第136話 牙獣族の村・ガルヴェ
坂の傾斜がだんだん緩やかになってくる。
「もうひと踏ん張りだ、気張れ…!」
ゴートンが手綱を引き、鞭を振るう。
馬たちは汗を飛ばしながら必死に足を動かし、重い荷馬車を引いていた。
やがて、木々の先に木造の塀で囲まれた集落が見えてくる。
「あそこですね!」
ルーチェが声を上げると、皆の視線が集落の方へ向けられた。
見張り台の上にいた犬人族らしき男が、集落内に向かって何かを叫んでいるのが見える。
「いきなり敵扱いされなきゃいいけどな…」
テオが小さくため息をついた。
やがて馬車の速度が落ち、ゆっくりと集落の前にたどり着く。門の前には、槍を手にした狼人族の女戦士が現れ、こちらへ歩いてきた。
「───お前たちは、旅の者か?」
「あぁ、そうだ」
御者のゴートンが低く答えた。
それを聞いて、馬車の後ろからキールが降りると、落ち着いた足取りで門番の前へ進み出る。
「突然の訪問、失礼いたします。私はヴァレンシュタイン王国より参りました冒険者、キールと申します。王国から獣王陛下への贈呈品を護衛し、ソランディルより王都グラーデンへ向かう途中です」
「獣王陛下への贈呈品……? ───事情は分かった。だが、なぜこちらの道を?」
「実は───」
キールは丁寧に説明を始めた。
地図では通れるはずだったルートを進もうとしたが、何者かにより橋が落とされていたこと。敵に狙われている可能性があるため、休まず馬車を走らせてきたこと。そして、今日一晩だけでも滞在させてほしいという旨を伝える。
「それと───」
そう言いながら、キールはちらりと馬車の方を見やった。その視線に気づいたルーチェは、静かにうなずいてから、オルトの手を取る。
「こちらは、我々が故あって保護しているオルトといいます。ソランディルの獣関所のオリー所長より、この村に彼の家族、あるいは血縁者がいるかもしれないと伺いまして…」
「オルト…!?」
「まさか、本物なのか…!?」
門番たちは顔を見合わせ、驚きの声を上げた。
その声に、オルトはびくりと体を震わせる。思わずルーチェの背後に隠れるように身を寄せる。
「……分かった。少し待て。長老様に掛け合ってくる」
門番の女戦士はそう言い残すと、すぐさま村の奥へと駆けていった。
***
しばらくしてから門番の女戦士が戻ってくる。
「長老がお会いしたいそうだ。馬車も中へ入れて構わない。奥に厩舎として使っている蔵がある。屋根もあるから、そちらまで馬車を移動させてくれ」
「へい…」
ゴートンは短く返事をすると、静かに馬車を進めた。
(ノクス、そのまま馬車の中の影から積荷を守っててくれる?)
『ワカッタ』
ノクスはルーチェの声に返事を返すと、ルーチェ差し出した干し肉を咥え、影の中に潜ってじっと警戒態勢に入った。
一方、シアは集落へ入る直前、周囲に気づかれぬように《魂の休息地》へと戻されていた。
「客人たち、こちらだ」
門番の女性が先導する。ルーチェたちはその後ろについて集落の中を歩く。
周囲の建物からは、住民たちが顔を覗かせていた。
道の端や家屋の陰から、ひそひそと声が聞こえてくる。
「やっぱり…あの子が…」
「生きていたのね…」
その声に、オルトの耳がぺたりと垂れる。小さな身体が身を縮こませるように、ルーチェの背中に隠れた。
「オルトくん」
ルーチェが優しく声をかけると、オルトの片耳がぴくりと動いた。
「大丈夫、一緒にいるからね」
ルーチェがそっと手を握ると、オルトは小さく、でも確かに握り返した。
***
ルーチェたちは、集落の一番奥に建つ立派な木造の建物へと案内された。入口を抜けた先の広間には、大きなラグが敷かれており、中央には年老いた犬のような顔立ちの老人───長老が、杖を手に静かに座っていた。
その傍らには、介助役と思われる若い犬人族の少女が控えている。
「───ようこそ」
長老はゆっくりと、だが確かな口調で言葉を発した。
「靴を脱いでどうぞ」
隣の少女が優しく促す。
ルーチェたちは靴を脱ぎ、用意された座布団の上に腰を下ろした。
「遠路はるばる、よくぞ…」
そこまで言ったところで長老の言葉は止まり、代わりに隣の少女が口を開いた。
「……ガルヴェへ、よくぞお越しくださいました。こちらは牙獣族の族長、ザハド=レイガスです。私は孫であり、介助を務めておりますエリエッタ=レイガスと申します。祖父は口数が少ないため、私が代わりにお話させていただきますね」
エリエッタの言葉に、キールが礼儀正しく頭を下げる。
「初めまして。私はヴァレンシュタイン王国より参りました冒険者、キールと申します。こちらは仲間のテオ、ルーチェさん──そして、我々が保護している少年、オルトです」
テオとルーチェもそれぞれ頭を下げた。
ルーチェの隣に座るオルトは、彼女の腕にしっかりとしがみついている。
「我らは牙獣族……」
「犬人族や狼人族の総称です。我らは牙を持つ戦士の一族。六獣将の一人、ラグ様もこの集落の出身です」
(六獣将って、オリー所長が言ってたよね……)
確認するように心の中で呟くと、リヒトが答えてくれる。
『えぇ、獣王国を守る六人の将軍の名称ですね』
「渓谷の橋……」
「橋が落とされていたというのは、本当ですか?」
(……え、これ長老いる?)
テオは一瞬そんなことを思ったが、もちろん口には出さなかった。
「はい。今朝、我々が渓谷の橋へ到着した時には、すでに橋は落とされており、通行不能の状態でした。急遽、山道の迂回路に切り替えて進み、警戒しながらここまでたどり着いた次第です」
長老ザハドは杖を横に置き、顎の長い白毛を撫でながら静かにうなずいた。
「今宵は……」
「ぜひ、我らの集落に泊まっていってください」
「この集落は……」
「住民全員が家族であり、集落そのものが“家”なのです。宿屋こそありませんが、外部の方をお迎えするための客用の家があります。今宵はそちらをお使いください。複数の部屋がございますので」
「ありがとうございます、ザハド様」
キールが深々と頭を下げた。
「それで……」
「そちらのオルトについてですが……」
名を出された途端、オルトの耳がぺたんと垂れた。
そのとき──
「オルトッ───!!」
勢いよく扉が開かれ、一本の杖をついた狼顔の男が乱入してくる。
「ダグ様! いまは客人との面会中です!」
後を追ってきた村人が慌てて止めようとするが、男はすでに広間の中心へと歩み出ていた。
その視線は、しっかりとオルトへ向けられている。
(…ダークブルーの毛並み。耳と尻尾の形も…似てる気がする。まさか…)
ルーチェは静かに問いかけた。
「…あの、もしかして……オルトくんのお父さん、ですか?」
男は目を見開き、しばしその場に立ち尽くした。
「……エリエッタ」
「はい、おじい様」
呼ばれてすぐに、エリエッタは椅子を持ってきて、男──ダグを静かに座らせた。
「長老、それに……客人の皆さん、騒がせてすまなかった。俺はダグ=グロウル。……そこにいるオルトの、父親だ」
オルトはダグの顔を一瞬見たが、すぐに顔を伏せ、ルーチェの首にしがみついた。
「大丈夫……ギューってしてようね」
ルーチェが優しく声をかけると、オルトは小さくうなずく。
「……なにゆえ、オルトがあなた方と共にいたのか。よければ、お聞かせいただけませんか?」
ダグの声には困惑と戸惑い、そして微かな震えが滲んでいた。キールは複雑そうな表情を浮かべ、ルーチェに目を向ける。
ルーチェはオルトの背を撫でながら、そっと尋ねた。
「オルトくん。今から、オルトくんと出会った時のことをお話するんだけど……オルトくんも、ここで聞く? それとも、私と一緒に外に出てる?」
「……きく」
オルトは少しだけ迷ったあと、か細く答えた。
「そっか。じゃあ、私の膝の上に座ってて。抱きついたままでいいからね」
ルーチェの膝の上に跨るようにして、オルトは静かに身を委ねた。ルーチェはその小さな体を包むように抱きしめる。
「聞きたくなったら聞いて。……聞きたくなくなったら、ギューってして、私の心臓の音を聞いてていいから」
オルトはコクンとうなずいた。
「……キールさん、大丈夫です。お願いします」
キールは短くうなずき、長老たちへと向き直った。
「では、経緯をお話させていただきます」
一呼吸置き、キールは静かに語り出す。
「約一か月前、我々はヴァレンシュタイン王国の貴族、ランゼルフォード公爵家の当主であり、私の父でもあるカイルからの依頼を受け、国境付近の鉱山街・ドレステルへと向かいました」
「依頼の内容は控えさせていただきますが……その調査の過程で、廃坑の地下深くにて、違法な奴隷市が開催されている事実が発覚したのです」
「……なんと……!」
長老ザハドが驚きに目を見開く。その目元は、額から垂れる白毛の隙間から鋭く覗いていた。
「奴隷市……」
ダグもまた、小さく呻くように呟いた。
「我々は、王国の第一王女エステル様率いる第二騎士団と共に、捕らわれた亜人の子供たちの救出に当たりました。……その中に、オルトもいたのです」
ダグは拳を膝の上に乗せたまま、震える手をぎゅっと握りしめた。
「その後、オルトはルーチェさんによく懐いており……恩人でもある彼女と共にいることを望みました。よって、我々のパーティで保護する形となりました」
言葉を終えたキールが黙ると、静寂が広間を包んだ。
やがて──
「事情は……よく分かりました」
「……オルトを助けてくださって、本当にありがとうございます」
長老ザハドが頭を下げ、続いてエリエッタも静かに頭を垂れる。
だがダグだけはうつむいたまま、拳を握りしめていた。
「……じゃあ、今度はこっちが聞く番だよね」
沈黙を破ったのはテオだった。空気が張り詰める中、あえて軽く切り出すような声で、だが視線は鋭い。
「おっさん、ダグ、だったよな?……どうしてオルトが奴隷になったか、その理由は分かってんの?」
「テオ……!」
キールが小さく制止の声を上げた。だが、ダグはそれを遮るように口を開く。
「……おおよその見当はついている。海賊に攫われ、その後、奴隷商人に売り飛ばされたのだろう。……どれだけ探しても見つからなかったはずだ……」
その声は悔しさと無力さを噛み殺したように、かすれていた。
だがテオは、そこで終わらせなかった。
「じゃあさ、オルトは“なんで”攫われたわけ?」
静かに、だが確かに。テオの問いには、「不幸な事故だった」とは言わせない鋭さがあった。
ダグはしばらく黙っていた。口を開こうとした唇が、何度か震える。やがて覚悟を決めたように、低く語り出す。
「……約九年前。俺と妻のリューネは、まだ幼いオルトを連れて、ソランディル近郊の海水浴場へと遊びに出かけた。……あの日、オルトにとっては初めて見る“海”だったんだ」
ダグは静かに、過去の記憶をたぐるように語り始めた。
「……俺と妻のリューネは、当時三歳だったオルトを連れて、海水浴へ出かけた。ちょうど真夏の暑い日だった。多くの家族連れで浜辺はごった返していてな……」
そう語る声には、どこか遠くを見つめるような哀しみが滲んでいた。
「ちょうど昼過ぎ、リューネが昼食を買いに行き、俺がオルトの相手をしていた。砂浜で貝殻を拾ったり、浅瀬で足を濡らしたりして……ごく普通の、楽しいひと時だったはずなんだ」
ダグの手が膝の上でぎゅっと握られる。
「……ふと目を離した。その一瞬だった。気づいた時には、オルトの姿が見えなくなっていて……いくら探しても、どこにもいなかった」
ルーチェはオルトの背中を撫でながら、そっと呼吸を合わせていた。
「───後から聞いた話だが、あの時、浜辺に見慣れぬ男がいたという証言がいくつか残っていたらしい。黒い帆を張った大きな船が沖に停まっていて、男は“あれを見に行こう”と子どもを誘っていた、と」
「黒い帆……?」
ルーチェが小さく呟くと、テオも真顔で聞いていた。
「帆に“裂けた牙と砕けた鎖”の印が描かれていたそうだ。……恐らくは奴隷商の隠しマーク。子どもを誘い出し、気づかれないうちに船へ運び込んでいたんだろう」
ダグの拳が震えていた。
「……俺が、あの時……気を緩めなければ……。たった一瞬、ほんの一瞬だったのに……」
その言葉の重さに、部屋の空気がひときわ静まり返った。
オルトはルーチェの胸元で、ただじっとしていた。小さな両手が、ぎゅっと彼女の服を掴んでいる。
「あの……お母さんは、リューネさんは……?」
ルーチェがおずおずと尋ねると、ダグは一瞬目を閉じ、そしてぽつりと答えた。
「……オルトがいなくなってから二年後……妻は、体調を崩して……そのまま……」
言葉が小さく、かすれて消えていく。
「……っ、すみません……」
ルーチェは謝りながら、オルトをそっと抱きしめた。オルトはうつむいたまま、ルーチェの胸に顔を寄せる。
「ルーチェさん、と言ったかな……」
ダグが目を赤くしながらも、優しくルーチェに声をかけ
る。
「オルトと共に、今夜は我が家に泊まらないか? ……オルトは君にとても懐いているようだ」
ルーチェは一度キールとテオに目をやる。二人は小さくうなずいてみせた。
「……オルトくん。どうする? 今夜、パパの家に泊まってみる?」
ルーチェが優しく尋ねると、オルトは少し顔を上げて、そっと目を合わせて言った。
「……お姉ちゃんと一緒なら……だいじょうぶ」
ルーチェは微笑んで、その頭を撫でた。
すると、長老ザハドが杖を持ち直して、こちらを見据える。
「……では、ごゆるりと」
「キール様とテオ様は客人用の家に案内いたします。本日はゆっくりお休みくださいませ」
介助役のエリエッタが、丁寧に一礼した。




