第7話 少女とスライム
朝靄が街の輪郭をぼんやりと包む頃、ルーチェは目を覚ました。静まり返った宿の中、階下からは微かに包丁の音や、鍋の湯気の立つ音が聞こえてくる。
寝ぼけ眼をこすりながら身支度を整え、階下へと降りると、厨房の前にある小さなカウンター越しに、すでに準備に取りかかっているモーラの姿があった。
「おや、おはよう。随分と早起きだねぇ」
「おはようございます、モーラさん。えっと……まだお金にあまり余裕が無いので、宿代を稼ぎに行こうと思って……」
ルーチェは少し恥ずかしそうに笑う。
「んふふ、健気なこったねぇ。あんたみたいな真面目そうな子には、できるだけ長く泊まってって欲しいもんだね」
モーラはふっと微笑んだ。
「さ、すぐ朝ご飯を出すから、ちょいと待ってておくれ。冷めないうちに食べて、しっかり元気つけておいき」
「はい、ありがとうございます」
言われた通りにルーチェはカウンター席に腰を下ろし、厨房から立ち上る香ばしい匂いに小さく鼻を鳴らす。その横では、まだ誰もいない食堂に、静かな朝の光が差し込み始めていた。
しばらくすると、厨房から湯気の立つ木のトレイを抱えたモーラが現れた。香ばしい匂いとともに、素朴ながらも心のこもった朝食が運ばれてくる。
「ほら、お待ちどうさん。朝はあったかいスープが一番さね。うちの旦那の自信作だよ」
木皿に盛られたふかふかのパンと、根菜がたっぷり入った野菜スープ。添えられたスクランブルエッグと、ハーブの効いたベーコンのソテーが湯気を立てている。グラスには冷たい水。清潔で透明なその一杯が、朝の目覚めを優しく彩る。
「わぁ…すごく美味しそうです!」
「うんうん、どんどん食べて元気つけな。今日は天気も良さそうだし、いい仕事に巡り会えるかもしれないよ」
「はいっ、いただきます!」
ルーチェはスープを一口飲み、ホッと息を吐いた。体の芯にじんわりと温もりが広がっていく。パンをちぎってスープに浸しながら、心も次第に落ち着いていく。昨日の緊張も、ぷるるとの出会いも、今朝の静けさの中でひとつずつ胸の中に収まっていくようだった。
食事を終えたルーチェは、食器を丁寧にまとめて立ち上がる。
「モーラさん、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「そりゃよかった。気をつけておいでよ、危ない依頼には近づかないようにね」
「はい!」
軽い荷物を肩から下げ、金の雛鳥亭の扉を開けると、朝の光が目に差し込んだ。
ルーチェは今日も一歩、冒険者としての歩みを進めるため、ギルドへと足を向けた。
***
朝のギルドはすでに多くの冒険者たちでにぎわっていた。
受付では依頼の受理や報告が行われ、壁の掲示板には大小さまざまな依頼書が無造作に貼られている。
ルーチェはその掲示板の前で足を止め、一枚一枚、依頼書に目を通していた。
(どれにしようかな…あまり危なそうじゃないのがいいけど…)
「……またか。今度は西の迷いの森の外れの草むららしいぜ」
ふと、すぐ隣で立ち止まっていた冒険者パーティの声が耳に入った。
「また誰か怪我したって話か? 最近妙に多くないか」
「おう。しかも聞いたか? 普通のホーンラビットだってのに、目の色変えて突っ込んできたってよ。まるで別の魔物みたいだったらしい」
ルーチェはそっと視線を向けた。そこには二十代前半くらいの男性三人組が真剣な表情で依頼書を見比べている。
「最近、低ランク魔物の凶暴化がちょっと異常だよな。訓練不足の冒険者じゃ返り討ちに遭いかねんぞ」
「ギルドのお偉い連中も、そろそろ本腰入れて調査しないとマズいんじゃないのか……」
ルーチェは小さく息を呑んだ。
(倒しやすい魔物が“凶暴化”……?)
彼女の指先が、掲示板の一枚の紙に止まる。それはホーンラビットの討伐依頼だった。
依頼内容には【街道沿いの出現する個体が過剰に攻撃的になっているので“最低三匹”討伐をお願いします】と記されていた。
ルーチェはぐっと唇を引き締めた。
(私にできるか分からないけど……試してみよう)
彼女は依頼書をそっと引き剥がし、カウンターへと向かって歩き出した。
「この依頼、受けたいです」
受付嬢のニナが微笑みながらも、ちらと依頼書に目を落とすと、少しだけ真剣な表情になった。
「西の森に続く街道の近くに現れるホーンラビットの討伐ね。最近、似た依頼が増えてるの。通常より素早くて、臆病なはずなのに真正面から突っ込んでくるって報告があるわ。くれぐれも慎重にね」
「はい、気をつけます」
手続きを終えると、ルーチェはギルドを後にした。
***
街道に出ると、朝の光がすっかり空を照らしていて、空気は少し肌寒いものの清々しかった。
『お嬢様、周囲に気配はありません。西の森までおよそ30分程度です』
リヒトの声が背後から聞こえる。ルーチェは小さく頷いた。
「ありがとう、リヒト。……ぷるる、今日は一緒に頑張ろうね」
《召喚》によって《魂の休息地》から呼び出されたぷるるは、決意を漲らせるように小さく揺れた。
「……行こう。これ以上、みんなに怪我して欲しくないもん……」
少女の足はしっかりと地を踏みしめ、西の森の方へと向かっていった。彼女の胸の中には小さな決意が灯っていた。
***
西の森付近は、朝露の残る静けさに包まれていた。だがその中に、獣の気配が微かに混じる。
「……見つけた」
ルーチェが足を止めた先、茂みの中から鋭い角を持つウサギ───ホーンラビットがぴょんと跳ねて現れた。
目が合った瞬間、突風のような勢いで跳びかかってくる。
「うわっ、はやっ───!」
間一髪、横に避けるも、ウサギの角が地面をえぐった衝撃に息を呑む。
『スライムとは段違いの速度です。見てからの反応では間に合いません。状況を作るのです』
「分かった…! ぷるる、少しでいいからホーンラビットを足止めできる?」
ニコッと表情を変え跳ねたぷるるが、《水魔法》の初級技《水球》でピシャリと水をまき散らし足元を滑らせた。ウサギが一瞬足を取られる。
その隙に、ルーチェは手に光の魔力を集中させる。
「──《閃光の輪》!」
手から放たれた柔らかな光が輪を描き、ウサギの頭上に降り注ぐ。光は相手の動きを封じるように輝き、目を眩ませた。
『今です、お嬢様。動きを止めたその隙に!』
「うんっ!」
ルーチェがもう一度手に魔力を集め、上に掲げた。
「───《貫く光矢》!」
眩い光の矢が、真っ直ぐにウサギを射抜く。角が砕け、ウサギはその場に崩れ落ちた。
ふう、とルーチェは一息吐いた。汗ばんだ額を拭きながら、そっとぷるるを抱き上げる。
「ありがと、ぷるる。リヒトも、助かったよ」
ぷるるは笑顔で跳ねて見せた。
『いえ、私は何も。お嬢様の判断と魔法構築が的確でした。これが実戦経験というものですね』
ルーチェは小さくうなずき、ウサギの魔物───ホーンラビットの亡骸を確認すると、そっと手を胸に当てた。
「少しは……成長できてるかな。いや、できてるはず! よし、あと2匹、頑張ろう!」
光が差し込む木漏れ日の中で、彼女の瞳がほんの少し、強さを帯びたように見えた。
***
ルーチェはその後も着々と成果を上げていった。
薬草の採取、倒木の除去、そして街道を荒らす小型魔物の討伐───。
ある日は、地中から突如現れるモグラ型の魔物、バジモグとの戦いだった。
「うわっ、地面の下から!?」
『お嬢様、ご注意ください。奴らは潜った状態でも音を出します。聴覚に集中を』
ぷるるが小さく跳ね、地面に水を落とす。その水が広がり、地表の振動を捉えた瞬間───。
「今だ! 《閃光の輪》ッ!!」
光の輪が地面に展開し、跳び出してきたバジモグを眩ませる。その隙に、ぷるるが素早く跳ねて体当たりし、動きを封じた。
「───《光針》ッ!!」
無数の細い光の棘が突き刺さり、バジモグが「ビィィ」と短く鳴いて倒れる。
「ふぅ……ありがと、ぷるる」
そんな地道な日々の中で、ルーチェとぷるるは着実に成長していった。
***
宿の裏にある洗濯場。
ルーチェは、誰も使っていない時間を見計らって、こっそり洗濯をしていた。
「お金にもう少し余裕ができたら、追加のシャツとか買わないとだね」
そう呟きながら、桶の中でシャツをこすり洗いしていく。そのすぐ横では、スライムのぷるるが器用に水をちょろちょろと出しながら、洗濯を手伝っていた。
ぷるるの代わりにルーチェの言葉へ返事をしたのは、リヒトだった。
『そうですね。朝晩の食事が宿代に含まれているとはいえ、お昼の食費や、最低限の生活用品、ポーション等を揃えるだけでも、手持ちの資金はすぐに底を突いてしまいますから。お金の使い道は慎重に考えるべきでしょう』
「洗濯用の石鹸を買いに行ったとき、びっくりしちゃった。冒険者の必需品って、あんなに高いんだね……」
『ですが、これでも手頃な方ですよ。王都まで行けば、物価はさらに高騰します』
「ひぇぇ……お金、いくらあっても足りなくなりそう……」
『ですが、依頼を着実にこなしていけば、報酬も増え、ランクも上がります。地道に稼いでいきましょう』
「うん、頑張る!」
ルーチェは最後に、シャツを勢いよく絞った。
***
そんなこんなでルーチェがセシの街に来てから約一週間経った、とある日、昼のギルド。
「ルーチェさん、待ってたわよ!」
受付で待っていたのは、いつも対応してくれるニナだった。
「ニナさん? どうされたんですか?」
「ふふん…。実はね、ルーチェさん、今受けてた依頼の達成で───Eランク昇格です!」
「えぇ!? もうですか?」
ルーチェは目を丸くする。
「何言ってるのよ、これも毎日欠かさず依頼を受けてくれたルーチェさんの努力の結果よ。さ、依頼達成の証拠を見せてね…。うん、大丈夫ね。じゃあギルドカードも出してちょうだい!」
「は、はい!」
差し出したカードを持って、ニナは奥の部屋へと姿を消す。
そして数分後───
「はい、これが新しいカードよ」
ルーチェが受け取ったギルドカードには、しっかりと「E」の文字が浮かび上がっていた。
「これでルーチェさんは、Dランクの依頼までなら受けられるようになったけど、くれぐれも無理はしないようにね?」
「はい、ありがとうございます!」
光のように柔らかく笑うルーチェの瞳には、確かな自信と絆の輝きが宿っていた。