第132話 リヴァイア
『……その光……それに、どこか懐かしき気配……』
男のものと思われる声が、どこからともなく響いた。
ルーチェははっとして、蒼海獣を見上げる。
蒼海獣はぐるりとその長い体をうねらせ、ようやくゆっくりと口を開く。
『……感謝しよう、人間の娘。理性を取り戻せたのは、そなたの光と、精霊の力あってのこと……』
「よかった……本当によかったです……!」
ルーチェは心から安堵したように微笑んだ。
「蒼海獣様。やはり、理性を失っておられたのですね」
キールの問いに、蒼海獣は静かにうなずいた。
『如何にも。我が守護するこの海に───黒き瘴気を放つ“異物”が落ちた。深き海底より囁くその闇に、我が心、少しずつ……蝕まれていったのだ……』
「異物……その正体に、何か心当たりは?」
ディアスが低い声で問う。
『魔を孕んだ宝玉だ。人の手による物のようだった。拒絶し、破壊しようとしたが……あまりに瘴気が強く、長く晒され過ぎた……』
「……あの村にいた連中と、同じ筋の仕業だろうな。魔物を狂わせるために、わざと落としたのだろう」
レオの言葉に、テオはうんざりしたように肩をすくめた。
「マジでどこまで迷惑な奴らなんだか……」
レオはルーチェの隣に立ち、静かに口を開いた。
「───《蒼海獣》よ、久しいな」
蒼海獣が、ルーチェとレオに目を向けた。
『ああ、久しいな。……それにしても、人間の娘と“契り”を結ぶとは、どういう風の吹き回しか。貴様は気高く、誇り高い存在。そして、人を好まぬ精霊獣だったと記憶しているが?』
レオは視線を伏せ、静かに答える。
「あくまで仮初の主だ。しばしの間、協力している。それだけのことだ」
ルーチェは一歩前に出た。
「そんなことない! あのね……蒼海獣さん。私、レオと、お友達になったんです!」
一瞬の沈黙。
だが───その目がゆるやかに細まり、くぐもった笑い声が漏れる。
『……フッ……ハッハッハ……そうか、“友”か。……まったく……面白い娘だ……』
レオはフンと鼻を鳴らして顔を背けた。
ゆっくりと顔を近づけてくる蒼海獣。その目には、好奇の色が浮かんでいた。
『……なるほど。恵みと冥府の気配───ふむ、そなた……緑癒獣と黒冥獣にも会ったのだな?』
「はい」
ルーチェは小さくうなずいた。
『ならば……此度の礼を授けよう。これを持っていけ』
海を見やると、周囲の海面に渦の柱が生まれる。
やがて水柱の中心から現れたのは───ピンクと白の混ざった、美しい巻貝だった。
『それを持てば、水中でも幾らか自由に動けるはずだ。人は、我らとは違い、水の中で生きられぬのだろう?』
「えっ……でも、いいんですか?」
ルーチェが驚いたように尋ねる。
『無論。それとな───』
蒼海獣がルーチェにそっと額を近づける。
ルーチェは思わず両手を伸ばし、その額に触れた。
『───これも、くれてやろう』
瞬間、穏やかな魔力の波動が、ルーチェの手のひらに伝わってきた。
その気配を感じ取ったレオが、小さく眉を寄せる。
「主よ……。七の魔獣の加護を、三つも持つ者など、我は初めて見たぞ」
「え、えへへ……」
ルーチェは照れくさそうに笑った。
『我の加護とその貝を合わせれば、水中でも地上と遜色なく動けるだろう。肌身離さず持っておくといい』
蒼海獣はそう言い残し、静かに海へ視線を向けた。
次の瞬間、海の底から黒ずんだ水が渦を巻きながら湧き上がる。瘴気を帯びたその水流に、ルーチェはとっさに杖を構える。
「《結晶の封印》───!」
放たれた光が、空中に純白の結晶を創り出す。
紫がかった黒のオーラが、渦を巻きながらその結晶の中に吸い込まれていく。
レオと蒼海獣がその結晶へ魔力を送り込む。炎と水、そして光───三つの力が絡み合い、神聖な渦を成した。
やがてその結晶は穏やかに輝きを放ち、ルーチェの手のひらへとふわりと降りてきた。
「記録は完了。瘴気の封印を確認。周囲の魔力反応も安定───回収は我々で行う」
ディアスが魔道具を操作しながら冷静に状況を報告する。
蒼海獣は静かに言った。
『人の娘よ───その宝玉は深き封印を施すが良い。再び目覚めれば、我すら正気を保てぬ。』
「はい……必ず、安全な場所へ保管します」
ルーチェは真剣な面持ちでうなずいた。
『それと……海を渡る者たちに、詫びを。……我が直接謝れば、怯えさせてしまうだろうからな』
「ちゃんと伝えます。みんな、きっと分かってくれると思います」
蒼海獣はしばし海を見つめ、そして───静かに空を仰ぐ。
『……どうやら風向きが変わったようだ。我は再び、この海に秩序を取り戻そう。……と、そうだ、一つ、名乗りを忘れていたな』
彼は再びルーチェに目を向けた。
『───我は“リヴァイア”』
「私はルーチェです、リヴァイアさん!」
ルーチェはぱっと笑顔を見せ、少し照れながらもしっかりと名を返す。
リヴァイアの目が細まり、どこか安らいだような気配を帯びた。
───まるで、それは微笑みにも似ていた。
『用は済んだ。さらばだ、ルーチェ。……そして、精霊獣レオよ』
そう告げると、リヴァイアはゆっくりと海の底へと潜っていった。
荒れていた波は鎮まり、重く曇っていた空には光が射し始める。
───海は、再びその穏やかさを取り戻していた。
船内の一室にて。
ディアスが用意したの魔封じの箱に、ルーチェはそっと結晶を入れた。
そして、蓋を閉じるとカチリと厳重に鍵を掛ける。
「ひとまずの対処は完了だ。これは私が王国へ、責任を持って持ち帰る」
ディアスはそう言って箱を抱えた。
「お願いします、ディアスさん……」
ルーチェは力なく壁にもたれかかる。
「大丈夫ですか、ルーチェさん?」
「はい……」
そう返しつつも、ルーチェは額に手を当てた。
(……いつもなら、こんなに疲れたりしないのに……クラクラする……)
《魂の休息地》に戻ったレオの声が、心に響く。
『致し方あるまい。我を顕現させ、共に戦ったのだ。仮とはいえ契約後、初の実戦だったな。体が慣れていないのだろう。ひとまず、休むがいい、主よ』
ルーチェはふらつきながら、かすかに言った。
「……キールさん……あの……」
言葉を聞き取ったキールが、すぐにルーチェの体を支え、優しく抱き上げる。
「別室で休んでください。船の護衛は私とテオがやります。部屋へ戻りましょう……」
「そ、そういえば……テオさんは……?」
ルーチェがまぶたを重たげにしながら尋ねると、ディアスが淡々と口を開く。
「彼ならまだ甲板にいる。話の途中から気分が悪くなったらしく、後ろで吐いていたぞ」
「キールさん……わたしは大丈夫ですから……」
「ダメですよ。ここは、僕に甘えてください」
キールはそう言ってルーチェの背を軽く叩きながら、歩き出す。ルーチェはその温もりに身を預けると、瞼を閉じた。
しばらくして、ガチャリと扉が開く。
顔色の悪いテオがふらふらと入ってきた。
「終わった、キール……?」
「うん。一応ね。ルーチェさん寝かせてくるから、少し外の見張りお願い」
「あいあい……」
「大丈夫? 戻ったら交代するから、それまでちょっとだけ頑張って」
「おー……」
テオがまた甲板の方へと戻っていく。
バタン───と扉が閉まったそのあと、部屋には静寂が戻る。
残されたディアスは無言のまま、封印された箱をじっと見つめていた。
静まり返った船室の中。ルーチェはまどろみの中で目を開け、ベッドから少し身体を起こす。
椅子に腰掛けていたディアスが、わずかに視線を向けた。
「……起こしたか?」
「いえ……」
ルーチェはまだ少しぼんやりとした声で言った。
ディアスは少し間を置いて言う。
「疲労が限界に達していたのだ。眠るのは正しい判断だ」
「……ディアスさんは、疲れてないんですか?」
「私は大丈夫だ。体調管理は常に行っている」
「……やっぱり、そう言うんですね」
ルーチェはくすっと笑った。
「けど……ディアスさんって、無理しちゃう人なのかなって、ちょっと思ってたんです」
「……そう見えるか?」
「はい。……すごく真面目で、正しくて、ちゃんとしてて。だからこそ、ちょっとだけ心配になります」
ディアスはその言葉をしばらく受け止めるように、黙っていた。やがて、低い声で言う。
「……無理をして、過ちを犯すことは避けるべきだ。それは、誰にとっても不利益をもたらす」
「……でも」
ルーチェは、ベッドの上で膝を抱えながら、小さく言った。
「誰かに『大丈夫?』って言われるだけでも、ちょっと、気持ちが軽くなる時ってあるんですよ」
ディアスは、ふと視線を外す。
「……そういうものか」
「はい。だから、私も言っておきます」
ルーチェはそっと笑う。
「ディアスさん、無理しないでくださいね。頼りにしてますから」
ディアスはしばしの沈黙ののち、静かに目を伏せた。
「……その言葉、受け取っておこう。ありがとう、ルーチェ」
しばらくしてから、再びディアスが様子を見に来てくれた。
「あれから特に異常や、魔物の襲撃はない。このままなら明日の朝にでも獣王国の港へと着くだろう。もう少し休むといい」
「そういえば、ディアスさんはどうしてここに?」
ルーチェが首を傾げて尋ねると、ディアスは少し視線を外しながら答えた。
「キールは見張りに立ち、テオは別の部屋で休んでいる。見ている者が必要だろうと考えた結果だ。……女性の寝る部屋に入るのは不躾だったかもしれないが」
「いえ、大丈夫ですよ」
ルーチェは穏やかに微笑んでそう言い、ベッドサイドの水差しに手を伸ばした。グラスに注がれた水を口に含み、喉を潤す。
「……ありがとうございます。安心できました」
ディアスは小さくうなずいたが、それ以上は何も言わなかった。それきり部屋には静寂が戻り、夜の波音が微かに窓の外から聞こえてくる。
ルーチェは毛布をかき寄せながら、小さく息を吐いた。
「もう少しだけ…休みますね……」
「了解した」
その声に背を預けるようにして、ルーチェは目を閉じる。体に残っていた緊張がほどけ、ゆっくりと意識が眠りへと沈んでいった。
ディアスは椅子に座ったまま、変わらぬ姿勢で静かに夜を見守っていた。
***
朝焼けの光が、そっと窓から差し込んでいた。
柔らかな陽の光がルーチェの頬を撫で、彼女はゆっくりとまぶたを開ける。
隣には、オルトがすやすやと眠っていた。
ルーチェは微笑みながら、そっと彼の髪を撫でる。
「……ん……お姉ちゃん……おはよう……」
目を開けたオルトが、まだ眠たげな声でそう呟く。
ルーチェは優しく微笑み返した。
「うん。おはよう、オルトくん」
二人は身支度を整え、船の甲板へと出る。
潮風が爽やかに吹き抜け、水平線の向こうに、大きな陸地が姿を現していた。
甲板にはすでにキールとテオが立っていた。
「ルーチェさん、おはようございます」
「よく寝れた?」
「おはようございます、キールさん、テオさん」
ルーチェがそう返すと、後ろから足音が近づいてくる。
振り返ると、ディアスが静かに歩いてきていた。
「全員揃っているな。間もなく獣王国だ。降りる準備をしろ」
ルーチェは前を見る。
その視線の先には、広がる緑の大地──大きな山々と、港町の輪郭が見えていた。
風の匂いが変わる。陸地が近づいてくる。
次の冒険が、始まろうとしていた。
ダジャレなのか?と聞かれれば
……まあ、はい、そうです(真顔)




