第83話 繕う夢
窓の向こうから、朝の光が優しく差し込んでいた。
カーテンの隙間からこぼれる淡い陽射しが、ルーチェの頬に触れる。
「ん……」
まぶたがゆっくりと開く。まだ少し眠そうな瞳の中に、柔らかな光が映り込んだ。
隣ではソンティが、丸くなったまま寝息のように静かに羽を小刻みに震わせていた。
ルーチェはその様子を見て、小さく笑った。
「おはよう、ソンティ」
そっと声をかけると、ソンティも羽を揺らしながら顔をもたげた。
「ふふ、まだ眠そうだね」
ゆっくりと体を起こし、伸びをする。白い服が朝の光を受けて、ほんのり金色にきらめいた。
(シアたちはまだ《魂の休息地》の中で寝てるかな。……リヒト、おはよう)
『おはようございます、お嬢様。眠りの質は良好でしたか?』
(うん、なんだかソンティのおかげで、とてもよく眠れた気がするよ)
窓の外からは、小鳥たちのさえずりと、街の人々の朝支度の音が聞こえてくる。
今日はどんな一日になるのだろう。
ルーチェはそっと胸に手を当てると、少しだけ気を引き締めるように微笑んだ。
「よし、今日もがんばろう……」
ルーチェは、眠たげに瞬きをするソンティを《魂の休息地》へとそっと戻し、それから顔を洗って着替えを済ませた。
リビングに向かうと、すでにラルクが朝食の支度をしていた。
「おはよう、ルーチェ」
「おはようございます、ラルクさん。あれ、ハルクさんは?」
「そういや、さっき奥の物置部屋に入ってってから戻ってきてねぇな。ルーチェ、朝メシできたって伝えてきてくれねぇか?」
「分かりました」
ルーチェは廊下を進み、奥の物置部屋の前に立つ。中からは、ガサゴソと物音が聞こえていた。
「ハルクさーん」
扉を開けながら呼びかけると、ハルクが棚の前で木箱をあさっていた。
「お、ルーチェ、おはよう」
「おはようございます。何か探し物ですか?」
「昨日言ってたブラシな。この辺にあったと思ったんだけどよ……」
「ハルクさん、朝食もうできてるみたいですよ」
「あ、マジか。……しゃーねぇ、食った後に探すか。よし、食いに行こうぜ、ルーチェ」
「はいっ!」
朝食を食べ終えると、ハルクはパンのかけらを軽く払い、すっと立ち上がった。
「よし、腹も満たされたし、さっきの続きだな。ちょっと付き合ってくれ、ルーチェ」
「はいっ!」
二人は再び物置部屋へと向かう。中は相変わらず、ガラクタや資材が雑然と積まれていたが、ハルクは迷うことなく部屋の隅にある棚へと歩いていった。
「確か、このへんに──あった! これだ!」
彼が引っ張り出したのは、上質な木箱に納められた手製のブラシだった。柄は滑らかに磨かれており、毛並みは艶やかで繊細。それでいて適度な硬さとしなやかさがあり、獣の毛並みに沿うように動きそうな絶妙な作りだった。
「こいつはな、前に親父が、馬を飼ってる奴から頼まれて、いくつか試作品を作ったときの余りなんだが……親父のセンスはどうにも俺の性に合わなくてな、しまい込んじまってた」
「これ……すごく使いやすそう……!」
ルーチェはおそるおそるブラシを手に取り、その感触に目を見開いた。手にしっとりと馴染み、自然と笑みがこぼれる。
「丈夫で、肌当たりもやさしい。影狼にも風豹にもぴったりだと思うぜ。毛の根元を痛めず、ちゃんと整えられるように調整してあるらしい」
「ありがとうございます、ハルクさんっ!」
「へへっ、喜んでもらえて何よりだ」
そう言ってハルクは、ブラシが納められていた木箱ごとルーチェに手渡した。
「箱ごと持ってけ。使ったらちゃんと掃除して、元に戻すんだぞ?」
「はいっ! ありがとうございます、ハルクさん!」
──こうしてルーチェは、大切な仲間たちを、もっと大切にできる道具を手に入れたのだった。
***
ルーチェは街を出て、目の前に広がる花畑の間の道をゆっくり歩いていた。
花々が風に揺れ、甘い香りがかすかに鼻をくすぐる。
その中ほどにぽつんと立つ一本の木──そこに辿り着いたルーチェは、足を止める。
「ここなら…まあ、騒がれたりはしないかな」
ひとり呟き、手を掲げる。すると、ルーチェの影からぴょんっとノクスが飛び出し、魔法陣の光とともにシアが現れる。
風を纏うように姿を現したシアは、眩しそうに空を見上げた。
「一応挨拶はしてきたしね。ブラッシングしたら王都に戻ろうか」
木を背に座り込むルーチェの声に、二匹はそろって近づいてくる。お座りしたノクスが見上げ、シアは一歩後ろで立ち止まる。
『私は後でいいわ。…この花畑、ちょっと気になるの』
「うん、いいよ。でも、あの辺には魔除けの花が植えられてるから、あんまり近くには行かないでね」
『分かってるわ。別に、踏みにじったりしないもの』
さらりと答えると、シアは風に乗るようにすっと花畑の縁へ向かった。その姿を目で追いながら、ルーチェはブラシを取り出す。
「じゃあ、ノクスからだね」
手招きすると、ノクスはすとんと座り直し、前脚を揃えてじっと待つ。
ブラシを胸の毛に優しく通すと、柔らかな毛並みにふわりと風が通ったように、毛が膨らむ。
『アルジ、コレ…キモチイイ』
しっぽをぶんぶんと振りながら、ノクスがうっとりと声を漏らす。
「ふふ、そっか。よかった」
毛並みの流れに沿って、丁寧に、丁寧に。
ルーチェの手はどこか愛おしそうで、優しくて──まるで絆を確かめるようだった。
「今度はシアだね」
『別に毛繕いするほど汚れても、毛が絡んでもいないわ。あの犬ころと違って私は短い毛だもの』
『オレ、シャドウウルフ。イヌコロ、チガウ』
『皮肉よ、お馬鹿』
「はいはい、シアも少しだけでもやろう? ほら、その尻尾とか」
『───し、尻尾!? 貴女、尻尾を毛繕いすると言ったの!?』
シアが目を見開いて振り返る。
「え、うん。だって、尻尾だけくるんって長い飾り毛があるよね?」
『だ、ダメよ! 尻尾だけはダメ! 主様でも許さないわ!』
「えぇ、ダメかぁ…」
ルーチェはしゅんと肩を落とした。
ノクスは「…ワフ…」と短く吠える。(まさか拒否するとは…)とでも言いたげな、空気の読める鳴き声だった。
『………っ、まぁ、やっぱり、ほんの少しだけなら、やってもいいわよ?』
シアはくるりと背を向け、そっと尻尾を差し出した。
淡い緑の飾り毛が、風にそよぐようにふわりと揺れる。
ルーチェは驚かせないように優しく手を伸ばすと、そっとブラシを当てて梳きはじめた。
「わぁ…」
『…………ま、まあまあね。悪くないわ』
「ふふ、良かった…!」
ルーチェの顔に、やさしい笑みが広がった。それは、心から満ち足りた笑顔だった。
───それもそのはず。
この一瞬は、ルーチェにとってずっと願っていた夢の一つ。
“大きい犬を飼いたい。お世話して、仲良くしたい”
──そんな小さな願いが今、異世界で、少し違う形だが、確かに叶っている。
「よし、終わり!」
『ところで主様。今からその“王都”ってところに行くんでしょ?』
「そうだよ。こっちに来る時はノクスが乗せて走ってくれて、二日くらいで着いたんだけど」
『へぇ? なら、帰りは私が乗せてあげる。風に乗れば、もっと早く帰れるわよ』
「じゃあ、帰りはシアにお願いしようかな」
『任せなさい。風になる感覚を教えてあげる…!』
***
「キールとテオが抜けたから、街の周りの巡回が必然的に増えちまって、ちょっとだるいよなぁ」
草原のほうからセシの街へ戻っていた騎士が、重い足取りでぼやいた。
「しょうがねぇさ。あいつらだって夢を追いたいって言ってたし、俺らは背中押してやるだけだろ?」
隣を歩く騎士が、どこか晴れやかな顔で言う。
「それに、俺らには推しがいるだろ?」
「…あぁ、我らが天使──“ルーチェ殿”!!」
さっきまでだるそうだった騎士が、勢いよくガッツポーズを決める。しかしその拳をゆっくりと下ろすと、腰につけていたアクセサリーに目を落とした。
それは、ルーチェファンクラブ謹製、魔法晶石をあしらった手作りの飾りだ。
「とはいえ、肝心のルーチェ殿も王都に行っちまったし…」
「……あれ? そういや誰かが、“帰ってきてる”とか言ってたような……」
「え、それマジかっ!?」
──その時だった。
「あうあうあうあうあう───っ!!」
花畑のほうから土煙を巻き上げて、何かが迫ってくる。
「「っ!?」」
「避けてくださぁぁぁいっ───!!」
目の前から迫ってきたのは──風豹のシアに乗って、涙目でバランスを取りながら走る、まさに“風のような”ルーチェだった。
騎士たちは慌てて道の端に飛び退く。
「ごめんなさいぃぃ、ありがとうございますぅぅ───!!」
ルーチェとシアはそのまま一気に通り過ぎて、風のように道の先へ消えていった。
「い、今のは……ルーチェ殿…?」
「前のピンクやら赤やらのローブじゃなかったな……」
「……ああ、間違いない。あれは天使だった!」
「こうしちゃいられねぇ! 今すぐ戻って、会員たちに伝えなきゃ!」
「おう!!」
騎士たちは、自分たちの推しが帰還した興奮を胸に、街へと全速力で駆け戻っていくのだった──。




