第29話 警戒
朝、ルーチェが目を覚ますと、女将のモーラさんが声をかけてきた。
「おはよう、ルーチェ。ギルドマスターから言伝があったよ。目が覚めたら、ギルドまで来てほしいってさ」
どうやら、あの“光の中”で何が起こったのか───それを聞かれるらしい。
ルーチェは軽く身支度を整え、急いで冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの奥の一室には、ザバランの姿があった。隣には、エリュールの姿も見える。
「来たか、ルーチェ。体調はどうだ?」
「はい、大丈夫です」
「無理はすんなよ? エリュール曰く、魔力がすっからかんになってたらしいからな。……さて、話を聞かせてもらう前に、少し補足がある」
ザバランの言葉のあと、エリュールが静かに前へ出た。
「ルーチェさん。あなた方が戻ったあと、私は一人で遺跡内の調査を行いました」
「えっ、一人で……ですか? 魔物は?」
「ご安心を。あれ以降、魔物の発生は確認されていません。調査は滞りなく進みました」
そう言って、エリュールは一枚の紙とペンを差し出す。
ルーチェは不思議そうにそれを見た。
「ルーチェさん、もし覚えているなら“あの場所”で見た紋章のようなものを、ここに描いていただけますか?」
───数分後。
「んー……? あれ、確かこう……いや、もっとぐにょぐにょしてた……?」
ルーチェは紙の上にペンを走らせながら首をかしげた。はっきりと目に焼きついたはずの紋章。それなのに、いざ描こうとすると、線は曖昧で、形は歪んでいく。
「ごめんなさい、ちゃんと覚えてなくて……」
申し訳なさそうに肩を落とし、頭を下げるルーチェ。すると、目の前に座っていたエリュールが静かに「いえ」と小さく首を振りながら、バインダーから二枚の紙を取り出して見せた。
「先に聴取を行ったキールさんとテオさんも、同じような形を描いていました」
差し出された紙には、ルーチェが描いたのとよく似た、ぐにゃぐにゃとした不規則な線の紋様が並んでいた。
「なんかこう……形は理解してる気がするんですが、細かいところがぼやっとしてて……」
「お二人も、まったく同じことを仰っていました。おそらく、あの紋章自体に何らかの認識阻害、もしくは記憶撹乱の魔術がかけられていたのでしょう」
エリュールは淡々としながらも、どこか優しい声でそう説明した。
「そうですか……」
少しだけ安堵したような表情を浮かべながらも、ルーチェの胸の奥には不思議な違和感が残っていた。忘れてはいけない、けれど思い出せない───そんな引っかかる感覚が、心に微かなざわめきを残していた。
「ルーチェ、ゴブリンキングとの戦闘について、あの光の中に消えた後のことから聞かせてくれ」
ザバランの低く響く声に、ルーチェは静かに目を閉じ、記憶を辿る。
「……光に包まれた先で、扉の前に辿り着きました。開けると、変なオーラを纏ったゴブリンキングがいて……。ゴブリンやホブゴブリンと同じく、かなり凶暴な様子でした。それから……小部屋の壁に、古い文字のようなものが……」
言い終えると、ザバランは腕を組んでうなずいた。
「なるほど。概ね、アイツらの発言と一致するな。ありがとう、ルーチェ」
「───ルーチェさん」
すっと声を挟んできたのはエリュールだった。
「はい…?」
「私は調査の際、一人で光の扉の先へ入りました」
その一言に、ルーチェは目を丸くして声を上げた。
「えっ!? あの、ゴブリンとか……大丈夫だったんですか?」
「……えぇ。光の扉の先でも、魔物に遭遇することはありませんでした。内部を調査した結果と、ルーチェさんたち三人の証言を合わせて、おおよその事実と推察がまとまりました」
「……えっと……?」
エリュールは頷くと、先ほどルーチェが描いた紙に人差し指を置いた。
「まず、事実として。あの遺跡は“半ダンジョン化”していました。発見が遅れていれば、遺跡の中に魔物が溢れ、さらに外へ漏れ出す危険がありました。そして、こちらは推察になりますが……この紋章、恐らく“召喚陣”です」
「召喚陣……ですか?」
ルーチェが眉をひそめて聞き返すと、エリュールは一拍置いてから答える。
「私が思うに、召喚陣の効果は三つあります。一つ目、遠方から魔物を呼び出す“門”としての機能。ゴブリンやホブゴブリン、ゴブリンキングは本来山間部に生息する魔物です。ギルドの魔物の生息記録でも、ノヴァール伯爵領周辺では確認されていません。よって、これが第一の効果。二つ目、魔物を“凶暴化”させる効果。召喚陣とは本来もっと簡素なものですが、細工を施すことで性質を操作できた可能性があります。そして三つ目───外への“転移”。強化されたゴブリンキングの指揮下で、ゴブリンたちが人を襲いやすい位置に送り込まれていたと考えられます」
「そんなこと……可能なのでしょうか……」
「少なくとも、貴女が開けるまでは閉じられていた。内部にどうやってその細工を施したのか、そこまでは分かりませんが……」
その時だった。
『お嬢様、少々よろしいでしょうか……』
突然、ルーチェの中にリヒトの声が響いた。もちろん、他の誰にもその声は届いていない。
「……へ、実験場……?」
ルーチェがぽつりと呟くと、ザバランが驚いたように身を乗り出した。
「おい、どういう意味だ?」
「し、しまった……」
ルーチェは口元を押さえ、少し間を置いてから続けた。
「その……あの遺跡って、今はほとんど使われてないんですよね?」
「ああ、かなり古い時代のモンだからな。今じゃ、雨乞いや祭祀なんかに使うヤツもいねぇ」
「じゃあ……そんな人の来ない場所なら、隠れて何かするのにうってつけなんじゃないかなって……」
エリュールが小さく頷いた。
「確かに、ルーチェさんの意見は的を射ているように思えます。しかし“実験場”とは……?」
ルーチェは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「だって、魔物が溢れたとはいえ、あの森の外には出ていなかったんですよね? 迷いの森に来る冒険者自体も少ないのに、わざわざそれを襲わせるためだけに召喚したとは……考えにくいと思うんです」
その言葉に、ザバランは「……チッ」と小さく舌打ちすると、ガタンと音を立てて椅子に深く座り直した。肩には、重たい現実を背負ったかのような疲労が滲んでいた。
「それと、もう一つ」
エリュールは言葉を継いだ。
「ルーチェさん、あなたは天幕での聴取の際に“何者かに狙われた”と、そう証言していましたね?」
「はい……記憶は曖昧ですが、確かに狙われたと思います」
「つまり、あの時どのような攻撃を受けたかまでは分からないと?」
「はい……」
エリュールは静かにうなずき、続けた。
「その証言が気になりまして、個人的に森の方も調査しました。そして、ルーチェさんたちが通ったルートと戦闘の痕跡を追ったところ──あなたを狙った何者かが、あの場に“確かにいた”ことが分かりました」
彼女の視線は真っ直ぐルーチェを見つめていた。
「ルーチェさんが居た場所の木の幹には焦げ跡が残っており、調べた結果、それは雷属性の魔法によるものと判明しました。あの状況下、そこにいた魔物はゴブリンとホブゴブリンだけ。しかしそれらの魔物が雷属性の魔法を使うという記録は──ありません」
「雷属性……」
「しかも、痕跡の打ち込まれた角度と位置から見ても、狙われていたのは明らかに──あなたです、ルーチェさん」
「そんな……一体、誰が……」
動揺するルーチェの傍に、ザバランが静かに膝をついて屈んだ。
「ルーチェ、とりあえず一人での行動は控えろ。街の中でも大通りを歩いて、誰かしらの目に入るようにしておけ。街の外に出る依頼もしばらく止めとけ。宿代が足りねぇ時は、遠慮せずに言え。俺が出す。な?」
その声音には、諭すような優しさと、確かな心配が滲んでいた。
「……分かりました。外出も気をつけます……」
「とにかく、この件は伯爵様に報告します。そして引き続き調査を進めます。何か進展があれば、すぐに知らせますので」
「あぁ、頼む」
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。だがその奥には、未だ見えぬ危機の気配が確かに漂っていた。
緊張と安堵の入り混じる空気の中、一行は静かに席を立った──
今日のところは、これで解散となった。