第60話 フェリクス・アーベント
その男は小部屋の小窓から、じっと睨むように覗いていた。
男の視線の先には───何かを小さく呟きながら本をめくる、一人の少女の姿。
男の名はフェリクス・アーベント、32歳。
ヴァレンシュタイン王国の国王より王城の書庫の司書兼、図書の分類・管理を一任されている男である。
そんなフェリクスが、今こうして少女を睨んでいるのには、理由があった。
(国王陛下の命でなければ……! あんな小娘に、大切な本など見せてやるものかっ…!!)
男は本が好きだった。
───いや、それ以上に「魔物」に関する本だけは、軽々しく他人に貸したくなかったのだ。
なぜなら……
その時。
コンコン、と小部屋の扉がノックされた。
「……し、失礼します…」
ガチャリと扉を開けると、そこには申し訳なさそうな顔のルーチェが立っていた。
「すみません、ベルは一回押したんですけど……」
「これはこれは。失礼いたしました。それで───何か御用でしょうか?」
「えっと……私の契約している魔物たちが、一緒に本を読みたいって聞かなくて……。……さすがにダメですよね?」
フェリクスは一瞬ビクリと肩を震わせた。だが───すぐに平静を取り戻し、いつもの調子で応じた。
「ちなみに……魔物の“種類”は?」
「えっと、スライムと影狼です」
「ふむ、……なら大丈夫です。本を汚さないようお気をつけいただければ、お好きなようにしてください。窓際のソファもございますので、よろしければそちらでどうぞ」
ルーチェは、ぱあっと表情を明るくする。
「ありがとうございますっ!」
そのまま小さくお辞儀をすると、ルーチェは本のもとへと駆け戻っていった。
再び小窓の影からそっと覗き込むフェリクス。
少女は魔法陣から水色のスライムを呼び出し、自らの影から黒い狼が姿を現した。やがて一人と二匹は───窓際のソファで並んで本を読み始める。
フェリクスはその光景を……
───血涙を流さんばかりに見つめていた。
(羨ましいぃぃぃぃっっ!!! しかも……スライムをあんなふうに頭に乗せて……っ!! 影狼に至っては、なんという毛艶……! まるで影そのものを形どったような……っ!!)
───そう。フェリクスは無類の魔物好きだった。
しかも、ルーチェと同じく───もふもふ、ふわふわ系が大好物なのである。
そんな彼にとって───ルーチェという少女は、まさに【憧憬】の対象だった。
***
フェリクスは小部屋を出て、カウンターの影から顔だけ覗かせるように───血眼でルーチェたちを凝視していた。
『お嬢様。フェリクス様が、こちらを睨んでおります』
「うん……知ってる……」
(やっぱり無理強いしちゃったのかな……?)
ちら、とルーチェが視線を向けると───
───ガバッ!
フェリクスは突然立ち上がり、ソワソワと落ち着かない様子で歩み寄ってくる。だが、その表情は(いやいや別に気にしてませんけど?)と言わんばかりの顔だ。
「フェリクス、さん……?」
「ルーチェ様……その、ここに出入りする者は、魔物であろうと、全てきちんと把握しておく必要がございます。よ、よろしければ、その二匹のことをぜひ……紹介していただけませんか?」
色々と───ものすごく知りたそうな目でルーチェを見るフェリクス。
(とっても気になってそうな顔だなぁ。……なら、ちゃんと教えてあげよう)
「分かりました。では、まず───この子が“ぷるる”。元々スライムでしたが、少し前に“ビッグスライム”に進化しました。水魔法の適性があります」
ぷるるはぴょんっと跳ね、フェリクスの方を向いて───にぱっと笑った。
「か、顔が……!? スライムに顔がある……!!?」
「えっと……契約したら顔がついたんですよね。私にも詳しいことは分からないんですが……多分、契約の効果じゃないかと思ってます」
フェリクスは、今にも触りたそうな目でぷるるを見つめている。
(ぷるる、少しだけ触らせてあげてもいいかな?)
『いいよー』
「あの、良ければ……触ってみますか?」
「えっ! いやいや、私は別に触りたいなんて……!」
「ぷるるは、ひんやりしててもちもちですよ」
ゴクリ……と、フェリクスは喉を鳴らした。
「そ、そこまで言われては……経験と思って、触ってみましょうかね……っ!」
すっと眼鏡を押し上げたフェリクスは、控えめに椅子を一つ引き寄せ、そこへ腰掛ける。ルーチェはぷるるをそっと、フェリクスの膝の上に置いた。
フェリクスはおそるおそる、指先でつん、と突いた。
───ぷるんっ。半透明なボディが揺れる。
今度はそっと撫でてみる。
───ひんやりとしていて、つるんとしている。
手を少し沈める。
───もちもち、ふにゅ……と手が吸い付くようだ。
その顔には、思わず笑みがこぼれていた。
「それで、えっと───こっちが影狼の“ノクス”です。私が森で襲われそうになった時に助けてくれた、とっても優しい子なんですよ」
「……そうでしたか……」
先ほどよりも、フェリクスの声がどこか柔らかくなっている。
(これが、本来のフェリクスさん……ってことかな?)
『はい。この様子を見る限り、お嬢様と似たタイプとお見受けします』
「ちなみに……助けてもらった時、どのように?」
フェリクスは、さらに興味津々といった表情で尋ねてくる。
「えっと───《影潜り》というスキルで、私ごと影の中に入れて匿ってくれたんです」
「なるほど……」
フェリクスはますます興味深そうに、ノクスをじっと見つめていた。
(ノクス、どう? 触られても平気?)
『ウン。アルジ、オレ、ヘイキ』
「ノクスのことも撫でてみますか?」
ノクスは尻尾をふわりと振っている。
「……撫でて、いいのかい……?」
「はい。でも、先に手の匂いを嗅がせてあげてください。その方が安心すると思いますので」
「わ、分かった……」
フェリクスはそっと拳を差し出した。
ノクスは鼻をフスフスと鳴らしながら匂いを嗅ぐ。
───そして小さく「……ワフ」と鳴くと、耳を垂らして頭を差し出してきた。
フェリクスはおそるおそる───そして、優しくその頭を撫でる。
「こ、この毛並みは……!?」
「ふわふわですよね」
「ぶ、ブラッシングなどはしているのですか……?」
フェリクスは目を輝かせて尋ねた。
「いえ、特には……。あ、じゃあ後でノクスの毛をとかせそうなブラシ、探そっか」
ルーチェはノクスを見ながら言う。
ノクスは「……ワフ……!」と嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振った。
その時───
「随分と仲良くやっているじゃないか、フェリクス」
ドアの方から声がかかる。扉に背を付けるようにして見ていたのは、エステルだった。
「エステル様っ!? これは失礼しました……!」
フェリクスが慌てて立ち上がろうとするのを、エステルは手で制した。
「気にするな」
エステルは微笑み、ルーチェに視線を向けた。
「ルーチェも、ずいぶん楽しそうじゃないか」
「はいっ、楽しいです!」
エステルはふっと柔らかく笑うと、少し声を落とす。
「……実はな、ルーチェ。明日の夜、ルーチェへの感謝の印として───パーティーを開くと、父上が仰っていてな」
「パーティー……ですか?」
「あぁ。無論、キールとテオも参加する。その方がルーチェも安心だろう?」
ルーチェはホッと胸をなでおろす。
「そういえばルーチェ、王都ではどこに泊まる予定なんだ?」
「えっと……決まってなくて……。何もなければ、キールさんからお家に招待する……とは言われていたんですが……」
「そうか……」
エステルは少し思案した。
「父上に進言し、ルーチェをしばらく城に泊められないか確認しよう」
「へっ!? ですが……!」
「テオがいるとはいえ、キールはキールで、家族水入らずの時間も必要だろう?」
「確かに……そうですね」
ルーチェは納得したようにうなずいた。
「よし。ならば夕食の時間に迎えに来よう。それまではここでゆっくり時間を潰すといい。───フェリクス、引き続き相手をしてやれ」
「かしこまりました」
「……ではな」
そう言い残し、エステルはそのまま去っていった。
静かになった書庫の中で、ルーチェはふとフェリクスに問いかけた。
「フェリクスさんは……もしかして、魔物が好きなんですか?」
フェリクスはガーン!とショックを受けたように肩を落とした。
「か、隠していたつもりだったのに……見抜かれるとは……」
(あ、あれで隠してたつもりだったんだ……)
ルーチェは思わず、あはは……と苦笑いを浮かべた。
「変な趣味でしょう……? 魔物が好きだなんて。この世界は常に魔物の危険に晒されているというのに……僕は、どうしても魔物を憎みきれないんだ」
フェリクスの言葉に、ルーチェは優しい声で返す。
「変じゃないですよ。私の知る限り、魔物の中には知恵を持っていたり、豊かな感情を持っている個体もいます」
フェリクスは思わず、魔物たちを見て微笑む少女を見つめた。
「もちろん、危険な魔物もいます。でも……それでも、ぷるるやノクスみたいな子たちもいるって、私は知ってますから。私も魔物が好きです」
その素直な言葉に、フェリクスの胸の奥に押し込めていた過去の記憶がよみがえった。
***
『魔物に触りたい、だと? 何馬鹿なことを言っているんだ、フェリクス!』
『魔物は危険なのよ。お願いだから、おかしなことを言わないで……!』
彼が幼い頃、父や母にきつく言われた言葉だった。
魔物を好きだと口にすることは異端だと知り、次第に願いを押し殺すようになった。
(……もし昔の僕が、夢を諦めずにいられたら……この少女のようになれていたのだろうか……?)
フェリクスは夢を諦めきれず、王城の司書にまで成り上がった。せめても、と魔物の知識を集め続けているのだ。
『やっと……ここまで来た。ここなら、きっと……』
その長年の想いの果てに、今がある。
***
「フェリクスさん」
夕暮れが彼女の横顔を照らす。ルーチェはまっすぐに彼を見つめて言った。
「私、フェリクスさんともっと色んな魔物のお話がしてみたいです」
フェリクスの瞳が僅かに揺れた───。
「僕は──」
そう言いかけたところで、ガチャリと扉が開いた。
「ルーチェ、父上から許可を頂いてきた。今日は城に泊まるといい」
「エステル様、ありがとうございます」
「食事の準備も間もなく整うそうだ。案内しよう」
「……あの、ずっと思っていたんですが。わざわざエステル様が呼びに来なくても良かったんじゃ……」
「……牽制だ。私がいれば、ルーチェにちょっかいをかけようという連中も現れまい。それに、この書庫には貴族たちもあまり出入りしないからな」
「そうなんですね……」
「さあ行くぞ。城の料理人たちが腕によりをかけて色々と用意している。たくさん食べてくれ」
「はい!」
ルーチェはぷるるを光に戻し、ノクスは影の中へと戻った。
「フェリクスさん、また来ますね!」
ルーチェは手を振る。フェリクスも控えめに、それに応えた。
「……はい。また……」