第53話 旅立ちの前に
朝───顔を洗って身支度を整え、食堂へと向かうと、厨房の方からいい匂いが漂ってきた。
「おや、早いねルーチェ。おはよう」
「おはようございます、モーラさん」
席につくと、ほどなくして朝食が運ばれてくる。
焼きたてのパンと、香ばしい卵料理にハーブ入りのソーセージ。湯気の立つスープ。
ルーチェは幸せそうにそれらを頬張り、静かな朝を味わっていた。
だが、食事を終える頃には、ふと名残惜しそうな顔になる。
「……どうしたんだい?」
「いえ、その……ここを離れるって思ったら、しばらくこの宿のご飯が食べられないんだなぁって……」
「ふふ、それもそうだねぇ。……でも、あたしたちも寂しくなるよ。もう娘みたいなもんさね」
そこへ、珍しく厨房から旦那さんが顔を出す。無言でルーチェの目の前に、フルーツのゼリーをそっと置いた。
「道中……気をつけて行け、ルーチェ」
それだけ言うと、旦那さんはすぐに厨房へと戻っていった。
「ふふっ、口数は少ないけどね……あれでも、けっこう心配してるんだよ」
モーラさんが柔らかく笑う。
「さ、デザートも食べたらちゃんと準備しておいで。お世話になった人たちに挨拶回りするんだろ?」
「……はい!」
***
ギルドに入ると、受付のカウンターにニナの姿が見えた。
「おはようございます、ニナさん」
「おはよう、ルーチェさん」
「ギルドマスターはいますか?」
「えぇ、相変わらず忙しくしてるけどね。今なら入っても大丈夫よ」
「ありがとうございます」
ギルドマスター室の前に着くと、ルーチェは少し緊張した様子でノックをする。
「ザバランさん、ルーチェです」
「おう、入っていいぞ」
扉を開けると、ザバランが書類に判を押しているところだった。
「おはようございます、ザバランさん。本日は───」
「分かってる。王都に行くんだろ?」
「さすが話が早いですね。そのご挨拶に───」
「ええっ!? ルーチェさん、街を離れるの!?」
後ろからお茶を運んできたニナの驚いた声が響いた。ザバランが肩をすくめる。
「ニナ、声が大きいぞ」
「ご、ごめんなさいっ! びっくりしちゃって…」
「そういやニナは連休だったから知らなかったか。今日の昼に出発するそうだ」
「そんなぁ……」
お茶を置いたニナは、ルーチェに抱きつく。
「無理しちゃだめよ? いつでも帰ってきていいんだからね!」
「ニナさ…く、くるひい…」
「あっ、ごめんなさいっ!」
「ニナ、ルーチェに話がある。仕事に戻ってろ。どうせ一生会えなくなるわけじゃねぇんだから。な、ルーチェ?」
「はい、多分ですけど…近いうちに戻ってくると思いますよ」
「そ、そう…なら、いいけど……」
寂しげな顔で、ニナは部屋を出て行った。
ザバランはソファに座り、ルーチェに手紙を差し出す。
「これを王都の冒険者ギルド、ギルドマスター“クリス”って男に渡してくれ。急ぎじゃねぇから、謁見の後で構わねぇ」
「分かりました」
ルーチェは手紙を鞄へしまった。
「それとな……お前を狙った奴が王都に現れねぇとも限らん。くれぐれも用心は怠るなよ」
「…はい」
「しかし……王都か。王家の住む都、こことは比べ物にならない立派な街だからな。冒険者ギルドの本部も、ここよりはるかに立派な建物だ」
「へぇ……楽しみです!」
「それにな、あっちのギルドマスターは俺よりずっと強ぇし───何より色男だからな。それも期待しとけ!」
ザバランはハッハッハと笑った。
「王都近辺にも魔物は出る。このあたりじゃ見ない奴もな。新しい魔物や違った戦い方も学べるはずだが……気は抜くなよ?」
「はい、気をつけます。ザバランさんも無理なさらないでくださいね」
「おっ、大人に気を遣えるとは、ルーチェはほんとに優しいな」
ザバランはその大きな手で、ルーチェの頭をポンポンと撫でる。
「せっかくだ、ラルクにも顔を見せてやれ」
「はい、では私はこれで」
「おう、しっかりな!」
「はい!」
ギルドマスターの部屋から出る。
その足で解体カウンターの方へ行こうとすると、マイヤが依頼書の束を抱えて受付から出てくるところだった。
「あ、ルーチェさん」
「マイヤさん。おはようございます」
「ニナ先輩に聞きましたよ。王都に行くんですよね?」
「そうなんです」
「気をつけて行ってきてくださいね〜」
そう言い残して、マイヤは掲示板の方へスタスタと歩いて行った。
(マイヤさんって……なんというか、マイペースな人?)
解体カウンターでは、ラルクが魔物の解体を終えたところだった。鉈のような解体用の剣を丁寧に拭いている。
「ラルクさん、おはようございます」
「お、ルーチェ。おはよう。別れの挨拶か?」
「あれ、ご存知だったんですか?」
「まあな。なんとなくそんな気がしてたってだけだが」
「そうですか……」
「そういやハルクのやつが『ルーチェが旅に出るかもしれないから』って何か作ってたぞ。街を出る前にアイツのとこにも寄ってやってくれ」
「分かりました。ではラルクさん、お元気で」
「おう、ルーチェもな」
ギルドを出て、ハルクの営む武器屋へと向かう。
店に着いて扉を開けると、奥からカンカンと金属を打つ音が聞こえてくる。
ルーチェは息を吸い込んで、大きな声で呼びかけた。
「ハルクさーん、おはようございまーす!」
金属を打つ音が止まり、間もなくハルクが顔を出す。
「おっ、ルーチェじゃねぇか。おはよう!」
「実は今日のお昼に王都へと出発することになりまして。そのご挨拶に来たんです」
「そうか……しかし今日の昼とはまた急だな」
「あ、そういえばラルクさんから、ハルクさんが何か作ってくれたって聞きましたけど……?」
「おぉ、そうだったな。ちょっと待ってな」
ハルクは奥へ引っ込むと、小さな箱を持って戻ってきた。それをカウンターに置いて、蓋をパカッと開ける。
「ルーチェへのプレゼントだ」
箱の中には、小さなナイフと、黒い石のチャームが収められていた。
「これは……?」
「前に一緒に依頼に行ったとき、ルーチェは解体用のナイフを持ってなかっただろ?」
「あっ、確かに持ってなかったです……」
「だと思って、作っておいたんだ」
「ありがとうございます……。あの、こっちは?」
「不格好だが……その、端材を使って作った───その、なんつーか、お守りみてぇなもんだ。嫌じゃなかったら受け取ってくれ」
「嫌だなんてとんでもない。すごく嬉しいです! ありがとうございます、ハルクさん!」
「そうかそうか。そう言ってもらえるなら、作った甲斐があるってもんだ」
「あの、お代は……」
「要らねぇって。言っただろ? プレゼントだ」
『お嬢様、ここは素直に受け取っておくのが正解ですよ』
リヒトの声に、ルーチェはそのまま素直に箱を抱えた。
「分かりました。大切に使いますね」
「おう!」
「じゃあ私はこれから騎士団の方にも顔を出すので……」
「ルーチェ」
「はい?」
ハルクはルーチェの前に立ち、ポンと頭に手を置いた。
「何かあったら、いつでも言えよ? 新しい武器が欲しくなったら、すぐ作ってやるからな」
「ありがとうございます、ハルクさん」
「よし、いってこい!」
「はい、いってきます!」
ルーチェは箱を抱えて、店を後にした。
門の詰所へ向かう前に、パン屋や肉屋で日持ちする食材を買い込んでおいた。
そして詰所へ着くと、エドガーとバークスの元へ向かう。
「キール達から聞いてるぞ。三人で王都に向かうんだってな?」
エドガーがそう言った。
「三人がいなくなると寂しくなりますね」
バークスも続けて言葉を添える。
「エドガーさん、バークスさん。いろいろとお世話になりました」
「よせよせ、俺らは何もしてねぇって」
「そうですよ。いつもルーチェさんを助けていたのはキールくんとテオくんですから」
「……そういえば、お二人は?」
「ん? あぁ、旅支度をな……」
「しばらくここを離れますし……」
二人の口ぶりがどこか濁されているのを、ルーチェは感じた。
(……どうしたんだろう……?)
「ともかく、今は宿舎の方にいるぞ。案内するか?」
「団長? そう言って書類整理をサボりたいだけでは?」
「そ、そんなことねぇよ……」
目を逸らすエドガー。どうやら図星のようだった。
『アルジ』
影から耳をひょこっと出したノクスが、ルーチェに声をかけてくる。
『テオ、バショ、シッテル』
「そうなの? ……エドガーさん、ノクスが案内してくれるそうなので、エドガーさんは仕事をしてくださいね」
「そんなぁ……!」
少女の素直な言葉に、エドガーは肩を落とす。
「貴方という人は……。やっぱりサボろうとしてたんじゃないですか」
バークスの背後からはゴゴゴゴッと怒りのオーラが噴き出していた。
「えっと……それでは、私はこれで」
「はい、ルーチェさん。どうか道中お気をつけて。この人はギタギタにしておきますから」
(あっ、切り替わった…)
『お嬢様、口に出してはいけませんからね』
ルーチェは詰所を後にした。
(キールさんとテオさんから“書類仕事が苦手”とは聞いてたけど……余程嫌なんだろうなぁ)
『そのようですね……』
その時、詰所の中から声が響いてきた。
「勘弁してくれバークスぅ───!!」
「問答無用です。今日こそきっちり仕事をしてもらいますからね!」
「ぎゃああああ───!!」
詰所を出て、普段通らない道を歩く。
『アルジ、コッチ』
ノクスが案内してくれた先には、二階建ての大きな建物と、それに併設された訓練場が広がっていた。
「ここが騎士団の宿舎……?」
「おや、ルーチェ殿」
堅い口調の、ファンクラブの会員らしき若い騎士が声をかけてくる。
「こんにちは。あの、キールさんとテオさんはまだいらっしゃいますか?」
「あぁ、呼んでくるか?」
「い、いえ。準備の邪魔をしたくないので……」
「なら、そこのベンチに座って待っているといい。恐らくすぐに来るぞ」
そう言い残し、騎士は去っていった。
ルーチェはベンチに腰かける。ノクスは足元で伏せ、周囲を警戒するようにしていた。
「そうだ、馬車で街を出るなら、ぷるるもお外に出たいよね。今のうちに呼んでおこうか」
ぷるるを召喚し、膝の上に乗せる。
『あるじー、まちでるのー?』
「うん。この国で一番偉い王様に会いに行くんだよ」
『おうさまー?』
「そうだよ〜」
そんなふうに話していると、宿舎の扉が開いた。
「ルーチェ」
現れたのは、木箱を抱えたテオだった。
「テオさん、おはようございます」
「ん、おはよ。キールもすぐ来るから、待っててね」
「はい! ……そうだ、ぷるる。この間失敗しちゃった帽子の擬態、今度はちゃんとできるかな?」
『やってみるー』
ぷるるはルーチェの頭の上に乗り、姿を変える。
「どうですか? テオさん」
振り向くと、テオが笑いを堪えていた。
「いや……ぶふっ……、似合ってんじゃない……?」
「なんで笑ってるんですか!?」
慌てて窓の方を見ると、ぷるるはまた猫のような帽子になっている。
「どうして……」
『だって、あるじ、にあうー』
『どうやらあの時の失敗は、失敗ではなく、お嬢様に似合いそうだと、ぷるる様が自己判断した結果だったようですね……』
「んー……なら、これでいっか」
『わーい!』
「お待たせ。おや、ルーチェさんも……」
キールが姿を見せ、帽子と化したぷるるに目を留める。
「随分と可愛らしくなってますね」
「えっと……あはは……」
「さて、役者も揃ったことだし、馬車もそろそろ到着している頃かな。行こっか、二人とも」
三人で門の方へ向かうと、大きな荷馬車の前には、先ほど挨拶した面々や街の住民たちが集まっていた。
「皆さん……」
キールとテオが荷物を積んでいる間に、ルーチェは人々の方へと向かう。ぷるるの擬態を解いて抱き、ノクスは後ろをついてきた。
「態々来てくださったんですか?」
「当たり前だよ! なんたって英雄少女の門出なんだからね!」
「俺らはパン屋のおばちゃんから聞いたんだ。お嬢ちゃんが王都に行くってな〜。見送りに来たぜ!」
「皆さん……ありがとうございます」
「ルーチェさん」
集まった人集りを抜けて、エリュールが姿を現す。
「エリュールさん! 来てくださったんですか?」
「言い忘れていたことと、渡すものがありまして」
エリュールは大きな袋を手渡してくる。手にした感触から、中身は布類らしい。
「これは王都で必要になるかと。王都に着いたら中を確認してください。それと……王城に着いたら国王陛下からの手紙を見せて、“セシの街から謁見に来た”と伝えれば問題ないと、伯爵様が仰っておりました」
「ありがとうございます」
「───それでは」
エリュールは馬車に魔法をかける。
「魔除けの魔法です。精霊の加護ほどではありませんが、気休め程度にはなるでしょう」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「ルーチェさん」
「はい、エリュールさん」
「───どうか、ご自愛ください」
エリュールはフッと微笑んだ。
「はい……!」
「ルーチェー、そろそろ出るから馬車に乗りなー!」
テオが声をかけてくる。ルーチェは馬車に乗り込んだ。
「気をつけてなー!」
「またいつでも戻ってくるんだぞー!」
住民たちが口々に声をかけてくる。
馬車はゆっくりと動き出す。
「皆さん、いってきまーす!」
ルーチェは大きな声で返し、見えなくなるまで何度も手を振り続けた。