第15話:傷だらけの影に口づけを、傲慢な光にドレスコードを
空間が歪み、視界が反転する。
ドサッ!
リリエとアビス公爵は、王都の下町にある宿屋『黒猫亭』の一室に転がり落ちた。
緊急脱出スクロールによる強制転移だ。
「……はぁ、はぁ! 公爵様! しっかりしてください!」
リリエはすぐに起き上がり、公爵の様子を確認した。
惨状だった。
最強の強度を誇ったはずの『ナイト・バロン・モード』のスーツは、聖女ルミナの光に焼かれ、ドロドロに溶解している。
中の「影」も無事ではない。あちこちが蒸発し、輪郭を保てずに床に黒いシミのように広がっていた。
『……リリエ……逃げろ……』
床に広がった影から、掠れた声が聞こえる。
『私は……汚れている……。彼女が言った通り……廃棄されるべき、ゴミだ……』
「馬鹿なこと言わないでください!」
リリエは叫び、裁断鞄からありったけの道具を取り出した。
魔力糸、補修用パッチ、そして錬金薬。
「汚れてなんていません。ただ、ちょっと『洗濯』が必要なだけです!」
リリエは溶解したスーツの残骸を鋏で切り開き、中の影を露出させた。
聖力による火傷は深刻だ。影の核が弱々しく明滅している。
リリエは躊躇なく、自分の指を切り、血を滲ませた。そして、魔力を込めたその指で、影の核に直接触れる。
「私の魔力を食べてください。……全部、あげますから」
ドクン。
リリエの魔力が流れ込むと、影が渇きを癒やすように震えた。
冷たかった影に、微かな熱が戻ってくる。
***
数時間後。
公爵は、リリエが応急処置で縫い上げた「簡易パジャマ・スーツ(ぬいぐるみ風)」の中に収まり、ベッドに横たわっていた。
見た目は可愛らしいクマのぬいぐるみだが、その瞳には深い絶望の色が宿っていた。
『……すまない、リリエ。無様な姿を見せた』
「いいえ。無事に戻れて何よりです」
リリエはサイドテーブルで温かいミルクティーを淹れながら、静かに尋ねた。
「……話して、いただけますか? あの聖女様とのことを」
公爵は長い沈黙の後、ポツリポツリと語り始めた。
『……私は、かつて「アベル」という名の人間だった』
アベル。
それは、この国の歴史書にも載っている、先代の聖騎士団長の名だ。
清廉潔白で、誰よりも強く、そして突然行方不明になった伝説の英雄。
『私は、聖女ルミナの守護騎士だった。幼い彼女の純粋さに惹かれ、彼女が作る平和な世界を守りたいと願っていた』
だが、ルミナは「純粋」すぎた。
彼女は、世界からあらゆる「負の感情」を排除しようとした。
怒り、悲しみ、嫉妬、そして――性愛。
『ある日、彼女は言った。「アベル、あなたの心にはノイズがあるわ」と』
それは、アベルがルミナに対して抱いていた、淡い恋心だったかもしれない。
あるいは、過酷な任務への疲れや、将来への不安だったかもしれない。
人間なら誰しもが持つ、当たり前の感情。
だが、聖女にとってそれは「汚れ」でしかなかった。
『彼女は儀式を行った。私の魂から、「光」に相応しくない部分を切り離したのだ』
善き心、忠誠心、綺麗な記憶だけを残した「抜け殻」のアベルは、そのまま聖女の操り人形(聖騎士)として使い潰され、数年後に死んだ。
そして、切り捨てられた「汚れ」――欲望、執着、愛への渇望、恐怖。
それらの感情の集合体が、ゴミとして魔界へ廃棄された。
『それが、私だ。……私は、英雄アベルの「排泄物」。人間になれなかった、醜い影の化け物だ』
公爵の声が震える。
ぬいぐるみの手で、自分の顔を覆う。
『リリエ。君は「美しいもの」を作る職人だ。……私のような汚れと一緒にいてはいけない。君まで、あの光に焼かれてしまう』
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
リリエは、ミルクティーを置き、公爵のベッドに腰掛けた。
そして、ぬいぐるみの頭を優しく撫でた。
「……バカですね、公爵様は」
『……え?』
「その聖女様は、何もわかってないです。……『汚れ』のない人間なんて、ただの石像と同じですよ」
リリエは、自分の胸に手を当てた。
「私だって、嫉妬します。あなたが他の女性を見ていたらモヤモヤするし、自分より腕の良い職人がいたら悔しい。……でも、その『負の感情』があるから、もっと頑張ろうって思えるんです」
リリエは公爵の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「怒りがあるから、守る力が生まれる。寂しさがあるから、誰かを愛したいと願う。……あなたが『切り捨てられたゴミ』だと言うなら、私にとってはそれこそが『人間らしさの塊』です」
彼女は、ぬいぐるみの体をギュッと抱きしめた。
「綺麗なだけの抜け殻なんて、ちっとも魅力的じゃありません。……私は、悩み、傷つき、それでも私を愛してくれる、泥臭い『影』が大好きなんです」
ドクン。
ぬいぐるみの奥底で、公爵の核が大きく脈打った。
自己否定の闇に、リリエの言葉が光となって染み渡っていく。
自分が「ゴミ」ではなく、「必要な半身」であると肯定された瞬間。
ボッ……!
ぬいぐるみの縫い目から、淡い光が漏れた。
それは、聖女の白い光ではない。
暖かく、どこか淫靡で、生命力に溢れた――ショッキングピンクの光。
『……リリエ……っ!』
「ほら。また光りましたね」
リリエは涙ぐみながら笑った。
「聖女様の光は『消す光』ですけど、あなたの光は『生み出す光』です。……こんなに暖かいのに、誰が汚れだなんて言うもんですか」
ピンク色の光が部屋を満たしていく。
その光の中で、傷ついていた影がみるみる修復され、以前よりも濃密な質量を取り戻していく。
愛による再生。
聖女の「浄化」さえも及ばない、生命の根源的なエネルギー。
『……ありがとう。愛している、リリエ。……君がいれば、私は何度でも蘇れる』
公爵(ぬいぐるみ姿)が、リリエの頬に顔を埋める。
完全復活だ。いや、精神的には以前よりも強固になっている。
***
翌朝。
リリエは作業机に広げたスケッチブックに向かっていた。
横では、すっかり元気になった公爵が、魔力で紅茶を淹れている。
「さて、公爵様。作戦会議です」
『うむ。あの聖女、ルミナをどうするかだな』
「力づくで戦っても勝ち目はありません。彼女の『絶対浄化』の前では、どんな強力なスーツも消しゴムで消すように無効化されてしまいます」
リリエはペンを回した。
真正面からぶつかれば負ける。
ならば、仕立て屋としてのアプローチで勝つしかない。
「聖女様の弱点は、『白』しか知らないことです」
『白しか知らない?』
「はい。彼女は異物を排除しすぎて、世界が『光と影』で成り立っていることを理解していません。……だから、教えてあげるんです」
リリエはスケッチブックに、大胆なデザインを描き殴った。
「影を受け入れることの美しさを。そして、清廉潔白な白よりも、愛に染まった色がどれほど鮮烈かを」
リリエが取り出したのは、先日「嘆きの森」で採取した『月光蚕の繭』だ。
そして、もう一つ。
リリエは自分の髪を一本抜き、公爵に差し出した。
「公爵様。あなたの『影』を、少し分けてください」
『私の影を? 何に使うのだ?』
「混ぜるんです。光の素材と、闇の素材を」
リリエの構想はこうだ。
聖女の光を弾くのではなく、「吸収」し、「屈折」させるスーツを作る。
プリズムのように。
強すぎる光を受け止め、それを七色の輝き(人間の感情の色)に変換して拡散する。
そうすれば、浄化されるどころか、聖女の攻撃を受ければ受けるほど美しく輝く「究極のドレスコード」が完成する。
「名付けて、『エクリプス(皆既日食)・モード』」
リリエの瞳が、職人の鋭い光を帯びる。
「聖女祭の当日。……あなたのその『影』で、あの傲慢な太陽を覆い隠してやりましょう。そして、世界中に見せつけるんです。光の中にこそ、一番濃い影がいるんだってことを」
『……フッ、ハハハ!』
公爵が愉快そうに笑った。
その笑い声には、もう迷いはない。
『最高だ、私の妻は。……ああ、楽しみだ。あの聖女が、自分の光で私が輝く様を見て、どんな顔をするか』
リリエと公爵は、固く手を握り合った。
聖女祭まで、あと二日。
王都の片隅にある小さな宿屋で、世界を揺るがす「神殺しの衣装」作りが始まった。
かつて追放された仕立て屋と、廃棄された影の騎士。
二人のリベンジマッチは、誰も予想しなかった「美の暴力」となって、聖なる都を塗り替えるだろう。
(第15話 完)




