第135話 変わる風向き
焚き火の灯が静かに揺れる夜更け。テントの脇で、ルーチェは小さく深呼吸をした。
「リヒト、少し練習してみてもいいかな?」
『えぇ、今なら皆さまもテントの中でお休みですし、ちょうど良いかと』
「で……具体的にはどうしたらいいんだろ」
『ノクス様は警戒に出ていますし、シア様もまだ戻っていませんから……今宵は、ぷるる様で試してみましょうか』
「うん、そうだね」
ルーチェはそっと手をかざし、魔法陣を展開。そこから現れたのは、ぷるるだった。
『あるじ、なーにー?』
水色のプルプルボディを揺らしながら、ぷるるはルーチェを見上げた。
「ごめんね、夜に呼び出して。少しだけ練習に付き合ってほしいの」
『れんしゅー?』
「うん、視覚を共有するっていう練習」
『ふふーん、よくわかんないけど、いいよー』
『ではまずは、視覚の共有から。ぷるる様が見ている景色を“感じ取る”つもりで、意識を向けてみてください』
「分かった…」
ルーチェはゆっくりと目を閉じ、意識をぷるるに集中させる。
(今のぷるるの位置なら……私の横顔と、空……)
静かに呼吸を整えたその瞬間、ぼんやりとした映像が頭の中に浮かび上がってきた。
(……見える? これって……)
不確かな像。揺らぐ焦点。目を閉じているはずなのに、まるで“もう一つの目”が開かれているような───。
「──っ!?!」
唐突な酔いに、ルーチェは思わず目を開け、視界を押さえた。
『お嬢様! 大丈夫でございますか?』
「……うん、大丈夫。ちょっと視界がグラグラしてびっくりしただけ……」
『無理をなさらず、今日はここまでにしましょう。また、時間がある時にでも』
「うん。ぷるるは大丈夫?」
『だいじょうぶー。あるじがびっくりしたかお、おもしろかった』
「う……。ありがとうね、ぷるる」
ルーチェはくすっと笑い、ぷるるを優しく撫でた。
一方その頃───。
山中の木の上。ひときわ高い枝から、黒いローブの男が単眼鏡を覗いていた。
「……報告通り、か」
ローブのフードは深く、顔は影に沈んでいる。手にした単眼鏡には、獣王国製とは異なる奇妙な意匠が刻まれていた。
ふと、男の手がピクリと震える。
「……なんか、来やがるな」
その直後、彼は枝を蹴って跳躍した。闇の中をまるで影のように、音もなく消えていく。
「チッ、さすがに嗅ぎつけが早ぇ……一旦、引かせてもらうぜ」
男が姿を消した直後、その場所にしなやかな身影が現れる。
───シアだった。
「……ふぅん」
草の匂いを嗅ぎ、爪先で土を軽くかきながら、目を細める。
(……思えば、どうして私が犬ころの真似をしてるのかしらね)
小さく鼻を鳴らすと、飾り毛のついた尻尾がゆらりと揺れた。
(気配は……去ったわね。気づかれていたのは間違いない。あれでいて、案外慎重。愚か者という訳でもなさそう)
風が吹き抜け、枝葉がざわめいた。
(……もうだいぶ離れてるみたい。これ以上深追いして主様に何かあったら意味がないし)
そう判断すると、シアは軽やかに身を翻し、静かに森を下っていった。
シアは、山の方から静かに降りてきた。
夜風に揺れる緑の飾り毛をなびかせながら、焚き火の前に座るルーチェのもとへと歩み寄る。
『主様、見てきたわ』
「おかえり、シア。何かあった?」
『……そうねぇ。誰かがいた気配は感じたけれど、それが誰かまでは分からなかったわ』
「そっかぁ……」
焚き火の爆ぜる音が、短い沈黙を埋める。
『そういえば犬ころは?』
「ノクスなら、馬車の影に潜んで警戒してくれてるよ」
『ふぅん? なら私も今夜は馬車の警戒をするわ』
「え、いいの?」
『もちろん。主様は、慣れない環境に疲れているでしょう? 子供は気にせず休みなさいな』
「ふふ、シアってばお母さんみたい」
『誰がお母さんよ! もう!』
シアは拗ねたようにそっぽを向き、数歩先へと歩き出す。
『いい? 早めに寝なさいね?』
「はーい」
ルーチェは小さく手を振り、去っていくシアの背中を見送った。
***
馬車のそば。月明かりの届きにくい影の中で、空気がわずかに揺れた。
『犬ころ』
シアが呼びかけると、影がほどけるようにして影狼ノクスが姿を現す。
『イヌコロチガウ、オレ、ノクス』
『知ってるわよ、そんなこと。それよりも、今夜は私もここにいるわ』
『シア、ヤマ、ミテキタ』
『えぇ。あの視線の主の特定はできなかったけど、少なくともただの馬鹿ではないわ。警戒するに越したことはないってことよ』
ノクスは一瞬、耳を伏せる。
『……ソウカ。デモオレ、フシギ』
『不思議? 何がよ?』
『キキカンチ、ハンノウシタ。シセンノヌシ、ミテイタ、バシャジャナイ、アルジヲミテイタ』
シアの表情が、わずかに強張る。
『はぁ? なら、狙われてるのは主様って言いたいわけ?』
『アルジ、シンパイショウダカラ、オレイワナカッタ』
『……よりによって主様狙いなんて……』
シアは唇を噛み、再び山の方へと鋭い視線を向けた。
夜の闇は静まり返っているが、その静けさが、かえって不穏さを際立たせていた。
***
翌朝───
朝の光が森を照らし、空気にほんの少し湿り気が残っていた。
ルーチェは荷物を持ち、馬車に乗り込む。そのすぐ横にはノクスとシアの姿があった。
『今日も警戒を忘れないようにしてね、主様』
シアは軽く尻尾を振ると、ルーチェの太ももをペシッと軽く叩いた。
「うん、分かってるよ。ありがとう、シア」
『分かってるならいいのよ』
シアとノクスは今日は馬車の外に残り、周囲の警戒を担当することになった。
「出発するぞ…」
ぶっきらぼうなゴートンの声に、全員が顔を上げた。馬車がゆっくりと、音を立てて走り出す。
予定通り、道は滑らかに進んでいく。まだ朝の涼しさが残る林道を馬車が進む中、ルーチェは遠くに見える山の分岐路に目を向けた。
(あそこを右に行くと……牙獣族の村、《ガルヴェ》があるんだよね。どんなところなんだろう)
『私も気になりますが……この依頼を終えないことには行けませんからね』
(できれば、早く家族に会わせてあげたいって思うんだけど…)
『お嬢様……』
リヒトの声に、ルーチェは静かに瞬きした。
さらに二十分ほど走ったところで、馬車が不意に止まった。
「……なんてこった」
御者席から、ゴートンの低い声が漏れる。
「どうしたんですか?」
ルーチェたちは身を乗り出し、ゴートンの視線の先を見た。
──そこには、地図では確かに“吊り橋”があるはずだった場所が。
だが、眼下に広がるのは、吊り橋など影も形もないただの川だった。橋は──完全に、落ちていた。
「橋が……!?」
ルーチェは思わず声を上げた。
「ゴートンのおっさん、ちょっと調べてくる。切り返して戻る準備、頼むよ」
テオはそう言って腰の剣を確認し、軽く馬車から飛び降りた。
「私も行きます!」
ルーチェもノクスと共に続く。キールは地図を片手に、ゴートンと何やら話し込んでいた。シアは、じっとオルトの様子を見守っている。
「ルーチェ、これ……」
テオが橋を吊っていたロープの根本を引っ張り、切断面を見せる。
ルーチェも覗き込むと──そこには明らかに、鋭い刃物で“スパッ”と断ち切られたような痕が残っていた。
「……ノクス。匂い、分かる?」
『クンクン……ニオイ、ウスイ。テツノニオイ、スコシ……』
「鉄の匂いがするって……つまりやっぱり、刃物で切られたのかも」
「ふうん……キールから昨日の“視線”の話は聞いてたけど、これってもしかすると──」
「誰かが意図的に……」
テオは肩をすくめて言った。
「……ま、疑っても仕方ないか。現実として、橋は落とされてる」
「つまり、回り道するしかないってことですね」
「そういうこと。警戒は最大レベルでいくよ。戻ろう、ルーチェ」
「……はい!」
山道の入り口は緩やかな坂になっており、土の匂いと湿った葉の感触が空気に混じっている。
迂回路は鬱蒼とした森の中へと続いていた。
馬車は、ガタガタと小刻みに揺れながら、徐々に山を登っていく。
道は平坦な林道とは違い、わずかに石が転がっていたり、木の根が浮き上がっていたりと、車輪に負担のかかる道だった。
そんな中───
『主様! 風を通すわ!』
馬車の後ろで走っていたシアが、山風の流れを調整し、そっと追い風を吹かせる。風は車輪の進行方向をなぞるように滑り込み、馬たちの背をそっと押した。
「ありがとう、シア!」
『ふふ、気にしないで』
ルーチェはそう呟きながら、隣に座るオルトの様子を窺った。馬車の揺れに体を預けながらも、オルトは静かに座っている。
「オルトくん、大丈夫?」
声をかけると、オルトはぱっと顔を上げた。
「……うん、大丈夫」
少しぎこちないが、それでも確かに笑みを浮かべてみせた。
その笑顔を見て、ルーチェもそっと微笑んだ。
ガタン、と馬車が一つ大きく揺れたが、すぐに再び安定した走りに戻る。
遠くで鳥のさえずりが響き、空は葉の隙間からのぞいていた。
その後、特に何かが起きるわけでもなかった。
だからといって警戒を解くこともできず、どこかピリピリとした空気だけが馬車の周囲に残り続けていた。
鳥の声すら途切れるような静けさの中、馬車は林道をひたすら走り続ける。
本来なら、途中で一度は休憩を挟みたい時間だったが、馬車を止めている間に襲われる可能性も捨てきれなかった。
ならば───いっそこのまま、馬が動けなくなる直前まで走り抜けて、村に着いてしまった方がいい。
それが今の一行の判断だった。
「キール、あとどんくらい?」
テオが前方を見据えながら訊ねると、キールは手元の地図を確認する。
「地図だと、たぶんこの辺りだと思う。シアの風が後押ししてくれたおかげで、だいぶ早く進んでるから……あと一時間もしないうちに着くはずだよ」
キールの指先が地図の一点をなぞる。
ルーチェも、馬車の揺れに身を預けながら静かに耳を傾けていた。
(あともう少し…だから気を緩めないようにしないと…)
夕暮れが始まりかけた空の色が、木々の合間からちらつく。風は変わらず馬車の背を押し、シアの尾が軽やかにたなびいていた。




