第2話 少女は歩き出す
「……あれ?」
柔らかな花の香りと、頬をなでる風の感触。
天宮ひかり───いや、今は“ルーチェ”と名を与えられたその少女は、ゆっくりと目を開けた。
目の前に広がるのは、一面の花畑。白、黄色、薄紅色……風にそよぐ無数の花が、まるで歓迎するように揺れていた。
その先には、立派な石の門に石造りの壁で囲われた美しい街が見える。緩やかな坂道を下った先に広がるその街の中には、塔のような建物やレンガ色の屋根が点在し、行き交う人々の姿も遠くからでもよく見えた。
「ここが……異世界、レーヴス……?」
信じられないような光景に、少女は思わず言葉を漏らす。
「本当に来たんだ、物語の中みたいな世界に……」
そんな彼女の頭の中に、ふわりと柔らかな声が響いた。
『───お目覚めですね、お嬢様』
「……リヒト、さん?」
『はい、貴女の導き手、精霊リヒトでございます。現在は貴女様の精神の中より語りかけております。お傍におります故、どうかご安心を』
花畑の中で立ち尽くすルーチェに、リヒトは丁寧に状況を説明する。
ここは人間族の住む大陸の右半分を領土とするヴァレンシュタイン王国。その西側に位置する自然豊かな花の街、セシ。冒険者たちが行き交う中規模の街であり、魔物討伐や依頼で生計を立てる者が多く集うそうだ。
「それに、この格好も……まるで魔法使いみたい!」
ルーチェはその場でくるりと回ってみせる。
ピンク色の魔法使い用のローブ、白い襟付きのシャツ、赤いスカート、茶色のショートブーツ。肩からは白いショルダーバッグを下げている。
結ばれた薄茶色の髪の毛には、細いリボンが結ばれていた。
『それも、神が用意した初期装備でございます。特にそのローブには僅かに魔力が付与されております。ほんの少しですが、魔法防御力を上昇させる効果があります。戦闘の際に意外と役に立ちますよ。ただし、物理的な防御力は皆無なので、後程お金を貯めてから皮の鎧などを買われるのが無難かと思われます』
「分か……りました、そうします……」
『お嬢様、私相手に敬語は不要でございます。どうか楽な話し方で』
「でもその……」
『私は貴女の従者、忠実なる下僕です。貴女の言葉に従い、貴女の質問には何でもお答えさせていただきます』
「……分かった、その……これから、よろしくお願いします」
『はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします』
***
「……じゃあ、えっと、テイマーになるってことは……まずは冒険者にならなきゃなのかな…?」
『ええ、そのためにも、まずは目の前のあの街へ入りましょう。入門に必要な“身分証”は、門の詰所にて発行してもらえますよ』
背中を押されるようにして歩き出すルーチェ。花畑を抜け、街へと続く道を進んでいく。そして石造りの城壁の前に辿り着くと、門の横にある小さな詰所で、一人の男性が手を振っていた。
「おお、お嬢ちゃん、旅の人かい? 一人で来たのかな?」
がっしりとした体格に、優しげな目。口元には無精髭が生えている。彼の名はエドガー。セシの街を守る騎士団の団長さんだそうだ。
何故、名乗りもしていないおじさんの名前や所属を知ることが出来たのかというと、リヒト曰く神の恩恵の一つで《鑑定》のスキルを授かったらしい。
「はい。……この街で冒険者になりたくて」
「ほう、それはまた志が高いな。お嬢ちゃん、身分証はあるかい?」
ルーチェは首を横に振った。
「だったらまずは、身分証を作らなきゃな。安心しな、すぐに終わるから」
笑いながら奥から羊皮紙を取り出すエドガー。
名前、生まれの国、種族、目的などを簡単に記入し、魔導印により本人確認が済めば、銀のプレートに魔力を込めた簡易的な“身分証”が完成するそうだ。
ルーチェは、エドガーの説明とリヒトのサポートを受けながら、紙に記入していく。文字の読み書きも、異世界からの転移者には自動的に付与されるらしい。
(そういえば、こういう魔道具で転生者だってバレたりしないのかな?)
『問題ございません。お嬢様は神より《隠蔽》のスキルを貰っておりますから、並大抵の《鑑定》スキルではお嬢様を看破する事は出来ません』
(そっか……)
「はい、これがお嬢ちゃんの身分証だ。間違っても無くすなよ? 街に入るにも、宿に泊まるにも必要になるからな」
「ありがとうございます」
「困ったことがあれば、いつでもここに来るといい」
「あの……冒険者ギルドってどこにありますか?」
「冒険者ギルドなら、このまま通りを真っ直ぐに行って、広場の奥の建物がそうだ。でかでかと看板が掲げてあるからすぐに分かるぜ。冒険者ギルドで発行できる冒険者カードも身分証代わりに使えるからな、分かったか?」
「はい、ありがとうございます」
エドガーは親切に教えてくれた。ルーチェは丁寧に頭を下げてから街の中へと足を踏み入れた。
レンガ造りの建物が並び、近くの店からはパンや果物の甘い香りが漂う。行き交う人々は、どこか活気に満ち、賑やかな声が街に響いていた。
「……これが、セシの街……」
『冒険の始まり、最初の街はお気に召しましたか? ですが油断なさらず。貴女の夢は、まだ始まったばかりです』
リヒトは、主であるルーチェの心に静かに語りかける。その声音には、誇りと共に、どこか暖かな期待が滲んでいた。
***
街を眺めながら歩いているといつの間にか冒険者ギルドへと辿り着いていた。
「ここが……冒険者ギルド……」
ギルドから出てきた冒険者パーティと思われる三人組が横を通り過ぎる。
「……見ろ、子供だ」
「あらほんと。可愛いわね〜、魔法使い用のローブなんて着ちゃって〜」
「喋ってないで行くぞ、日が暮れない内に戻らないとだからな」
彼らはそう言ってどこかへ去っていった。
「確かに冒険者には見えない……かぁ」
『問題ございませんよ、お嬢様。冒険者は実力主義の仕事です。依頼をこなしランクを上げさえすれば、子供でも老人でも敬われる仕事です』
「うん……頑張る……」
ルーチェは気合を入れて、ギルドの扉を開いた。
ギルドの中は思ったよりも賑やかだった。
掲示板には紙が何枚も貼られ、腰に武器を下げた冒険者たちが行き交っている。その奥に並ぶ受付カウンターには、数人の受付嬢が冒険者らしき者たちの対応していた。
(えっと、手が空いてる人は……あの人かな)
ルーチェはそっと近づき、小さな声で話しかけた。
「すみません、あの……」
「ようこそ、冒険者ギルドへ。お嬢さん、何か御用があってここに来たの?」
優しげな笑顔で迎えたのは、セミロングの赤毛の髪を持つ若い女性。名札には“ニナ”と書かれていたが、どうやらルーチェの姿を見て勘違いしたらしい。
それも仕方ない。ローブ姿の少女は身長150cmほど、武器も鎧も見当たらず、肩から小さな鞄を提げているだけ。
どう見ても冒険者志望には見えなかった。
恐らくギルドに依頼を出しに来た子供と思われているのだろう。
「あの……えっと、冒険者になりたくて……」
おずおずとそう言ったルーチェに、ニナの目が少し見開かれる。
「えっ……貴女が?」
ルーチェがこくりと頷くと、受付嬢はゴホンと咳払いをした。
「私は受付嬢のニナ。……貴女、お名前は?」
「……ルーチェ、です」
「ルーチェさんね。あのね、冒険者ってすごく危ないお仕事なの。危険な魔物を討伐したり、遠くの村や街に何日もかけて行くこともあるし、華やかな見た目以上に体力のいる仕事なの。……その辺は、ちゃんと理解しているのかしら?」
ニナは諭すように説明した。
「はい……分かってます、大丈夫です」
にこ…と小さく微笑むルーチェに、ニナは少しだけ驚いた顔を見せたが、すぐに「ならいいの」と返した。
そしてカウンターの内側から用紙を取り出すとカウンターのペンを取り、それをルーチェへと手渡す。
「じゃあ、登録を───」
「おいおいお〜い! マジかよ、聞いたかマルクス。ガキが冒険者志望だってよ!」
その時、後ろからガラの悪い声が割り込んだ。
「いや〜無茶でやんす、ニナさんも止めるでやんすよ〜」
現れたのは斧を背負った戦士風の大柄な男と、その腰巾着のような盗賊風のヒョロ男だった。
戦士風の男はニヤつきながらルーチェを見下ろす。
「嬢ちゃん、悪いこと言わねぇ。帰んな? 魔物に喰われて骨も残らねぇぞ? ここは子供の遊び場じゃねぇんだ」
「はい、大丈夫です。分かってます」
「はぁ? 聞いてんのかよ? お前みたいなひょろっこいガキが斧の一振りでどうなるか──」
「……ご指摘はごもっともだと思います。見ず知らずの私を心配して下さってありがとうございます」
にこりと笑って頭を下げるルーチェ。その対応に周囲の空気が変わった。
(あれ……?)
(あの子、すげぇ……大人だな……)
(逆にライノス、恥ずかしくね?)
空気を読まない戦士風の男ライノスは、なおもしつこく絡む。
「な、なぁマルクス? こんな子供がさぁ、命張るとかさ、勘弁だよな? 俺ら、善意で止めてんのによ?」
『しつこい方ですね……』
「貴方達! いい加減に───!!」
ニナの言葉を遮るように、ルーチェは一歩前に出て、静かに言った。
「……なら、試されますか?」
その言葉に、場が静まる。
「私が負ければ、冒険者になるのは諦めて帰ります。でも──もし私が勝てたら、これ以上は絡まないでもらえますか?」
ライノスとマルクスは大口を開けて笑った。
「兄貴、コイツ馬鹿でやんす!」
「ははは! いいぜ! 後悔しても知らねぇからな! 模擬戦、やってやろうじゃねぇか!」
ニナがため息をついて言う。
「まったく……もう。……分かりました。ギルド地下の訓練場を使いましょう。模擬戦のルールは、戦闘不能になるまで。致命傷や重度の怪我を負わせることは禁止。双方いいわね?」
「オーケーオーケー、手加減してやらぁよ!」
そうしてルーチェは、異世界での初戦闘を行うのだった。