第4話:査察官のタイトな正義、剥がされる仮面
奈落の館に漂っていた穏やかな午後の空気は、一隻の魔導飛空艇が庭園に降り立った瞬間に霧散しました。船体には王都の象徴である聖十字と、衣服管理局の冷徹な紋章が刻まれています。
タラップを降りてきたのは、一分の隙もない軍服風の法衣を纏った男でした。王都の一級査察官、マクシミリアン。彼は聖女イノセントが提唱する「完全規格品」の化身のような男でした。彼の纏う白銀の布地は、魔力によって極限まで硬化され、シワ一つ、汚れ一つ許さない鉄の規律を体現しています。
「アビス・カトレイユ公爵。並びに未認可の仕立て屋、リリエ・アールグレイ。貴公らの館にて、王都の秩序を乱す『規格外』の魔導服が製造されているとの確かな情報がある。直ちに現物を押収し、製造者を国家叛逆罪の疑いで拘束する」
マクシミリアンの声は、感情を排した機械の旋律のようでした。彼の背後には、重装備の衛兵たちが並び、手に持った魔力測定器が不気味なノイズを立てています。
私はアトリエから飛び出し、エントランスで子供たちを庇うように立ちました。子供たちは昨日私が仕立てたばかりのネイビーの服を震える手で握りしめています。
「押収? 拘束? 面白い冗談ね。私の服が秩序を乱しているのではなく、貴方たちの『秩序』がこの子たちの呼吸を止めていたのよ」
「黙れ、ならず者の針子が。イノセント様が定められた規格こそが、人類が等しく享受すべき幸福の形だ。そこから外れた歪な個体に合わせて布を弄することは、神聖なるテキスタイルに対する冒術に他ならない。その不適合品を今すぐこちらへ渡せ。焼却処分こそが、それらに与えられる唯一の救済だ」
焼却。その言葉が、私の脳内で爆ぜました。
かつて孤児院のゴミ捨て場で、私が拾い上げたロイヤル・ブルーの端切れ。あれも、当時の院長にとっては焼却すべきゴミだった。しかし、あの端切れがあったからこそ、私は「7番」という番号を捨てて自分になれたのです。
「焼却ですって。……いいわよ。ただし、その前に自分のその『窮屈な正義』を何とかしたらどうかしら、査察官様」
私は一歩、マクシミリアンの前に踏み出しました。
アビスが私の肩に手を置こうとしましたが、私はそれを制しました。これは、仕立て屋としての私の戦いなのです。
魔導服飾の専門技術:逃げ(ゆとり)の欠如と血流の停滞
私はマクシミリアンの全身を、獲物を狙う猛禽のような鋭さでスキャンしました。
彼の纏う「完全規格品」は、外見上の美しさを追求するあまり、人間という生物の構造を完全に無視していました。
> 【リリエのプロの眼:査察官の制服分析】
> * 問題点: 胸周りと首回りの「逃げ(ゆとり)」が数ミリ単位で不足している。これにより、深呼吸をするたびに肺が圧迫され、着用者の脳への酸素供給を慢性的に低下させている。
> * 構造的欠陥: 肩甲骨の動きを計算に入れていないタイトなアームホール。腕を上げる動作に魔力的な補強を依存しているため、常に着用者の精神力を微量ずつ吸い取り続けている。
> * 結論: その服は、着用者を守るためのものではなく、着用者を「規律の枠」に固定するための拘束衣である。
>
「査察官様。貴方のその完璧な制服、右肩が微妙に下がっているわよ。それは貴方の身体が歪んでいるんじゃなくて、服が貴方の筋肉の付き方を拒絶しているから。今、貴方の心拍数は通常時より15%高い。それは緊張のせいじゃない。服が貴方の心臓を締め上げているからよ」
「何をデタラメを。この制服はイノセント様が直接監修された、神聖比例に基づいた究極のデザインだ。貴様のような野良の仕立て屋に理解できるはずがない」
マクシミリアンの顔に、微かな苛立ちが混じりました。私の指摘は、彼の潜在意識が感じていた「不快感」の正体を正確に突き止めたからです。
「究極のデザイン? 笑わせないで。それはただの『魂の梱包材』よ。中身が死んでいても、外側の箱が綺麗ならそれでいいっていう、傲慢な思想の塊だわ。……そんなに苦しいなら、今すぐ私が『解いて』あげる」
星魂糸の行使:瞬速・強制調律
私は懐の針刺しから、輝く一本の星魂糸を引き抜きました。
まだ三日前の疲労が抜けきっていない私の精神は、この糸一本を紡ぐだけでも、脳の芯を熱い鉄の棒でかき回されるような激痛を訴えています。
(くっ、意識を保て。リリエ。ここで倒れたら、あの子たちの『名前』がまた灰色の煙に消えてしまう!)
私は懐の青い端切れを、爪が食い込むほど強く握りしめました。そこから伝わる冷たい「現実」が、熱暴走しそうな私の精神を極限まで冷却します。
「一ノ型・派生――『強制調律・真実のシルエット』!」
私はマクシミリアンに向かって、目にも留まらぬ速さで星魂糸を放ちました。
糸は彼の制服の「合わせ目」に潜り込み、イノセントが施していた固定魔法の縫い目を、一つずつ、そして瞬時に焼き切っていきます。
「な、何をした! 衛兵、この女を拘束しろ!」
マクシミリアンが叫ぼうとしましたが、言葉が続きませんでした。
彼の肺を締め付けていた襟元のボタンが弾け飛び、極限までタイトに絞られていたウエストのダーツが、私の星魂糸によって再構成された「正しい遊び」によって解き放たれたからです。
瞬間、マクシミリアンの全身から、これまで抑圧されていた魔力が一気に噴出しました。
それは爆発的な風となって広場を吹き抜け、周囲の衛兵たちをなぎ倒します。
「……あ、ああ……。空気が……吸える……」
マクシミリアンはその場に膝をつきました。
彼の制服は、私の星魂糸によって強制的に「彼自身の体格」に最適化された形へと変貌していました。
もはや一分の隙もない鉄の規律ではありません。そこにあるのは、着用者の呼吸に寄り添い、シワさえもが身体の動きを肯定する、不格好だが血の通った「生きた服」でした。
「どう? 査察官様。初めて『呼吸』をした気分は。……貴方が守ろうとしていた規格が、いかに貴方を殺そうとしていたか、これで分かったでしょう」
私は肩で激しく息をしながら、冷たい石畳の上に座り込みました。
星魂糸を相手の服に直接干渉させ、構造を書き換えるという行為は、私の寿命を直接削り取るような暴挙です。
指先は完全に感覚を失い、視界は真っ白な砂嵐に飲み込まれようとしていました。
魔王の庇護と宣戦布告
「……リリエ、もう十分だ」
背後から、低く重厚な声が響きました。
アビスが私の横に立ち、その巨大な手で私の頭を優しく、だが力強く支えました。
彼の全身から放たれる漆黒の魔圧が、動揺する衛兵たちの動きを完全に封じ込めます。
「査察官マクシミリアン。貴公のその無様な姿が、王都の法律が『欠陥品』であることの何よりの証明だ。我輩の館でこれ以上醜態を晒すなら、次は服ではなく貴公の存在そのものを、我輩が裁断してやろう」
アビスの紅い瞳が、恐怖に震えるマクシミリアンを射抜きました。
マクシミリアンは自らの胸元、ゆとりを取り戻した制服の感触を震える手で確かめ、それから這いずるようにして飛空艇へと逃げ戻りました。
「……今日のところは、退散する。だが、聖女様は……イノセント様は、決してこの『乱れ』をお許しにならないぞ! 貴様ら規格外に、真実の絶望を教えてやる!」
飛空艇が轟音と共に飛び去り、広場には再び静寂が戻りました。
夜明け前のフィッティング
「……勝った、わね」
私はアビスの胸元に顔を埋めたまま、かすれた声で笑いました。
鼻からは熱い液体が滴り、精神力の枯渇で全身の骨が軋むような痛みを発しています。
「馬鹿者が。勝ったのは貴様の意地であって、戦況ではない。王都は本気だ。次は査察官一人では済まんぞ」
アビスは私を軽々と横抱きにすると、そのまま館の奥へと運び始めました。
彼の胸元の生地からは、私が昨日縫い上げたばかりの、力強くも安定した魔力の鼓動が伝わってきます。
王都は、服を使って世界を一つの型紙の中に閉じ込めようとしている。
対して私は、一本の針でその型紙をズタズタに切り裂き、誰もが自由に呼吸できる「一点物」の明日を仕立てる。
(次はもっと……もっと強い糸を紡がなきゃ。……みんなの誇りを守るための、最強の戦闘服を……)
私は薄れゆく意識の中で、マクシミリアンの服を「解いた」ときの手応えを反芻していました。
規格品という名の偽りの幸福。それを剥がした先にある、剥き出しの「個」。
その「個」が、世界を虹色に染め上げる日を夢見て、私は深い眠りへと落ちていきました。
奈落の館を舞台にした、自由と規律のファッション戦争。
その幕が、今、決定的に上がったのです。
第4話完




