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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ドーピング

作者: 辰井狼童

ディズニーが好きな人も嫌いな人もこれを見てみよう

 


                     1

 悪い夢を見ていたようだった。

 目は薄く開いていたが、脳はまだ眠りの渦から抜け出せずにいた。それでも、霞む思考はおのずと現実世界へと焦点を合わせ始める。その段階で、おれは何か得体の知れない違和感を覚えた。視界の濁りが瞬く間に晴れてゆく。神経が研ぎ澄まされる。

 まず意識が向いたのは、後頭部に滑らかに吸い付くそれだった。それが枕であるということに気付くまで、少々時間を要した。そのしなやかな感触は、おれには全く憶えのないものだったのだ。

 次いで、身体を包むなんとも毛並みの滑らかな毛布に意識を引かれた。それは、肌のみならず胸の中までをも撫でるようであり、張り詰めた警戒を希薄なものとされてしまいそうだった。更に、良質の羽毛を使用していると思えるその掛け布団は、少しも重さの気にならぬものだった。

 このような寝具類に身体を包まれるのは初めてのことだった。そしてそれこそが、先の違和感へと繋がる素因であったのだ。

 ここは自分の部屋ではない。それは疑いようのない事実であった。

 布団を粗暴に剥ぎ、身体を起こした。このベッドで眠りに就くならば、大抵の人は良い夢を見られそうなものだが、今のおれにとってこんなものは気味の悪いものでしかなかった。

 眼球の奥が鈍く痛んだ。身体中の関節が軋む。胸と腹の底には不快なむかつきが居座っている。

 部屋は暖房が効きすぎていた。汗が滲むほどではないにしても、全身を支配する倦怠(けんたい)感に拍車をかけるには至っている。

 視線を四方に巡らせた。部屋は一二畳分ほどの広さだった。天井から吊された、小ぶりながらも細やか

な造りをしたシャンデリアは、いずれも艶光りするフローリングや木目調の壁、更にはテーブルやクローゼットといった調度類に至るまで、部屋の中全てのものにその放光を反射させ、空間を淡く優しい琥珀色に彩っている。それは、まるで神秘的な湖の中に浮遊しているかのような錯覚を起こさせた。

 どこか幻想的で現実味に欠けた部屋。やはり、こんなところに憶えは全くなかった。

 不意に耳朶(じだ)に何かが触れた。耳を澄ます。音楽のようだった。部屋の外から微かに聞こえてくる。何かはわからないが、どこか馴染みのある音楽のようにも思えた。

 痛む身体に鞭打ちベッドを降りた。壁にかけられた大きな姿見の前に立つ。そこに映る自分の姿におれは一瞬思考を断たれた。なんとか気を持ち直し、着ていたローブを脱ぎ下着のみになった。それをするだけで右の脇腹周辺が鈍く痛んだ。

 今一度姿見の中の自分を直視した。程なくして思考は宙に抜け、部屋をたゆたう琥珀色の気体に呑まれてしまう。朧ろげでゆらゆら揺らめく狼狽が全身に染み広がってゆく。どうして自分がこんなことになっているのか、まったく身に憶えがないのだ。

 おれの身体は至るところに包帯が巻かれていた。瞼に施されたガーゼからは血が滲み出し、胸周りはギプスコルセットできつく固定されている。腕、脚、額、胴へと荒々しく施されたその包帯を見ていると、まるで真っ白な蛇に巻きつかれているかのような錯覚に陥りそうになる。軽い吐きけさえする。思考が霞む。それによってか、脳を鷲摑みにされたかのような眩暈(めまい)をも覚えた。思わずその場へとしゃがみ込む。

 ようやくして気が安らぎ始めた頃、おれは何とか踏ん張り立ち上がった。まだ完全には動揺を払拭できずにいたが、構わず姿見へと目を戻す。もうひとつ、気になることがあったからだ。

 それは左の腕に彫られたタトゥーだった。緻密に重なった幾多もの筋によって生成され、鮮やかなブルーのグラデーションによって命を吹きこまれた一頭のドラゴンが、目を(みは)るような美しさで己の存在を誇示している。包帯の間を縫って今にも()びだしてしてきそうなその華やかな力強さに、おれの目はまるで食虫植物に誘惑される虫のように吸い込まれた。それだけ、それは優れた芸術として成り立っているということだ。ただしかし、これほどまでに人を魅了するこの芸術品にもおれにはまったく憶えがないのだった。

 どうしちまったっていうんだ、おれは。

 おれはその場に立ち尽くし、暫し思案に耽った。何か得体の知れない怪異に見舞われている、そんな気がしてならなかった。

 その後、ひとしきり何とか記憶の糸を手繰り寄せようと試みたが、それも霞んだ思考の前では不毛の念に終わるほかなかった。

 不意に外の景色を見たくなった。その理由は自分でもわからない。外の景色を見ることで霞んだ思考を晴らすことができたらという思いがその霞んだ心中に意としてあるのか。それとも、それをすることが記憶を呼び起こすためには不可欠であるということを本能が訴えかけているのか。それはやはりその霞んだ思考の前では何もわからないのだが、そんなことはどうでもよかった。おれはただ純粋に外の景色を見たいのだ。

 ガラス戸にはカーテンがひかれていた。その方へ歩み寄る。その歩みは静かで慎重なものだった。微かな緊張を自覚した。

 何故だかカーテンに触れることがためらわれた。その向こうに一体何があるというのか。地獄があるわけでもあるまい。それは、先ほどから微かに聞こえる幻想的な音楽によって証明されている。快い鼓膜の振動を呼び起こすその幻想曲。地獄のものなどではない。それは確かだった。

 おれは半ば開き直ったように、カーテンへと手を伸ばした。

 指先がカーテンを撫でたときだった。背後で鈍い金属音がした。それは実際ごく小さな音だった。しかしおれはバネ仕掛けの人形のようにぴんと背を張った。おれは意を決し、恐る恐る音のした方へ振り返った。そこには木製のドアがあった。部屋にドアはひとつしかないようなので、出入り口であろう。

 そのドアが僅かに開いた。

 息を呑む。

 静かに、しかし確実にドアは開いてゆく。

 ドアの透き間の向こうに、そのノブを握る手が覗いた。白い手だった。透き通るような桜色をしていることがここからでもわかる。その華奢な手は女のものに違いなかった。

 ドアの透き間からその手の主がひょいと顔を覗かせた。目が合った。大きな目だった。

 おれの姿を確認した女は部屋の中へと入ってきた。その姿が露わになる。その瞬間、おれは目を剥いた。

 女はいわゆるメイドの格好をしていた。しかしそれは、秋葉原などによくいるとされるメイドのそれとは一線を画していた。女の身に着けている衣装は極めて露出の多いものだったのだ。両の肩は完全に剥き出され、申し分なく膨らんだ乳房の深い谷間が自身の存在を誇らしげに主張している。更に、丈の短い上衣は臍を覗かせ、同じように丈の短かなスカートはすらりと伸びた美脚を晒している。その女の出で立ちは、完全にこの部屋の雰囲気にはそぐわないものだった。

 一体何なんだ、この女は。

 おれは当然のように(いぶか)しんだ。

「目、覚めたみたいだね」

 女は心なしか頓狂な調子でそういうと、その黒目がちの大きな丸い目でおれを見据えた。

「誰だ、あんた」

 おれは努めて緊張を抑えようともせぬままに警戒の意を言葉にした。案の定、声が少し裏返ってしまった。

「おいらはメロウさ」

 女は自分の名を告げると、靴を粗暴に脱ぎ捨て部屋へとあがった。

「メロウ?」

「うん。よろしくね」

 女は首を横に傾げ、膝を曲げ、両手でスカートの裾を摘み、まるでバレリーナのような(てい)でいった。傾げた首により、真っ黒なショートボブがさらりと垂れ下がっている。裾を摘んだ短かなスカートからは今にも下着が見えてしまいそうだ。ただ、表情だけはまったくの無であった。それが何とも不気味に思えた。女のその姿態としゃべり方とのギャップにおれは猛烈な違和感を覚えた。

「へぇ、メロウってゆうのか、あんた。それって本名なのか?外人・・・・・・じゃあねぇよな」

 おれが真に訊きたいところはそこではなかったが、高鳴る鼓動に思考が狂わされていた。

「おいら、池袋のセクシーメイドパブで働いてるんだけど、そのお店での名前がメロウってゆうんだ。友達なんかも皆、普段からおいらのことメロウって呼ぶからそれが定着しちゃったの」

「その服は?店のものか?」

「そうそう。可愛いでしょ、これ。おいらこの衣装すごい気に入ってて、お店以外のところでも着るのね。それでこれ着て秋葉原なんか行くとオタクくんたちがいっぱい集まってきてさ、写真とか撮られたりするんだ。それだけこの衣装が可愛いってことなんだよね。あなたもそう思わない?これ。思うでしょ?」

 女のその問いに大した同意はできなかったが、おれは曖昧に頷きその場をとりなした。

「それより、あんたは一体・・・・・・」

 一瞬、何をいおうとしたのかがわからなくなった。流れを取り戻しつつあった思考回路が再び閉ざされてしまったかのような感覚に囚われた。実際、おかしなものだった。目の前の女に然りこの部屋の雰囲気そのものが。この様な奇異な空気の微睡(まどろ)む空間で、心の平静を保つのは容易なことではないのだ。

「・・・あんたは・・・あんたは一体・・・・・・ここで何をしているんだ?」

 おれは呟く様ににして言葉を搾り出した。抽象的で無難な問いだと自分で思った。

「え~と。何をしてるかってゆうと、あなたと同じ目に遭ってここに身を隠してるんだけど」

「おれと同じ目に?」

 おれは眉根を寄せて女を見た。先ほどから気にはなっていたのだが、女の額にはおれと同じ様に包帯が巻かれていた。同じ目、というのはそのことだろうか。

「どういうことなんだ、それは。詳しく教えてくれ」

 おれは熱のこもった口調でいった。

「何も憶えてないの?」

「あぁ」

「あらぁ」

 女は一驚したが表情に変化はなかった。感情が表に出ない(たち)らしい。捉えどころのない奴だった。

 女はおれの問いに対して何も返しを寄越さぬまま、ガラス戸の前に置かれたロッキングチェアに腰をかけた。随分と凝った造りのチェアである。それだけではない。部屋の中のあらゆるものがそうだった。センスよく配置された調度類。手入れのいき届いた備品類。それら全てのものが、その洒落たデザインからして異国製であろうことを予測させた。

 女はチェアに揺られながら、上衣のポケットから(おもむ)ろにジョーカーのボックスを取り出した。

「取り敢えず服を着てちょうだい。レディーの前でパンツ一丁はちょっと失礼なんじゃない?」

 女は冗談めかした口調で言い放ち、プラチナ色のターボライターで煙草に火をつけた。

「おれの服は?」

「クローゼットの中に入れといた」

 クローゼットの中には、ノースリーブとカーゴパンツが吊されていた。おれはそれぞれを手に取り身に着けた。

「靴下は?」

「そこに入ってる。あと携帯も仕舞っておいたからね」

 女はクローゼットの横に置かれた腰の高さほどの小タンスを指で示した。

 小タンスの一段目の引き出しを開けると、携帯電話と無造作に丸められた靴下があった。靴下を手に取りそれをはこうとしたとき、異変に気がついた。

「何だ、これ」おれは女を見た。「何でこの靴下こんなにボロボロなんだよ」

「あぁ、そうだ」女はおれの示す靴下を見て何かを思い出したような顔をつくった。「あなたここに来たとき靴はいてなかったんだもの」

「・・・・・・」俺は眉間に皺を寄せた。「どういうことだ」

「う~んと、これはちょっと話すのに時間かかるからあとでゆっくり話してあげる」女は眉尻を下げていった。「煙草吸い終わったらね」

 おれは今すぐ話してくれ、と抗議したかったがそんなことをしても無駄なことは目に見えていたので口にはしなかった。

 特に明確な目的はなかったが、携帯を手に取り開いてみた。すると、ディスプレイにディズニーキャラクターの待ち受け画面が表示された。心臓が一度、大きく胸を打った。それを目にした瞬間、おれの心の奥深いところで何かが揺らめいたのだ。それが何を意味するのかはわからない。ただ、悪い知らせではないような気がした。

 女はチェアに揺られながら目を瞑っていた。カーテンの向こうから聞こえてくる幻想曲に耳を傾けているようだ。宙に煙草の紫煙が揺らめいている。

 今まで、メイドの喫煙シーンを目にすることなどはなかった。メイドは煙草を吸わない、なんてものはおれの既成概念の果てでしかないのだが、事実、メイドに煙草は似合わなかった。ジョーカーという銘柄も、少なからずその違和感に拍車をかけているのは間違いないだろう。

 まだ女に話を始める様子はなかった。早々と煙草を吸い終えて話を聞かせて欲しいのだが。仕方がない。待つしかないようだ。

 自分も今一度、鼓膜を控えめに撫で揺らすその音楽に意識を集中させた。ほどなくして、頭の中が幻想的な色彩へと染めかえられてゆく。空気を震わす重低音が心地好い。微かな眠けが遠いところから忍び寄ってくるのを感じた。おれはそれに身を(まか)せたく思った。

「ここはレストランなの」

 不意に聞こえた声におれは我に返った。そうだった。女の話を聞かなくては。おれに眠っている余裕などはないのだ。この部屋にいると、どうにも意識は霞んでしまう。

「レストラン?」

 おれは思考の焦点を合わせながら訊き返した。

「そう」女はチェアを離れ、ようやく吸い終えた煙草の殻をテーブルに置かれたクリスタルの灰皿へ捨てた。「ここはこのレストランのキャスト用ベッドルームだったの。今おいらたちがいるのは三階なんだけど、この三階にはベッドルームが全部で六部屋あるんだ。ちなみにおいらはこの部屋の隣で寝泊りしてるんだよ」

「へぇ・・・・・・」

 ベッドの縁に腰を沈めていたおれは何故だか半ば漠然と話を聞いていた。ここがレストランであるということを知っても特に大したことではないように思えた。もっと重要なことがあるだろう、とおれは思った。

 女はダイニングテーブルからセットチェアを抜き、それをベッドに座るおれと向き合うような形にセットして腰をかけた。その女の姿を改めてよく見てみる。やはり、それは可笑しなものだった。露出度の高いメイド服が晒す豊満な乳房の深い谷間。そして、開花したての桜のように透き通った美脚。どこか危うい陰を秘めた童顔とそのあまりに艶麗(えんれい)な牝の肉体とを対比してみれば、両者が相容れぬものであることは一目瞭然であった。

「どうしたの?じろじろ見ちゃって。そんなに色っぽい?おいらのからだ」

 そう茶化して女は笑った。笑うところを見るのは初めてだった。そしてその笑みは、おれの胸の奥深いところまでをぞくぞくと疼かすほどに効果の大なるものだった。ほんの一瞬、思考が虚空を彷徨う。夜の海にひとり浮遊する海月(くらげ)のように。

 おれはまんまと動揺させられていたのだった。予想の範疇を超える魅惑的なその笑みに。そして、網膜を刺激する好色的な牝のからだに。

「下品だな」

 俺は動揺を悟られぬよう、努めて冷淡な素振りを取り繕った。

 何を格好つけてるんだか。こんな女にクールを気取ったって仕方がないだろう。

「ちょっとぉ。下品とかってひどくない?それぇ」女は唇を尖らせて抗議した。「ほんとは、いいからだしてんなぁとかってエロい目で見てたんでしょう、おいらのからだ。もう、素直じゃないんだからぁ」

「まぁ否定はしねぇけどよ。てゆうかそんなことはどうだっていいんだ」

「そんなことってぇ・・・」

女はまだ何かいいたそうだったが、ひとつため息をついただけでそれ以上は何もいわなかった。

「ここはレストランの三階だっていったけか」おれは話を線上に戻すことにした。意味のない話に脳味噌が呆れ返っていた。「一、二階はどうなってんだ?レストランホールにでもなってんのか?」

「うん。そうそう」

「そうか・・・まぁ、ここまでの話でわかったのはここがレストランであること。それと、あんたがここで暮らすメイドだってこと。わかったのはそれだけだ。そして、まだわかっていないことだが・・・・・・」

 おれは口を(つぐ)んだ。

 わからないこと、知りたいこと。それを考えたとき、澱んだ空気が渦巻く魔界から新鮮な空気に包まれた人間界へすぅっと引き戻されたかのような感覚に囚われた。要するに、現実に返ったということだ。しかし実際のところ、その現実世界は魔界などよりも遥かに怪異に満ちた世界であるということをこのときのおれはまだわかっていなかった。もう既に、おれはこの世界を支配する濁酒(どぶろく)のように濁った世界に浸っていたのだった。

 

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