第72話 おまじないの朝
次の日の早朝───。
「ふああ……ねむ……」
テオは大きな欠伸をかみ殺しながら、目元を擦った。
王都の街を囲う城壁の、その門の前。
キールとテオは出発準備中の馬車のそばで待機していた。商人たちは、砂漠の街へ届ける積荷をまだ積んでいる最中で、出発まではもうしばらくかかりそうだった。
「流石にこの時間は眠いね。馬車に乗ったら、少し仮眠しようか」
「護衛も任されてるから、交代でな」
そんな会話をしていたその時───
「キールさん! テオさん!」
街の方から、何かが駆けてくる。驚いて振り返る二人の目に飛び込んできたのは、ノクスに乗ったルーチェの姿だった。
「……え!? ルーチェさん!?」
ノクスを降りると、ルーチェは急ぎ足で二人の元へと駆け寄る。
「もう……! こんな早朝じゃなかったら、今頃大騒ぎになってるよ、ルーチェ」
「どうされたんですか? こんな時間に」
「あの……えっと……」
言葉に迷いながらも、ルーチェは二人を見つめ、ぎゅっと拳を握った。
二人はその様子を静かに見守った。
「ちゃんと……待ってますから! いい子にしてますから……!」
その言葉は、心の奥から絞り出すようだった。
「だから……無事に、帰ってきてください……!」
キールとテオは一瞬だけ顔を見合わせ、すぐにルーチェへ優しく微笑みかけた。
「もちろん、必ず無事に帰ってきます」
「ん、約束」
ようやくルーチェの表情にも、柔らかな笑顔が戻る。
だが、テオはそこでふと思い出したように目を細めた。
「でもルーチェ、そんなに心配してるなら、一つ良さげなおまじないがあるんだけど……知りたい?」
「おまじない……?」
「昔さ、旅の途中で寄った村で聞いたんだ。狩りに出る男たちに、女の人たちが頬にキスをして“無事に帰ってきてね”っておまじないをかけるんだって」
テオは思い出すように空を見上げて言った。
「“必ずまた会うためのおまじない”。俺もその村から旅立つ時にしてもらったんだ、その村のばあちゃんにね。ちょっと気恥ずかしかったけど、まあ悪い気はしなかったよ」
そう言いながら、テオは少し腰を落としてルーチェの目線に合わせ、にっこり笑って───自分の頬を指でトントンと示した。
「だから気休めでも、どう? 試してみる?」
「なっ……!? な、何言ってるんだよ、テオっ!!」
キールが顔を真っ赤にして声を上げた。
(頬っぺたにキス……おまじない……)
ルーチェの頬も自然と赤く染まる。
「え〜、だってこれでルーチェが安心できるかもしれないんだよ? そう考えたら安いものでしょ? ……ね、ルーチェ?」
テオはルーチェに優しく微笑んだ。
「そ、それでも! そもそも、頬とはいえ、未婚の男女が口付けなんて……!」
「……そんなこと言ってるけど、お前だって前にルーチェの手の甲にキスしてたじゃん。あれはいいの?」
テオがニヤリと笑った。
「あ、あれは騎士として、敬意を表すものだから!」
あたふたするキールの横で、ルーチェは少し俯いて、頬を染めながら小さな声で言った。
「……それで、二人が無事に戻ってこられるなら……私、したいです……」
その言葉に、テオの顔がふわりと和らいだ。
「ありがと。じゃあ───お願い」
テオは優しくルーチェを見つめていた。
(……テオさんのこの目……何でだろう、少しドキドキする……)
ルーチェはそっとテオに近づくと、彼の服の裾を軽く掴み、そっとその頬に唇を寄せた。
すぐに離れると、テオは満足そうに笑った。
「ありがと、ルーチェのおかげで俺“絶対負けないテオ”になったから。……んで、キールはどうするの? してもらう? それともやめとく?」
「~~~~っ……してもらうっ!!」
覚悟を決めたらしいキールは、顔を真っ赤に染めながら、ぎこちなくその場に跪いた。
(……キールさん……いつも穏やかなのに、真っ赤になってる……)
ルーチェは僅かに微笑むと、そっとキールの頬に手を添え、同じように唇を寄せた。
キールは呆然としたように固まっていたが、頬が熱を帯びたまま、やがてぽそっと呟いた。
「あ、ありがとうございます……ルーチェさん……」
そんな微笑ましいやり取りを見ていた御者の男が、気まずそうに声をかけてくる。
「あの〜、坊ちゃんがた。そろそろ……」
「……んじゃ、行ってくるね、ルーチェ」
「すぐに戻ってきますから、待っていてくださいね、ルーチェさん」
キールとテオはそれぞれ馬車へと乗り込み、出発していく。
ルーチェは満面の笑顔で、馬車が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。
───そして、頬に残る温もりと共に、ふたりの旅路が始まる。
『お嬢様、平気ですか...?』
リヒトが、そっと語りかけてくる。
「うん、大丈夫。言いたいことはちゃんと言ったから」
隣に立っていたノクスが、ルーチェの足に小さく身体を擦り寄せた。
「...ワフ」
『アルジ、オレナデルトイイ』
その真っ直ぐな声に、ルーチェは小さな笑みを浮かべてしゃがみ込むと、その黒い毛並みにそっと手を伸ばした。
「ノクス、ありがとう」
撫でられて気持ちよさそうに尻尾を振るノクスの姿に、ルーチェの頬がふっと緩んだ。
「リヒトも、ぷるるも……みんながいてくれるから、寂しくないね」
「ワフ!」
嬉しそうなノクスに、ルーチェはぎゅっと抱きついた。ノクスは大きな尻尾をふりふりと激しく揺らした。
『お嬢様、ぷるる様が出たがっておられますよ。お嬢様を案じております』
リヒトの声に頷きながら、ルーチェはそっと手を掲げる。
「うん。じゃあ、出ておいで、ぷるる!」
光の魔法陣から、ぷるるが召喚された。
『あるじぃー!』
ぷるるはすぐにルーチェの頭の上へと乗り、ぴょこぴょこと跳ねるように弾んだ。
「ぷるる……!」
『あるじ、ぷるるもあるじといっしょ! ずっといっしょにいるー!』
その言葉に、ルーチェは小さく笑った。
「うん、ありがとう、ぷるる」
──その時。
控えめな足音が近づいてきた。振り向くと、そこにはピーターの姿があった。
「ルーチェ様、お迎えにあがりました」
「ピーターさん……」
「護衛もつけずに突然飛び出して行かれた時は、流石に肝を冷やしましたよ」
少しだけ苦笑いを浮かべている彼の顔に、ルーチェはぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい……でも、二人の出発前に、どうしても伝えたくて」
「……えぇ、ティーナから聞いておりましたので、存じております。お二人には伝えられましたか?」
「はい。ちゃんと言いたいこと、言えました」
「それは、何よりでございます。では、戻って朝食に致しましょう」
朝の光が、ゆっくりと王都の街を照らし始めていた。
その光の中で、ルーチェは小さく笑って、言った。
「……はい!」