第19話:黒の公爵と、硝子の少女のワルツ
王都シンフォニアの王城には、創業以来、最大の激震が走っていた。
物理的な揺れではない。価値観の激震だ。
昨日まで「忌むべき闇」とされていた色が、一夜にして「救国の英雄の色」へと反転したのだから、貴族たちの混乱たるや想像を絶する。
だが、その混乱の震源地である王城の特別ゲストルームでは、もっと切実な悲鳴が上がっていた。
「じっとしててってば! 公爵様、影が漏れてます! せっかくの仮縫いが台無しです!」
『ええい、くすぐったい! リリエ、脇腹を採寸する時は声をかけろと言っているだろう! だいたい、なぜ我輩がこんな窮屈なコルセットを巻かれねばならんのだ!』
「スタイル良く見せるためです! 今夜の祝勝会は、貴方のデビューステージなんですからね!」
リリエは鬼の形相でマチ針を口にくわえ、アビスの巨体と格闘していた。
部屋の床には、最高級のシルクやベルベットが散乱している。すべて、国王フレデリック三世が「ツケでいいから最高のものを」と商人たちから徴収させたものだ。
「いいですか公爵様。貴方は見た目が完全に『ラスボス』なんです。黙って立っているだけで、騎士団が失禁するレベルの威圧感なんです。それを『ミステリアスで高貴な紳士』に見せるのが、私の仕事なんです!」
『失敬な。魔界ではこの威圧感こそがモテ要素だったのだぞ』
「ここは人間界です! TPO(時と場所と場合)をわきまえてください!」
リリエが必死になるのも無理はない。
今夜の宴は、ただのパーティーではない。アビスという「異物」を、貴族社会に認めさせるための戦場なのだ。
もしここで失敗すれば、彼らは「英雄」から一転、「排除すべき怪物」として孤立する。あの食えない「毒蛇」国王の手のひらで踊らされないためには、圧倒的なカリスマを見せつける必要があった。
その時、部屋の扉がノックもなしに開かれた。
「……騒がしいな。廊下まで痴話喧嘩が聞こえているぞ」
入ってきたのは、クロードだった。
だが、リリエの目は彼ではなく、その背後に隠れるように立っている小柄な人影に釘付けになった。
「……ルミナ、様?」
そこにいたのは、聖女の装束を脱ぎ捨てた少女だった。
重厚な法衣の代わりに、淡いレモンイエローのカクテルドレスを身に纏っている。
そして何より目を引いたのは、その髪だ。
床まで届くほど長かった白銀の髪が、肩のラインでバッサリと切り揃えられ、毛先がふわりとカールしている。
それは「神の依代」としての神聖さを捨て去り、一人の「少女」として生まれ変わった証のように見えた。
「……へん、かな?」
ルミナがおずおずとスカートの裾をつまむ。
その仕草には、かつての機械的な冷たさは微塵もない。初めてのお洒落に戸惑う、等身大の少女の姿があった。
「私が切った」
クロードがぶっきらぼうに言った。
「あの長い髪は、祭壇に座り続けるには良いが、ダンスを踊るには邪魔だ。……それに、重かっただろう」
「……うん。軽くなった。すごく、軽い」
ルミナが小さく笑った。その笑顔はまだ不器用だが、リリエの胸を打つには十分だった。
かつての敵。アビスを殺そうとした兵器。
けれど今は、クロードという新しいデザイナーの手によって、新しい「自分」を着こなし始めている。
「悔しいけど……完璧なスタイリングですね、クロード様」
「当たり前だ。素材の良さを引き出すのが俺の仕事だ。……それより、そちらの『魔王様』の仕上がりはどうなんだ?」
クロードがアビスを一瞥する。
アビスは、仮縫い状態のスーツを纏い、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
『フン。リリエの腕を疑うとは愚かな。……だが、人間の服は窮屈でかなわん』
「リリエ、手伝おう。時間はあと一時間しかない」
「えっ、でもクロード様は……」
「勘違いするな。俺は、俺のライバルが『ダサい服』で笑い者になるのが許せないだけだ」
クロードはそう言うと、持参したソーイングセットを広げた。
かつての敵同士が、一つの部屋で、針と糸を交錯させる。
リリエ、クロード、そしてアビスとルミナ。
奇妙な四角関係は、嵐の前の静けさの中で、確かに新しい絆を紡ぎ始めていた。
***
そして、夜が来た。
王城の大広間は、数百人の貴族たちで埋め尽くされていた。
シャンデリアの光が煌めく中、人々の話題は一つしかない。「影の公爵」と、その妻となった仕立て屋のことだ。
「聞いたか? 公爵は人の魂を食らうらしいぞ」
「いや、あの方は異国の皇子だという噂も……」
恐怖と好奇心が入り混じるざわめき。
その時、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
「アビス・ヴォイド公爵、ならびに公爵夫人リリエ・アールグレイ様の入場です!」
重厚な扉が、ゆっくりと開く。
一瞬、広間の空気が真空になったかのように静まり返った。
息を呑む音だけが、波のように広がる。
そこに立っていたのは、夜そのものを纏った王だった。
アビスが身につけているのは、リリエとクロードの合作による新作燕尾服――『宵闇の帝王』。
生地はただの黒ではない。
魔界の素材「影絹」をベースに、ルミナの光の結晶を粉末にして織り込んだ特殊繊維だ。
動くたびに、漆黒の中に星屑のような微細な光が瞬く。まるで、夜空そのものを切り取って仕立てたかのような深遠な美しさ。
鋭角的な襟のラインは彼の長身を際立たせ、タイトなシルエットが、人間離れした強靭な肉体を優雅に包み込んでいる。
そして、その腕に手を添えるリリエ。
彼女は、アビスの「影」を引き立てるための「月」だった。
純白ではなく、淡いシルバーグレーのドレス。アビスのスーツとお揃いの刺繍が施され、二人が並ぶことで初めて一つの「夜景」が完成するデザインだ。
『……征くぞ、リリエ。顔を上げろ』
「は、はい……!」
アビスのエスコートで、二人は大階段を降りていく。
恐怖していた貴族たちが、無意識のうちに道を開ける。
それは魔力による恐怖ではない。圧倒的な「美」への屈服だった。
「おお……なんと美しい……」
「あれが、魔界の……いや、新しい流行なのか?」
ささやき声が、称賛へと変わっていく。
リリエは震える足に力を込めた。
(やった……! 第一印象はクリア!)
アビスの「異形」を「個性」へ。そして「恐怖」を「カリスマ」へ。
ファッションによるイメージ戦略は成功したのだ。
だが、その様子を玉座から見下ろすフレデリック王の目は、笑ってはいなかった。
「……見事だ。予想以上に、民衆の心を掴むのが上手い」
王はワイングラスを揺らしながら、側近に囁いた。
「だが、光が強ければ影も濃くなる。……『あれ』の準備はできているな?」
「はっ。手筈通りに」
ダンスタイムが始まった。
アビスとリリエは、ホールの中心でワルツを踊る。
不器用だったアビスのステップも、リリエの魔法縫製で補助された靴のおかげで、流麗な動きになっている。
『悪くない夜だ。……君が隣にいるならな』
「公爵様ったら。皆見てますよ」
幸せな時間。
だが、曲が終わった瞬間、王が玉座から立ち上がり、拍手をした。
「素晴らしい! まさに新時代の象徴だ!」
王の声が響き渡り、音楽が止む。
フレデリック王は、ゆっくりと階段を降り、アビスたちの前へと歩み寄った。
その顔には、親愛の情を装った「毒」がたっぷりと塗られている。
「この度の功績、我が国は決して忘れぬ。そこでだ、公爵殿。そなたらに新たな爵位と、領地を与えたいと思う」
領地。
貴族たちがざわめいた。どこの土地を与える気だ? まさか、肥沃な南部か?
「王国の北端。旧魔導都市**『廃都グレイヴ』**。……あそこを、そなたらの愛の巣として贈ろう」
その名を聞いた瞬間、クロードの顔色が変わった。
「陛下!? あそこは……!」
廃都グレイヴ。
かつて栄えた魔法都市だが、十年前に謎の「呪い」によって滅び、今は誰も住めない死の土地だ。
瘴気が渦巻き、魔獣が跋扈する、地図から消された場所。
それを「領地」として与えるということは、実質的な「厄介払い」であり、同時に「開拓できなければ死ね」という命令に等しい。
「おお、そういえば」
王はわざとらしく手を打った。
「あそこには、強力な『魔力の歪み』があるとか。魔界の公爵殿なら、あの程度の瘴気、朝飯前であろう? まさか、人間の土地すら治められぬとは言わんよな?」
逃げ道を塞ぐ、完璧な論法。
リリエは拳を握りしめた。
この王は、アビスの力を利用しつつ、王都からは遠ざけ、さらに危険な土地の浄化まで押し付けようとしているのだ。
だが、断れば「公爵には統治能力がない」と見なされ、貴族社会での立場を失う。
張り詰める空気の中、アビスが不敵に笑った。
『……ククク。廃都、か』
彼はリリエの肩を抱き寄せ、王を見下ろした。
『よかろう。我輩好みの、退廃的で静かな場所のようではないか。……リリエ、どう思う?』
リリエは一瞬驚いたが、すぐに夫の意図を察した。
彼は、売られた喧嘩を買ったのだ。
ならば、妻として、最高の「返し」をするしかない。
「素敵ですね、あなた。ボロボロの街なんて、リフォームしがいがありますわ。……王都の流行はもう古い。これからは、私たちが北の果てから、新しい文化を発信しましょう」
リリエの啖呵に、王が一瞬だけ、本気で悔しそうな顔をした。
「……ほう。言うようになったな、小娘」
「お褒めに預かり光栄です、陛下」
バチバチと火花が散る睨み合い。
その時、広間の扉が再び開き、伝令の兵士が転がり込んできた。
「へ、陛下! 緊急報告です!」
「なんだ、興が削がれる」
「に、西の『聖教国』より、使者が到着しました! そ、それが……!」
兵士は青ざめた顔で、アビスを指差した。
「彼らは、『魔王討伐』を宣言しています! 異世界より召喚されたという、伝説の**『勇者』**様を伴って……!」
勇者。
その単語が落ちた瞬間、アビスの影が大きく揺らいだ。
『……ほう?』
アビスの赤い瞳が、楽しげに、しかし獰猛に細められる。
『魔王がいるなら、勇者が現れる。……物語の理というやつか。面白くなってきたではないか』
リリエは天を仰いだ。
毒蛇のような国王との政治闘争、呪われた廃都の開拓、そして今度は「勇者」とのバトル?
私のスローライフな服作り計画は、一体どこへ行ってしまうの!?
アビスの手が、リリエの腰を強く引き寄せる。
『さあ、リリエ。忙しくなるぞ。……まずは勇者をもてなすための、とびきり「凶悪」な一張羅を仕立ててくれ』
リリエは溜息をつき、それから覚悟を決めて微笑んだ。
「……はいはい、承知しました。ただし、特急料金はいただきますからね、旦那様!」
新たな波乱の幕開けを告げるファンファーレのように、二人のワルツは最高潮へと加速していった。
(第19話 完)




