第48話 花散る余韻
その夜、騎士団宿舎の一室にて。窓の外には静かな星空が広がっていた。
「……セレナ様は、どうして僕にあんなに積極的なんだろう……」
紅茶を飲みながらキールが深いため息を吐いた。
「そりゃ、“騎士様で貴族で優しい”……女子にとっちゃ完璧セットだもん。仕方ないんじゃない?」
「でも……僕は……ああいう“正解”で押してくる人って、少し……」
「苦手、でしょ? ……まあ分かるよ」
キールは再度ため息を吐いた。
「ところで、……ルーチェさんは誰かと踊ってたみたいだけど……」
ちら、とテオの顔を盗み見る。
「俺と、だね」
「…………そう、だよね……」
少しうつむいて複雑な表情のキール。
「別に深い意味はないよ。ルーチェが一人で寂しそうだったから、誘っただけ」
「そう……」
「……でもさ」
テオが少し真面目な顔になる。
「キールはどうするつもりなわけ? あの令嬢と婚約でもすんの?」
「……、しないよ……」
キールは小さくため息をついた。
「父上を通じて、婚約の意思はないって伝えてある。もちろん伯爵もこの件は知っている…」
テオはふぅ、と息を吐き、正面からキールを見据えた。
「俺は家柄が良いわけじゃないし、そういう貴族の外聞がどうこうなんて分からないけどさ…。それに同期って言ったって、キールの方が一つ上だし、偉そうなこと言える立場じゃないのも分かってるけど───」
そこで一拍置いて、はっきりと告げた。
「いい加減、その煮え切らない感じやめたら? どっちにも失礼だろ」
「……テオに言われると、なおさら耳が痛いな……」
キールは少し苦笑しながらも、どこか情けなさそうな声で言った。
「大事なのは、キールがどうしたいかだろ。それと……」
テオの目が一瞬だけ鋭さを帯びる。
「───ルーチェにあんな顔させるくらいなら、俺が貰うから」
その言葉に、驚いたようにテオを見るキール。
「……テオ、それって……?」
「ま、仮にお前がルーチェを選ぶって言っても───譲るつもりは毛頭ないけど。それだけは言っとく。いつまでもそんな調子なら、俺はお前よりルーチェを優先するからな」
その言葉にキールは目を伏せて、小さくうなずいた。
「……ん。分かったよ」
「じゃ、俺は寝るわ。おやすみ」
「……おやすみ、テオ」
ぱちん、とランプの明かりが落とされ、部屋は静かな闇に包まれる。テオはキールに背を向けるように壁の方を向いて寝てしまった。
キールは窓辺に歩み寄ると、腰を下ろし、夜空にまたたく星々を静かに見上げた。
(……僕はどうして、あの時“楽しくない”なんて思ってしまったんだろう)
祭りの最中、ルーチェと甘味の屋台を巡っていた時は確かに楽しかった。無邪気に目を輝かせて屋台を楽しむ彼女につられて、自然と心が軽くなっていった。
だが、セレナと過ごした時間は違う。彼女は終始キールを引き回し、欲しい物や見たい物を次々と口にした。
セレナの瞳に宿るのは、他の令嬢や淑女たちと同じ視線──“貴族のキール”に向けられる、それだ。
それに対してルーチェは、騎士団に所属する“ただのキール”しか知らない。
(その違い……なのかな。でも、もしルーチェさんが僕の“そうじゃない姿”を知ったら──それでも、変わらずにいてくれるんだろうか……)
キールは小さく息を吐き、答えの出ない問いを胸に沈めた。
そしてふと机の上に目をやった。そこには、鷹の紋章が刻まれた封蝋付きの便箋が置かれている。
(……こんなことを考えるなんて、本当に情けないな、僕は……)
紅茶のカップに目を落とし、冷めきった中身を一息で飲み干した。
(……いい加減、身の振り方を決めないといけない時期か……夢のことも……)
胸の奥に渦巻く迷いを振り切るように、キールは立ち上がり、静かにベッドへと身を横たえた。
部屋の中には夜の静けさだけが満ちていた───。
キールがベッドに入ってから、五分ほどが経った頃。
(あー……くっそ。勢いに任せて、我ながら妙なこと言ったな……)
壁を見つめて横になっていたテオは、目を閉じてみても眠れる気配がなく、やがて観念したように目をパチリと開けた。
(発破かけてやるだけのつもりだったのに……あれじゃ、まるで俺がルーチェのこと好きみたいじゃん)
思わず顔をしかめる。誰に見られているわけでもないのに、体の奥がむず痒い。
仰向けに寝返りを打ち、目だけでキールの方を窺う。規則的な呼吸が、彼の安眠を物語っていた。
(いやでも……あー……)
言葉にならない思考が、頭の中をぐるぐると回る。
即断即決を信条としているテオにとって、この逡巡は異常事態だった。
(……ルーチェだけだな。こんなふうに、俺を振り回すのは)
必要以上に他人と関わろうとしない自分が、ルーチェの一挙一動に気を揉む。最初はただ「面倒見なきゃな」と思っていたはずなのに──今ではもう、それだけじゃない。
(ほんと……飽きないな)
口元がわずかに緩む。自分でも気づかぬほど微かな、けれど確かな笑みだった。
そうしてようやく、眠気が静かに降りてきた。
***
宿の部屋、ベッドの上にごろんと寝転がったルーチェ。その手には、昼間テオと一緒に選んだネックレスがあった。
「楽しかったなぁ……」
(……でも、ダンス……やっぱり、キールさんとも踊ってみたかったな……)
ぽつりと浮かんだ想いに、ルーチェは視線をネックレスへと移す。
(……でも、テオさんと踊った時も……すごく楽しくて……少し、ドキドキした……)
「私は……」
胸に抱いたこの感情に、まだ名前をつけることもできないまま───ルーチェは静かに目を閉じ、眠りについた。
次の日。
ルーチェは数日ぶりにギルドへ足を運んでいた。
(Dランクになったし、新しい依頼が受けられるようになったから……)
壁のボードに無造作に貼られた依頼書を見上げながら、ちょっとだけ胸が高鳴る。
『ですが、難易度の高い危険な依頼は避けましょう。騒動のせいで半月の間依頼を受けておりませんし、まずは軽いもので──』
リヒトが慎重に助言してくれる。
「うん、分かってる。久しぶりだし、無理はしないよ」
そう呟いて依頼書を一枚一枚眺めていく。
掲示板の前は平日の昼間ということもあって空いている。とはいえ、依頼の内容は以前よりもぐっと幅が広がっていた。
(討伐系も多いけど、護衛依頼や調査依頼、採取依頼もある。デッドタートルと花祭りのせいで依頼を受ける冒険者が少なかったからかな……)
ぱらぱらと見ていくうちに、一枚の紙に目が留まった。
(指定区域の群生草刈りおよび小型魔獣の駆除……?)
どうやら薬師ギルドが管理している薬草栽培区域に雑草が生えすぎて困っているから草刈りを頼む───というような内容らしい。ついでに、その薬草を餌にする小型の魔物も、現れたら討伐して欲しいと記載されている。
(これなら……軽めの依頼だし、丁度いいかも)
『ええ、良い選択かと存じます』
リヒトの声に後押しされ、ルーチェはその依頼書を持って受付へ向かうのだった。
「草刈りの依頼ですね」
いつもはニナさんに依頼の手続きを頼んでいたが、どうやら今日はお休みのようだ。代わりにマイヤさんという受付嬢が対応してくれる。
「ルーチェさんはうちのギルドでも実力ある方ですから、もう少し難易度の高い依頼でもいいんじゃないですか?」
「でも、デッドタートルと戦ってから戦闘はしてませんし、体がなまってるでしょうから」
「まあそうですよね〜、分かりました。ではこれで」
手続きが完了したので、早速セシの街南にある薬草栽培区域へと向かうのだった。
ルーチェがいつも使う東門の方へ歩いていると、街の見回りをしているであろう騎士二人がこちらに気づいて何かをヒソヒソしている。
すれ違う時に声を掛けられる。
「ど、どうもっす!」
「どうも、ルーチェさん」
「こんにちは……」
ルーチェは不思議そうにしながらも、そのまま歩いていく。
その後も、街で会う騎士に「嬢ちゃん、元気かー?」とか「嬢ちゃんは冒険者の仕事に行くのか? 気をつけろよ」とか、すれ違う度に話しかけられ続けた。
「……いっぱい話しかけてもらえるけど、何だったんだろう?」
『さて、何でしょうね……?』
***
ルーチェが街を出てから少し後、騎士団の宿舎の一室。
薄暗かったはずのその一室は、今や見違えるほど整頓されている。古びた机と椅子がきれいに並べられ、部屋の隅には【ルーチェ殿 武運長久】と書かれた小さな手製の垂れ幕まで飾られていた。
「……静粛に」
咳払いひとつ。その声に、集まっていた団員たちがピシリと背筋を伸ばす。
「これより非番の者だけで、ルーチェファンクラブの会合を開始する」
セシ騎士団、団員歴十五年のロルフが堂々と宣言する。彼はこのファンクラブの発起人であり、会長だ。
「何か報告のあるものはいるか?」
一拍おいて、若手団員が手を挙げた。
「今朝、ルーチェ殿を大通りで目撃いたしました! ギルドへ向かうのか、いつものお召し物で歩いておりました。何やら楽しそうに弾むように歩いておられて……」
「おぉ……」
「それは……尊い……」
場がしんと静まり、全員が想像の中で大通りを歩くルーチェの姿を思い描く。
「ほかには?」
別の中堅団員が席を立つ。
「本日、デッドタートル討伐の日の件を記した詩を一編、完成させました。回覧いたします」
おお、と拍手が起き、手書きの巻物がテーブルの間を回されていく。
「……うむ、よき働きだ」
満足げにロルフは頷くと、真剣な顔つきになる。
「次に、会員規約の確認に入る」
団員たちが一斉に姿勢を正す。
「第一条──ルーチェ殿の嫌がることは、断じて行わぬこと」
「異議なし!」
「第二条──ルーチェ殿が困っていたら、即座に助けに走ること」
「異議なし!」
「……さて、最後に。近寄る虫の情報だ」
ざわっ……。
場の空気が一転し、妙な熱気がこもる。
「報告があります」
別の若い団員が手を挙げた。
「最近、よく一緒にいる……キールについて」
「またキールか……!」
「むぅ……進展などは……?」
「花祭りでは、ルーチェ殿と甘味の屋台を巡っていたと報告が……」
どよめきが広がる。
「……テオの方はどうだ?」
「花祭りでは、雑貨の屋台を巡り……春風の輪……しかも夜のダンスを共に踊っていたそうです」
「くそぉぉぉ、よりによって夜の部はテオか……!」
「ルーチェ殿と踊れるなんて羨ましい……!!」
「空気読めよぉぉ……!!」
「……やはりあの二人が最大の障壁か……」
ロルフは重々しく頷いた。
「……同志諸君。恋を応援する派、心穏やかであれ。推しに恋人など無用派、理性を忘れるでないぞ」
「「「はっ!!」」」
ルーチェ本人は知る由もなく、こうしてひそかな熱狂はまた一つ、静かに燃え広がっていた──。