第33話:強制シャットダウン、夢幻の回廊へようこそ
世界から音が消えた。
風の音も、虫の声も、そしてあの賑やかだった廃都の息吹も。
すべてが、粘つくような白い霧の中に飲み込まれてしまった。
領主の館、大広間。
勇者カイトは、薪が爆ぜる音だけが響く空間で、荒い息を吐いていた。
「……マジかよ。これ、ワンオペ(一人勤務)ってレベルじゃねーぞ」
彼の周囲には、深い眠りに落ちた仲間たちが横たわっている。
アビスとリリエは、折り重なるようにソファで眠っていた。
クロードはルミナの手を握ったままカーペットの上で。
幽霊メイドたちは形を保てずに薄い光の玉となり、宙を漂っている。
魔獣たちも、ぬいぐるみのようになって動かない。
カイトは、リリエが開発した『裏勝りコート』を引っ張り出し、一人ひとりに掛けて回った。
表は地味な白だが、裏地には鮮やかな刺繍が施されたコート。
それを掛ける行為が、今のカイトにできる唯一の「抵抗」だった。
「風邪引くなよ、おっさんら。……起きたら、特別手当請求するからな」
アビスの顔にコートを掛ける時、カイトの手が止まった。
魔王の寝顔は、驚くほど穏やかだった。
いつも不遜で、自信満々で、リリエのことになると見境がない最強の男。それが今は、無防備な子供のように安らかだ。
それほどまでに、あの『歌』の強制力は強いのだ。
「……テツ。バリケードの状況は?」
「グォ……」
入り口を見張っていたゴーレムのテツが、重々しく首を横に振った。
館の窓や扉は、テツが家具や瓦礫を積み上げて塞いでいる。
だが、白い霧は物理的な隙間など関係なく、壁を透過して染み込んでこようとしていた。
「チッ、結界ごと侵食されてるのか。……リリエのパーカーがなけりゃ、俺もとっくに夢の中だな」
カイトはフードを深く被り直した。
ミスリル繊維が微かに発光し、精神汚染を防いでいる。
だが、頭痛は止まらない。脳の裏側をスプーンで削られるような、不快な感覚。
ドォン!!
突然、館の外壁が揺れた。
ただの霧ではない。物理的な衝撃だ。
「……来たか」
カイトは聖剣を掴み、立ち上がった。
ウィンドウに敵性反応が表示される。
数は――測定不能。
「テツ、ここは死守だ。リリエたちには指一本触れさせるな」
「グォ!!」
カイトはテツと拳を合わせ、バリケードの隙間から外へと飛び出した。
***
外の世界は、異界と化していた。
廃都を彩っていた極彩色のネオンや、赤く輝く吸血薔薇の光は全て消え失せ、視界一面が乳白色の闇に覆われている。
そして、その霧の中から、ゆらりと「それ」が現れた。
「……なんだありゃ。スライム? いや、ゴーストか?」
それは、人の形をした白い泥のような存在だった。
顔はない。足もない。
ただ、王都の市民たちと同じ「白いローブ」のようなシルエットだけが、無数に蠢いている。
【エネミー識別:純白の捕食者】
【特性:魔力吸収、精神同化】
「シャァァァ……」
白き影たちが、カイトを見つけて口(のような穴)を開けた。
そこから聞こえるのは、イノセントの歌声を歪ませたような、不協和音のノイズ。
「うるせぇんだよ! 夜中に騒ぐな!」
カイトが地面を蹴る。
聖剣一閃。
先頭の影が両断される。
だが、手応えがない。斬った端から霧となって再結合し、また人の形に戻っていく。
「物理無効かよ! クソゲーが!」
影たちはカイトを無視し、魔力の匂いがする館へと群がろうとする。
彼らの目的は殺害ではない。「同化」だ。
眠りについたアビスやリリエの魔力を吸い尽くし、その存在を「白」の一部として塗り潰すこと。
「行かせるかぁぁっ!!」
カイトは聖剣に魔力を込めた。
切断ではない。放出だ。
「聖剣奥義・【ライトニング・バースト】!!」
バリバリバリッ!!
聖剣から青白い雷撃が放たれ、扇状に広がる。
雷光が影たちを焼き焦がす。霧が蒸発し、嫌な臭いが立ち込める。
「ハァ……ハァ……! どうだ!」
数十体を消滅させた。
だが、霧の奥からは、さらに数百、数千の影が湧いてくる。
終わりが見えない。
(……王都の毒蛇め。どんだけ執念深いんだよ)
カイトは舌打ちする。
あのフレデリック王は、軍隊を送る代わりに、王都中の「祈り」という名の魔力を凝縮して送り込んできているのだ。
これは、個人の武力対、国家の総意との戦いだ。
「でもな……!」
カイトは聖剣を構え直す。
震える膝を叩く。
「俺は勇者だ。……いや、今は『廃都グレイヴの警備員』だ! 俺のシフトが終わるまで、この店は閉店させねぇ!」
ズバッ! ドォン!
カイトは踊るように戦った。
リリエが作った服は軽い。動きやすい。
まるで、彼女の手が背中を押してくれているようだ。
(思い出せ。リリエの言葉を。アビスの不敵な笑みを)
孤独なゲーマーだったカイトにとって、ここは初めてできた「帰る場所」だ。
温かいスープ。くだらない喧嘩。
それを「白一色」に塗り潰されることだけは、我慢ならない。
***
同時刻、王都シンフォニア。
玉座の間で、フレデリック王は水晶玉に映るカイトの姿を見て、冷笑を浮かべていた。
「しぶといねぇ、異界の勇者よ」
王はチェス盤の上にある、白いポーン(歩兵)の駒を大量に盤上にぶちまけた。
「だが、所詮は個人の力。……数の暴力と、システムによる圧殺。これこそが『統治』だ」
王は指を鳴らす。
「イノセント。ヴォリュームを上げろ。……あの子守唄を、葬送曲に変えてやれ」
大聖堂の塔で、イノセントが大きく息を吸い込んだ。
彼女の目から、血の涙が流れる。
限界を超えた魔力の放出。
キィィィィィィィン――――!!!
高周波の歌声が、衝撃波となって北へ放たれた。
***
廃都グレイヴ。
カイトの耳元で、何かが弾ける音がした。
「ぐ、あぁぁぁぁぁっ!?」
パーカーのフードが、耐えきれずに裂けた。
ミスリル繊維が焼き切れ、カイトの脳に直接、歌声が突き刺さる。
激痛。
そして、その直後に訪れる、甘美な麻痺。
(あ……やば……)
カイトの視界が霞む。
聖剣を取り落としそうになる。
目の前には、白い影の大群が迫っている。
「寝るな……寝ちゃダメだ……」
カイトは自分の腕を噛んだ。血の味が口に広がる。
だが、体は鉛のように重い。
ドサッ。
カイトは膝をついた。
白い影たちが、彼を飲み込もうと覆い被さってくる。
「……クソ……。俺、まだ……こたつ……入ってねぇのに……」
意識が途切れる寸前。
カイトは最後の力を振り絞り、館の扉の前に立ちはだかった。
そして、聖剣を扉の鍵穴に突き刺し、自らの体をバリケードの一部として固定した。
(絶対……開けさせない……)
白い影が、カイトごと館を飲み込んでいく。
廃都の灯りは完全に消え、世界は白一色の静寂に閉ざされた。
***
――そして、意識は沈む。
深く、深く。
物理的な世界から切り離され、精神の深淵へと落ちていく。
リリエは、夢を見ていた。
それは、幸せな夢ではない。
彼女がまだ「リリエ・アールグレイ」という名前すら持たず、ただの「7番」と呼ばれていた頃の、灰色の記憶。
冷たい石畳。
破れた布切れ一枚を奪い合う、痩せこけた子供たち。
孤児院という名の、子供捨て場。
『お前には価値がない』
『ゴミはゴミらしく、端っこで震えていろ』
院長の声が響く。
幼いリリエは、部屋の隅で膝を抱えていた。
寒かった。お腹が空いていた。
何より、心が寒かった。
世界には色がなかった。空も、地面も、人々の顔も、すべてが濁った灰色に見えた。
(ああ……ここだ)
眠りの中のリリエは理解する。
ここは、私の原点。
私が最も恐れ、そして最も憎んだ場所。
だが、その灰色の泥の中に、きらりと光るものがあった。
幼いリリエが、ゴミ捨て場で拾い上げた、一枚の小さな端切れ。
誰かが捨てたドレスの残骸だろうか。
それは、鮮やかな「青」だった。
『……きれい』
幼いリリエの瞳に、初めて光が宿った瞬間。
その青い布切れを胸に抱いた時、彼女は知ったのだ。
この一枚の布が、冷たい風を防ぎ、そして何より「惨めな自分」を「特別な自分」に変えてくれる魔法であることを。
(そう。……だから私は、針を持った)
夢の底で、リリエの意識が覚醒しかける。
だが、白い霧がそれを阻む。
『おやすみなさい、リリエ』
どこからか、優しい声がする。イノセントの声だ。
『もう戦わなくていいの。ゴミ拾いなんてしなくていいの。……この真っ白な世界で、永遠に眠りましょう?』
甘い誘惑。
霧が、リリエの手から「青い端切れ」を奪おうとする。
(……離して)
リリエは夢の中で、その布を強く握りしめた。
現実世界では敗北したかもしれない。
だが、ここからは精神の戦いだ。
夢幻の回廊――それぞれのトラウマと記憶が交錯する迷宮の扉が、静かに開かれようとしていた。
アビスもまた、別の夢の中にいた。
そこは、彼が望んでも得られなかった「人間としての平凡な幸せ」がある世界。
毒蛇王が仕掛けた、残酷なほどに甘い罠。
強制シャットダウン完了。
システム、再起動。
ログイン先――【深層心理:迷宮】。
世界を染める戦いは、物理次元を超え、魂の色を巡る最終局面へと移行する。
(第33話 完)




