長からだ。重要先から順に、人手で確認する」

「重要先の定義は」


私が聞くと、長谷川は答えなかった。

答えられないのだ。

重要先。

大口先。公共性の高い先。給与影響のある先。サプライチェーン影響の大きい先。メイン行案件。政治的に問題になる先。メディアに出やすい先。

どの順番で救うのか。

決済の画面に、そんな列はない。


「東央精機は」


私は、自分でも意外なほど早く聞いていた。

長谷川が紙を見た。


「第二グループだ」

「十四時半着金指定があります」

「知ってる」

「第一に上げられませんか」


長谷川は、私を見た。


「第一には、病院向けの医薬品卸と、自治体関連の支払いが入っている」


それで会話は終わった。

正しい判断だった。

だから、嫌だった。

すべてを通せないとき、人は順番をつける。

その順番は、必ず誰かを後ろに回す。

銀行の中で、金が数字ではなくなっていくのを感じた。数字ではなく、誰を先に生かすかという選択に変わっていく。そんな大げさな言い方はしたくなかったが、画面の向こうにあるのは、もう単なる振込データではなかった。

十四時半まで、あと一時間を切っていた。

私は、東央精機の三件を検索した。


一件目。保留。

二件目。保留。

三件目。Manual Review Required(手動確認が必要)。


赤い印がついていた。

私は、その赤を見つめた。

赤は警告の色ではなかった。

順番を待つ色だった。

そして、その順番を決めるのは、もうシステムだけではなかった。

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