第26話 軍勢の試練
重く軋む音と共に、石造りの扉が開いた。
その向こうに広がっていたのは、異様な光景だった。
崩れかけた玉座の間。壁には爪痕と血痕が走り、床には無数のゴブリンの骸が転がっている。砕けた骨と干からびた皮膚。怨嗟の残滓を感じさせる瘴気が、紫黒い霧となって足元を這っていた。
「うへぁ……何これ、気持ち悪っ……」
先に足を踏み入れたテオが、顔をしかめて鼻をつまむ。
「匂いが……気持ち悪い……」
ルーチェも思わず口元を押さえ、俯いたその視線の先に──奇妙なものを見つけた。
「……これ、何でしょう……?」
床に刻まれた魔法陣のような紋様。円と線が複雑に交差し、まるで呪いのような禍々しさを放っている。
「何かの紋様……術式の類でしょうか」
キールが警戒を滲ませながらルーチェの隣に屈み、覗き込んだ。
その瞬間だった。
───バァンッ!!
甲高い衝撃音と共に、背後の石扉が音を立てて閉ざされた。
「閉じ込められた……!?」
振り返ったルーチェの顔が青ざめる。その時、リヒトの声が響いた。
『お嬢様、お気を付けください! 強い気配を感じます!』
「……強い気配……!」
リヒトの警告に、ルーチェははっと顔を上げた。
そして、目の前を見据えたその瞬間──
玉座に鎮座していた“何か”が、ギリ、と軋むような音を立てて動いた。
ズズ……ズンッ。
腐肉を思わせる異臭が空気を満たす。玉座に鎮座していた異形が、ゆっくりとその巨体を持ち上げる。
それは──全身が病的に膨れ上がった、異形のゴブリンだった。
灰緑の肌には浮き上がるように血管が脈打ち、右手にはねじれた杖のような巨大な骨。頭上には、凝縮された闇の魔力を纏った禍々しい骨の王冠がある。
眼窩に灯る赤い光が、静かに、しかし確かに──ルーチェたちを見下ろしていた。
そして次の瞬間、ゴブリンキングは喉を鳴らして笑った。
左手を掲げると、床にいくつもの魔法陣が浮かび上がった。そこから、鎧や武器で武装したゴブリンたちが、ぞろぞろと現れる。
「……孤高の王様かと思ったら、いきなり配下召喚とか卑怯じゃね? このデカブツ!」
ゴブリンキングはテオの言葉に反応したかのように、ニヤニヤと笑みを浮かべる。
召喚されたゴブリンの数は十数体。だが、その様子は明らかに通常の個体とは異なっていた。
全員が涎を垂らし、狂気に満ちた瞳で前衛の二人──ではなく、その背後に立つルーチェを凝視している。
「……狙いは、ルーチェさんなのか……!?」
「そんな怖い顔してたら、人間の女の子にはモテないぞ、ゴブリン共!」
言い終えるや否や、テオは剣を抜き放ち、地を蹴った。
「──《水流剣》」
その刀身に水がまとわりつき、揺らめく波紋が鋭さを増す。
「《付与魔法・風》!」
キールの槍先には風の渦が巻き起こり、唸るように魔力を帯びる。
ルーチェはわずかな恐怖を胸に抱きながらも、二人の背中を見つめ、意を決して杖を構えた。
「《水渦衝波》──!!」
テオの剣に、水の渦があふれるようにまとわりつく。
振り抜かれた瞬間、水の渦は前方へと飛び出し、とぐろを巻く蛇のようにゴブリンたちを呑み込んだ。
その渦の中に潜む無数の水の刃が、巻き込まれた敵を容赦なく切り刻んでゆく。
「てやぁっ!!」
一方のキールは、風をまとった槍を軽やかに振り回しながら、ゴブリンたちの急所──心臓、首、頭部を正確に貫いていく。
その動きは一撃ごとに研ぎ澄まされ、まさに“槍術”と呼ぶにふさわしい精密さだった。
そして、ルーチェの杖に埋め込まれた宝石が、淡く光を灯す。
「《無垢なる守護》……!」
彼女が杖を振るうと、テオとキールの身体を、やわらかな光が包み込んだ。
(瘴気への耐性、自動回復、そして防御力の補正……。私のオリジナル魔法……! あんな大物を相手には、付け焼き刃かもしれないけど──)
それでも、ルーチェは震える手に力を込め、強く握り直す。
(私が……二人を助けるんだ……!)
───青の一閃が走る。
テオの剣が最後の一匹を斬り伏せ、地面に血飛沫を描いた。
「これで──孤高の王様に逆戻り、って感じ?」
肩で息をしながらも、軽口を叩くテオ。
だが──
「ガハッ、ガハハハッ!」
ゴブリンキングは腹を揺らして笑い出した。腹を叩き、地響きのような声をあげる。
「……何がおかしいんだか」
テオが眉をひそめたその瞬間。
ゴブリンキングがまたもや手を掲げ、空間に魔法陣を複数描き出す。先ほどよりも、遥かに多い。
「……っ、先程の召喚は本気じゃなかったということか」
キールが唇を噛む。
今度は数十匹──それも先ほどのゴブリンよりも狂気が濃く、さらに、左右の陣からは武装したホブゴブリンまで現れる。
「多勢に無勢すぎるでしょ、流石に……」
テオがぼやく。
「やらないといけないんだから、覚悟決めなよ、テオ」
キールは前に出て槍を構える。
その背で、ルーチェが唇を噛んでいた。
(……ダメだ。テオさんとキールさんにばっかり頼ってちゃ……。今の私は、守られるだけじゃない……!)
杖を高く掲げる。
「避けてくださいッ!! 《裁きの流星》──ッ!!」
天井にきらめく十字の光が現れた。そしてルーチェが杖を振り下ろす。
天空から、幾筋もの流星のような光が降り注ぎ、ゴブリンたちの群れを焼き払った。
轟音。閃光。
テオとキールは素早く距離を取って回避し、その威力に思わず目を見開く。
ルーチェの魔法が晴れたとき、地には燃え尽きたゴブリンの残骸が転がっていた。
残っているのは、左右に立つ二体のホブゴブリン、そして──ゴブリンキング。
ゴブリンたちが消し飛んでも尚──、ゴブリンキングは微動だにしなかった。
テオはその巨体を見据え、片目を細める。
「……キール、そっちのホブゴブリン、任せていい?」
軽く言ったつもりだった。だが内心では、喉の奥が焼けつくような不安を感じている。
昨日、たった一体のホブゴブリンにさえ、二人がかりでやっとだったのに。
だが──
「分かった、任せて」
キールは笑ってみせた。迷いは、なかった。
「ルーチェ! 支援は任せるからね!」
「ルーチェさん、頼りにしています!」
「っ……はいっ!」
テオとキールが左右へ駆け出すと、対するホブゴブリンも咆哮をあげ、大剣を構えて突進を始める。
ルーチェは即座に杖を振った。
杖先で光が踊る──
「《光針》ッ!!」
ホブゴブリンの足元から、光の槍が突き出すように生えた。
鈍い音と共に、その巨体の両足が串刺しになる。
苦悶の唸りをあげて動きを止めた瞬間──
「《暴風突》ッ!!」
「《水狼牙・顎》ッ!!」
キールの槍に、竜巻のような風が渦巻く。
テオの剣には、水がまとわりつき、狼の顎の形を成して唸る。
串刺しから抜け出そうと、ホブゴブリンが足を引きちぎるように前進を試みた。
だが──
風の槍が胸を貫き、
水の狼が喉元に喰らいついた。
ゴリリ、と鈍い音。
ホブゴブリンの首が、捻じ切られるように飛ぶ。
(……すごい……一撃で……!?)
ルーチェは思わず目を見開いた。
その瞳に映るのは、頼れる仲間の背中だった。
その時、リヒトの鋭い声が響いた。
「お嬢様──ゴブリンキングの様子が変です!!」
ルーチェはその声に反応し、すぐに視線を向ける。
ゴブリンキングが、膨らんだ胸を押し上げながら、口をすぼめ、深く息を吸い込んでいた。
───嫌な予感がした。
「《聖なる領域》ッ!!」
ルーチェが素早く詠唱し、白い光のドームが地面に半円を描くように広がった。
その範囲内には、キールとテオの二人。
しかし──自分は外だ。
攻撃にも備え、支援魔法も続けられるよう、あえて自分を除いた布陣にしたのだ。
その判断が、今は危機となって跳ね返る。
「ルーチェさんっ!!」
キールが振り返って叫んだ、その瞬間───
ゴブリンキングの口から、轟音と共に黒いブレスが放たれた。
腐ったような色の濃い瘴気が、煙のように地を這い、辺りを侵食していく。
「ルーチェッ!!」
テオの叫びが届く。
だが、ルーチェは一歩も退かない。
(なりふり構っていられない──っ!)
光がルーチェの手首、足首、そして腰にリボンのように巻きつく。
強く一歩を踏み込むと、ルーチェの体が宙へと舞う。
───瞬間、瘴気のブレスが足元を通過する。
まるで重力を断ち切るように、軽やかに、しなやかに。
ルーチェは跳び、守りの結界の中──仲間の元へと飛び込んだ。
瘴気のブレスがようやく止む。
濁った空気がじわりと広がり、空気がひときわ重くなる。
──ギシ、ギシ。
不快な軋みを立てながら、ゴブリンキングが玉座から立ち上がった。
その異様な風格は、もはやただの「上位個体」などというレベルではない。
巨体がゆっくりと、しかし確実にこちらへと歩を進める。
「ど、どうしますか…!?」
ルーチェの声が震える。だが、ただ怯えているわけではない。
その手には杖、視線は仲間の背中を信じている。
ポーションの瓶を傾けながら、テオが冷静に答える。
「ルーチェにかけてもらった《無垢なる守護》、まだ効果時間あるでしょ? だから一旦この《聖なる領域》を解除して、散開。左右から俺とキールで挟み撃ちって形でどう?」
「了解。じゃあ……」
キールも飲みかけのポーションを飲み干し、空き瓶を勢いよく地面に投げ捨てた。
「ルーチェさんは少し後ろに下がって。遠距離攻撃と支援、引き続きお願いします」
「──分かりました!」
そのとき。
リヒトの声が鋭く空気を裂いた。
『お嬢様、攻撃が来ます!!』
ゴブリンキングが、捻れた骨で出来た巨大な棍棒を振りかぶる。
黒い瘴気がまとわりつくそれが、天から雷を落とすような軌道で──
──振り下ろされた。
「ッ──!」
《聖なる領域》が白い光をきしませ、そして──パリン、と音を立てて砕け散る。
その刹那。三人は同タイミングで、バッと散った。
左にテオ、右にキール、後方へとルーチェ。
いよいよ、真の戦いが幕を開ける──。