第22話 暗闇の中で
「───ん...んぅ...?」
ルーチェが意識を取り戻すと、周囲は上も下も分からない闇の中だった。前も後ろも分からず屈んで足元に触れると、かろうじて地面の感覚はあるようで、平らな床に触っているような感覚を感じる。
「……え! もしかして、私死んじゃったの!? 転生してきてもう死んだ!?」
『落ち着いてください、お嬢様。死んではおりません』
ふと聞こえてきたリヒトの声に、ルーチェはホッと胸を撫で下ろした。
「リヒト...良かった...! ところでここは...?」
『申し訳ございません、ここがどこかは私にも分かり兼ねます...』
ルーチェは何かが背後で動くのを感じ取り、すぐに振り返った。
そして、手のひらに小さな光を灯した。
───そこには闇に光る赤い瞳が浮かんでいた。
赤い瞳がじっとこちらを見つめている。
(人じゃなくて……獣みたいな目…?)
ルーチェは、恐怖と好奇心が入り混じる中で、屈んでその瞳に視線を合わせた。
「……あなたは、だれ?」
返事はない。ただ、チャッチャッ……と、床に硬い爪が触れるような音が近づいてくる。
やがて、闇に浮かんでいた目の持ち主が姿を現した。それは漆黒の毛並みをした、一頭の狼だった。
「……狼?」
だが普通の狼とは、どこか違う。揺れる影のように形を変えそうな不確かさ。鼻先や耳の縁が、うっすらと闇に溶けていた。
『近づくまで分かりませんでしたが、どうやら《影狼》のようですね。お嬢様、安全かどうかは分かりません。ご注意を』
「……うん、分かってる。でも……」
ルーチェが一歩だけ進み出た。その足音に反応してか小さく「ワフ」と吠え、鼻を鳴らしながら彼女に近づいてくる。
(……怖くない……)
ルーチェの足元まで来ると、スンスンと匂いを嗅ぎ、少し首をかしげたような仕草を見せた。
ルーチェはゆっくりと手を差し出す。それを見ていた狼はしばらく迷った後、ペロッと小さく舐めた。
「……ふふ、くすぐったいよ」
思わず笑ったその瞬間、闇の空間に少しだけ光が差したような気がした。
『……不思議ですね。影に属するはずの存在が、光の使い手に懐くなど……ですが、お嬢様らしいとも思えます』
「でもなんだかこの子……敵じゃない気がするよ、リヒト」
静かにルーチェの隣に寄り添うと、まるで「一緒に行こう」とでも言うように尻尾を振った。
『……お嬢様、もしかするとこの影狼が、この空間の案内役なのかもしれません』
「案内役か……なら、お願いしてみようかな。ね、狼さん。どこかに出口があるなら教えてくれる?」
ルーチェの言葉を聞くと、それに応えるように立ち上がり、前を向いて歩き出した。ルーチェもその後を追い、一歩、また一歩と闇の中を進み始めた。
どこへ向かうのかは分からない。でも、不思議と怖くはなかった。
「迷わず進んでるけど……この先に何があるんだろうね」
ルーチェは不安と好奇心が混じった声で呟いた。
『影狼は、影に潜ったり、影から影へ渡り歩いたりする能力を有しているとか。我々には感知できぬ“影の道”を見ているのやもしれませんね』
「……ワフ……」
その獣は振り返ると、ルーチェの足元に寄り添って歩きながら、小さく鳴いた。
「私には右も左も分からないけど……君はすごいねぇ」
ルーチェがそっとその頭を撫でると、目を細めて尻尾を嬉しそうに振った。
「私ね、ゴブリンを倒しに来たの。最近この森にたくさん出るようになったんだって。知ってる?」
「ワフ!」
元気よく返事をするように吠える、『知っている』と答えているようだ。
「それでね、さっきまでキールさんやテオさんと一緒に戦ってたの……でも……」
ルーチェの声がそこで止まる。その足も、自然と止まっていた。
『お嬢様、如何なさいましたか?』
「気を失う直前……森の奥から、何かが飛んできたような、そんな気がして……」
その言葉に反応するように、ぴくりと耳を動かし、「ワフ、ワフ!」と短く吠えた。
ルーチェがその声に目を向けると、胸を張るようにして座り、どこか誇らしげに鼻を鳴らす。
「もしかして……それで私を助けてくれたの?」
「ワフ!」
確信に満ちた一声。まるで『もちろんだ』と言っているようだった。
ルーチェは小さく笑い、その背中を優しく撫でた。
「ありがとう、君がいてくれて、良かったよ」
その瞬間、彼女たちの周囲にほんの少しだけ“影に差す光”のような、暖かい気配が漂った。
影の道を暫く歩いていると───、
「ワン!!」
それまで「ワフワフ」と控えめに鳴いていたが、突然鋭く吠えた。ルーチェは驚いて振り返る。その視線の先、影狼は真上を見上げていた。
微かに───ほんの微かに、「……さーん!」という声が降りてくる。
「……もしかして、この近くにキールさんたちが……?」
「ワフ!」
ルーチェの言葉に、迷いなく返事をする。
「どうやったら出られる? 二人のところに行きたいの、連れて行ってくれる?」
「ワン!!」
今度は確信に満ちた吠え声だった。影のようにルーチェの足元に潜り込むと、まるで「乗れ」と言わんばかりに頭を低くし、背を見せた。
「え、乗っていいの……? わ、分かった、ちょっと失礼して……」
ルーチェがそっと跨ると、その瞬間に踏み込み、地面を蹴って跳んだ───。
───瞬間、空気が変わる。
視界がぶれるような感覚とともに、闇が開け、光が差した。
次の瞬間には、ルーチェは森の中だった。
「……森の中だ……ありがとう、出られたよ」
「ワフ……」
影狼は静かに吠えた。だが、その耳がピクリと動いた瞬間、ふいにルーチェの影へと潜るように姿を消してしまった。
「───ルーチェさーん!!」
「───ルーチェ!!」
ルーチェを呼ぶ声が響いた。木々の向こうからキールとテオが走ってくる。
「キールさん! テオさん!」
「ルーチェ!! いた!」
「良かった……! 急に姿が消えたから、心配していたんですよ!」
「もう、どこに行ってたわけ?」
(さすがに、“影の中で迷子になって、狼さんに助けてもらいました”……なんて言えないし……)
「えっと……あの混乱の中で、別の魔物に襲われて……気がついたらはぐれちゃってて……」
「……そっか。まあ、無事ならいいよ」
「森の中のゴブリンはほとんど掃討したそうで、他のパーティは野営地に戻っています。我々も戻りましょう」
「……はい!」
ルーチェは頷きながら、ちらりと足元に視線を落とす。変わらない自分の影がそこにあった。
(……もしかしたら心配して見守ってくれているかもしれないよね)
彼女は影に向かってそっと微笑んでから、森の中を歩き出した。