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『魔界のクチュリエールは、最恐公爵の「恋する人肌」を仕立てる』  作者: 小乃 夜
第五章 偽りの聖女と、世界を染める虹色の反撃(レジスタンス)
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第34話:灰色の記憶、リリエ・アールグレイの原点(オリジン)

 寒かった。

 指先の感覚がない。足の指は凍傷で紫色に変わり、感覚を失っている。

 ここは、灰色の世界だ。

 空は鉛色。地面は泥の色。建物は煤けた石の色。

 そして、私もまた、色を持たない「何か」だった。

「――おい、7番。サボるな」

 背中に鞭が飛んでくる。

 痛みよりも先に、鈍い衝撃が走る。私は泥の中に倒れ込み、反射的に体を丸めた。

「すみません、院長先生。……すぐに、やります」

 私の口から出たのは、私の声であって、私の声ではなかった。

 もっと幼く、怯えきった、枯れ枝のような声。

 私は自分の手を見た。

 小さくて、垢にまみれて、あかぎれだらけの手。

 そこには、愛用の裁ち鋏も、結婚指輪もない。

(ああ……そうか。戻ったんだ)

 ここは王都の下町、そのさらに最下層にある孤児院。

 親に捨てられた子供たちが、労働力として飼育される場所。

 私たちには名前がなかった。ただの番号で管理され、安価な労働力として縫製工場へ売り飛ばされるのを待つだけの「在庫品」。

 私は、7番だった。

 ラッキーセブンなんて素敵な意味じゃない。

 ただ、6番が死んで、8番が逃げ出したから、その間の7番。

 ***

 ここは夢だ。

 頭のどこかで、大人の私がそう叫んでいる。

 私は今、廃都グレイヴの館で、白い霧に飲み込まれて眠っているはずだ。

 でも、夢にしてはあまりにもリアルだった。

 腐った野菜の臭い。濡れた羊毛の不快な臭気。

 そして何より、心臓を直接握り潰されるような「絶望」の感触。

 これは、毒蛇王フレデリックが仕掛けた精神攻撃だ。

 対象の最も弱く、惨めだった記憶を再生し、そこに閉じ込める檻。

『ゴミはゴミらしく、端っこで震えていろ』

 院長の声が響く。

 幼い私は、ボロ布を縫い合わせる作業を強いられていた。

 粗悪な麻布。チクチクして肌に悪い。

 これを着せられる兵士たちは、きっと肌荒れに悩むだろう。そんなことを考えて、縫い目を少し緩くしようとしたら、また殴られた。

『余計なことをするな。規格通りに作れ』

 規格。マニュアル。既製品。

 それが絶対のルール。

 個人の創意工夫など、ノイズでしかない。

(やめて……。私は、もっと可愛くしたいだけなのに)

 幼い私の心は、この時すでに壊れかけていた。

 世界は灰色で、誰も私を見ない。

 私は工場の機械の部品の一つ。

 このまま大人になって、誰かの言いなりになって、灰色の服を縫い続けて死ぬんだ。

 そんな絶望の淵で。

 あの日、奇跡が起きた。

 ***

 雨の日だった。

 私は院の裏手にあるゴミ捨て場にいた。

 お腹が空いて、何か食べられるものがないか探していたのだ。

 泥と生ゴミの山。

 その中に、異質な「光」があった。

「……え?」

 私は泥をかき分けた。

 出てきたのは、貴族の屋敷から廃棄されたとおぼしき、一枚の端切れだった。

 おそらく、カーテンかドレスの残り布だろう。

 泥にまみれてはいたが、雨に洗われたその部分は、息を呑むほど鮮やかな「ロイヤル・ブルー」だった。

 灰色一色の視界に、強烈な一撃が走った。

「きれい……」

 幼い私は、震える手でそれを拾い上げた。

 頬に当ててみる。

 ベルベットの滑らかな感触。冷たい雨の中で、そこだけが熱を持っているように温かい。

 私はその布を、ボロボロの服の上から肩に掛けた。

 ただのゴミだ。端切れだ。

 でも、鏡代わりの水たまりに映った私は――ほんの少しだけ、「お姫様」に見えた。

 ドクン。

 胸が高鳴った。

 服が変われば、私は変われる。

 このゴミ捨て場の7番じゃなくて、物語の主人公になれるかもしれない。

 一枚の布には、魔法がある。

 世界を変える力がある。

(私は、服を作る人になりたい。……誰かを、そして私自身を、惨めな運命から救い出すような、最高の服を)

 それが、私の原点オリジン

 リリエ・アールグレイという仕立て屋が生まれた瞬間。

 ***

 ――そのはずだった。

 私の大切な、青い記憶。

 なのに。

 フワッ……。

 空から、白いものが降ってきた。

 雪?

 いいえ、違う。これは……「白紙」だ。

 青い端切れの上に、白い雪が降り積もる。

 鮮やかなロイヤル・ブルーが、あっという間に真っ白に塗り潰されていく。

『……捨てなさい』

 空から、声が降ってきた。

 優しくて、甘くて、うっとりするような歌声。

 イノセントの声だ。

『そんな汚い布、捨てなさい。……色は争いを生むわ。欲望を生むわ。』

『真っ白になれば、何も欲しくなくなる。悲しくもなくなる』

『さあ、眠りましょう。リリエ。……あなたはただの7番。名前なんていらないの』

 白い雪が、私の体を埋めていく。

 温かい。

 凍えていた体が、雪の中で安らぎを感じている。

 ああ、そうだ。

 頑張らなくていいんだ。

 世界一の仕立て屋なんて目指さなくていい。アビスを救うなんて大それたこと、しなくていい。

 だって私は、ゴミ捨て場の孤児なんだから。

(……そうね。眠っちゃおうかな)

 幼い私の意識が、白に溶けていく。

 手から、青い布が滑り落ちそうになる。

 その時。

「――ふざけるな」

 私の口から、低い声が出た。

 幼い子供の声じゃない。

 何千回も針で指を刺し、何万回もハサミを握り、理不尽な貴族や魔王と渡り合ってきた、大人の私の声。

「……サイズが合わないって言ってるのよ」

 私は雪の中から、滑り落ちかけた青い布をガシッと掴んだ。

 そして、自分の体に降り積もった白い雪を、手で払いのけた。

 感触がおかしい。

 この雪、冷たくない。

 それに、この手触り……。

「……ポリエステル? いいえ、もっと安っぽい『合成魔力繊維』ね」

 私は立ち上がった。

 夢の中の体は、まだ幼い少女のままだ。

 でも、瞳だけは燃えている。

 空を見上げる。

 そこには、フレデリック王の嘲笑う顔が、雲のように浮かんでいた。

 イノセントの歌声が、ノイズのように響いている。

「陛下。詰めが甘いですよ」

 私はニヤリと笑った。

「私を誰だと思ってるんですか? 私は素材を見るプロですよ。……貴方が作ったこの『白い絶望』、織り目が粗すぎて裏地が透けて見えます」

 私は右手を掲げた。

 そこには何もない。

 でも、想像するのだ。私の魂の形を。

 私の武器を。

「顕現(出ろ)、私の半身!」

 ジャキィィィィンッ!!

 銀色の閃光が走った。

 私の手には、身の丈ほどもある巨大な裁ち鋏が握られていた。

 幼い少女が持つには不釣り合いな、凶暴な輝きを放つ刃。

『リリエ……? 何をする気? 抵抗はやめて……』

 イノセントの焦ったような声が聞こえる。

「抵抗? いいえ、これは『裁断カッティング』です」

 私はハサミを開いた。

 目の前に広がる灰色の孤児院。降り積もる白い雪。

 その全てを、一枚の巨大な「書き割りの布」として認識する。

「私の過去が惨めだったからこそ! 私は誰よりも美しさを知っている!」

「ゴミの中から拾った青があったから! 私は虹色だって作れる!」

「私の原点オリジンを、安っぽい白で上書きするなァァァッ!!」

 ズバァァァァァァッ!!!

 私はハサミを一閃させた。

 空間が裂ける音。

 灰色の景色が、白い雪が、まるで幕が落ちるように切り裂かれ、左右に分かれた。

 その裂け目の向こうに、別の「夢」が見えた。

 そこは、どこかの屋敷の庭園だった。

 太陽が降り注ぎ、花が咲き乱れている。

 あまりにも平和で、あまりにも完璧な世界。

 そして、その中心に、彼がいた。

 アビスだ。

 でも、私の知っているアビスじゃない。

 黒い影を纏っていない。角もない。赤い瞳でもない。

 ただの、優しそうな人間の青年として、ベンチに座って微笑んでいる。

『……公爵様?』

 彼は幸せそうだった。

 誰からも恐れられず、誰からも石を投げられず、ただの日向ぼっこを楽しんでいる。

 

 ああ、なんて残酷な夢。

 彼が心の奥底で、誰にも言えずに望んでいた、「普通の人間になりたい」という願い。

 毒蛇王は、そこにつけ込んだのだ。

 隣には、リリエの幻影が座っている。

 二人は仲睦まじく、紅茶を飲んでいる。

 

 イノセントの声が、私の耳元で囁いた。

『見て。彼は幸せそう。……起こさないであげて。彼はずっと、魔王という役割に疲れていたのよ』

『このまま夢の中で、人間として一生を終えるのが、彼にとっての救済ハッピーエンドだと思わない?』

 私の心が揺れる。

 確かにそうかもしれない。

 現実のアビスは、常に世界中から命を狙われている。私のせいで、王都とも敵対してしまった。

 このまま夢の中で幸せになれるなら、その方が……。

 ――いいえ。

 私はハサミを握り直した。

 あのベンチに座っている「リリエ」を見る。

 彼女は綺麗に笑っている。シワひとつないドレスを着て、汚れひとつない手をしている。

 

 ……つまらない。

 なんてつまらない顔をしているの。

「違うわ」

 私は叫んだ。

「私の愛した人は、そんな腑抜けた顔をしてない!」

「彼は傷だらけで、不器用で、世界中を敵に回しても『我輩の妻が一番だ』って胸を張る、最高にカッコいい魔王よ!」

 私は裂け目の中に飛び込んだ。

 幼い少女の姿が、光の中で変貌していく。

 ボロ布は消え、私の戦闘服――機能美に溢れた仕立て屋のドレスへと変わる。

「待ってて、あなた! 今すぐそのダサいシナリオ、私が仕立て直してあげる!」

 私はアビスの夢へと落下していく。

 灰色の記憶はもう後ろだ。

 手には、あの日の「青い端切れ」をリボンのように結んで。

 私の戦場は、愛する夫の脳内(夢)。

 世界一のスタイリストとして、彼に一番似合う「現実」を着せてあげるために。


 (第34話 完)


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