【短編】叩き潰して差し上げます
「相変わらず大げさね、お義姉さま」
可憐な声でそう言ったのは、婚約者の妹、エミリアだった。
柔らかな栗色の髪に、花のような笑顔。誰が見ても愛らしい少女だ。けれど、その言葉の裏に含まれた小さな棘を、私は聞き逃さない。
私は、虫が嫌いだ。
理由は単純ではない。見た目が苦手だからでも、動きが気持ち悪いからでもない。私の領域に、断りもなく入り込み、平然と踏み荒らす存在が嫌いなのだ。
もちろん、すべての虫を忌み嫌っているわけではない。蝶のように、花から花へと移り、こちらに害を及ぼさぬものまで憎むほど、私は狭量ではない。
私が嫌うのは――
音もなく忍び寄り、血を吸うもの。
気づけば食い荒らし、触れれば害を残すもの。
どこから入り込んだのかも分からぬまま、毒を持って現れるもの。
害虫は、慣れても無害にはならない。
鮮やかな色をしていようと、小さく丸まった無垢な姿をしていようと、触れれば、確実に毒を残す。
エミリアは――そういう類だ。
刺すのは一瞬。けれど、痒みや痛みは、あとからじわじわと広がる。しかも本人にその自覚はない。あるいは、自覚していても、それを悟らせぬほど無垢を装うのが上手い。
私が不快を示せば、「神経質」と言われ、困惑すれば、「心配しているだけ」と微笑まれる。
彼女は、花のような笑顔の裏で、私の言葉を拾っては少し歪め、「善意」の形にして自分の母へ報告するのが得意だった。
「お義姉さまがね、最近お疲れみたい。こんな小さな虫に驚くなんて気持ちが疲れている証拠だわ……わたし、心配で」
そう言って愛らしく首を傾げる姿を、誰が疑えるだろう。
そして小さな声で、私にそっとささやく。
「虫くらいで侍女を呼ぶなんて、本当に大袈裟。兄の婚約者として、情けないわ」
その言葉に、私は微笑みで返した。いつも通り。何も言わない。
それが、“良い婚約者”だから。
――正確に言えば、良い婚約者で「あるように見せる」ことを私は選んでいた。自分の立場を理解しているからだ。この婚約は、感情で結ばれたものではない。
家と家。
金と金。
利害と利害。
その均衡の上に、私は置かれている。
だからこそ、軽率に波風を立てる理由はなかった。些細な不満を口にし、「扱いづらい婚約者」と見なされるほど、愚かではない。
――けれど、それは従順さとは違う。
私は、父からひとつだけ言われていた。
「この婚約が、我が家にとって“益”か“害”かを見極めよ」
問いただせ、とも。争え、とも。耐えろ、とも言われなかった。
ただ、見るように、と。
この家が、どんな金の使い方をし、どんな顔で善意を語り、どこまで他人の領域に踏み込むのか。そのすべてを、静かに。私は、それを見極めていた。観察だ。
婚約者のベルナード様も、特に、自分の家族を咎めはしない。ただ、少し困ったような、しかしどこか私を見下ろす視線で、こう言うのだ。
「まあ、君は、気持ちが弱いからね。母も心配しているんだ」
――心配。
その言葉が、ずいぶん便利に使われる家だと思う。
蚊もまた、刺したあとには、きっとこう言うのだろう。少し血を分けてほしかっただけだ、と。
音もなく近づき、気づいたときにはもう吸われている。しかもこちらが不快を訴えれば、「そんなに大げさにすることか」と笑う。
ベルナード様は、自分が何を奪っているのか、考えたこともないのだろう。
私の時間も、気力も、尊厳も。
それでもなお、“心配している”という言葉で、すべてを正当化する。
私は微笑みを崩さず、静かに笑った。
「ええ。ご心配いただき、ありがとうございます」
――まだ、この時は。私は、黙っていることを選んでいた。
その母もまた同じだ。表では守っているふりをしながら、気づかぬうちに柱を食い、土台を弱らせる。しかも本人には、自分が害を与えているという自覚すらない。
違和感は、いつも小さな形で現れた。例えば、訪問のたびに繰り返される身支度の話。
「あなたにはもう少し落ち着いた色が似合うわ」
婚約者の母は、穏やかな声でそう言い、私のドレスの袖口に指先を触れた。否定ではない。提案だ。――少なくとも、表向きは。
「エミリアは淡い色が似合うでしょう? あなたは、もう少し落ち着いた色の方が似合うわ。だからね、そのドレスはエミリアに譲ってほしいの」
それは、服の色だけの話ではなかった。
食事の席でも、同じ調子だ。
「最近、随分と外でお茶会が多いようだね」
ベルナード様は、ナイフを置きながら、何気ない口調で言う。責める声ではない。あくまで心配している、という体裁。
「社交は大切だけれど、無理をすると体を壊す。そうだ、君が出席する予定の伯爵家のお茶会、君の代わりにエミリアが出席するのはどうだい? 母もそう言っていた」
……母も。
家族全員が同じ言葉を使うと、それはもう個人の感想ではなく、“方針”になる。ああ、そういえばエミリアは、伯爵家のご令息を狙っていたわね。
私はまた微笑む。
「ええ、考えておきますわ」
「ああ、そうしてくれると安心だ」
それで終わりだ。
私の行動は、いつの間にか「許可制」になっていた。
エミリアは、そのやり取りを少し離れた場所から眺めている。そして必ず、仕上げの一言を添えるのだ。
「お義姉さまは、優しいから、断れないのよね」
哀れむような声。守ってあげる、と言わんばかりの眼差し。その言葉を聞くたび、周囲は納得したように頷く。
――ああ、彼女は気が弱いのだ、と。
違う。私は弱いから黙っているのではない。
「あなたのことを思ってのことよ」
「家族になるのだから、遠慮はいらないでしょう?」
家族。なんて便利な言葉だろう。
境界を消し、侵入を正当化するには、これ以上ない。
夜、屋敷を辞し、自室に戻ると、ようやく息ができた。窓の外で、庭木が風に揺れている。
自然の虫は、まだ許せた。
彼らは、自分の生きる場所をわきまえている。
問題なのは――人の形をした虫だ。
善意を装い、優しさを武器にし、少しずつ、確実に、こちらの内部を食い荒らす存在。
そして、こちらが何も言わなければ、こう判断する。
――もっと踏み込んでも大丈夫。
女主人である婚約者の母は、私の持参金と家柄を愛していた。
婚約者は、私が従順であることを好んだ。
婚約者の妹は、私が黙っている限り、安心して踏み台にした。
ある日のこと。
お茶会が始まる前、まだ誰も座っていないはずの私の席に、ひとつだけ、小さな箱が置かれていた。装飾の施された木箱。蓋には、可愛らしい花の彫刻。
――誰かの忘れ物かしら。
そう思ったのは一瞬だった。
箱の中から、かすかな音がしたのだ。擦れるような、蠢くような。嫌な予感が、背筋をなぞる。
「可愛い箱ね、開けてみたら?」
エミリアは、無邪気な声で言った。
ああ、やっぱり。私は、動けなかった。箱の中身が、分かってしまったから。
蓋を、少しずらすと、予想通り。――悲鳴は、上げなかった。
ざわり、と空気が揺れ、次いで笑い声が起きた。
「お姉さま、虫が苦手でしたわよね」
「悪気はないのよ。ただ、慣れた方がいいと思って、ごめんなさいね」
ふざけた母娘は扇子で口元を隠し、婚約者は困ったように眉をひそめるだけ。
その瞬間、私の中で何かぷちりと切れた。
私の領域に入り込み、尊厳をかじり、平然と笑う存在。
我慢をする必要があるかしら?
私は静かに立ち上がり、箱の蓋を閉めた。
「ご心配には及びませんわ」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「虫が嫌いなことは事実。ただ——対処法を知らなかっただけなので」
箱の蓋を閉じ、薄く笑う母と娘に向かって投げつける。
「きゃあああああ」
「あら? 大袈裟ですわね。虫くらいで悲鳴を上げるなんて。そんなに気持ちが弱いと心配になりますわ」
悲鳴を上げ混乱する様子に背を向け、その場を後にする。
それから私は、ほんの少しずつ、動き始めた。
怒りに任せて声を荒げることも、直接抗議することも、できなくはなかった。けれど、それでは意味がない。
害虫は、叩けば逃げる。
潰すなら、逃げ場ごと塞がなければならない。
婚約者が横領まがいの取引をしていたこと。
その母が実家の権限を利用して不正に便宜を図っていたこと。
その妹が“被害者”を演じながら、裏でどれだけ人を貶めてきたか。
虫を退治するのに、素手で掴む必要はない。ましてや、こちらが汚れる理由など、どこにもない。
茶会で、社交の場で、書簡の行き違いという形の道具を使い、退治を始めた。“偶然”が重なり、“事実”が浮かび上がる。
偶然、書類の不備が見つかる。
偶然、同じ話を別の筋から聞く者が現れる。
偶然、査問機関の耳に入る。
私は、ただそこにいた。驚き、困り、心配する令嬢として。
◇
婚約者の家で、婚約破棄の書類を差し出す。社交界に流れる噂は、査問機関が動くまでに広がっていた。すでに、社交界にも噂が流れていた。もうこの家は終わりね。
「……どうして……」
ベルナード様の声は、震えていた。その母は、青ざめ、エミリアは唇を噛みしめている。
横領まがいの取引。
不正な便宜。
“善意”の裏で行われていた数々の行為。全てがばれていた。
誰も、私を疑わない。私は、あまりにも“静か”だったから。
「こんなこと……身内しか知らないような話が、どうして外に……」
母が縋るような目で私を見る。
「まさか、あなたが?」
私は、微笑んだ。
「虫が嫌いなのです」
問われて、私は微笑む。
「む、虫?」
そして、ゆっくりと言った。
「私に害を及ぼす虫ですわ。見て見ぬふりを為てきたのですが、我慢できなくなりましたので、退治しなくてはいけないかと思いまして」
声を荒げる必要はない。ただ、微笑むだけ。
翌月、婚約は正式に解消された。
私は、静かな生活を手に入れた。
庭園で、蝶が舞う。それは、美しい虫だ。——花から花へと移り、こちらに害を及ぼさない限り。
白い陶器のカップから、湯気が静かに立ちのぼっていた。一緒にお茶を楽しんでいた友人レオンが、何でもないことのように口を開く。
「虫の退治は、怖くなかったかい?」
「いいえ、まったく」
即答だった。
「虫は、怖くないの。嫌いなだけ」
言葉にすると、肩の力が抜ける。彼はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
レオンは、初めて会った頃から、私を哀れんだことがない。
守ろうとも、正そうともせず、ただ見ていた。
レオンと出会ったのは、社交の場ではなかった。
実家の書庫だった。
父親の用事に付いてきた子息が、廊下で道に迷っていた。案内役の侍女も見当たらず、困ったように扉の前に立ち尽くしている。
「何か、お探しですか?」
そう声をかけると、彼は少し驚いた顔をしたあと、素直に言った。
「書庫です。父を待っている間、居てもよいと許可をいただきまして」
声に警戒がなかった。私は案内をし、鍵を開け、中へ通した。埃の匂い、革装丁の背表紙、静かな空気。彼は本を手に取らず、ただ棚を眺めていた。
「読まないのですか?」
「見る許可はいただいていないので」
その答えに、少しだけ笑ってしまった。
「居てもよい、ということは見てもよいということですよ」
「はは、そうですよね」
それから、書庫で何度か顔を合わせた。彼は必ず、私のいる場所から一歩引いたところに立つ。
近づきすぎない。
踏み込まない。
勝手に判断しない。
その距離感が、心地よかった。
ある日、私が一冊の本を落とした。彼は拾い上げ、私の手のひらにそっと置いた。
触れないように。
「こういう本、好きなのか」
口調は、いつしか親しい間柄のそれになっていた。
友人になったのは、きっとその頃だ。
恋だと気づいたのは、もっと後。
婚約者の家の話を、ほんの一部だけ漏らした夜。彼は、怒らなかった。義も振りかざさなかった。
「……なるほど。君は、観察しているんだな」
それだけ言って、続きを促さなかった。
その沈黙が、胸に残った。
感情を煽らない人。
選択を奪わない人。
気づけば、彼がそばにいるのが心地よくなっていた。
「やはり君は、我慢しているより潰す側でいる方が、ずっと美しいな」
「それは、褒め言葉のつもり?」
「ああ。最大級の」
――最初から、分かっていたのだろう。私が耐えているのではなく、待っているだけだということを。
彼は一歩だけ距離を詰め、声を落とす。
「君が一人でやりたいと言ったから、黙っていた。だが、もし次に厄介な虫が現れたら――今度は呼べ」
冗談めかした口調の奥に、確かな意志があった。
「君に群がる悪い虫を、俺が見過ごすと思うな」
それは、庇護ではない。共犯の申し出だった。私は少し考えてから、微笑む。
「では、その時は一緒に、叩き潰しましょう」
蝶が庭を横切り、淡い羽音を残して消えていく。風が花を揺らし、何事もなかったように世界は続く。
この庭に残るのは、光を好み、風を知り、自分の羽で飛べるものだけ。
END




