第5話:白の誘惑、かつての「隣人」
査察官マクシミリアンを退けた代償は、私の想像を遥かに超えて重いものでした。
三日三晩、私は底の見えない泥のような眠りに沈んでいました。意識の断片が、切り刻まれた端切れのように暗闇の中を漂います。夢に見るのはいつも、あの灰色の孤児院の天井でした。雨漏りのシミが、絶望の中で息を引き取った子供たちの顔に見えて仕方がなかった、あの寒々しい剥き出しの石造りの部屋。
ふと、指先に微かな温もりを感じて、私の意識はゆっくりと現実の岸辺へと引き戻されました。
「……リリエ、目が覚めたか。貴様の魂の繊維は、どうやら我輩が思っている以上に細く、脆いようだな」
視界がクリアになると、最初に飛び込んできたのはアビスの顔でした。彼は私のベッドサイドに腰を下ろし、慣れない手つきで果物ナイフを握っていました。ボウルの中には、無惨に削り取られたリンゴの残骸が転がっています。魔王としての破壊的な力は、皮を剥くという繊細な作業においては、ただの不器用な狂器でしかありません。
「陛下……、そのナイフの角度だと、身が全部なくなっちゃうわよ。実の厚さは残して、皮だけを均一に剥くのが基本だわ」
「黙れ。……貴様こそ、これほど脆い精神を削り出してまで、なぜあんな無茶をした。星魂糸の過剰行使で、精神の『経糸』がボロボロだぞ。一歩間違えれば、貴様の意識は二度と形を成さなかった」
アビスの言葉は相変わらず不遜で厳しいものでしたが、その瞳の奥には隠しきれない動揺と、自分では縫い合わせることのできない「命」への畏怖が滲んでいました。魔王にとって、仕立て屋(私)はもはや単なる契約相手を超え、自らの静寂を守るための不可欠な半身となりつつあることを、私はその不器用な手の震えから悟りました。
私がようやく体を起こそうとした時、執事のセバスが重苦しい表情を浮かべて現れました。
「リリエ様、目覚めて早々に申し訳ございません。……王都より、一人の女性が面会を求めて参っております。査察官の類ではなく、貴女の『旧友』だと名乗っておりますが」
「私の……旧友?」
嫌な予感が、冷たい風のように背筋を駆け抜けました。王都に私の知人など、ろくな人間しかいないはずです。私はアビスの制止を振り切り、ふらつく足取りで館の応接間へと降りました。
そこに座っていたのは、純白のドレスに身を包んだ、あまりにも見覚えのある横顔でした。
規格化された「幸福」:元8番・セラ
「……久しぶりね、7番。いいえ、今はリリエって素敵な名前で呼ばれているんだったかしら」
彼女がゆっくりと振り向いた瞬間、私の鼓動は凍りつきました。
セラ。かつてあの灰色の孤児院で、私の隣のベッドにいた、**「8番」**と呼ばれていた少女。
彼女は私と一緒にゴミ捨て場を漁り、腐ったパンを分け合い、いつか綺麗な布で自分たちの未来を縫い上げようと語り合った、唯一の戦友でした。ですが、今の彼女が纏っているのは、聖女イノセントが推奨する『救済の白衣』。
> 【リリエのプロの眼:救済の白衣分析】
> * 素材: 感情の激しい起伏を物理的に遮断する、特殊加工された「鎮静魔力繊維」。
> * 構造: 継ぎ目もボタンも存在しない、完全なシームレス構造。着用者の体温と魔力を一定に保ち、個性を消し去ることで「完璧な平穏」を強制する。
> * 本質: これは服ではない。着用者を「生きたマネキン」へと変え、思考を停止させるための精神的な拘束具。
>
「セラ、貴方……。どうしてそんな、魂の通っていない『梱包材』みたいなものを着ているの。貴方の肌の温かさが、布に殺されているわ」
「魂が通っていない? ……ふふ、リリエ、貴方は相変わらずね。この服はね、祝福なのよ。これを着れば、あの日私たちが感じていた凍えるような寒さも、お腹が空く惨めさも、誰かに選別される恐怖も、全部感じなくて済むの。心から『波』が消えて、真っ白な安らぎの中にいられるのよ」
セラは穏やかに、しかし一切の抑揚がない平坦な声で言いました。
彼女の瞳には、かつて私と一緒にロイヤル・ブルーの布の切れ端を見て「きれい」と笑い、涙を流した時の輝きは、一滴も残っていませんでした。
「聖女イノセント様は仰ったわ。……『7番は迷っている。彼女を連れ戻して、白の安らぎを与えてあげなさい』って。リリエ、貴方の今の苦しそうな顔を見て。そんなにボロボロになってまで、何を縫っているの」
白の誘惑と、青い記憶の攻防
セラは懐から、眩いほどに真っ白な布を取り出し、私の手元へ差し出しました。
その布が私の肌に触れた瞬間、脳内に甘く、うっとりするような「無」の感覚が流れ込んできました。
(……ああ、もう頑張らなくていいんだ。星魂糸なんて使わなくていい。誰かのために心を削って、鼻血を出しながら倒れるまで針を動かす必要なんて……どこにもないんだわ。白になれば、何も悲しまなくて済む)
指先から力が抜け、懐に隠していた**「ロイヤル・ブルーの端切れ」**が、床に滑り落ちそうになりました。
「そうよ、リリエ。王都に戻りましょう。貴方の番号は今も空けてあるわ。名前なんて重いものを背負って戦うのはもうやめて、かつての『8番』と『7番』に戻りましょう。そうすれば、もう二度と傷つくことはない」
セラの囁きは、かつての友人としての慈愛に満ちているようでいて、その実、最も残酷な「個の抹殺」への勧誘でした。
私の意識が真っ白な虚無に飲み込まれようとした、その時です。
「――お断りよ。その服、私には全く似合わないわ」
私はセラの差し出した白い布を、全力で叩き落としました。
床に落ちかけた青い端切れを瞬時に掴み、胸元に強く押し当てます。泥の臭い、雨の冷たさ、そしてあの日感じた「いつか自分の力でこの色を形にする」という激しい渇望。その感触が、私の凍りかけていた精神を、一気に沸騰させました。
「リリエ? どうして。……こんなに楽になれるのに」
「セラ。貴方のその服……、最低の仕立てだわ。シワひとつない代わりに、貴方がこれまで生きて、笑って、泣いてきた証がどこにも刻まれていない。……そんなの、ただの『死に装束』よ。私は人間を包みたいの。貴方のような、綺麗なだけの抜け殻を飾りたいわけじゃない!」
決別と宣戦布告:シワという名の美学
私はセラの目の前で、震える指先を高く掲げました。
まだ完全には回復していない精神力を無理やり搾り出し、微かに、だが強固な銀の輝きを持つ**「星魂糸」**を空間に紡ぎ出します。
「いい、セラ。この糸はね、とっても痛いのよ。重いし、メンテナンスも大変だし、気を抜けば自分を切り裂くわ。……でもね、これが『生きてる』ってことでしょ。私は泥にまみれても、自分の意志で選んだ色を纏って死にたい。真っ白な幸福なんて、ゴミ捨て場のゴミよりも価値がないわ!」
私の叫びと、星魂糸から放たれる圧倒的な拒絶の意志に、セラの無機質な瞳が、一瞬だけ激しく揺らぎました。その瞳の奥に、かつての「8番」の悲しみが一瞬だけ過ったのを、私は見逃しませんでした。
「……残念だわ、リリエ。貴方はやっぱり、規格外の修復不能な欠陥品。……イノセント様にはそう報告するわ。次に会う時は、貴方のその『不快な色』を、王都の力ですべて塗り潰すことになるでしょう」
セラは静かに立ち上がり、音もなく応接間を去っていきました。
彼女の去り際、真っ白なドレスの背中に、一瞬だけ浮かび上がった「8」という数字の刻印。それが、今の彼女が自由を奪われた聖女の所有物であることを無言で告げていました。
「……リリエ。顔色がさらに悪くなったぞ。死人のようなツラでよくも啖呵を切ったものだ」
背後でずっと気配を消し、いざとなればセラを消去する準備を整えていたアビスが、私の肩を力強く支えました。
「陛下……。私、決めたわ。イノセントの白に世界が染められる前に、この館から、世界中を驚かせるような『一点物』を解き放ってやるって」
「……フン、言うようになったな。なら、まずはそのリンゴを食え。貴様が寝ている間に、我輩が指先を切りながら剥いたのだ。……一口でも残せば、その青いボロ布を今すぐ焼き捨ててやるからな」
差し出されたのは、角が立ち、形も大きさもバラバラな、ひどく不格好なリンゴでした。
それは王都の市場に並ぶどの規格品よりも歪で、けれど、どの高級品よりも甘い。
この世に一つしかない「本物の愛」というテクスチャーを、私は泣きそうになりながら噛みしめました。
王都から送られた「白」の誘惑を撥ね退け、私たちはもはや引き返せない戦いへと足を踏み入れました。
仕立て屋リリエの針は、もはや服を縫うためだけのものではありません。
それは、塗り潰されようとする世界の色彩を、命懸けで守り抜くための武器なのです。
第5話完




