第32話:見えざる毒、あるいは風に乗る「歌声」
王都シンフォニアの夜は、死んだように静かだった。
かつては酒場の喧騒や馬車の音が響いていた裏通りも、今は白い雪と、それ以上に白い静寂に埋もれている。
そんな路地裏の影で、勇者カイトは息を潜めていた。
「……おいおい、マジかよ。NPCの挙動がおかしいぞ」
彼はリュックから『裏勝りコート』を取り出し、闇市の手配師に渡していた。
だが、相手の反応が鈍い。
普段なら「いい品だ!」と目を輝かせるはずの商人が、白いローブ姿でぼんやりとコートを受け取り、機械的に金貨を渡してくるだけだ。
コートの裏地の豪華な刺繍を見せても、一瞬だけ瞳に光が戻るものの、すぐにまたガラス玉のような虚ろな目に戻ってしまう。
「……まるで、サーバーとの接続が切れかかってるみたいだ」
カイトは舌打ちをした。
リリエの読み通り、人々は「隠された贅沢」を求めている。だから商品は売れる。だが、それを受け取る彼らの「心」そのものが、何かに蝕まれているような感覚。
その時だった。
キィィィィィン……。
耳鳴りのような高周波の音が、夜風に乗って流れてきた。
「ッ……!?」
カイトは反射的にフードを深く被り、耳を押さえた。
リリエ特製の『隠密パーカー』のフードには、精神干渉を防ぐ「ミスリル繊維」が編み込まれている。おかげで彼は正気を保てたが、目の前の商人は違った。
「あ……ああ……聖女様……」
商人はコートを抱きしめたまま、その場に崩れ落ちるように膝をついた。そして、恍惚とした表情で、大聖堂の方角に向かって祈り始めたのだ。
彼だけではない。
路地裏の浮浪者も、見回りの兵士さえも、動きを止め、うっとりとその「音」に聞き入っている。
それは、歌声だった。
言葉の形をしていない、純粋な魔力の振動。
美しく、透き通っていて――そして、吐き気がするほど「無機質」な子守唄。
「……歌ってるのは、あの『イノセント』か?」
カイトは建物の屋根に飛び乗り、街を見下ろした。
街の中央、大聖堂の尖塔が白く発光している。
そこから放たれる波紋が、王都全体を、そして国境を超えて北へと広がっていくのが視覚的に見えた。
カイトの「勇者システム」のウィンドウに、警告ログが流れる。
[WARNING: 広域精神汚染を検知]
[属性:睡眠、停滞、多幸感]
[脅威レベル:測定不能]
「攻撃魔法じゃねぇ……『バフ』だ」
カイトは戦慄した。
これは敵を傷つける攻撃ではない。「安らぎ」を与え、思考を奪い、心地よい眠りへと誘う、強制的な癒やし(ヒール)だ。
だからこそ、物理的な防御壁では防げない。
「ヤベェ……! これ、指向性が『北』に向いてやがる!」
カイトはリュックを背負い直し、屋根を蹴った。
足の速さには自信がある。だが、音速で広がる歌声に勝てるか?
「逃げろ! リリエ、テツ、みんな! ……その歌を聞くな!!」
***
廃都グレイヴ。
そこは、まだ平和な午後の光の中にあった。
温室では、ツムギが新しいレースを編み、庭ではキメラ三兄弟(ライオン、鷲、蛇)が雪の中でじゃれ合っていた。
リリエたちは、サロンで「裏勝り作戦」の第二弾――次は靴底に赤い宝石を仕込む計画――を練っていた。
「ふふ、靴音を鳴らすたびに、チラッと赤が見えるなんて素敵じゃないですか?」
リリエがデザイン画を描きながら笑う。
「ああ。王都の石畳は白一色だからな。そこに赤い足跡が残るような錯覚を与えるのも面白い」
クロードもノリノリでアイデアを出す。
穏やかな時間。
だが、異変は静かに、そして唐突に訪れた。
コテン。
庭から、何かが倒れる音がした。
「……?」
リリエが窓から外を見る。
先ほどまで元気に走り回っていたライオンが、雪の上で横になっていた。
鷲も、枝から落ちて雪に埋もれている。大蛇はとぐろを巻いたまま動かない。
「あら? 遊び疲れて寝ちゃったのかしら」
リリエは微笑ましく思った。
だが、すぐに違和感に気づく。
――静かすぎる。
いつもなら聞こえる風の音や、幽霊たちのささやき声、テツの重い足音が、ぷつりと途絶えている。
『……ぬ?』
アビス公爵が、持っていたワイングラスをテーブルに置いた。
ガチャン。
少し強く置きすぎた。手元の感覚が狂っている。
『……体が、重いな』
アビスが眉間を揉む。
最強の魔王である彼が、ただの疲労を感じるはずがない。これは、何らかの干渉だ。
「……聞こえる」
部屋の隅で、ルミナがポツリと呟いた。
彼女は顔面蒼白で、耳を塞いでいた。
「聞こえる……お姉さま(イノセント)の歌……」
「ルミナ様? 歌って、何も聞こえませんけど……」
リリエが首を傾げた瞬間。
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
耳ではない。脳の奥、魂の芯が直接揺さぶられるような感覚。
甘く、とろけるような眠気が、津波のように押し寄せてきた。
(な、なに……これ……?)
リリエの視界がぐにゃりと歪む。
手に持っていたペンが、鉛のように重く感じる。
まぶたが、勝手に閉じていく。
『リリエ! しっかりしろ!』
アビスがリリエの体を支えようとするが、彼自身の膝もガクリと折れた。
『バカな……。結界は破られていないはず……。これは、呪いか!?』
「……ううん、違う」
ルミナが震える声で言った。
「これは……『聖なる揺り籠』。……教会がずっと研究していた、究極の救済魔法」
「救済……?」
クロードが、朦朧とする意識の中で問い返す。
「すべてを眠らせて……悲しみも、痛みも、思考さえもなくす……永遠の安らぎを与える魔法。……それを、イノセントが増幅して……世界中に撒いているの」
ルミナの瞳から涙がこぼれる。
「あの子は空っぽだから……王様の命令通りに、自分の命を削って……世界を『停止』させようとしてる……」
恐怖。
それは暴力的な痛みよりも恐ろしい、「優しさ」という名の毒だった。
頑張らなくていい。戦わなくていい。ただ眠ればいい。
リリエたちが掲げた「復興」や「革命」といったエネルギーを、根本から否定する「停滞」の魔法。
「だ……め……」
リリエは歯を食いしばり、自分の太ももに裁ち鋏の先端を突き立てようとした。
痛みで目を覚ますために。
だが、手に力が入らない。ハサミが床に落ちる音が、ひどく遠くに聞こえる。
『おのれ……毒蛇め……!』
アビスが咆哮しようとするが、声にならない。
彼の影が防衛本能で展開しようとするが、歌声は影さえもすり抜けていく。
なぜなら、この魔法には「害意」がないからだ。
「母が子を寝かしつける」ような純粋な善意の波動。アビスの最強の防御壁(対・悪意特化)は、この搦め手に対してあまりにも無力だった。
バタッ。
廊下で、給仕をしていた幽霊メイドが消滅――いや、霊体としての維持ができずに霧散し、ただの「魂の眠り」へと還っていった。
窓の外では、街を彩っていたネオンのような魔導灯が、一つ、また一つと消えていく。
動力源である幽霊や魔物たちの意識が途絶えたからだ。
廃都グレイヴが、再び死の闇へと沈んでいく。
「公爵、様……」
リリエは薄れゆく意識の中で、アビスの手を握った。
温かい。でも、その温もりさえも、今は眠りを誘う麻酔のように感じる。
(悔しい……。まだ、やりたいことがたくさんあるのに……)
新作のドレス。キメラたちの小屋。カイトのためのこたつ。
明日やろうと思っていたことが、遠のいていく。
『……眠るな、リリエ。……我輩が、許さん……』
アビスが必死にリリエを抱きしめる。
だが、魔王の赤い瞳も、今は光を失いかけていた。
***
王都、王宮のバルコニー。
フレデリック王は、北の空を見つめながら、ゆったりと指揮棒を振るう真似をした。
「聞こえるかね、イノセント。……北の風が止まったよ」
隣で歌い続けるイノセント。
彼女の口元からは一筋の血が流れているが、表情は変わらない。
命を燃やし、魔力に変えて、世界を強制的に「平和」にしているのだ。
「暴力など野暮なことはしない。経済封鎖もただの前座だ」
王は愉悦に浸る。
「人間はね、安きに流れる生き物なのだよ。……『頑張れば変わる』という希望よりも、『何もしなくていい』という安らぎの方が、甘美で抗いがたい」
王は知っていた。
リリエ・アールグレイという女の本質を。
彼女は「渇望」の塊だ。現状に満足せず、常により良いものを目指す向上心の化身。
だからこそ、この「現状肯定の極致」である睡眠魔法は、彼女にとって最強の猛毒となる。
「おやすみ、愛しき反逆者たち。……目覚めた時、世界は真っ白に染まっているだろう」
***
廃都グレイヴ。
領主の館は、完全な沈黙に包まれていた。
リリエも、アビスも、クロードも、ルミナも。
全員が椅子に座ったまま、あるいは床に倒れ込み、深い眠りに落ちていた。
唯一、動いているものがいた。
ガシャ……ガシャ……。
ゴーレムのテツだ。
彼は無機物であるため、精神魔法の影響を受けない。
だが、主人が倒れた理由が理解できず、オロオロとリリエの周りを回っている。
「グォ……? グォォ……?」
彼はリリエの体を揺するが、反応はない。
テツのルビーの瞳が、不安げに明滅する。
そして。
ドォォォォンッ!!
城門の方角から、爆音が響いた。
「ハァ……ハァ……! 間に合ったか!?」
音速を超えて駆け戻ってきた勇者カイトが、広間に飛び込んできた。
彼は肩で息をしながら、惨状を見渡す。
全滅。
魔王も聖女も、最強の布陣が全員、抵抗できずに沈黙している。
「……嘘だろ」
カイトはリリエに駆け寄り、脈を確認した。
ある。寝息も聞こえる。ただ、深く、泥のように眠っているだけだ。
アビスも同様だ。
「……テツ。お前、無事か?」
「グォ!」
テツが縋るようにカイトを見る。
カイトは歯を食いしばり、拳を床に叩きつけた。
「クソッ! なんて性根の悪い魔法だ! 物理で来いよ物理で!」
彼は知っている。
これはゲームで言う「強制イベント」に近い。
プレイヤーの操作を受け付けない、絶対的なシナリオの力。
だが、彼は「プレイヤー」だ。この世界で唯一、外側の理を知る異界の住人。
カイトは立ち上がり、リリエとアビスの寝顔を見下ろした。
二人の顔は、苦悶ではなく、穏やかだった。
それが余計に腹立たしい。
「……おい、リリエ。起きろよ。こたつ作ってくれる約束だろ」
返事はない。
「アビス。お前、魔王だろ? こんな子守唄で寝てんじゃねーよ」
返事はない。
カイトは聖剣を抜き、床に突き立てた。
広間に、キンッという硬質な音が響く。
「分かったよ。……お前らが起きるまで、俺が守ればいいんだろ」
彼はパーカーのフードを深く被り直した。
ミスリル繊維が、微かに聞こえる歌声を遮断する。
たった一人。
この広い廃都で、意識を保っているのは、勇者カイトとゴーレムのテツだけ。
「テツ。……今夜は長いぞ。誰も通すな」
「グォ!!」
窓の外、オーロラが薄れ、王都からの白い霧が廃都を侵食し始めていた。
それは、リリエたちが最も恐れる「夢」と「幻惑」の迷宮への入り口だった。
(第32話 完)




