第131話 蒼海獣との決戦
船が出発し、波に乗ってゆらりゆらりと進んでいく。潮風も穏やかに吹き抜け、海面に荒れた様子は見えない。
念のため、オルトは船内の一室で待機しており、ノクスが傍で見守っている。
***
出発前の船室にて。
「いい? 船が出発したら、きっとすぐに戦闘が始まる。オルトは危ないから、ノクスと一緒にこのお部屋にいてね。ノクス、オルトを見ていてあげてね」
「……うん」
「ワフ……!」
オルトとノクスは一緒に尻尾を振りながら、ルーチェの話に耳を傾けていた。
「もし何かあったら、船内には船員さんもいるし、ノクスを通じて呼んでくれたら、すぐに来るからね」
「分かった。……お姉ちゃん」
オルトはルーチェの袖を掴む。
「なあに? オルトくん」
ルーチェが屈んで覗き込むと、モジモジしながら口を開いた。
「気をつけてね……」
ルーチェはうなずいてから、船室を出ていく。
***
港から少し進み、船は海の上を進んでいた。
ルーチェたちは甲板に立ち、周囲を警戒していた───のだが。
「うぇっ……もう無理……」
船の手すりにもたれ、死にそうな顔でぐったりしていたのはテオだった。
何でもこなせる器用な男の、思わぬ弱点。
それは───船酔い。
「あー、マジで胃の中のもん全部出た……最悪……」
ぐったりした表情のまま、テオは海へと向かってキラキラを撒いていた。
(※食事中の方も閲覧されていることを考慮し、キラキラのモザイク加工をしております。byリヒト)
「だ、大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ……」
後ろから声をかけたルーチェに、テオは手をひらひらさせて返す。
「平気平気、今ピーク過ぎたし……たぶん。いや、やっぱ過ぎてない……。……うぇぇっ……」
その様子にキールが思わずくすっと笑う。
「どっちなの? 水流剣を使うくせに船に弱いなんて、ちょっと面白いね、テオ」
「俺だって好きで酔ってんじゃねぇよ……」
手すりに顔を押しつけたまま、テオがぼやいた。
そこへ腕を組んだままのディアスが、容赦ない声で告げる。
「戦闘前に行動不能では、支障が出る。以後、対策を講じよ」
「……もうちょっと言い方ってもんがあるだろ、こんの鉄仮面……」
テオが顔をしかめて言えば、ルーチェも苦笑しながら口を挟んだ。
「……ディアスさん、ちょっと冷たいかもです」
「私は事実を述べているだけだ」
ディアスは淡々と返す。
テオはちらりとルーチェとキールを見て、小声で言った。
「……コイツが酔ったら面白そうだと思わない?」
「うん、それはちょっと見てみたいかも」
キールがうなずき、ルーチェも小さく笑った。
「確かに、ディアスさんがグラグラしてたら、ちょっと面白いかもですね……」
だが、ディアスは微動だにしない。
「私が嘔吐することはない。常に体調は万全に保っている」
「……そういうとこが余計ムカつくんだよなぁ……」
そんなやり取りの最中───船が突然、大きく揺れた。
ルーチェはバランスを崩しそうになり、キールがすかさず手を伸ばして、そっと背中を支える。
「おっと……船は突然揺れますから、気をつけてくださいね、ルーチェさん」
「あ、ありがとうございます……キールさん……」
ルーチェが頬を赤らめたところで、すかさずディアスが静かに言う。
「キール、距離が近い。あらぬ誤解を生む」
「お気遣い痛み入ります、ディアスさん。ただ、これは純然たる安全確保ですので」
もじもじしながら、ルーチェが続ける。
「わ、私はその……だ、大丈夫です……」
「だが──」
「はいはい、お小言タイム終了~。マジで頭痛いんだからやめてって……」
ディアスの言葉を遮り、テオがそう言いながら手を振ったその時───
ズンッ───!!
深海から響くような重い音とともに、気配が揺れた。
遠くの海面が、うねるように盛り上がる。
キールが表情を引き締める。
「……来ますね」
ルーチェも棍杖を手に、遠くを見据える。
「すごい……大きな力が近づいてきてる……。───レオ!」
金色の粒子が集まり、現れた白い獅子が船へと降り立つ。
ディアスは手帳を閉じ、静かに言った。
「観測対象との接触まであとわずか。全員、戦闘準備」
テオは口元を拭いながら顔を上げ、ぐっと気合を入れた。
「はぁ……胃ひっくり返ったまんまだけど……やるしかねぇか……!」
海と空を裂く、青き咆哮が、近づいていた。
ザバァンッ!
巨大な水飛沫を上げ、海面を割ってそれは姿を現した。
青く澄んだコバルトブルーの体。
日光を受けたその鱗は、まるで宝石のように煌めき、波しぶきと共に瞬く。
その顔は蛇を思わせる鋭い輪郭を持ち、長くしなやかな首から尾へと連なる体躯には、鋭い背びれが続いている。
特に胸びれは大きく発達しており、まるで竜の翼のように海風を切って広がっていた。
───まさに、《海蛇竜》の名にふさわしい、圧倒的な存在感。
それは空気そのものを震わせるような唸り声を漏らし、ぐるりと船の周囲を取り囲むように泳ぎ出した。
《蒼海獣》が───咆哮した。
ぐわああああああん…!
それは音というより“衝撃”だった。空気を震わせ、耳をつんざく低音の波動が周囲に広がる。
直後、海面が轟音と共に爆ぜる。
船を取り囲むようにして、八本の巨大な水の柱が海中から天へと突き立った。
「っ……すごい水圧……!」
ルーチェは圧に耐えながら、杖を構えた。船が風に揺れるで、魔力が淡く煌めく。
(あんな数の水の柱……このままじゃ、全方向から攻撃されて、船が壊されちゃう……!)
その時、彼女の隣に立つレオが、ちらりと横目を向けて問いかけた。
「主よ。命令があるのなら聞くが」
「え、えっと……なら、船を守ってほしい……かな」
少し遠慮がちな口調で答えるルーチェに、レオはうなずき──
「了解した」
レオは白い体を低く構えた。
風になびくたてがみは金の粒子を帯び、まるで神聖なオーラを纏うように輝いている。
彼の周囲に、金色を帯びた炎球が八つ、ゆっくりと浮かび上がる。
次の瞬間───それらは一直線に、水の柱めがけて飛び出した。
ズバッ! ゴウッ!
炎球が水の柱に命中すると、凄まじい熱と共に水蒸気を巻き上げ、一瞬でその姿を消し去ってしまった。
周囲が潮の香りの蒸気に包まれている。
「名のある魔獣とはいえ、我には適うまい」
レオは冷ややかに言い放つ。
その場にいたテオとキールは、あまりの圧倒的な力に声を失っていた。
「なっ!?」
「これが……レオの、精霊獣の力……?」
キールとテオが驚きに満ちた声を漏らす。
後方で控えていたディアスだけが、無表情のまま黙して見ていた。
レオはルーチェへと視線を向けて問う。
「主よ。“凶暴化”という現象───アレにも、当てはまるのではないか?」
「……!」
蒼海獣が、その巨大な体躯を素早く泳がせ始める。
船の周囲をぐるぐると巡り、やがてとぐろを巻くような軌道を描きながら水を巻き上げ始めた。
「まさか、船ごと巻き込んで沈める気!?」
テオが叫ぶ。
船はすでに大きく揺れ、水面は渦巻くようにせり上がってくる。
(……っ、一か八か……!)
ルーチェは咄嗟に柵の方へと駆け出す。
「ルーチェさんっ!?」
キールの声が背中を追うが、ルーチェは止まらない。
棍杖を構え、海へと向けて叫ぶ。
「《閃光弾》───!」
バシュッ!
光の玉が勢いよく発射され、海へと突き刺さる。
立て続けに二発、三発───。
海に沈んだ数秒後、閃光が炸裂。
水面ごと真っ白に染まり、眩い光が爆ぜた。
ザバァァン───!!
水の壁は勢いを失い、波へと還っていく。
海面から勢いよく姿を現し、眩しさに顔をブンブンと振っていた───蒼海獣の、その長い体躯全体に、ふと紫色の禍々しいオーラが走る。
まるで全身を包み込むように漂い、見る者に不安を与える異質な気配だった。
ルーチェはその様子を見て、眉をひそめた。
(あの紫のオーラ……なんだか、すごく嫌な感じがする……)
すると、心の内にリヒトの声が響く。
『おそらく、あのオーラが原因で暴走しているのでしょう。魔物を狂わせる“呪穢”の類かと』
「呪穢……。もし、あれが消せれば……蒼海獣さんは落ち着くかもしれない……」
ルーチェが呟くと、横のレオが静かに応じた。
「ならば、その方法は主に任せるとしよう」
そう言うや否や、レオは甲板から跳び上がる。
空中でその大きな体を翻すと、金色の粒子を帯びた炎を吐き出した。
シュゴォォォォ───!
対する蒼海獣も、口を開け、水の渦を伴った高圧の水流を放出する。
炎と水が空中で激突し、爆風が船にまで届く。
「《風刃》!」
「《水流剣》……《水刃雨》!」
キールが放った鋭く切り裂く風の刃と、テオの放った降り注ぐ雨のような水の小さな刃が、その巨躯に命中する。
だが、硬質な鱗がそれを弾き、大きなダメージにはならない。
「……硬いね……!」
「くっ……やっぱりこれじゃ浅いか……!」
「なら、こっちは届いて───《心の救済》!」
ルーチェが放ったのは、暖かく包み込むような光。
それは、船を取り巻く周囲の荒れた海面にも降り注ぐ。
ピタリと、水の渦が止まった。
蒼海獣は目を見開き、一瞬、正気を取り戻したかのような反応を見せる。
しかし再び禍々しいオーラが巨躯を包み始め、頭を左右に振り始めた。
「……自分で、あのオーラを振り払おうとしてる……?」
『お嬢様、今のうちです! 意識が戻っている今なら、浄化が届くかもしれません!』
「わかった……! ───《浄化》!!」
ルーチェは棍杖を高く掲げた。
白く神聖な光が杖の先端から溢れ出し、一直線に伸びていく。
浄化の光が蒼海獣を包み込んだ。
その紫色の禍々しいオーラが、煙のようにゆっくりと剥がれ、風に溶けるように消えていく───
そして、静寂が訪れた。
海は波一つ立たず、船体もぴたりと揺れを止めていた。
ルーチェはゆっくりと棍杖を下ろし、周囲を見回す。
「……上手くいった、のかな……?」
風が頬を撫でる。
誰もが、次の一手に身構えながらも、確かに変わった“空気”を感じていた。




