第34話:灰色の記憶、リリエ・アールグレイの原点(オリジン)
寒かった。
指先の感覚がない。足の指は凍傷で紫色に変わり、感覚を失っている。
ここは、灰色の世界だ。
空は鉛色。地面は泥の色。建物は煤けた石の色。
そして、私もまた、色を持たない「何か」だった。
「――おい、7番。サボるな」
背中に鞭が飛んでくる。
痛みよりも先に、鈍い衝撃が走る。私は泥の中に倒れ込み、反射的に体を丸めた。
「すみません、院長先生。……すぐに、やります」
私の口から出たのは、私の声であって、私の声ではなかった。
もっと幼く、怯えきった、枯れ枝のような声。
私は自分の手を見た。
小さくて、垢にまみれて、あかぎれだらけの手。
そこには、愛用の裁ち鋏も、結婚指輪もない。
(ああ……そうか。戻ったんだ)
ここは王都の下町、そのさらに最下層にある孤児院。
親に捨てられた子供たちが、労働力として飼育される場所。
私たちには名前がなかった。ただの番号で管理され、安価な労働力として縫製工場へ売り飛ばされるのを待つだけの「在庫品」。
私は、7番だった。
ラッキーセブンなんて素敵な意味じゃない。
ただ、6番が死んで、8番が逃げ出したから、その間の7番。
***
ここは夢だ。
頭のどこかで、大人の私がそう叫んでいる。
私は今、廃都グレイヴの館で、白い霧に飲み込まれて眠っているはずだ。
でも、夢にしてはあまりにもリアルだった。
腐った野菜の臭い。濡れた羊毛の不快な臭気。
そして何より、心臓を直接握り潰されるような「絶望」の感触。
これは、毒蛇王フレデリックが仕掛けた精神攻撃だ。
対象の最も弱く、惨めだった記憶を再生し、そこに閉じ込める檻。
『ゴミはゴミらしく、端っこで震えていろ』
院長の声が響く。
幼い私は、ボロ布を縫い合わせる作業を強いられていた。
粗悪な麻布。チクチクして肌に悪い。
これを着せられる兵士たちは、きっと肌荒れに悩むだろう。そんなことを考えて、縫い目を少し緩くしようとしたら、また殴られた。
『余計なことをするな。規格通りに作れ』
規格。マニュアル。既製品。
それが絶対のルール。
個人の創意工夫など、ノイズでしかない。
(やめて……。私は、もっと可愛くしたいだけなのに)
幼い私の心は、この時すでに壊れかけていた。
世界は灰色で、誰も私を見ない。
私は工場の機械の部品の一つ。
このまま大人になって、誰かの言いなりになって、灰色の服を縫い続けて死ぬんだ。
そんな絶望の淵で。
あの日、奇跡が起きた。
***
雨の日だった。
私は院の裏手にあるゴミ捨て場にいた。
お腹が空いて、何か食べられるものがないか探していたのだ。
泥と生ゴミの山。
その中に、異質な「光」があった。
「……え?」
私は泥をかき分けた。
出てきたのは、貴族の屋敷から廃棄されたとおぼしき、一枚の端切れだった。
おそらく、カーテンかドレスの残り布だろう。
泥にまみれてはいたが、雨に洗われたその部分は、息を呑むほど鮮やかな「ロイヤル・ブルー」だった。
灰色一色の視界に、強烈な一撃が走った。
「きれい……」
幼い私は、震える手でそれを拾い上げた。
頬に当ててみる。
ベルベットの滑らかな感触。冷たい雨の中で、そこだけが熱を持っているように温かい。
私はその布を、ボロボロの服の上から肩に掛けた。
ただのゴミだ。端切れだ。
でも、鏡代わりの水たまりに映った私は――ほんの少しだけ、「お姫様」に見えた。
ドクン。
胸が高鳴った。
服が変われば、私は変われる。
このゴミ捨て場の7番じゃなくて、物語の主人公になれるかもしれない。
一枚の布には、魔法がある。
世界を変える力がある。
(私は、服を作る人になりたい。……誰かを、そして私自身を、惨めな運命から救い出すような、最高の服を)
それが、私の原点。
リリエ・アールグレイという仕立て屋が生まれた瞬間。
***
――そのはずだった。
私の大切な、青い記憶。
なのに。
フワッ……。
空から、白いものが降ってきた。
雪?
いいえ、違う。これは……「白紙」だ。
青い端切れの上に、白い雪が降り積もる。
鮮やかなロイヤル・ブルーが、あっという間に真っ白に塗り潰されていく。
『……捨てなさい』
空から、声が降ってきた。
優しくて、甘くて、うっとりするような歌声。
イノセントの声だ。
『そんな汚い布、捨てなさい。……色は争いを生むわ。欲望を生むわ。』
『真っ白になれば、何も欲しくなくなる。悲しくもなくなる』
『さあ、眠りましょう。リリエ。……あなたはただの7番。名前なんていらないの』
白い雪が、私の体を埋めていく。
温かい。
凍えていた体が、雪の中で安らぎを感じている。
ああ、そうだ。
頑張らなくていいんだ。
世界一の仕立て屋なんて目指さなくていい。アビスを救うなんて大それたこと、しなくていい。
だって私は、ゴミ捨て場の孤児なんだから。
(……そうね。眠っちゃおうかな)
幼い私の意識が、白に溶けていく。
手から、青い布が滑り落ちそうになる。
その時。
「――ふざけるな」
私の口から、低い声が出た。
幼い子供の声じゃない。
何千回も針で指を刺し、何万回もハサミを握り、理不尽な貴族や魔王と渡り合ってきた、大人の私の声。
「……サイズが合わないって言ってるのよ」
私は雪の中から、滑り落ちかけた青い布をガシッと掴んだ。
そして、自分の体に降り積もった白い雪を、手で払いのけた。
感触がおかしい。
この雪、冷たくない。
それに、この手触り……。
「……ポリエステル? いいえ、もっと安っぽい『合成魔力繊維』ね」
私は立ち上がった。
夢の中の体は、まだ幼い少女のままだ。
でも、瞳だけは燃えている。
空を見上げる。
そこには、フレデリック王の嘲笑う顔が、雲のように浮かんでいた。
イノセントの歌声が、ノイズのように響いている。
「陛下。詰めが甘いですよ」
私はニヤリと笑った。
「私を誰だと思ってるんですか? 私は素材を見るプロですよ。……貴方が作ったこの『白い絶望』、織り目が粗すぎて裏地が透けて見えます」
私は右手を掲げた。
そこには何もない。
でも、想像するのだ。私の魂の形を。
私の武器を。
「顕現(出ろ)、私の半身!」
ジャキィィィィンッ!!
銀色の閃光が走った。
私の手には、身の丈ほどもある巨大な裁ち鋏が握られていた。
幼い少女が持つには不釣り合いな、凶暴な輝きを放つ刃。
『リリエ……? 何をする気? 抵抗はやめて……』
イノセントの焦ったような声が聞こえる。
「抵抗? いいえ、これは『裁断』です」
私はハサミを開いた。
目の前に広がる灰色の孤児院。降り積もる白い雪。
その全てを、一枚の巨大な「書き割りの布」として認識する。
「私の過去が惨めだったからこそ! 私は誰よりも美しさを知っている!」
「ゴミの中から拾った青があったから! 私は虹色だって作れる!」
「私の原点を、安っぽい白で上書きするなァァァッ!!」
ズバァァァァァァッ!!!
私はハサミを一閃させた。
空間が裂ける音。
灰色の景色が、白い雪が、まるで幕が落ちるように切り裂かれ、左右に分かれた。
その裂け目の向こうに、別の「夢」が見えた。
そこは、どこかの屋敷の庭園だった。
太陽が降り注ぎ、花が咲き乱れている。
あまりにも平和で、あまりにも完璧な世界。
そして、その中心に、彼がいた。
アビスだ。
でも、私の知っているアビスじゃない。
黒い影を纏っていない。角もない。赤い瞳でもない。
ただの、優しそうな人間の青年として、ベンチに座って微笑んでいる。
『……公爵様?』
彼は幸せそうだった。
誰からも恐れられず、誰からも石を投げられず、ただの日向ぼっこを楽しんでいる。
ああ、なんて残酷な夢。
彼が心の奥底で、誰にも言えずに望んでいた、「普通の人間になりたい」という願い。
毒蛇王は、そこにつけ込んだのだ。
隣には、私の幻影が座っている。
二人は仲睦まじく、紅茶を飲んでいる。
イノセントの声が、私の耳元で囁いた。
『見て。彼は幸せそう。……起こさないであげて。彼はずっと、魔王という役割に疲れていたのよ』
『このまま夢の中で、人間として一生を終えるのが、彼にとっての救済だと思わない?』
私の心が揺れる。
確かにそうかもしれない。
現実のアビスは、常に世界中から命を狙われている。私のせいで、王都とも敵対してしまった。
このまま夢の中で幸せになれるなら、その方が……。
――いいえ。
私はハサミを握り直した。
あのベンチに座っている「リリエ」を見る。
彼女は綺麗に笑っている。シワひとつないドレスを着て、汚れひとつない手をしている。
……つまらない。
なんてつまらない顔をしているの。
「違うわ」
私は叫んだ。
「私の愛した人は、そんな腑抜けた顔をしてない!」
「彼は傷だらけで、不器用で、世界中を敵に回しても『我輩の妻が一番だ』って胸を張る、最高にカッコいい魔王よ!」
私は裂け目の中に飛び込んだ。
幼い少女の姿が、光の中で変貌していく。
ボロ布は消え、私の戦闘服――機能美に溢れた仕立て屋のドレスへと変わる。
「待ってて、あなた! 今すぐそのダサい夢、私が仕立て直してあげる!」
私はアビスの夢へと落下していく。
灰色の記憶はもう後ろだ。
手には、あの日の「青い端切れ」をリボンのように結んで。
私の戦場は、愛する夫の脳内(夢)。
世界一のスタイリストとして、彼に一番似合う「現実」を着せてあげるために。
(第34話 完)




