第26話:逃亡者たちの雪道、あるいは勇者のシフト変更
北の国境付近、白銀山脈。
そこは、吐く息さえ凍りつくような猛吹雪の世界だった。
視界は白一色。天地の境目さえ曖昧なホワイトアウトの中を、二つの影が小さく蠢いていた。
「……はぁ、はぁ……っ」
クロードの足が、膝まで雪に埋まる。
感覚がない。
最高級の革靴も、仕立ての良いウールのコートも、この大自然の暴威の前では紙切れ同然だった。
(……俺は、驕っていたな)
クロードは、背中に負った重みを感じながら、自嘲気味に歯を食いしばる。
王都の気候に合わせて「美しさ」と「シルエット」だけを追求した自分の服は、ここでは何の役にも立たない。
リリエなら、どうしていただろうか。
あいつならきっと、見た目は不格好でも、保温魔石を裏地に縫い付けた、生存するための服を作ったに違いない。
「……クロード、降ろして……」
背中で、弱々しい声がした。
ルミナだ。
彼女は今、ただの少女として、寒さに震えている。
かつての「聖女」としての加護は失われ、体温を保つ魔力さえ枯渇していた。
「私が重いから……これじゃ、二人とも……」
「黙っていろ」
クロードは乱暴に、しかし決して離さないように彼女を背負い直した。
「俺は世界一のデザイナーだぞ? お前一人くらいの荷物、アクセサリーみたいなもんだ」
「……嘘つき」
「ああ、嘘だ。本当は鉛のように重い。……だがな、俺はこの『重み』が嫌いじゃない」
クロードは前を見据えた。
王都を出て三日。
追っ手である「近衛蛇兵」は、執拗に追いかけてきている。彼らは、王都の毒蛇王が放った狩猟犬だ。
目的は捕縛ではない。「狩り」を楽しむこと。
だからこそ、わざと距離を取り、獲物が疲弊し、絶望する瞬間を待っているのだ。
「……クーン、グルルル……」
風の音に混じって、獣の唸り声が聞こえた。
近い。
蛇兵たちが使役する魔獣『影狼』だ。雪に紛れて音もなく忍び寄る暗殺者。
(ここまでか……?)
クロードの視界が霞む。
だが、その霞んだ視界の先に、奇妙な「光」が見えた。
白一色の世界に、場違いなほど鮮やかな、紫と青のネオンサインのような輝き。
「……あれは……?」
それは、山の向こうの盆地から天に向かって放たれている光の柱だった。
まるで、「ここだよ」と迷子を呼ぶ灯台のように。
***
同時刻、廃都グレイヴ。
外の吹雪とは裏腹に、領主の館の中は暖炉の火と魔導灯で暖かかった。
だが、その空気はピリピリと張り詰めている。
「ツムギちゃん、包帯用の晒は煮沸消毒できた? テツ、予備のベッドの組み立て急いで!」
「キューッ!」
「グォ!」
リリエが戦場指揮官のように指示を飛ばしていた。
ダイニングテーブルの上には、食事の代わりに、薬草、糸、針、そして輸血用の魔導器具が並べられている。
彼女の「嫌な予感」は、時間が経つにつれて確信へと変わっていた。
指先の古傷が痛む。
それは、かつてクロードと同じ工房で修行していた時代、何度も針で指を刺した時の記憶とリンクしている。
『……落ち着け、リリエ』
アビス公爵が、リリエの肩に手を置いた。
『君の顔色が悪い。……客人を迎える前に、君が倒れては本末転倒だ』
「でも……! 近づいてるんです。すごく弱った、懐かしい気配が……」
リリエは縋るようにアビスを見上げた。
「公爵様。……私、クロード様にはたくさん意地悪されました。私のデザインをダサいって笑ったし、下っ端扱いしてきました」
『ああ、知っている。我輩もあの男の気取った態度は好かん』
「でも……彼は、私の『ライバル』なんです。彼がいたから、私は負けたくなくて、ここまで針を磨いてこれた。……私の青春の一部なんです」
リリエの目から、一雫の涙がこぼれる。
「だから、死なせたくない。……絶対に」
アビスは目を細め、リリエの涙を親指で拭った。
嫉妬? いや、そんなちっぽけな感情ではない。
妻がそこまで想う相手ならば、それはアビスにとっても「守るべき身内」の範疇だ。
『……安心しろ。我輩の庭に入った者は、たとえ死神であろうと連れ去ることはできん』
アビスの影が、館全体を包み込むように広がった。
『それに、外には「最強の番犬」を配置してある。……そろそろ、吠える頃合いだろう』
***
廃都の入り口、崩れかけた城門の上。
勇者カイトは、吹き付ける雪をものともせず、仁王立ちしていた。
彼が着ているのは、リリエ特製の「極寒冷地仕様・勇者ウェア(モッズコート風)」だ。
フードの縁には、アビスが狩ってきた魔獣の毛皮があしらわれ、内側には発熱素材が使われている。
「……さみぃ」
カイトは文句を言いながら、携帯食料の干し肉を齧った。
「なんで俺が夜勤なんだよ。勇者の労働基準法どうなってんだ。……なぁ、テツ?」
「グォ?」
隣に立つゴーレムのテツが、雪をかぶったまま首を傾げる。
テツもまた、関節部分が凍結しないように、リリエお手製の巨大なマフラーを巻かれていた。
「リリエのやつ、夕方からずっとソワソワしてやがんの。『来る』とか『予感がする』とか……オカルトかよ」
カイトは鼻を鳴らす。
だが、その目は決して油断していなかった。
彼の手元に展開された半透明のウィンドウ――「勇者システム」のミニマップには、この周辺の地形情報がリアルタイムで表示されている。
彼はこの数日で、自分の役割を見つけつつあった。
ここでは、誰も彼を「救世主」として崇めない。
リリエは「力持ちのバイト君」と呼び、アビスは「生意気な小僧」と呼ぶ。
だが、それが心地よかった。
世界の命運なんていう重すぎる荷物を降ろして、ただ「この家の平和を守る」という、シンプルで具体的なクエスト。
「……ん?」
カイトの目が、マップの端を捉えた。
北の山脈ルート。
白い雪原を表すマップ上に、微かな「赤い光点」が表示された。
一つ、二つ……いや、十、二十。
急速にこちらへ向かってきている。
「……来たな」
カイトの雰囲気が変わった。
バイト君の顔から、歴戦のプレイヤーの顔へ。
彼はマップを拡大し、その光点の前を走る、二つの「青い光点」を確認した。
「生存者あり。……敵は、犬っころと……なんだありゃ? ステルス持ちの暗殺部隊か」
カイトは立ち上がり、テツの肩をバンと叩いた。
「おいテツ、起きろ。仕事だ」
「グォ!」
テツのルビーの瞳が赤く輝く。
「リリエの予感、的中だわ。……ったく、あの仕立て屋、予知能力(未来視)のスキルでも持ってんじゃねーの?」
カイトは聖剣を抜いた。
刀身が寒気の中で青白く輝く。
「シフト変更だ。……これより、土木作業員から『護衛任務』に切り替える」
カイトが城門から飛び降りる。
その背中には、リリエが刺繍した「S・G」の文字があったが、本人は気づいていない。
***
雪原。
クロードの限界は近かった。
足が動かない。体温が奪われ、意識が飛びそうになる。
背中のルミナも、もう返事をしない。
「……クソッ……」
倒れ込むように膝をつく。
その周囲を、黒い影が囲んだ。
影狼だ。
十数匹の魔獣が、赤い目を爛々と輝かせ、涎を垂らして二人を見下ろしている。
そして、その奥から、白いマントを羽織った男たちが現れた。
近衛蛇兵。
リーダー格の男が、仮面の下で冷笑を漏らす。
「追いかけっこは終わりだ、デザイナー殿。……陛下がお待ちだ。首だけでも持ち帰れば、報酬は変わらんのでな」
男が剣を振り上げる。
クロードはルミナを庇うように覆い被さった。
魔法も、武器もない。
あるのは、リリエへの対抗心だけで磨き上げた、プライドだけ。
(すまない、ルミナ……。俺の服は、お前を守りきれなかった……)
刃が振り下ろされる――その瞬間。
ズドォォォォンッ!!
轟音と共に、クロードと兵士の間の雪原が爆発した。
巻き上がった雪煙の中から、一人の少年が飛び出してきた。
「はいストップー! そこ、立ち入り禁止区域でーす!」
軽い口調。
しかし、その手に握られた聖剣は、蛇兵の剣を真っ二つにへし折っていた。
「なっ……!?」
兵士たちが後ずさる。
吹雪の中、パーカーのフードを被った少年が、ニヤリと笑って剣を担いだ。
「よお、おっさん。……ずいぶんボロボロの装備だな。課金してねーのか?」
カイトだ。
彼の背後では、巨大なゴーレムのテツが、影狼を片手で掴み上げ、デコピン一発で彼方へと弾き飛ばしていた。
ギャインッ! と情けない声が遠ざかる。
「ゆ、勇者カイト……!? 馬鹿な、貴様、魔王に殺されたのでは……!」
蛇兵のリーダーが驚愕の声を上げる。
王都の情報では、勇者は消息不明、あるいは死亡したことになっていたからだ。
「死んでねーよ。……むしろ、前よりコンディションいいくらいだ」
カイトは首をコキコキと鳴らし、チラリと後ろのクロードを見た。
「生きてるか? ……安心しろ。ここから先は、俺たちの『庭』だ」
カイトが剣を構える。
その体から溢れ出るオーラは、王都にいた頃の刺々しい殺意ではない。
もっと安定的で、強固な「守護」の光だった。
「さあ、かかってこいよ王都の犬ども。……『お客様』のチェックインの邪魔だ」
廃都の灯りが、すぐそこまで迫っていた。
絶望の雪原は今、勇者という最強のドアマンによって、希望へのエントランスへと変わったのだ。
(第26話 完)




