第74話 夢の傍らで
「ふあ…、早くに目が覚めちゃった…」
翌朝。ルーチェはテントの中で軽く伸びをすると、そのまま起きることにした。まだ薄暗い空の下でテントを手早く片付け、「早めにご飯でも食べようかな」と思ったその時だった。
ノクスがピクリと反応し、すぐさま影へと姿を沈める。ぷるるも瞬時に帽子に擬態して静かになる。
「お嬢〜!!」
駆けてきたのは、慌てた様子のベンだった。
「ベンさん!? どうしたんですか?」
「大変なんでさぁ! フェリクスの旦那が、どこにも見当たらねぇんです!」
「えぇっ!?」
「寝てた部屋には荷物もそのまんまで……荒らされたような形跡もねぇですし……」
「分かりました。ベンさん、もう一度村の中を探してもらえますか? 私は村の周囲を探します!」
「助かりやす、お嬢!」
「ぷるる、《異空間収納》! 荷物はとりあえず……まとめて、えいっ! ぷるるは帽子のフリしててね」
『はーい』
「ノクス、フェリクスさんを探して。見つけたら、すぐに戻ってきて教えて」
「ワフッ!」
ノクスは短く吠えると、再び地面の影へと滑り込んでいった。
村の外周を見回りながら走っていると、ふと足元の影が揺れた。
「……ノクス?」
滑るように現れたその姿に、ルーチェが声を上げる。
「ノクス、見つけたの!?」
「ワフッ!」
ノクスは嬉しそうに一声鳴くと、くるりと向きを変えて森の中へと駆けていく。その後をルーチェはすぐに追いかけた。
朝靄の残る林を抜け、草木の向こうがふっと開ける。 そこに広がっていたのは、小さな泉。地平から昇り始めた朝日を反射し、静かにきらめいている。
そして、その泉のほとりには──
「……フェリクスさん!?」
フェリクスが、背を岩に預けるように座り込み、すやすやと寝息を立てていた。
ルーチェは慌てて周囲を見渡す。
「まさか、魔物の仕業……?」
注意深く目を凝らすと、切り株の上に、一体の魔物が乗っている。白くふわふわとした羽毛をまとい、まるで繭のように柔らかな輪郭を持つ、不思議な姿。
夢の精を思わせるその魔物を見て、頭の中に声が響く。
『あれは──“繭夢”ですね。微弱な眠気を帯びた鱗粉を撒き、周囲の生き物を眠らせてしまう蛾の魔物。フェリクス様の持っていた本の記録によれば、フワムシの特殊進化個体です』
リヒトの説明に、ルーチェはふっと肩の力を抜いた。
「……フェリクスさん、寝不足だったもんね。もしかしてあの子的には“寝てない人を見かけたから寝かせた”ってこと、なのかぁ」
その魔物はこちらに敵意を見せることもなく、ふわりふわりと羽を漂わせながら、泉の水面をじっと見つめている。どこか神秘的で、優しさすら感じる佇まいだった。
その魔物の姿は、どことなく蚕に似ていた。
「びっくりしたけど……無事でよかった」
ルーチェはそっとフェリクスに近づき、その肩に手をかける。
「フェリクスさん、起きてください!」
「……ん、む……ぬぅ、ここは……?」
ゆっくりと目を開けたフェリクスは、きょとんとした表情で辺りを見回す。まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした顔。
ルーチェは少し呆れたように、しかし優しく微笑んだ。
「……気づいたら森の中で寝ていた、とか言わないでくださいよ?」
「すまない。まさにそれなのだが……」
フェリクスが苦笑いを浮かべる。ルーチェは思わず、ふっと笑みを漏らした。
「もう、荷物はあるのに部屋に戻ってきてないって、ベンさんがすごく心配してましたよ? さ、戻りましょう。……朝食食べないと!」
「あぁ……」
フェリクスは顔を上げながら、ふとその魔物に視線を止めた。
「まさか……繭夢!? 本物をこの目で見るのは初めてだ……! おお、羽を広げた姿はこうなっているのか! やはり進化個体だけあって、形状は蛾に近いのだな。なるほど、閉じた時に“繭”のような輪郭になるというのも……本当だったとは!」
フェリクスは泉のそば、ぽつんと生えた切り株の上にちょこんと乗っているその魔物を、じろじろと、あらゆる角度から観察していた。
一方の繭夢はというと──その丸い目がなんとなく、心なしか“迷惑そう”に見える。
「ああっ! しまった! ノートを荷物の中に置いてきてしまった! 本当なら今すぐスケッチしたいのに……くぅ、仕方ない。この目に焼きつけて後で描くとしよう!」
フェリクスは眼鏡を押し上げ、じーっとガン見を再開する。
繭夢はますます、明らかに「うわぁ……」という表情をしている……ような気がする。
「この羽の鱗粉……なるほど、これが眠りを誘う成分か。つまり、こうして近くで──」
「……あ、そんなに近づいたら──」
ルーチェの制止もむなしく、
「……ぐぅ……」
フェリクスはふらりと揺れて、そのままこてん、と地面に膝をついた。
「……だから言ったのに」
あわててルーチェが彼の袖をつかみ、引き戻す。
「ごめんね、繭夢さん。フェリクスさん、寝不足だったから……。もしかして、それを察して寝かせてくれたの? この場所まで連れてきてくれたのも、きっと安全な場所を選んでくれたんだよね……ありがとう」
ルーチェがそう優しく語りかけると、その魔物はふわりと動いて──ルーチェの腕をのそりのそりとよじ登り、肩に乗った。
「わ……。あ……でも、意外と軽いね」
その魔物は、ルーチェの顔をじっと見つめている。まるで何かを確かめるように。
「……?」
ルーチェもまた、まっすぐにその瞳を見返す。
『お嬢様。どうやらこの繭夢は、あなたに懐いたようです。もし本人……いえ、本魔物にその意志があるなら、契約は可能かと』
リヒトの声が、静かに頭の中で響いた。
ルーチェは頷き、そっと話しかける。
「君は……私と一緒に来たいの? それなら……ここに降りてみて」
ルーチェが切り株の表面をぽんぽんと叩くと、しばらくじっとその手を見つめ──やがて、ゆっくりとルーチェの肩から降り、切り株の上へと移動した。
「……分かった。なら──」
ルーチェはそっと繭夢に手をかざす。
「今、汝と誓いを結ぶ。光を我が手に、絆を我が胸に。古き世界の理を以て、新たな盟約は結ばれる。
───《絆の誓約》」
繭夢とルーチェの間に、やわらかな光のリボンが生まれ、それがふわりと繋がっていく。やがて光が収束し、リボンが二人を結んだ。
「名前は……うーん、ちょっと待ってね。可愛いの、ちゃんと考えるから」
そうつぶやいた瞬間──
「───はっ!? 繭夢は!? 私の繭夢はッ!!」
ぱちりと目を覚ましたフェリクスが、飛び起きるようにして声を上げた。微量の鱗粉だった為、回復は早かったようだ。
「あの、その……すみません。寝てる間に、契約しちゃいました」
ルーチェが申し訳なさそうにそう言うと、
「な、な、な──なんだってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
フェリクスの絶叫が、静かな泉に響き渡った。
繭夢はいつの間にか、ルーチェの肩にちょこんと乗っていた。
「契約するシーン、この目で拝みたかった……! なぜ私は寝ていたんだあああッ!!」
頭を抱えて叫ぶフェリクス。その様子にルーチェは苦笑する。
「フェリクスさん……」
落ち込んでいたかと思えば、急に顔を上げる。
「そうだ、ルーチェ君!」
「は、はいっ!?」
「あの……あとで、繭夢をスケッチさせてもらえないか!? 頼む、どうしても!」
「……だって。いい?」
ルーチェが肩の方に目を向けると、繭夢はじとっとした目でフェリクスを見ていた。
『……どうやら、“さっきみたいに顔を近づけてこなければ構わない”と思っていらっしゃるようです』
リヒトの声に、ルーチェは肩の力を抜いて微笑む。
「近寄りすぎなかったら、大丈夫みたいですよ」
「本当かい!? よかった……!」
フェリクスは感激して胸を押さえるが、ルーチェはすぐに現実に引き戻す。
「とりあえず、そろそろ戻りましょう? ベンさん、すごく焦ってましたから」
「そ、そうだったな……戻ろう、すぐに」
村へ戻ると、ベンが駆け寄ってくる。
「どこにもいねぇんで、心配しやしたぜ、旦那」
戻ってきたふたりに、ベンがほっとしたように息をついた。
「……すまなかった」
フェリクスは軽く頭を下げる。村人たちが起きる前には戻れたとはいえ、気配を完全に絶っていたことについては、やはり反省の色を見せている。
宿のご主人が気を利かせ、ルーチェの分の朝食まで用意してくれていた。
小ぶりのパン、温かいスープ、香草風味の卵、そしてこんがりと焼かれた白身魚。簡素ながらも、体と心に沁みわたるような朝食だった。
「では、いただきます」
三人は静かに朝の食卓を囲む。
食後、ふとフェリクスが口を開いた。
「そういえば……繭夢はどこかに隠してきたのか?」
ルーチェは小さく首を振り、自分の胸元にそっと手を当てる。
「いえ、ここに……」
「……ああ、以前言っていた、契約した魔物たちをしまっておけるという精神の隔離空間か」
「はい。あの姿のまま連れて歩くのは、ちょっと目立ちすぎるかと思って……」
「確かにな。あれでは夢から現れた精霊か、伝説の幻獣かと勘違いされそうだ」
フェリクスはどこか楽しげに笑いながら、外套の留め具を留め直す。
「……さて、ルーチェ君。もう間もなく目的地だ」
朝靄がうっすらと残る街道を抜け、ふたりは高原へと歩を進める。
風の流れが変わり、地平がひらけたその先には───
ふわふわと宙を舞う、綿毛のような生き物たち。
ひとつ、またひとつと風に乗って空を漂い、草の上をころころと転がっていく。
朝日を受けてきらきらと光を反射するその姿は、まるで春の空に舞う雪のようで、どこか儚さを感じさせた。
「……やはり、見事な数だな」
周囲をぐるりと見渡しながら、フェリクスが感嘆の声を漏らす。
「……わぁ……!」
ルーチェも思わず声をあげた。
(すごい……まるで、たんぽぽの綿毛みたい……)
その光景は、絵本の中の一幕のように、静かで、美しかった。
久々の契約回ですね。三匹目は蚕のような見た目の蛾の魔物、繭夢でした。喋りこそしないですが、結構表情に出やすいタイプだと、作者は思ってます。
追伸。後書きを慌てて書いたので、なんか文がスンッとしてますが、作者は今日も元気です。