第80話 地中からの刺客
風豹との静かに見つめ合っていた、そんな中──
突如、地面が「ガガガッ」と大きく揺れた。
「っ、地震──?」
『違います、お嬢様。これは……!』
地面の一角が大きく隆起し、砕けた岩の間から何かが這い出てきた。
それは、鉱石のような歯をギチギチと鳴らしながら、二足で地面を踏み砕くように歩く巨体──まるで猿のような顔付きをした魔物だ。
「何、あれ……」
『《土喰鬼》このあたりに棲む大型魔物の一種です。通常はもう少し山奥の地中に潜んでいるはずですが──』
大猿は、黒豹に向かって咆哮をあげる。
黒豹も一歩引き、ルーチェと並ぶ形になる。
「……どうやら標的は私たちの方、みたいだね」
牙のような岩石を口から吐き出し、大猿が突進してくる。
「《天使の回輪》!」
ルーチェが杖を振ると、いくつもの光の輪が空中に生まれ、回転しながら大猿目がけて射出された。
輪は狙いすましたかのように魔獣の周囲へと飛来し、着弾と同時に衝撃を与え、眩い光で視界を奪う。
「グルゥ……ッ!」
大猿は思わず顔を背け、腕で目元を庇う。
その隙を突くように、黒豹が岩場を駆け、風のように回り込んだ。
そして、側面から鋭い爪を振るう。
しかし大猿は気配に気づき、反射的にその腕を振って、風を操る黒豹を払い除けようとする。
続けて、怒りの咆哮と共に地面を踏み砕くと、自らの足場ごと大地を割り、範囲衝撃を生み出した。
バキバキバキッ──!
音が広がるように、亀裂が地面を走る。
「──っ!」
ルーチェは咄嗟に光のリボンを腕と足に展開。
地割れが迫る瞬間に身体を跳ね上げ、間一髪で岩陰へと飛び込んだ。
『素晴らしい判断です、お嬢様』
リヒトの落ち着いた声が脳裏を走る。
(魔法で動きを封じれば……!)
岩陰から飛び出し、ルーチェは再び杖を振った。
「《光粒爆》!」
無数の光粒が空に舞い、きらめく星屑のようにグロウルマウラーの正面に集まる──そして、爆発と共に白熱の閃光が弾けた。
魔獣が顔を仰け反らせ、咆哮を上げる。
「グ、ルアァッ!?」
巨体がよろめき、爪が空を裂くように振るわれるが、その軌道は明らかに鈍い。
眼を灼かれたのか、首を左右に振り、苛立つような呻きが岩場に響く。
『お嬢様、今です!』
ルーチェは即座に頷き、地を蹴った。
それと同時に、黒豹も風をまとって走り出す。
緑がかった漆黒の毛並みが揺れ、しなやかな脚が岩を蹴って滑るように駆ける。
風を切る尾が鋭く鳴り、その身体は、音すら置き去りにして大猿の背後へ──!
シルファングは岩柱の上から、風を纏った咆哮と共《風刃》を放った。
鋭く切り裂く風の刃が、岩場の向こうにいる大猿を狙って駆ける。
「ッ!」
その一瞬、大猿は野生の勘で身をひねった。その魔獣の姿を視界で捉えたわけではない――本能が向けられた殺気に反応したのだ。
「グロォッ!!」
大猿の口から、鋭く尖った岩石が吐き出された。それは黒豹のいた方向、すなわち岩柱の上へと放たれる。
「──いけないっ! 《光線》!!」
咄嗟にルーチェが杖を構える。杖先から放たれた一直線の光が、空中を飛ぶ岩石を直撃し、粉砕する。
砕け散った破片が閃光を浴びてきらめきながら舞い落ちる中、岩柱の上の黒豹がこちらを見た。
その緑の瞳が、微かに見開かれる。
───助けられた? 人間に?
黒豹はそう言いたげな視線をルーチェへと向けた、だがすぐに大猿を見据えた。
そして黒豹は風のように動いた。岩を蹴り、斜面の壁を一度反射するようにして───すぐにルーチェの隣に降り立った。
「……」
何も言わないまま、ルーチェの隣に立つ。そのしなやかな四肢は、風のような静けさと、共闘の意志を滲ませていた。
『お嬢様が助けずとも、あの距離なら回避できたと思われますが……』
「それでも、なんか咄嗟に助けなきゃって思っちゃったんだもん…」
ルーチェは苦笑しながら杖を握り直した。
目の前の大猿は、片目を押さえながら唸り、頭を振っている。先ほどの《光粒爆》の閃光が、まだ目に残っているようだ。
「もう少しだけ手伝ってくれる? 風豹さん」
そう声をかけると、黒豹はルーチェを一瞥し───静かに体勢を低くした。
しなやかな四肢が沈み込む。次の動きに備えて力を溜めているのがわかる。
「よし…タイミングを合わせて──」
ルーチェは杖の先に光を溜める。《天使の回輪》を再度展開するつもりだ。
その瞬間──大猿が咆哮し、腕を振り上げて突進の構えを見せた。
(今!)
「行こう、風豹さん!」
ルーチェが放った回転する光輪。その軌道が大猿の進行方向を塞ぐように展開されると、直後、深緑の風が走る。
黒豹が疾風のごとく走り出した。ルーチェの光の軌道と交差する形で、風の刃が生まれ、大猿に迫る。
二重の攻撃に対応しきれず、大猿の動きが鈍る。鋭い一閃が、やがて大猿の肩を浅く裂いた。
「よし…!」
ルーチェが思わず声を上げる。
その横で、黒豹の尾が静かに揺れた。今だけは、風と光が、敵ではなく───同じ方向を見ていた。
「《光輝槍》!!」
ルーチェが杖を掲げると、頭上に輝く光が収束し、鋭い槍の形を取る。光がきらめきを増しながら回転を始め、彼女の手の動きに合わせて、空へと放たれた。
眩い光の槍が、音もなく空を裂く。
その後を追うように───黒豹が風を裂いて走った。
大猿は直感的に危機を察し、身を捩るようにして回避を試みる。だが、槍はその脇腹を抉るように貫通した。
「グルアァァァッ───!?」
怒りと痛みに咆哮を上げたその瞬間。
「風豹さんを守って…! 《柔光の守護》!」
ルーチェが再び杖を振ると、黒豹の身体を淡い光のベールが包む。まるで風と調和するように、光は黒豹の体に馴染んでいく。
それを合図にするように───
黒豹が岩の柱を蹴って駆け上がり、さらに空中を軽やかに跳躍。そのまま宙を蹴るようにして大猿へと迫る。
その爪が、風そのものとなって喉元を切り裂いた。
大猿───《土喰鬼》の喉から血が噴き上がる。叫びすら発する間もなく、巨体は後方へと崩れ落ちた。
──沈黙。
風が一瞬、何もなかったように静かに通り抜けていく。
「はぁ…、急だったからびっくりしたぁ…!」
ルーチェは腰を下ろし、ほっと一息ついた。
『お疲れ様です、お嬢様。咄嗟のこととはいえ、よく対応されました』
リヒトの声が耳に優しく響く。
「というか、いきなりあんな大きなお猿さんが出てくるなんて…。ここに出てくるのは風豹さんだけだと思ってたのに…」
『先程も言った通り……本来なら、もっと山奥の地中深くに潜んでいる魔物のはずなのですが、何らかの刺激を受けた可能性がありますね』
「んー…なんにせよ、怪我しなくてよかった…」
ルーチェが呟いたその時──。
ヒタ、ヒタ──と小さな足音が近づく。
顔を上げると、黒く輝く姿が目前に迫っていた。
───《風豹》だった。
『お嬢様…!』
リヒトが警戒を促すように声をかけるが、ルーチェはそっと微笑んでいた。
「やっぱり、近くで見ると……綺麗なお顔してるよね、風豹さん」
その声に応えるように、黒豹は小さく瞬きをした。
そのままルーチェの周囲をゆっくりと歩き、やがて彼女の背中にそっと体を寄せる。風のような動きで擦り寄るその仕草は、どこか静かな親しみすら感じさせた。
「ふふ、ありがとう。あの魔物を倒したのはあなただから、あの獲物はあなたのものだよ。……助けてくれて、ありがとう、風豹さん」
黒豹は一歩、また一歩とルーチェから離れ、大猿の倒れている方へと歩いていく。
そして振り返る。緑の目が、じっとルーチェを見つめる。
「……? どうしたの?」
ルーチェが首をかしげたその瞬間、黒豹が小さく、低く鳴いた。
「……ルラァ……」
猫のような、けれど芯の通った声。
ルーチェはゆっくりと立ち上がった。
「……私もそっちに来いってことかな?」
そう呟くと、ルーチェは黒豹のもとへと歩き出すのだった。
「……ねぇ、これどうしよっか」
首を押さえ、苦悶の表情を浮かべた猿のような魔物──《土喰鬼》が、地に倒れていた。
「なんか毒殺された人みたいだね」
『毒を盛られた経験のあるお嬢様が言うと、皮肉にもなりませんね……』
ルーチェは苦笑しながら、そっとシルファングに目を向ける。
「このお猿さん……風豹さんは食べないの?」
問いかけに、シルファングはほんの少し眉をひそめるような表情を見せた。嫌そうな目だった。
「まぁ……魔物にも好き嫌いあるよね」
(どうしよっかな……解体はまだ出来ないし……)
考え込むルーチェの目がふと輝く。
「あっ、そうだ!」
(リヒト、ぷるるの《異空間収納》に入れられないかな)
『そうですね。既に命を失った個体であれば、収納は可能かと思われます』
「よし、ラルクさんのところに持って行って解体してもらおう。───《召喚》ぷるる!」
『あるじ、なーにー?』
「ぷるる、ごめんね。《異空間収納》の中にこの大きなお猿さんを入れてもらえる?」
『いいよー』
ぷるるは《巨大化》でその身体を膨らませると、もこもこと魔物を包み込むように覆い被さった。そして数秒後──魔物の姿は消え、ぷるるは《縮小化》でいつもの小さな姿へ。
「ありがとう、ぷるる。このままセシの街に戻ろうね」
『あるじにほめられた、わーい!』
ルーチェはぷるるを抱き上げ、立ち上がった。
その視線が、再び黒豹に向く。
黒豹もまた、まっすぐにルーチェを見つめ返していた。
「本当はね、風豹さんを“討伐”してほしいって言われて来たんだ。でも……私には、貴方が悪い魔獣さんには見えないから。だから、帰るね。じゃあね、風豹さん!」
ルーチェは小さく手を振り、踵を返す──が。
───クイッ。
ローブの裾が引かれた感覚に、思わず足を止めた。
「わっ……!」
振り返ると、ルーチェのローブの裾を咥えながら、黒豹がその場に座り込んでいた。
その口元から、クルル……と、低く柔らかな音が漏れる。
(リヒト、これって……?)
『えぇ。お嬢様と共に行きたい、そう思っているのではないでしょうか』
ルーチェは膝をつき、黒豹───《風豹》と視線を合わせる。
「私と……一緒に来る?」
そっと、手を差し出す。
その手を、黒豹はじっと見つめる。時が止まったような静寂。
(……勘違いだったかな……?)
そう思った瞬間だった。
───スゥ。
ルーチェの頬を、やさしい風が撫でた。
そしてその風に導かれるように、黒豹は尻尾を伸ばし、ポン、とルーチェの手のひらに乗せる。
「風豹さん……!」
ルーチェはゆっくりと立ち上がり、手を黒豹へと向けた。
「今、汝と誓いを結ぶ。光を我が手に、絆を我が胸に。古き世界の理を以て、新たな盟約は結ばれる。
───《絆の誓約》」
光のリボンがルーチェの手元から溢れ、黒豹の体へと巻きつく。二つの存在が、やがて一つの絆で結ばれる。
そして──その光の中から、どこか誇り高く、凛とした女性の声が聞こえた。
『まったく……放っておけない子ね』
「もしかして……これ、風豹さんの声?」
『どうやらそのようですね』
『それで? 他の魔物たちみたいに、私に素敵な名前はつけてくれないのかしら?』
「あっ、そうだった……! ───汝に名を与えよう。汝の名は───シア!」
その言葉に、シア──かつての《風豹》は、尻尾でルーチェの肩を優しくなぞり、おでこをこつんとすり寄せる。
『よろしくね、小さな主様』
「うん、よろしく、シア……!」
ルーチェは新たな仲間が加わったことに、とても嬉しそうに微笑んだ。
柔らかな風が二人を包むように吹くと、岩場を吹き抜けていった。




