第79話 風豹討伐
次の日の朝。
セシへ向かう前に王都のギルドへと立ち寄ったルーチェは、受付の奥で帳簿を見ていたクリスに声をかけられた。
「おやおや、ルーチェ君。随分と可愛らしい格好になったね。まるで、天使のようだ」
「クリスさん、おはようございます!」
ルーチェは嬉しそうに笑いながら、くるりと一回転してみせる。
「これ、新しい装備なんです!」
白銀のきらめきを纏ったローブと、ふわふわのリュックが目を引く。ケープの羽のような装飾が、くるりと回った反動で軽やかに揺れた。
「おぉ、これはまた素敵だ。いやぁ、やっぱり女の子は、着飾るとさらに魅力が増すねぇ」
クリスは感心したように頷きながら目を細める。
「そ、そうでしょうか…えへへ、ありがとうございます」
少し照れたように笑いながら、ルーチェは背筋を伸ばした。
「あ、えっと……これから、風豹の討伐に行ってきます」
「うん、それは頼もしい。くれぐれも気をつけて行くんだよ」
「はい、行ってきます!」
ルーチェが手を振ると、クリスや受付の冒険者たちがそれに応えて手を振ってくれた。その何気ないあたたかさに背を押されるように、彼女はギルドを後にする。
王都の門の前。
影の揺らぎの中から、ノクスが音もなく現れた。黒銀の身体が陽の光を受けて鈍く光る。
その傍らには執事のピーターが控えていた。
「ルーチェ様……本当に護衛をつけずに、お一人で行かれるおつもりですか?」
心配げな問いに、ルーチェは静かに頷いた。その表情には、揺るがない意志が宿っている。
「はい。今回は一人で行きます。……大丈夫です」
「……そうでございますか」
ピーターは一礼し、言葉を噛みしめるように告げた。
「くれぐれも怪我にはお気をつけください。王城にて、お帰りをお待ちしております」
「ありがとうございます。いってきます、ピーターさん」
「いってらっしゃいませ、ルーチェ様」
ルーチェはノクスの背に軽やかに乗る。ノクスが彼女の体重を感じ取り、四肢を伸ばすと──
一陣の風のように、彼らは王都を後にした。
白銀のケープが風を受けてふわりと舞い、空へと溶けていく朝の光の中へ、ルーチェの旅立ちは始まった。
***
ノクスが張り切って走ってくれたおかげか、王都からセシへ戻るのにかかった時間はわずか二日ほどだった。
馬でも一週間近くはかかる距離。ノクスの俊敏さには毎度ながら驚かされる。
門前に立つ騎士たちの顔ぶれも、どこか懐かしく感じる。
「おかえりなさいませ、ルーチェ殿!」
どうやらそのうちの一人は、ルーチェファンクラブの会員のようだった。
(一体、私がいない間に、会員は何人になったんだろうか…)
そう思いながら、ルーチェは通行証代わりの冒険者カードを見せて街へと入った。
セシの空気は変わらず穏やかで、どこかほっとする香りがする。
「ザバランさんのところに寄ってから、風豹のところに行こっか」
『それが良いでしょうね。ザバラン様だけでなく、この街の皆様が、お嬢様のことを、きっと心配していると思いますよ』
ギルドに到着すると、カウンターにいた受付嬢のニナがこちらを見つけ、勢いよく走ってきた。
「ルーチェさん!! 元気にしてた? 怪我とかしてない? ちゃんと食べてる?」
「あはは……お久しぶりです、ニナさん。大丈夫、ちゃんと元気にしてます」
懐かしい声と勢いに、ルーチェは思わず笑ってしまう。
(……この感じ、懐かしいな)
「おいニナ、また声がフロア中に響いて───」
奥から出てきたのは、セシ支部のギルドマスター・ザバランだった。
「ザバランさん、こんにちは」
「おぉ、ルーチェじゃねぇか。なんだか立派な格好になってんな!」
彼は感心したようにルーチェを眺めると、腕を組んでうなる。
「こっちに向かってるって連絡は来てたが……にしても、到着早すぎやしねぇか?」
「実は、ノクスが張り切っちゃって……」
「なるほどな。これから風豹の討伐に行くんだろ?」
「はい、すぐに向かうつもりです」
「気をつけて行けよ。ヤツは風使いだ、一筋縄じゃいかねぇからな」
「分かってます。ありがとうございます!」
ルーチェが軽く頭を下げると──
「ちょっと、ルーチェさん……いいかしら?」
ニナがひそひそ声で、そっと耳打ちしてきた。
「……その、ハルクのことなんだけど」
「ハルクさんが、どうかしたんですか?」
「……あの人、ルーチェさんが王都に行ってからずっと、いつ帰ってきてもいいように何かいろいろ作ってるみたいで……あのロリコン」
「……ロリコン……?」
「だから、もしアイツの店に寄るつもりがあるなら……ちょっと覚悟して行ってね?」
「わ、分かりました……?」
ニナがにっこり笑って仕事に戻っていくのを見届けてから、ルーチェはギルドを出た。
空を仰ぐと、風が一筋、山岳地帯の方角へと吹き抜けていく。
その先にいるであろう《風豹》との出会いを胸に、ルーチェは静かに歩みを進めていった。
セシの街から西、迷いの森の先にある遺跡から少し離れた坂道を登った先、眼下には見慣れたセシの遺跡が広がり、その上空には穏やかな風が流れていた。そこからさらに視線を先に送れば、ゴツゴツとした岩山が連なり、さらに遠く、青灰色にかすむ大きな山脈がその姿を見せている。
『セシの遺跡の上は、このようになっているのですね』
リヒトの声に、ルーチェは小さく頷いた。
遺跡前に広がる森――《迷いの森》。その鬱蒼とした緑と霧の帳が視界の端に映ると、ルーチェはふと足を止めた。
「ねぇ、リヒト」
『はい、お嬢様』
「私を狙った人って…ここから攻撃してきたのかな」
視線の先にある森を見つめながら、ルーチェは低く呟く。
『その可能性は高いと思われます。あの森の霧と木々の密度なら、十分に目隠しになるでしょう。上から見下ろせば、動きも察知しやすいはずです』
「…そっか」
ルーチェはわずかに眉を寄せながらも、感情を胸の奥へと押し込むようにして、踵を返した。そして、今回の討伐目標が現れるとされるダンジョンの方角へと向かって歩き出す。
岩と岩の間の開けた大地を進んでいく。足元はやや不安定だが、しっかりと地を踏みしめて進むルーチェ。そのうち、周囲の岸壁が徐々に狭まっていくのが分かる。
「奥に進むほど、岩がせり出してきてる…。しかもこの柱みたいな岩、たぶん……風で削られたのかな」
周囲には、風蝕によって造形された天然の岩柱がいくつも立ち並んでいた。自然のものとは思えないほど奇妙で、どこか人工的な意図すら感じさせる光景。
「入り組んでる岩場って、たぶんこの辺りのことだよね。けど……風は……」
その時――ルーチェの頬を、ひと筋の風が撫でた。
(……風が、来た)
乾いた空気の中に、確かな気配が混ざっている。無機質な風ではない。誰か、あるいは何かの「意志」を孕んだ風。
ルーチェは立ち止まり、ゆっくりと周囲を見渡した。
風豹――その名の通り、風をまとう魔獣が、すでに彼女の存在を察知しているのかもしれない。
『お嬢様、警戒しつつ進んでみましょう』
リヒトの静かな声に頷き、ルーチェはゆっくりと前へ踏み出す。岩場に囲まれた狭道を進むたび、肌を撫でる風が少しずつ鋭さを増していく。やがて──
ひときわ強い風がルーチェの頬を打った。ざらりと砂を混ぜたその風は、まるで「これ以上進むな」と告げるかのように。
「……これ、やっぱり“意志”のある風だ……」
『風を操る力の現れでしょうね。お嬢様、何かが……近づいております』
次の瞬間だった。岩の影から、しなやかな黒い影が滑り出るように現れた。
──その魔獣は、ルーチェの目を射抜くような静かな瞳で、じっと彼女を見据えていた。
影狼であるノクスと同じく漆黒の体毛。しかし、その黒は風に揺れるたびにわずかに緑がかった艶を帯び、まるで森の影が光を跳ね返しているような神秘的な色彩を見せる。
筋肉のついた細身の四肢は地を掠めるように軽やかで、動きのたびに地面に音を立てず滑る。
長い尾の先には風を纏ったような飾り毛が揺れており、ひゅう、と笛のような音を響かせた。
《風豹》──風の番人。
その姿には威嚇も、怒りもない。ただ静かに、慎重に、目の前の異分子を測るように視線を送ってくる。
その瞳は、澄んだ翡翠のような緑。深い森を思わせる静けさと、すべてを見透かすような洞察を湛えていた。
「貴方が、風豹さんなんだよね?」
ルーチェは少し声を張って呼びかけた。
そしてそっと地面にしゃがみ、威圧感を与えないよう、できるだけ低い姿勢で目線を合わせる。
その魔獣は何も答えない。
ただ、翡翠のように澄んだ瞳で、じっとルーチェを見つめていた。
(……やっぱり、返事はないか)
内心でそう思いながらも、ルーチェは視線を逸らさず、静かに息を整える。
『お嬢様、今回は“風豹の討伐依頼”です。あの魔獣は、すでに何人もの冒険者を襲っている危険な存在なのですから』
(……それでも。リヒト、あの子、そんなふうには見えないんだよ……)
ルーチェの心の声に応えるかのように、風がそよいだ。その魔獣は音もなく歩を進め、彼女の正面までゆっくりと近づいてくる。
その動きには敵意も威嚇もない。ただ警戒と慎重さをまとった、「観察する者」の静かな気配だけがあった。
(もしかして、私を試してる……?)
彼女の前に立ち止まり、魔獣はわずかに首を傾げる。尾が風に揺れて、草を撫でるような柔らかな音を奏でた。
『お嬢様。急な動きは──』
「うん、大丈夫」
リヒトの声を遮るように、ルーチェは小さく頷いた。
そして、両手をそっと地に置き、心からの声で語りかける。
「あのね、私はルーチェって言うの。あなたに……会いに来たんだよ、風豹さん」
風豹の耳がピクリと動いた。
その瞬間、静寂の中を風だけが優しく吹き抜ける──。




