第8話:蜜月の朝は、漆黒の影(あなた)に口づけを
第二章 蜜月は、硝子の靴より歩きやすい靴で
第8話:蜜月の朝は、漆黒の影に口づけを
魔界の朝は、重たい紫色の霧と共にやってくる。
けれど、仕立て屋『フィル・ルージュ』の寝室に差し込む光は、世界中のどの場所よりも柔らかく、幸福な色をしていた。
「……ん……」
リリエが重たい瞼を開けると、視界いっぱいに「黒」が広がっていた。
闇だ。
けれど、それは怖い闇ではない。
最高級のベルベットを液状にしたような、艶やかで、ほんのりと温かい不定形の影。
それが、リリエの体を毛布のようにすっぽりと包み込んでいる。
(ああ……そっか)
寝ぼけた頭が、現状を理解する。
そうだ。私は、この「影」と結ばれたんだった。
最強の魔物にして、最恐の公爵。そして、私の愛する旦那様であるアビス公爵と。
「……おはようございます、公爵様。……ちょっと、重いんですけど」
リリエが苦笑しながら身じろぎすると、影がプルンと震えた。
影の一部がうねり、リリエの頬を撫でるような動きを見せる。
『……おはよう、リリエ。すまない、君の体温が心地よくて……離れがたくて』
脳内に直接響く低い声。
本来なら鼓膜を震わせる「音」はないはずなのに、その声は甘く、リリエの脊髄を痺れさせる。
昨晩の「星降る夜会」での騒動でスーツを全壊させた彼は、今、正真正銘の「素っ裸(全裸の影)」の状態だ。
「ふふ、甘えん坊ですね。でも、そろそろ起きないと」
『あと五分……いや、あと五百年はこのままで……』
「干からびちゃいますよ」
リリエは影(公爵)をシーツごと抱きしめ返し、その「核」があるあたりに、チュッとおはようのキスを落とした。
ボォッ!!
瞬間、薄暗かった寝室が、けたたましいショッキングピンクの光で満たされた。
影全体が発光し、まるでディスコ会場のような有様になる。
『~~~~~~っ!!(朝から致死量のときめき)』
「わあ、目が! 私の目が!」
相変わらずの反応だ。
リリエは目をシパシパさせながら、幸せな朝を迎えた。
***
朝食の時間。
いつものアトリエのテーブルには、湯気を立てる紅茶と焼きたてのスコーンが並んでいる。
ただし、向かいの席に座っているのは、不定形のスライム状の「何か」だ。
「はい、公爵様。紅茶ですよ」
『う、うむ……。いただく』
公爵は、影の一部を触手のように伸ばし、器用にティーカップを持ち上げた。
しかし、彼には「口」がない。
どうするのかと見ていると、彼はカップの中身を影の中にズブズブと沈め、直接体内に取り込んで「吸収」した。
『……ふう。君の淹れる紅茶は、やはり格別だ』
「……味わえてるんですか? それ」
『概念として味わっている。君の愛情というスパイスも込みでな』
さらりと恥ずかしいことを言う。
リリエは顔を赤らめつつ、手元のメモ帳にペンを走らせた。
「さて、公爵様。いつまでもその『影のまま』というわけにもいきません」
『む? 君は、この姿が好きだと言ってくれたではないか』
「ええ、大好きですよ。夜寝るときや、二人きりの時はそのままで十分です。でも……」
リリエは窓の外を指差した。
店の外には、昨日の騒動を聞きつけた野次馬の魔物たちが、遠巻きにこちらの様子を窺っている。
「これからハネムーンに行くにしても、公務に出るにしても、その姿だと目立ちすぎます。それに、一般の魔族の方々は、あなたのその『深淵』の姿を見るだけで気絶しちゃうでしょう?」
『……むう。確かに、昨日の騎士たちも泡を吹いていたな』
アビス公爵の本来の姿は、存在自体が「恐怖」の概念そのものだ。
リリエが平気なのは、彼女が職人として「素材」を見る目に長けているのと、単純に愛が重いからに過ぎない。
社会生活を送るには、やはり「人間スーツ」というフィルター(緩和材)が必要不可欠だった。
「というわけで、新作を作ります。第二弾『ハネムーン用・お忍びスーツ』です!」
リリエが宣言すると、公爵の影が嬉しそうに揺れた。
『君がまた、私を仕立ててくれるのか?』
「もちろんです。今度は前回の反省を活かして、耐久性と機能を大幅にアップデートしますよ」
前回(第一世代)のスーツの欠点は、「感情が高ぶると裂ける」ことだった。
特に、公爵の「デレ」による魔力膨張に耐えきれなかったのが致命的だ。
今回目指すのは、多少のイチャイチャでは壊れない、強靭かつ美しい肉体だ。
「ただ……そのためには、店にある在庫の素材じゃ足りません」
『ふむ。プリズム・ジェリーの核では不足か?』
「あれは肌の質感には最高なんですが、伸縮性が足りないんです。もっとこう、ゴムのように伸びて、かつ鋼のように硬くなれる……矛盾した特性を持つ『結合組織』が必要です」
リリエは地図を広げた。
魔界の北側、「幽玄の森」のさらに先。
切り立った崖の上に広がる、巨大な都市を指差す。
「ここに行きましょう。魔界随一の織物の都、『アラクネ・シティ』へ」
アラクネ・シティ。
蜘蛛の魔人族たちが支配する、繊維とファッションの聖地だ。
そこには、魔界中のありとあらゆる布、糸、染料、そして希少な生体素材が集まると言われている。
『アラクネか……。確かに、あそこなら最高級の「魔獣の絹」や「形状記憶の腱」が手に入るだろう。……それに』
公爵は何かを思い出したように、影を細めた。
『ちょうど、招待状が来ていたな』
公爵が影の中から一通の封筒を取り出した。
漆黒の紙に、金色の蜘蛛の巣のエンボス加工が施された、豪奢な招待状だ。
「これは?」
『来週、アラクネ・シティで開催される「魔界オートクチュール・コレクション」の招待状だ。……私は毎年、来賓として招かれているのだが、一度も行ったことがない』
「ええっ!? あの伝説のファッションショーに!?」
リリエは身を乗り出した。
「魔界オートクチュール・コレクション」。
それは魔界中の職人たちが腕を競い合う、美の祭典だ。人間であるリリエにとっては、雲の上のまた上の、夢のような舞台である。
『今まで私は、服など必要なかったからな。だが……』
公爵の影が、リリエの手を優しく包み込んだ。
『今の私には、君という最高の専属仕立て屋がいる。君に、あの煌びやかな世界を見せてあげたい』
「公爵様……」
『行こう、リリエ。ハネムーンの行き先は「アラクネ・シティ」だ。そこで素材を集め、最高のスーツを作り……そして、世界中の誰よりも美しい夫婦として、社交界デビューを飾ろうではないか』
リリエの胸が高鳴った。
素材集めの旅。憧れのファッションショー。そして、愛する人との新婚旅行。
職人として、妻として、これ以上ない最高のシチュエーションだ。
「はい! ……あ、でも待ってください」
リリエはハッとして、公爵の「現状(不定形)」を見た。
「アラクネ・シティまで行く間の『仮の体』がないと、移動もままなりませんよ?」
『む。……そういえば、そうだな』
「とりあえず、あり合わせの材料で『仮縫いスーツ』を作ります。見た目はちょっと妥協してもらいますけど、我慢してくださいね」
***
数時間後。
リリエは店の在庫を総動員して、即席のボディを作り上げた。
トロールの皮(厚手で丈夫)をベースに、リリエの魔力で無理やり人型に縫い合わせた、ツギハギだらけの肉体。
「……できました。着てみてください」
公爵が影を流し込む。
立ち上がったのは、フランケンシュタインも裸足で逃げ出すような、縫い目だらけの強面の大男だった。
以前の「絶世の美男子」とは似ても似つかない、無骨で少し怖い外見。
『……体が重い。視界も悪いな』
「あくまで仮の姿ですから。でも、耐久性は抜群ですよ」
『ふむ。……リリエ、これでも愛してくれるか?』
ツギハギ顔の男が、不安そうにリリエを見下ろす。
その瞳だけは、変わらぬサファイアの輝きを宿していた。
リリエは背伸びをして、その傷だらけの頬にキスをした。
「もちろんです。……中身があなたなら、どんな姿でも世界一かっこいいですよ」
ボッ!!!
ツギハギの隙間から、ピンク色の蒸気がプシューッと吹き出した。
「ああっ、ダメです! 仮縫いだから隙間が多いんです! 漏れてます!」
『す、すまない……! 君が可愛すぎるのが悪いのだ……!』
こうして、ピンク色の蒸気を撒き散らすツギハギ男と、それを甲斐甲斐しく世話する人間の仕立て屋。
奇妙な新婚夫婦の旅が始まった。
目指すは織物の都、アラクネ・シティ。
しかし二人はまだ知らなかった。
その華やかなファッションの都で、リリエの職人としてのプライドを揺るがす「最強のライバル」が待ち受けていることを。
「待っていてくださいね、私の王子様。必ず、その魂に相応しい、最高のドレスコードを仕立ててみせますから」
馬車に揺られながら、リリエは誓った。
これはただの旅行ではない。
彼を「魔王」ではなく、「一人の紳士」として世界に認めさせるための、愛と技術の闘いなのだ。
(第8話 完)




