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絆ノ幻想譚  作者: 花明 メル
第三章 閉ざされた航路の果てへ
135/159

第135話 変わる風向き



 焚き火の灯が静かに揺れる夜更け。テントの脇で、ルーチェは小さく深呼吸をした。

 

「リヒト、少し練習してみてもいいかな?」

 

『えぇ、今なら皆さまもテントの中でお休みですし、ちょうど良いかと』

 

「で……具体的にはどうしたらいいんだろ」

 

『ノクス様は警戒に出ていますし、シア様もまだ戻っていませんから……今宵は、ぷるる様で試してみましょうか』

 

「うん、そうだね」

 

 ルーチェはそっと手をかざし、魔法陣を展開。そこから現れたのは、ぷるるだった。

 

『あるじ、なーにー?』


 水色のプルプルボディを揺らしながら、ぷるるはルーチェを見上げた。

 

「ごめんね、夜に呼び出して。少しだけ練習に付き合ってほしいの」

 

『れんしゅー?』

 

「うん、視覚を共有するっていう練習」

 

『ふふーん、よくわかんないけど、いいよー』

 

『ではまずは、視覚の共有から。ぷるる様が見ている景色を“感じ取る”つもりで、意識を向けてみてください』

 

「分かった…」

 

 ルーチェはゆっくりと目を閉じ、意識をぷるるに集中させる。

 

(今のぷるるの位置なら……私の横顔と、空……)

 

 静かに呼吸を整えたその瞬間、ぼんやりとした映像が頭の中に浮かび上がってきた。

 

(……見える? これって……)

 

 不確かな像。揺らぐ焦点。目を閉じているはずなのに、まるで“もう一つの目”が開かれているような───。

 

「──っ!?!」

 

 唐突な酔いに、ルーチェは思わず目を開け、視界を押さえた。

 

『お嬢様! 大丈夫でございますか?』

 

「……うん、大丈夫。ちょっと視界がグラグラしてびっくりしただけ……」

 

『無理をなさらず、今日はここまでにしましょう。また、時間がある時にでも』

 

「うん。ぷるるは大丈夫?」

 

『だいじょうぶー。あるじがびっくりしたかお、おもしろかった』

 

「う……。ありがとうね、ぷるる」

 

 ルーチェはくすっと笑い、ぷるるを優しく撫でた。

 


 

 一方その頃───。

 

 山中の木の上。ひときわ高い枝から、黒いローブの男が単眼鏡を覗いていた。

 

「……報告通り、か」

 

 ローブのフードは深く、顔は影に沈んでいる。手にした単眼鏡には、獣王国製とは異なる奇妙な意匠が刻まれていた。

 

 ふと、男の手がピクリと震える。

 

「……なんか、来やがるな」

 

 その直後、彼は枝を蹴って跳躍した。闇の中をまるで影のように、音もなく消えていく。

 

「チッ、さすがに嗅ぎつけが早ぇ……一旦、引かせてもらうぜ」

 

 男が姿を消した直後、その場所にしなやかな身影が現れる。

 

───シアだった。

 

「……ふぅん」

 

 草の匂いを嗅ぎ、爪先で土を軽くかきながら、目を細める。

 

(……思えば、どうして私が犬ころの真似をしてるのかしらね)

 

 小さく鼻を鳴らすと、飾り毛のついた尻尾がゆらりと揺れた。

 

(気配は……去ったわね。気づかれていたのは間違いない。あれでいて、案外慎重。愚か者という訳でもなさそう)

 

 風が吹き抜け、枝葉がざわめいた。

 

(……もうだいぶ離れてるみたい。これ以上深追いして主様に何かあったら意味がないし)

 

 そう判断すると、シアは軽やかに身を翻し、静かに森を下っていった。



 シアは、山の方から静かに降りてきた。

 夜風に揺れる緑の飾り毛をなびかせながら、焚き火の前に座るルーチェのもとへと歩み寄る。

 

『主様、見てきたわ』

 

「おかえり、シア。何かあった?」

 

『……そうねぇ。誰かがいた気配は感じたけれど、それが誰かまでは分からなかったわ』

 

「そっかぁ……」


 焚き火の爆ぜる音が、短い沈黙を埋める。

 

『そういえば犬ころは?』

 

「ノクスなら、馬車の影に潜んで警戒してくれてるよ」

 

『ふぅん? なら私も今夜は馬車の警戒をするわ』

 

「え、いいの?」

 

『もちろん。主様は、慣れない環境に疲れているでしょう? 子供は気にせず休みなさいな』

 

「ふふ、シアってばお母さんみたい」

 

『誰がお母さんよ! もう!』


 シアは拗ねたようにそっぽを向き、数歩先へと歩き出す。

 

『いい? 早めに寝なさいね?』

 

「はーい」


 ルーチェは小さく手を振り、去っていくシアの背中を見送った。

 


***

  

 

 馬車のそば。月明かりの届きにくい影の中で、空気がわずかに揺れた。

 

『犬ころ』


 シアが呼びかけると、影がほどけるようにして影狼ノクスが姿を現す。

 

『イヌコロチガウ、オレ、ノクス』

 

『知ってるわよ、そんなこと。それよりも、今夜は私もここにいるわ』

 

『シア、ヤマ、ミテキタ』

 

『えぇ。あの視線の主の特定はできなかったけど、少なくともただの馬鹿ではないわ。警戒するに越したことはないってことよ』


 ノクスは一瞬、耳を伏せる。

 

『……ソウカ。デモオレ、フシギ』

 

『不思議? 何がよ?』

 

『キキカンチ、ハンノウシタ。シセンノヌシ、ミテイタ、バシャジャナイ、アルジヲミテイタ』


 シアの表情が、わずかに強張る。

 

『はぁ? なら、狙われてるのは主様って言いたいわけ?』

 

『アルジ、シンパイショウダカラ、オレイワナカッタ』

 

『……よりによって主様狙いなんて……』


 シアは唇を噛み、再び山の方へと鋭い視線を向けた。


 夜の闇は静まり返っているが、その静けさが、かえって不穏さを際立たせていた。



***


 

 翌朝───

 朝の光が森を照らし、空気にほんの少し湿り気が残っていた。

 

 ルーチェは荷物を持ち、馬車に乗り込む。そのすぐ横にはノクスとシアの姿があった。

 

『今日も警戒を忘れないようにしてね、主様』

 

 シアは軽く尻尾を振ると、ルーチェの太ももをペシッと軽く叩いた。

 

「うん、分かってるよ。ありがとう、シア」

 

『分かってるならいいのよ』

 

 シアとノクスは今日は馬車の外に残り、周囲の警戒を担当することになった。

 

「出発するぞ…」

 

 ぶっきらぼうなゴートンの声に、全員が顔を上げた。馬車がゆっくりと、音を立てて走り出す。

 

 予定通り、道は滑らかに進んでいく。まだ朝の涼しさが残る林道を馬車が進む中、ルーチェは遠くに見える山の分岐路に目を向けた。

 

(あそこを右に行くと……牙獣族の村、《ガルヴェ》があるんだよね。どんなところなんだろう)

 

『私も気になりますが……この依頼を終えないことには行けませんからね』

 

(できれば、早く家族に会わせてあげたいって思うんだけど…)

 

『お嬢様……』

 

 リヒトの声に、ルーチェは静かに瞬きした。

 

 さらに二十分ほど走ったところで、馬車が不意に止まった。

 

「……なんてこった」

 

 御者席から、ゴートンの低い声が漏れる。

 

「どうしたんですか?」

 

 ルーチェたちは身を乗り出し、ゴートンの視線の先を見た。

 

──そこには、地図では確かに“吊り橋”があるはずだった場所が。

 

 だが、眼下に広がるのは、吊り橋など影も形もないただの川だった。橋は──完全に、落ちていた。

 

「橋が……!?」

 

 ルーチェは思わず声を上げた。

 

「ゴートンのおっさん、ちょっと調べてくる。切り返して戻る準備、頼むよ」

 

 テオはそう言って腰の剣を確認し、軽く馬車から飛び降りた。

 

「私も行きます!」

 

 ルーチェもノクスと共に続く。キールは地図を片手に、ゴートンと何やら話し込んでいた。シアは、じっとオルトの様子を見守っている。

 

「ルーチェ、これ……」

 

 テオが橋を吊っていたロープの根本を引っ張り、切断面を見せる。

 

 ルーチェも覗き込むと──そこには明らかに、鋭い刃物で“スパッ”と断ち切られたような痕が残っていた。

 

「……ノクス。匂い、分かる?」

 

『クンクン……ニオイ、ウスイ。テツノニオイ、スコシ……』

 

「鉄の匂いがするって……つまりやっぱり、刃物で切られたのかも」

 

「ふうん……キールから昨日の“視線”の話は聞いてたけど、これってもしかすると──」

 

「誰かが意図的に……」

 

 テオは肩をすくめて言った。

 

「……ま、疑っても仕方ないか。現実として、橋は落とされてる」

 

「つまり、回り道するしかないってことですね」

 

「そういうこと。警戒は最大レベルでいくよ。戻ろう、ルーチェ」

 

「……はい!」


 山道の入り口は緩やかな坂になっており、土の匂いと湿った葉の感触が空気に混じっている。

 

 迂回路は鬱蒼とした森の中へと続いていた。

 

 馬車は、ガタガタと小刻みに揺れながら、徐々に山を登っていく。

 

 道は平坦な林道とは違い、わずかに石が転がっていたり、木の根が浮き上がっていたりと、車輪に負担のかかる道だった。

 

 そんな中───

 

『主様! 風を通すわ!』

 

 馬車の後ろで走っていたシアが、山風の流れを調整し、そっと追い風を吹かせる。風は車輪の進行方向をなぞるように滑り込み、馬たちの背をそっと押した。

 

「ありがとう、シア!」

 

『ふふ、気にしないで』

 

 ルーチェはそう呟きながら、隣に座るオルトの様子を窺った。馬車の揺れに体を預けながらも、オルトは静かに座っている。

 

「オルトくん、大丈夫?」

 

 声をかけると、オルトはぱっと顔を上げた。

 

「……うん、大丈夫」

 

 少しぎこちないが、それでも確かに笑みを浮かべてみせた。

 

 その笑顔を見て、ルーチェもそっと微笑んだ。

 

 ガタン、と馬車が一つ大きく揺れたが、すぐに再び安定した走りに戻る。

 

 遠くで鳥のさえずりが響き、空は葉の隙間からのぞいていた。


 その後、特に何かが起きるわけでもなかった。

 

 だからといって警戒を解くこともできず、どこかピリピリとした空気だけが馬車の周囲に残り続けていた。

 

 鳥の声すら途切れるような静けさの中、馬車は林道をひたすら走り続ける。

 

 本来なら、途中で一度は休憩を挟みたい時間だったが、馬車を止めている間に襲われる可能性も捨てきれなかった。

 

 ならば───いっそこのまま、馬が動けなくなる直前まで走り抜けて、村に着いてしまった方がいい。

 

 それが今の一行の判断だった。

 

「キール、あとどんくらい?」

 

 テオが前方を見据えながら訊ねると、キールは手元の地図を確認する。

 

「地図だと、たぶんこの辺りだと思う。シアの風が後押ししてくれたおかげで、だいぶ早く進んでるから……あと一時間もしないうちに着くはずだよ」

 

 キールの指先が地図の一点をなぞる。

 

 ルーチェも、馬車の揺れに身を預けながら静かに耳を傾けていた。

 

(あともう少し…だから気を緩めないようにしないと…)

 

 夕暮れが始まりかけた空の色が、木々の合間からちらつく。風は変わらず馬車の背を押し、シアの尾が軽やかにたなびいていた。


 

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