第67話 華やぎの裏で
「……そのグラス、何のジュースか分かる?」
テオが低い声で問いかけた。
「色からして……ベリー系とか、ですかね?」
ルーチェは小さく首を傾げてとぼけて見せる。
「───違わないけど、違う」
テオの声はさらに沈んだ。
「……俺の危機感知が反応した。それ、飲んじゃダメだ」
「大丈夫ですよ、テオさん」
ルーチェは微笑んでそう返すと、ゆっくりとグラスを傾けた。その手の内では、ごく微弱な魔力がそっと巡り、《状態異常治癒》が発動していた。
「……美味しいジュースですよ、これ」
『……はぁ……本当に飲んでしまわれるとは……』
リヒトの声はどこか呆れ気味だった。
(ごめんね、リヒト……)
『いえ……お嬢様のご判断であれば、従者の私に止める権利などございません。それと……《毒耐性》を獲得いたしました。ただし完全耐性ではございません。効きにくくなる、というだけですよ?』
(……はい、分かってます……)
そんなやり取りのさなか、隣にいたテオがふっとそっぽを向きながら尋ねる。
「……大丈夫なの?」
「はい、治癒もかけてますから」
ルーチェは小声で答えた。
「……そう」
「怒ってますか……?」
「……別に」
「……拗ねてます?」
「心配してんの、このおばか」
「……ごめんなさい、テオさん……」
そんな二人の様子を、会場の端からわなわなと震えながら見つめている男がいた。
ジェラール・ド・ランベル子爵───。
(なぜだ……!? なぜ死なない!? あの給仕係の入れた毒が、魔女を殺すには足りなかったのか!? それとも……入れていなかったのか!?)
ジェラールは鋭い視線を先ほどの給仕係に向けた。目が合った瞬間、目で(もっと入れろ)と命じる。
給仕係は青ざめた顔でこくりと頷き、会場隅のドリンク卓へと向かった。新たな薄紅色のジュースをグラスに注ぎ……その中に小瓶の毒液を静かに混ぜ入れる。
マドラーでくるくると丁寧に攪拌し、ふたたびトレーに載せた。
(……英雄少女ルーチェ様……申し訳ございません……)
給仕係はかすかに唇を噛みながら、ジュースを運ぶ準備を整えた───。
それからさらに二杯、同じジュースがルーチェの元へ届けられた。
ルーチェは何食わぬ顔で、それも飲み干していた。
(さすがに三杯も飲むと、お腹がタポタポしてきたかも……)
ルーチェは胸のあたりを軽く押さえて小さく息を吐く。
──その頃。
ドリンク卓の方へと足を運ぶジェラールの姿があった。給仕係の男に近づき、人目につかぬよう顔を寄せる。
「次で殺せなかったら……お前の“想い人”は死ぬことになるからな……!」
低い声でそう囁き、ジュラールは無造作にグラスを取り上げて立ち去った。
男はその場で震えていた。震える手でポケットからもう一つ、別の小さな小瓶を取り出す。
「……っ……」
迷いと恐怖に唇を噛みながらも、ジュースの入ったグラスへとその液体を注ぎ入れる。ほんのひと匙。だが、その中身は先ほどまでとは比べものにならない猛毒だった。
小さく震える手でマドラーを回し、静かにそれをトレーに載せる。
「ルーチェ様、申し訳ございません。手違いがあったようです。改めて別のジュースをお持ちさせていただきました」
銀のトレイに載せられたグラスの中には、先ほどの薄紅色のジュースとはまったく異なる琥珀色の液体が揺れていた。
(手違い? ……色が違うけど、何味なんだろう……?)
ルーチェはグラスを手に取り、さりげなく《鑑定》を発動させた。
『……お嬢様。これは本当に飲んではいけないものです』
(わかってるよ……。でも、どうしようかな)
グラスを前に、ルーチェは少し考え込む。
すでに周囲の視線は先ほどよりも強くなっていた。
「英雄少女」が堂々と杯を傾けていた光景は、貴族たちの関心を大いに集めていた。そして今、新たに運ばれてきたジュースにどう反応するのか───多くの目が注がれている。
「……ルーチェ」
隣のテオが低く、険しい声色で囁く。
「それは本当にダメなやつだから……絶対飲まないで」
「……」
ルーチェは小さく頷いたものの、ふと考えが浮かぶ。
(ここで飲まずに返したら───この場が変に騒がしくなって、逆に誰が黒幕かわからなくなっちゃうかも……。でも、このまま飲んだら……)
その時だった。
『お嬢様、申し上げます。毒を飲まずとも、“毒で倒れたふり”をするという手もございます』
(……倒れたふり?)
『はい。これだけ注目を集めている場面です。あえて“罠にかかった”ように見せれば、慌てて動き出す者が現れるかもしれません』
(……なるほど。演技……でも、私にできるかな……)
ルーチェは僅かに息を整え、そっとテオの袖を引いた。
「……テオさん。私、演技してみてもいいですか」
「……え、本気?」
「今なら、相手の尻尾を掴めそうな気がするんです」
「ダメだ、危険すぎる……!」
「でも……テオさん、今日は“ずっと守ってくれる”って言ってましたよね? テオさんが近くにいてくれるなら、怖くないです」
そう言って、ルーチェはふんわりと微笑んだ。
テオは小さく溜め息をつき、肩をすくめる。
「……ほんと、危なっかしいなぁ。……でも、どうせ止めても聞かないんでしょ? なら───しっかりやりなよ?」
「……はい」
(さて……誰か引っかかってくれるかな?)
ルーチェはグラスをじっと見つめていた。
「ところでテオさん、私、あのデザートのところにあるベリーが食べたいです」
「……あー、はいはい。持ってきますよ、お姫様~」
テオはルーチェの意図を察したのか、肩をすくめつつベリーの盛られた皿の方へ向かう。やがて小皿にベリーを乗せ、ルーチェの元に戻ってきた。
「でもさ……ちょっと古典的じゃない? 今どき、こんなのに引っかかるやつがいるのかな」
テオは小声で言いながら、ちらりと問題のグラスに目をやる。
「でも……血も吐かないで“ほどよく倒れる”って、なかなか無理ありません?」
ルーチェは苦笑まじりに囁いた。
「まぁ、そうだけども……。せめて“あんまり騒ぎすぎない程度”で頼むよ」
「分かってます…!」
ルーチェは小さく微笑み、ふたたびグラスを手に取った。
同時に《状態異常治癒》をほんのわずか自分に流しておく。もし万が一、口に含んでしまった時の備えだ。
(さて……じゃあ、“ほどよく倒れる”準備しなくちゃ)
そしてルーチェは、ゆっくりと猛毒入りのジュースを口に運んだ。
───パリンッ!!
乾いた音がホール中に響いた。床に落ちたグラスが砕け、琥珀色のジュースが絨毯に染みを広げていく。
「──ゴフッ…!?」
視線が集まる中、ルーチェが突然苦悶の表情を浮かべ、口元を抑えながら膝をついた。
手の隙間からは赤い液体──まるで血のようなものが、ボタボタと滴り落ちる。
「ルーチェっ!?」
テオが叫び、駆け寄る。ぐらりと倒れかけたルーチェの身体を慌てて抱きとめた。
「ルーチェ!! しっかりしろ!!」
そのまま彼女はテオの胸にもたれかかり、意識を失ったかのようにぐったりとする。
少し離れた場所から、それを見たレオニスが素早く駆けつける。
「どうした!? ルーチェは!?」
「分からない…! ジュースを一口飲んだ直後、急に血を吐いて…!」
テオの言葉を聞くやいなや、レオニスは周囲に目を走らせ、ルーチェにグラスを渡した給仕係を見つけると迷わず走り寄ってその腕を掴んだ。
「お前、自分が何をしたか分かっているのか!?」
低く鋭い声で叱責する。
「ルーチェさん!!」
騒然とする会場の中、今度はキールも駆け寄ってくる。彼の顔にも、明らかな動揺と焦りが浮かんでいた。
レオニスはすかさず給仕係を床に引き倒し、腕をねじり上げて押さえつけた。
悲鳴のような声が漏れる。
「ひっ……違う……私は……その……っ!」
顔面蒼白に震える給仕係に、レオニスが怒声を浴びせる。
「何が違う!!」
その時───。
「──何事だ……!」
威厳に満ちた低い声がホールに響いた。
壇上から、国王エルガルドと王女エステルがゆっくりと歩み降りてくる。
第一王子エドワードは席を立って状況を見守っていたが、その場を離れようとはせず。第二王子エミルは騎士たちに何やら指示を飛ばしているようだ。
貴族たちはさっと道を空け、その中央に緊迫した空気が流れた。
「……何故だ? 何故ルーチェが血を吐いて倒れているのだ……!!」
王の鋭い声が響く。ざわざわと貴族たちの間に動揺が広がった。
「毒……? 暗殺……?」
「だが、こんな公の場で……?」
ささやき声が渦巻く中、エルガルド王はルーチェのもとに歩み寄った。
「ルーチェの容態はどうだ」
「……陛下! 急に……血を吐いて……毒が盛られた可能性が高いかと! 脈が弱まっております!」
テオは抱きかかえたまま、ルーチェの顔を見つめながら必死に報告した。
「レオニス・オルセリアンであります! 今、毒を盛った容疑者を拘束いたしました!」
レオニスが給仕係を押さえつけたまま、声高に名乗りと状況を告げる。
「ふむ……毒か……」
国王は目を細め、ホール全体を重く見回す。
その時──。
(さて……ここから誰がどう動くか、だよね)
ルーチェは薄く意識を保ちつつ、心の中で静かに呟いていた。