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【短編】叩き潰して差し上げます

作者: 楽歩
掲載日:2026/02/01

「相変わらず大げさね、お義姉さま」




 可憐な声でそう言ったのは、婚約者の妹、エミリアだった。




 柔らかな栗色の髪に、花のような笑顔。誰が見ても愛らしい少女だ。けれど、その言葉の裏に含まれた小さな棘を、私は聞き逃さない。








 私は、虫が嫌いだ。




 理由は単純ではない。見た目が苦手だからでも、動きが気持ち悪いからでもない。私の領域に、断りもなく入り込み、平然と踏み荒らす存在が嫌いなのだ。




 もちろん、すべての虫を忌み嫌っているわけではない。蝶のように、花から花へと移り、こちらに害を及ぼさぬものまで憎むほど、私は狭量ではない。




 私が嫌うのは――




 音もなく忍び寄り、血を吸うもの。


 気づけば食い荒らし、触れれば害を残すもの。


 どこから入り込んだのかも分からぬまま、毒を持って現れるもの。




 害虫は、慣れても無害にはならない。




 鮮やかな色をしていようと、小さく丸まった無垢な姿をしていようと、触れれば、確実に毒を残す。








 エミリアは――そういう類だ。




 刺すのは一瞬。けれど、痒みや痛みは、あとからじわじわと広がる。しかも本人にその自覚はない。あるいは、自覚していても、それを悟らせぬほど無垢を装うのが上手い。






 私が不快を示せば、「神経質」と言われ、困惑すれば、「心配しているだけ」と微笑まれる。




 彼女は、花のような笑顔の裏で、私の言葉を拾っては少し歪め、「善意」の形にして自分の母へ報告するのが得意だった。








「お義姉さまがね、最近お疲れみたい。こんな小さな虫に驚くなんて気持ちが疲れている証拠だわ……わたし、心配で」




 そう言って愛らしく首を傾げる姿を、誰が疑えるだろう。






 そして小さな声で、私にそっとささやく。




「虫くらいで侍女を呼ぶなんて、本当に大袈裟。兄の婚約者として、情けないわ」






 その言葉に、私は微笑みで返した。いつも通り。何も言わない。




 それが、“良い婚約者”だから。








 ――正確に言えば、良い婚約者で「あるように見せる」ことを私は選んでいた。自分の立場を理解しているからだ。この婚約は、感情で結ばれたものではない。




 家と家。


 金と金。


 利害と利害。




 その均衡の上に、私は置かれている。




 だからこそ、軽率に波風を立てる理由はなかった。些細な不満を口にし、「扱いづらい婚約者」と見なされるほど、愚かではない。




 ――けれど、それは従順さとは違う。










 私は、父からひとつだけ言われていた。




「この婚約が、我が家にとって“益”か“害”かを見極めよ」




 問いただせ、とも。争え、とも。耐えろ、とも言われなかった。




 ただ、見るように、と。




 この家が、どんな金の使い方をし、どんな顔で善意を語り、どこまで他人の領域に踏み込むのか。そのすべてを、静かに。私は、それを見極めていた。観察だ。








 婚約者のベルナード様も、特に、自分の家族を咎めはしない。ただ、少し困ったような、しかしどこか私を見下ろす視線で、こう言うのだ。






「まあ、君は、気持ちが弱いからね。母も心配しているんだ」




 ――心配。




 その言葉が、ずいぶん便利に使われる家だと思う。








 蚊もまた、刺したあとには、きっとこう言うのだろう。少し血を分けてほしかっただけだ、と。




 音もなく近づき、気づいたときにはもう吸われている。しかもこちらが不快を訴えれば、「そんなに大げさにすることか」と笑う。






 ベルナード様は、自分が何を奪っているのか、考えたこともないのだろう。




 私の時間も、気力も、尊厳も。




 それでもなお、“心配している”という言葉で、すべてを正当化する。




 私は微笑みを崩さず、静かに笑った。






「ええ。ご心配いただき、ありがとうございます」




 ――まだ、この時は。私は、黙っていることを選んでいた。








 その母もまた同じだ。表では守っているふりをしながら、気づかぬうちに柱を食い、土台を弱らせる。しかも本人には、自分が害を与えているという自覚すらない。






 違和感は、いつも小さな形で現れた。例えば、訪問のたびに繰り返される身支度の話。






「あなたにはもう少し落ち着いた色が似合うわ」




 婚約者の母は、穏やかな声でそう言い、私のドレスの袖口に指先を触れた。否定ではない。提案だ。――少なくとも、表向きは。






「エミリアは淡い色が似合うでしょう? あなたは、もう少し落ち着いた色の方が似合うわ。だからね、そのドレスはエミリアに譲ってほしいの」






 それは、服の色だけの話ではなかった。




 食事の席でも、同じ調子だ。








「最近、随分と外でお茶会が多いようだね」




 ベルナード様は、ナイフを置きながら、何気ない口調で言う。責める声ではない。あくまで心配している、という体裁。




「社交は大切だけれど、無理をすると体を壊す。そうだ、君が出席する予定の伯爵家のお茶会、君の代わりにエミリアが出席するのはどうだい? 母もそう言っていた」






 ……母も。




 家族全員が同じ言葉を使うと、それはもう個人の感想ではなく、“方針”になる。ああ、そういえばエミリアは、伯爵家のご令息を狙っていたわね。




 私はまた微笑む。








「ええ、考えておきますわ」




「ああ、そうしてくれると安心だ」




 それで終わりだ。






 私の行動は、いつの間にか「許可制」になっていた。




 エミリアは、そのやり取りを少し離れた場所から眺めている。そして必ず、仕上げの一言を添えるのだ。






「お義姉さまは、優しいから、断れないのよね」




 哀れむような声。守ってあげる、と言わんばかりの眼差し。その言葉を聞くたび、周囲は納得したように頷く。




 ――ああ、彼女は気が弱いのだ、と。




 違う。私は弱いから黙っているのではない。












「あなたのことを思ってのことよ」




「家族になるのだから、遠慮はいらないでしょう?」




 家族。なんて便利な言葉だろう。




 境界を消し、侵入を正当化するには、これ以上ない。










 夜、屋敷を辞し、自室に戻ると、ようやく息ができた。窓の外で、庭木が風に揺れている。




 自然の虫は、まだ許せた。




 彼らは、自分の生きる場所をわきまえている。




 問題なのは――人の形をした虫だ。




 善意を装い、優しさを武器にし、少しずつ、確実に、こちらの内部を食い荒らす存在。




 そして、こちらが何も言わなければ、こう判断する。




 ――もっと踏み込んでも大丈夫。






 女主人である婚約者の母は、私の持参金と家柄を愛していた。


 婚約者は、私が従順であることを好んだ。


 婚約者の妹は、私が黙っている限り、安心して踏み台にした。










 ある日のこと。




 お茶会が始まる前、まだ誰も座っていないはずの私の席に、ひとつだけ、小さな箱が置かれていた。装飾の施された木箱。蓋には、可愛らしい花の彫刻。






 ――誰かの忘れ物かしら。




 そう思ったのは一瞬だった。




 箱の中から、かすかな音がしたのだ。擦れるような、蠢くような。嫌な予感が、背筋をなぞる。






「可愛い箱ね、開けてみたら?」




 エミリアは、無邪気な声で言った。




 ああ、やっぱり。私は、動けなかった。箱の中身が、分かってしまったから。






 蓋を、少しずらすと、予想通り。――悲鳴は、上げなかった。




 ざわり、と空気が揺れ、次いで笑い声が起きた。








「お姉さま、虫が苦手でしたわよね」




「悪気はないのよ。ただ、慣れた方がいいと思って、ごめんなさいね」






 ふざけた母娘は扇子で口元を隠し、婚約者は困ったように眉をひそめるだけ。




 その瞬間、私の中で何かぷちりと切れた。






 私の領域に入り込み、尊厳をかじり、平然と笑う存在。




 我慢をする必要があるかしら?




 私は静かに立ち上がり、箱の蓋を閉めた。








「ご心配には及びませんわ」




 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。






「虫が嫌いなことは事実。ただ——対処法を知らなかっただけなので」






 箱の蓋を閉じ、薄く笑う母と娘に向かって投げつける。










「きゃあああああ」




「あら? 大袈裟ですわね。虫くらいで悲鳴を上げるなんて。そんなに気持ちが弱いと心配になりますわ」








 悲鳴を上げ混乱する様子に背を向け、その場を後にする。








 それから私は、ほんの少しずつ、動き始めた。




 怒りに任せて声を荒げることも、直接抗議することも、できなくはなかった。けれど、それでは意味がない。




 害虫は、叩けば逃げる。




 潰すなら、逃げ場ごと塞がなければならない。








 婚約者が横領まがいの取引をしていたこと。


 その母が実家の権限を利用して不正に便宜を図っていたこと。


 その妹が“被害者”を演じながら、裏でどれだけ人を貶めてきたか。






 虫を退治するのに、素手で掴む必要はない。ましてや、こちらが汚れる理由など、どこにもない。




 茶会で、社交の場で、書簡の行き違いという形の道具を使い、退治を始めた。“偶然”が重なり、“事実”が浮かび上がる。




 偶然、書類の不備が見つかる。


 偶然、同じ話を別の筋から聞く者が現れる。


 偶然、査問機関の耳に入る。




 私は、ただそこにいた。驚き、困り、心配する令嬢として。






     ◇






 婚約者の家で、婚約破棄の書類を差し出す。社交界に流れる噂は、査問機関が動くまでに広がっていた。すでに、社交界にも噂が流れていた。もうこの家は終わりね。






「……どうして……」




 ベルナード様の声は、震えていた。その母は、青ざめ、エミリアは唇を噛みしめている。




 


 横領まがいの取引。


 不正な便宜。


 “善意”の裏で行われていた数々の行為。全てがばれていた。




 誰も、私を疑わない。私は、あまりにも“静か”だったから。








「こんなこと……身内しか知らないような話が、どうして外に……」




 母が縋るような目で私を見る。




「まさか、あなたが?」




 私は、微笑んだ。








「虫が嫌いなのです」




 問われて、私は微笑む。




「む、虫?」




 そして、ゆっくりと言った。








「私に害を及ぼす虫ですわ。見て見ぬふりを為てきたのですが、我慢できなくなりましたので、退治しなくてはいけないかと思いまして」




 声を荒げる必要はない。ただ、微笑むだけ。










 翌月、婚約は正式に解消された。




 私は、静かな生活を手に入れた。




 庭園で、蝶が舞う。それは、美しい虫だ。——花から花へと移り、こちらに害を及ぼさない限り。






 白い陶器のカップから、湯気が静かに立ちのぼっていた。一緒にお茶を楽しんでいた友人レオンが、何でもないことのように口を開く。






「虫の退治は、怖くなかったかい?」




「いいえ、まったく」




 即答だった。








「虫は、怖くないの。嫌いなだけ」




 言葉にすると、肩の力が抜ける。彼はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。






 レオンは、初めて会った頃から、私を哀れんだことがない。




 守ろうとも、正そうともせず、ただ見ていた。








 レオンと出会ったのは、社交の場ではなかった。




 実家の書庫だった。




 父親の用事に付いてきた子息が、廊下で道に迷っていた。案内役の侍女も見当たらず、困ったように扉の前に立ち尽くしている。








「何か、お探しですか?」




 そう声をかけると、彼は少し驚いた顔をしたあと、素直に言った。








「書庫です。父を待っている間、居てもよいと許可をいただきまして」




 声に警戒がなかった。私は案内をし、鍵を開け、中へ通した。埃の匂い、革装丁の背表紙、静かな空気。彼は本を手に取らず、ただ棚を眺めていた。






「読まないのですか?」




「見る許可はいただいていないので」




 その答えに、少しだけ笑ってしまった。








「居てもよい、ということは見てもよいということですよ」




「はは、そうですよね」




 それから、書庫で何度か顔を合わせた。彼は必ず、私のいる場所から一歩引いたところに立つ。






 近づきすぎない。


 踏み込まない。


 勝手に判断しない。




 その距離感が、心地よかった。




 ある日、私が一冊の本を落とした。彼は拾い上げ、私の手のひらにそっと置いた。




 触れないように。










「こういう本、好きなのか」




 口調は、いつしか親しい間柄のそれになっていた。






 友人になったのは、きっとその頃だ。


 恋だと気づいたのは、もっと後。






 婚約者の家の話を、ほんの一部だけ漏らした夜。彼は、怒らなかった。義も振りかざさなかった。




「……なるほど。君は、観察しているんだな」




 それだけ言って、続きを促さなかった。






 その沈黙が、胸に残った。




 感情を煽らない人。


 選択を奪わない人。




 気づけば、彼がそばにいるのが心地よくなっていた。










「やはり君は、我慢しているより潰す側でいる方が、ずっと美しいな」




「それは、褒め言葉のつもり?」




「ああ。最大級の」




 ――最初から、分かっていたのだろう。私が耐えているのではなく、待っているだけだということを。




 彼は一歩だけ距離を詰め、声を落とす。








「君が一人でやりたいと言ったから、黙っていた。だが、もし次に厄介な虫が現れたら――今度は呼べ」




 冗談めかした口調の奥に、確かな意志があった。








「君に群がる悪い虫を、俺が見過ごすと思うな」




 それは、庇護ではない。共犯の申し出だった。私は少し考えてから、微笑む。






「では、その時は一緒に、叩き潰しましょう」






 蝶が庭を横切り、淡い羽音を残して消えていく。風が花を揺らし、何事もなかったように世界は続く。




 この庭に残るのは、光を好み、風を知り、自分の羽で飛べるものだけ。










END






 

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面白かったです。 淡々と観察し査定する主人公と愚かな婚約者とその家族。 「虫」に対して「怖くないが嫌い」という主人公。 きちんと駆除できて良かったです。スッキリしました。
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