表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『魔界のクチュリエールは、最恐公爵の「恋する人肌」を仕立てる』  作者: 小乃 夜
第五章 偽りの聖女と、世界を染める虹色の反撃(レジスタンス)
32/34

第32話:見えざる毒、あるいは風に乗る「歌声」

 王都シンフォニアの夜は、死んだように静かだった。

 かつては酒場の喧騒や馬車の音が響いていた裏通りも、今は白い雪と、それ以上に白い静寂に埋もれている。

 そんな路地裏の影で、勇者カイトは息を潜めていた。

「……おいおい、マジかよ。NPCの挙動がおかしいぞ」

 彼はリュックから『裏勝りコート』を取り出し、闇市の手配師に渡していた。

 だが、相手の反応が鈍い。

 普段なら「いい品だ!」と目を輝かせるはずの商人が、白いローブ姿でぼんやりとコートを受け取り、機械的に金貨を渡してくるだけだ。

 コートの裏地の豪華な刺繍を見せても、一瞬だけ瞳に光が戻るものの、すぐにまたガラス玉のような虚ろな目に戻ってしまう。

「……まるで、サーバーとの接続が切れかかってるみたいだ」

 カイトは舌打ちをした。

 リリエの読み通り、人々は「隠された贅沢」を求めている。だから商品は売れる。だが、それを受け取る彼らの「心」そのものが、何かに蝕まれているような感覚。

 その時だった。

 キィィィィィン……。

 耳鳴りのような高周波の音が、夜風に乗って流れてきた。

「ッ……!?」

 カイトは反射的にフードを深く被り、耳を押さえた。

 リリエ特製の『隠密パーカー』のフードには、精神干渉を防ぐ「ミスリル繊維」が編み込まれている。おかげで彼は正気を保てたが、目の前の商人は違った。

「あ……ああ……聖女様……」

 商人はコートを抱きしめたまま、その場に崩れ落ちるように膝をついた。そして、恍惚とした表情で、大聖堂の方角に向かって祈り始めたのだ。

 彼だけではない。

 路地裏の浮浪者も、見回りの兵士さえも、動きを止め、うっとりとその「音」に聞き入っている。

 それは、歌声だった。

 言葉の形をしていない、純粋な魔力の振動。

 美しく、透き通っていて――そして、吐き気がするほど「無機質」な子守唄。

「……歌ってるのは、あの『イノセント』か?」

 カイトは建物の屋根に飛び乗り、街を見下ろした。

 街の中央、大聖堂の尖塔が白く発光している。

 そこから放たれる波紋が、王都全体を、そして国境を超えて北へと広がっていくのが視覚的に見えた。

 カイトの「勇者システム」のウィンドウに、警告ログが流れる。

 [WARNING: 広域精神汚染マインド・ハックを検知]

 [属性:睡眠、停滞、多幸感]

 [脅威レベル:測定不能]

「攻撃魔法じゃねぇ……『バフ』だ」

 カイトは戦慄した。

 これは敵を傷つける攻撃ではない。「安らぎ」を与え、思考を奪い、心地よい眠りへと誘う、強制的な癒やし(ヒール)だ。

 だからこそ、物理的な防御壁では防げない。

「ヤベェ……! これ、指向性が『北』に向いてやがる!」

 カイトはリュックを背負い直し、屋根を蹴った。

 足の速さには自信がある。だが、音速で広がる歌声に勝てるか?

「逃げろ! リリエ、テツ、みんな! ……その歌を聞くな!!」

 ***

 廃都グレイヴ。

 そこは、まだ平和な午後の光の中にあった。

 温室では、ツムギが新しいレースを編み、庭ではキメラ三兄弟(ライオン、鷲、蛇)が雪の中でじゃれ合っていた。

 リリエたちは、サロンで「裏勝り作戦」の第二弾――次は靴底に赤い宝石を仕込む計画――を練っていた。

「ふふ、靴音を鳴らすたびに、チラッと赤が見えるなんて素敵じゃないですか?」

 リリエがデザイン画を描きながら笑う。

「ああ。王都の石畳は白一色だからな。そこに赤い足跡が残るような錯覚を与えるのも面白い」

 クロードもノリノリでアイデアを出す。

 穏やかな時間。

 だが、異変は静かに、そして唐突に訪れた。

 コテン。

 庭から、何かが倒れる音がした。

「……?」

 リリエが窓から外を見る。

 先ほどまで元気に走り回っていたライオンが、雪の上で横になっていた。

 鷲も、枝から落ちて雪に埋もれている。大蛇はとぐろを巻いたまま動かない。

「あら? 遊び疲れて寝ちゃったのかしら」

 リリエは微笑ましく思った。

 だが、すぐに違和感に気づく。

 ――静かすぎる。

 いつもなら聞こえる風の音や、幽霊たちのささやき声、テツの重い足音が、ぷつりと途絶えている。

『……ぬ?』

 アビス公爵が、持っていたワイングラスをテーブルに置いた。

 ガチャン。

 少し強く置きすぎた。手元の感覚が狂っている。

『……体が、重いな』

 アビスが眉間を揉む。

 最強の魔王である彼が、ただの疲労を感じるはずがない。これは、何らかの干渉だ。

「……聞こえる」

 部屋の隅で、ルミナがポツリと呟いた。

 彼女は顔面蒼白で、耳を塞いでいた。

「聞こえる……お姉さま(イノセント)の歌……」

「ルミナ様? 歌って、何も聞こえませんけど……」

 リリエが首を傾げた瞬間。

 ドクン。

 心臓が大きく跳ねた。

 耳ではない。脳の奥、魂の芯が直接揺さぶられるような感覚。

 甘く、とろけるような眠気が、津波のように押し寄せてきた。

(な、なに……これ……?)

 リリエの視界がぐにゃりと歪む。

 手に持っていたペンが、鉛のように重く感じる。

 まぶたが、勝手に閉じていく。

『リリエ! しっかりしろ!』

 アビスがリリエの体を支えようとするが、彼自身の膝もガクリと折れた。

『バカな……。結界は破られていないはず……。これは、呪いか!?』

「……ううん、違う」

 ルミナが震える声で言った。

「これは……『聖なる揺り籠』。……教会がずっと研究していた、究極の救済魔法」

「救済……?」

 クロードが、朦朧とする意識の中で問い返す。

「すべてを眠らせて……悲しみも、痛みも、思考さえもなくす……永遠の安らぎを与える魔法。……それを、イノセントが増幅して……世界中に撒いているの」

 ルミナの瞳から涙がこぼれる。

「あの子は空っぽだから……王様の命令通りに、自分の命を削って……世界を『停止』させようとしてる……」

 恐怖。

 それは暴力的な痛みよりも恐ろしい、「優しさ」という名の毒だった。

 頑張らなくていい。戦わなくていい。ただ眠ればいい。

 リリエたちが掲げた「復興」や「革命」といったエネルギーを、根本から否定する「停滞」の魔法。

「だ……め……」

 リリエは歯を食いしばり、自分の太ももに裁ち鋏の先端を突き立てようとした。

 痛みで目を覚ますために。

 だが、手に力が入らない。ハサミが床に落ちる音が、ひどく遠くに聞こえる。

『おのれ……毒蛇め……!』

 アビスが咆哮しようとするが、声にならない。

 彼の影が防衛本能で展開しようとするが、歌声は影さえもすり抜けていく。

 なぜなら、この魔法には「害意」がないからだ。

 「母が子を寝かしつける」ような純粋な善意の波動。アビスの最強の防御壁(対・悪意特化)は、この搦め手に対してあまりにも無力だった。

 バタッ。

 廊下で、給仕をしていた幽霊メイドが消滅――いや、霊体としての維持ができずに霧散し、ただの「魂の眠り」へと還っていった。

 窓の外では、街を彩っていたネオンのような魔導灯が、一つ、また一つと消えていく。

 動力源である幽霊や魔物たちの意識が途絶えたからだ。

 廃都グレイヴが、再び死の闇へと沈んでいく。

「公爵、様……」

 リリエは薄れゆく意識の中で、アビスの手を握った。

 温かい。でも、その温もりさえも、今は眠りを誘う麻酔のように感じる。

(悔しい……。まだ、やりたいことがたくさんあるのに……)

 新作のドレス。キメラたちの小屋。カイトのためのこたつ。

 明日やろうと思っていたことが、遠のいていく。

『……眠るな、リリエ。……我輩が、許さん……』

 アビスが必死にリリエを抱きしめる。

 だが、魔王の赤い瞳も、今は光を失いかけていた。

 ***

 王都、王宮のバルコニー。

 フレデリック王は、北の空を見つめながら、ゆったりと指揮棒を振るう真似をした。

「聞こえるかね、イノセント。……北の風が止まったよ」

 隣で歌い続けるイノセント。

 彼女の口元からは一筋の血が流れているが、表情は変わらない。

 命を燃やし、魔力に変えて、世界を強制的に「平和」にしているのだ。

「暴力など野暮なことはしない。経済封鎖もただの前座だ」

 王は愉悦に浸る。

「人間はね、安きに流れる生き物なのだよ。……『頑張れば変わる』という希望よりも、『何もしなくていい』という安らぎの方が、甘美で抗いがたい」

 王は知っていた。

 リリエ・アールグレイという女の本質を。

 彼女は「渇望」の塊だ。現状に満足せず、常により良いものを目指す向上心の化身。

 だからこそ、この「現状肯定の極致」である睡眠魔法は、彼女にとって最強の猛毒となる。

「おやすみ、愛しき反逆者たち。……目覚めた時、世界は真っ白に染まっているだろう」

 ***

 廃都グレイヴ。

 領主の館は、完全な沈黙に包まれていた。

 リリエも、アビスも、クロードも、ルミナも。

 全員が椅子に座ったまま、あるいは床に倒れ込み、深い眠りに落ちていた。

 唯一、動いているものがいた。

 ガシャ……ガシャ……。

 ゴーレムのテツだ。

 彼は無機物であるため、精神魔法の影響を受けない。

 だが、主人が倒れた理由が理解できず、オロオロとリリエの周りを回っている。

「グォ……? グォォ……?」

 彼はリリエの体を揺するが、反応はない。

 テツのルビーの瞳が、不安げに明滅する。

 そして。

 ドォォォォンッ!!

 城門の方角から、爆音が響いた。

「ハァ……ハァ……! 間に合ったか!?」

 音速を超えて駆け戻ってきた勇者カイトが、広間に飛び込んできた。

 彼は肩で息をしながら、惨状を見渡す。

 全滅。

 魔王も聖女も、最強の布陣が全員、抵抗できずに沈黙している。

「……嘘だろ」

 カイトはリリエに駆け寄り、脈を確認した。

 ある。寝息も聞こえる。ただ、深く、泥のように眠っているだけだ。

 アビスも同様だ。

「……テツ。お前、無事か?」

「グォ!」

 テツが縋るようにカイトを見る。

 カイトは歯を食いしばり、拳を床に叩きつけた。

「クソッ! なんて性根の悪い魔法だ! 物理で来いよ物理で!」

 彼は知っている。

 これはゲームで言う「強制イベント」に近い。

 プレイヤーの操作を受け付けない、絶対的なシナリオの力。

 だが、彼は「プレイヤー」だ。この世界で唯一、外側のロジックを知る異界の住人。

 カイトは立ち上がり、リリエとアビスの寝顔を見下ろした。

 二人の顔は、苦悶ではなく、穏やかだった。

 それが余計に腹立たしい。

「……おい、リリエ。起きろよ。こたつ作ってくれる約束だろ」

 返事はない。

「アビス。お前、魔王だろ? こんな子守唄で寝てんじゃねーよ」

 返事はない。

 カイトは聖剣を抜き、床に突き立てた。

 広間に、キンッという硬質な音が響く。

「分かったよ。……お前らが起きるまで、俺が守ればいいんだろ」

 彼はパーカーのフードを深く被り直した。

 ミスリル繊維が、微かに聞こえる歌声を遮断する。

 たった一人。

 この広い廃都で、意識を保っているのは、勇者カイトとゴーレムのテツだけ。

「テツ。……今夜は長いぞ。誰も通すな」

「グォ!!」

 窓の外、オーロラが薄れ、王都からの白い霧が廃都を侵食し始めていた。

 それは、リリエたちが最も恐れる「夢」と「幻惑」の迷宮への入り口だった。


(第32話 完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ