第73話 フェリクスのお誘い
書庫に通い続けているうちに、ルーチェは一つの変化に気がついた。
「ルーチェ君!」
フェリクスのルーチェに対する呼び方が、いつの間にか“様”付けから“君”付けに変わっていたのだ。
「は、はいっ?」
突然名前を呼ばれ、本に集中していたルーチェは思わず肩を跳ねさせる。
「ごほん……じ、実はその……もうすぐ“フワムシ”っていう、ふわふわの綿毛のような体毛を持つ虫の魔物が大量発生する時期なんだが……その、もし君の都合が良ければ、現地調査に同行してほしいんだ。魔物研究の一環でね。護衛として──もちろん、報酬はちゃんと出す。ど、どうだろうか!」
そしてもう一つの変化といえば──フェリクスさんが、以前のように取り繕わず、本来の性格を隠さなくなったことだった。少なくともルーチェの前では、魔物好きの一面を包み隠さず見せてくれるようになっていた。
「フワムシ……ですか?」
ルーチェが尋ねると、フェリクスさんの目が一気に輝きを増す。
「そ、そうとも! 虫とは言っても、決して気持ち悪い見た目じゃない! ふわふわとした綿毛の塊みたいな姿で、成長すると美しい蛾のような姿の魔物になるんだ。なかなか見られるものじゃないし、君にとっても貴重な経験になると思って!」
「なるほど……分かりました。でも、護衛として依頼するならギルドを通した方が確実では?」
「ふふん、それは心配いらない! もう手配済みだ! 君を指名する形で依頼を出しておいた!」
「……準備、早いですね……」
(本当に楽しみにしてたんだなぁ、フェリクスさん)
「では、出発の日時や必要な物資は?」
「それもあらかた準備済みだ! 明日の朝、城の門の前に集合で頼む!」
「わ、分かりました……」
(やっぱり……本当に行きたかったんだなぁ)
***
「おはよう、ルーチェ君!!」
翌朝。城門前で待っていたルーチェの前に現れたのは──想像以上に立派な馬車だった。まるで貴族が使うような重厚な装飾が施されている。
扉が勢いよく開き、中から顔を覗かせたフェリクスの目の下には、見事なまでの隈が浮かんでいた。
「お、おはようございます……。あの……寝てないんですか?」
「いやいや、それがね……行けると分かったら興奮してしまって……じゃなくて、ほら! 一応魔物だしね。危険性は低いとはいえ、万全を期すために文献をいろいろ確認していたら朝になってしまったというか……」
取り繕うように言葉を重ねるフェリクス。
(……全然ごまかせてない。遠足前の子供みたい……)
ルーチェは思わず苦笑を浮かべる。
「フワムシに関する記述が載っている文献は、この通り持参してきた! 馬車の中でぜひ読むといい!」
そう言ってフェリクスは、分厚い本を数冊、誇らしげに掲げた。
「ありがとうございます。でも……フェリクスさんこそ、少し馬車の中で休んでくださいね?」
「いやいや、これくらい、どうってことないさ! 睡眠よりフワムシだよ! ……さ、行こう! 目的地まではおよそ一日。夜までには近くの村に着く予定だ。さ、乗ってくれ!」
高揚した様子のフェリクスに促され、ルーチェは微笑みながら馬車へと乗り込んだ。
こうして、少しにぎやかな調査旅行が幕を開けたのだった。
王都を出発して、すでに数時間が経過していた。
コンコン、と馬車の小窓がノックされる音がする。フェリクスが窓を開けると、御者の男が声をかけてきた。
「フェリクスの旦那、馬を少し休ませたい。ちょうどいい場所があるんで、ここらで一度止まりやせんか?」
「……む、確かに。馬たちも疲れるだろうな。分かった、しばしの間休憩にしよう」
馬車は道沿いの川辺に停まり、澄んだ水音が心地よく響く。ルーチェとフェリクスも馬車を降り、日差しの中で軽く体を伸ばした。
「お昼には……少し早いくらいの時間だな」
フェリクスが懐中時計を取り出してつぶやく。
「お馬さんたちのことを考えると、ここでお昼休憩にして、しっかり休んでもらった方がいいかもしれませんね」
ルーチェの提案に、フェリクスはふっと目を細めて頷いた。
「……そうだな。では、さっそくだが───」
そう言って荷物のひとつを開き、レジャーシートを取り出して手際よく広げる。続けて、丁寧に包まれたサンドイッチや彩り豊かなおかずが並べられていく。
「これ……わざわざ用意してくださったんですか?」
「ん? ああ。私がよく通っている料理屋に頼んで、それらしい品を詰めてもらったんだ。外でも食べやすいようになっているはずだ」
「おおっ、こいつぁすげぇや。あっしも、ご一緒していいんですかい?」
御者の男───ベンが目を輝かせて問いかける。
「もちろんだとも。さあ、ベン殿もルーチェ君も、一緒に食べよう」
「んじゃあ、遠慮なくいただきましょうかねぇ」
「いただきます!」
三人は川辺に広げられた即席のピクニックで、穏やかなランチタイムを楽しみ始めた。 春の風が草原を撫で、木漏れ日がゆるやかに揺れていた。
昼食を終えた一行は、再び馬車に乗り込み、穏やかな道を進んでいった。特に問題もなく、途中フェリクスが睡魔の荒波の中で船を漕ぎかけたくらいで、大きなトラブルはない。
やがて、夕暮れ時。噂に聞くフワムシの大量発生地である高原が遠くに見えてくる。ルーチェがふと視線を向けると、フェリクスは完全に爆睡していた。
月が昇り、夜の帳が下りる頃。ようやく目的の村に到着した。
「おや、あんたたち。もしかして、フワムシの大量発生を見に来たのかい?」
馬車から降りた途端、村人の一人が声をかけてくる。寝ぼけ眼のフェリクスに対応させるのは危険と判断し、ルーチェが前に出る。
「はい。私は王都で魔物研究をしている学者先生のお手伝いをしています。フワムシの大量発生、その生態について、先生が実際に観察したいと仰っていて」
怪しまれないような、それらしい言い訳を並べる。
「へぇ、熱心なこったねぇ」
「ところで、この村に宿などはありますか?」
「あるよ。ここをまっすぐ進んだとこに一軒だけ。フワムシは昼頃に姿を見せるから、今日はゆっくり休んでいくといいよ」
「ありがとうございます。……というわけなので、行きますよ、先生、ベンさん」
「あ、あぁ……」
再び馬車に乗り込むと、寝起きのフェリクスがやや不満げに眉をひそめた。
「……何故、君が応対を? 私でも問題なかったのでは?」
「……いえ、特に他意はなくて」
(……また魔物に興奮して早口で語り始めて、村の人にドン引きされでもしたら大変、とは言えないなぁ……)
「旦那、着きやしたぜ」
ベンの声で馬車が止まった。目の前にあるのは、こぢんまりとした民宿のような建物。
「夜分にすまない。部屋は空いているだろうか?」
「ええ、一人部屋なら二つ、空いてますよ」
「む……では……」
「フェリクスさん。私は冒険者ですから、野宿でも大丈夫ですよ。テントもありますし」
「しかし、夜は冷えるぞ?」
「フェリクスさんは寝不足ですし、ベンさんもずっと座りっぱなしでお疲れでしょう。ちゃんと休んでください」
「あっしは遠慮なく泊まらせてもらいやす!」
「それに、私には暖めてくれる友達もいますから。夜も寒くありませんよ」
「それは羨ま……いや、分かった。君がそこまで言うなら、我々が宿を取ろう。……何かあればすぐに知らせてくれ」
「はい、分かりました」
(まあ、一応護衛だし。念のため、村の周囲の警戒くらいはしておかないと……)
村の外に出て、少し離れた丘の上まで歩くと、ルーチェはスライムのぷるるを頭に乗せていた。隣では影狼のノクスが静かに寄り添いながら歩いている。
「なんか虫や鳥の声はするけど、この辺りって、本当に魔物が少ないんだなぁ…」
『そういえば道中でも、ほとんど見かけませんでしたね』
ルーチェの呟きに、リヒトが答える。
「こうやって夜に一人で歩いてても、何にも襲ってこないし…」
『あるじー、ほしがきれいだよー』
ぷるるの声に誘われて空を見上げると、雲ひとつない空に無数の星がきらめいていた。
「ほんとだ、すごいや。こんなに綺麗なの、久しぶりに見たかも」
「ルーチェ君」
ふと、背後から声をかけてきたのはフェリクスだった。
「フェリクスさん?」
リヒトもノクスも気づいていたようだが、害意がないと判断して特に反応はしなかったらしい。
「もう寝る場所は決めたのか?」
「いえ、その前に……村の周囲を一通り見ておこうと思って。念のための警戒です」
「…この辺りは元より、人に害をなす魔物が極めて少ない土地だ。魔物の凶暴化が進んでも、その特性はあまり変わっていないらしい。だから、過度な警戒は不要だよ。それに……」
「ん?」
「正直……ちょっと羨ましくてな、その……スライムや影狼と一緒に寝るというのが……」
「それでわざわざ来たんですか?」
「うぐ……」
どうやら図星のようだ。
「明日に備えて、しっかり休んでください。私はこの辺りにテントを張りますから」
「そ、そうか……なら君も、ちゃんと温かくして……ゆっくり休んでくれ」
「はい、おやすみなさい、フェリクスさん」