第130話 海の守り神
明後日の朝に出発──それまでのあいだ、ルーチェたちはベリスタの街を自由に散策してよいこととなった。
***
翌日。
街の通りは、観光地としても栄えていた頃の名残が残る、美しく白い石造りの建物が並ぶ。だが、現在は交易の停止により、露店の品揃えも乏しい。
「王国の品ばっかだなー。前に見たやつと変わんない…」
テオが並ぶ品々をちらと見てぼやいた。
干し肉、保存食、簡易魔道具など、目新しさには乏しい品ばかりが並んでいる。
「他の国の商品があれば買いたかったのに……」
ルーチェも残念そうに口を尖らせた。
「海路が止まってますからね。致し方ないことです」
キールが肩を竦めて言った。
ちらほらと、店主と客の小さな言い合いも耳に入ってくる。
「これ、もうちょっと安くならないのか?」
「すみません、今は輸送費が跳ね上がってて……」
言い争いとまではいかないが、誰もが不満を抱えながら生活しているのが分かる。
「……ちょっと空気が重いですね」
ルーチェがそう呟いたところで、キールが言った。
「展望台にでも行きましょうか。気分転換に」
港の一角、高台に設けられた白い展望台に立つと、海風がふわりとローブを揺らした。
「潮風が気持ちいい……」
ルーチェは目を細めて沖を見つめる。そして、静かに《鑑定》を発動させていた。
(こう見ると、穏やかな海なんだけどなぁ……)
『ここから見える範囲に、これといった異常は見受けられませんね』
リヒトが冷静に答えた。
『おそらく、《鑑定》の有効範囲外に異常が潜んでいるのでしょう』
「蒼海獣さん……どうして船を襲っちゃうんだろう……」
海鳥が空を旋回し、遠くで白波が弾ける。だが、嵐の気配はどこにもない。
──その時、ルーチェはふと下の浜辺に目を向けた。
「ん?」
展望台のすぐ下の砂浜で、数人の男たちが何か作業をしている。服装や道具から察するに、地元の漁師たちのようだ。
男たちは波打ち際に打ち上げられた木材を運んでいた。よく見ると、それは明らかに“船の残骸”だ。
(もしかして……蒼海獣さんに襲われた船……?)
「何か、話が聞けるかも!」
そう言うとルーチェは勢いよく駆け出した。
「ちょ、ルーチェ! 待っ──」
テオの声が後ろで止まる。だが、彼女はすでに展望台の階段を駆け下り、砂浜へと向かっていた。
「あの、すみません!」
声をかけた瞬間、砂浜で作業していた一人の漁師風の男が顔を上げた。
「ん? どうした、お嬢ちゃん。ここには面白ぇもんなんてないぞ」
笑いながらそう言う口調は穏やかだったが、日焼けした肌と荒くれた腕は長年の海仕事を物語っていた。
「この残骸って……蒼海獣にやられた船、ですか?」
ルーチェの問いに、男は少しだけ顔を曇らせ、静かに頷いた。
「あぁ、そうさ。ひでぇもんだろ? 原型も残っちゃいねぇ。あの海獣──“蒼海獣”って奴はな、海蛇竜って化け物でよ……水を操るんだ。波を渦巻かせて、船を真っ二つにな……」
「……やっぱり……」
ルーチェは複雑そうな顔で残骸を見つめていた。
「お嬢ちゃん、他所の街から来たんだろ?」
「はい。王都から来ました」
「……そうかい。悪い時期に来ちまったなぁ。今は船なんて一隻も出ちゃいねぇ。出たら最後、海の藻屑だ」
男は苦笑いを浮かべ、肩を竦める。
「この残骸って、これからどうするんですか?」
「どうするって……ここまでバラバラだとよ、もう廃棄するしかねぇな。使える部分もないしなぁ……」
「でしたら、手伝います。《召喚》───ぷるる!」
ルーチェが手を掲げると、小さな魔法陣が輝き、そこからゼリーのようなスライムがポヨンと飛び出した。
「廃棄するなら、この子に捕食させちゃっても大丈夫ですか?」
「おおっ……召喚魔法が使えるのか、お嬢ちゃん……!」
漁師は驚きの声を上げたあと、嬉しそうにうなずいた。
「ああ、こっちとしては助かるぜ。廃棄処理にも金がかかるからなぁ……頼めるなら、ありがてぇ!」
「ぷるる、船の木材は全部食べていいよ。でも金属や魔石、魔道具っぽいのは残しておいてね」
『はーいっ!』
ぷるるは元気よく跳ね、船の残骸に向かってとことこと進んでいった。瞬く間に体を大きく膨らませ、さらに分裂しながら残骸を次々と吸収していく。
それを少し離れた展望台から見下ろしていたテオが、ため息混じりにぼやいた。
「あーあ、始めちゃったよ。……まったく、冒険者は慈善事業じゃないんだけどなぁ」
「でも……ルーチェさんらしいけどね」
キールはくすっと笑いながら、遠くのスライムと少女を眺めた。
オルトは静かに、その光景を見守っていた。
(お姉ちゃんと……ぷるる。すごい……)
それからわずか十分ほど。瓦礫だらけだった浜辺は、すっかり元の白い砂浜へと戻っていた。
「おおぉ……すげぇ、もう終わっちまったのか……」
漁師の男は感嘆の声を上げ、深々と頭を下げた。
「本当に助かったぜ。まさかこんな早く片付くとはな……」
「いいんですよ。どうせ明日まで、特にやることもないですから」
ルーチェは微笑みながら返した。
『ぷるる、お疲れ様。ありがとうね』
『えへへ~! おなかいっぱい!』
スライムは誇らしげにぷるんと跳ねた。
漁師の男はルーチェの方に向き直り、ふっと海のほうへ視線を向けた。
「……年寄り連中の話じゃよ。昔はあの“蒼海獣”、海の守り神だなんて言われてたもんさ」
「え……、守り神……?」
「そう。漁師や船乗りがな、航海に出る前に“海が荒れぬよう見守ってくれ”って祈ってたって話さ。昔は船を襲うなんて話、ひとっつもなかったのによ……」
男の声には、どこか寂しげな響きがあった。
「今じゃ見る影もねぇ。あいつが現れるたび、漁は止まり、船は沈み、死んだ奴も少なくねぇ。……神様ってのは、祟れば化け物になるのかねぇ……」
ルーチェは黙って、その言葉を胸に刻んだ。
***
「海の守り神…」
夜、宿屋の窓から海を眺めながら、ルーチェはぽつりと呟いた。
オルトはすでにベッドの中で眠っている。
その隣には、ノクスが丸くなって寄り添っていた。
(守り神が…暴れる理由…)
ふわりと風がルーチェの髪を撫でる。
窓の下を覗くと、裏庭にキールの姿があった。
(ノクス、少しだけオルトくんのこと見ててくれる?)
『ワカッタ、マカセロ』
ルーチェは迷わず窓枠に立ち、軽やかに跳び降りる。
それを察したキールは風を操り、ルーチェの体をやわらかく支えながら地面へと降ろした。
そして、ふわりとルーチェをその腕に抱きとめる。
「───危ないですよ、ルーチェさん」
注意の声は穏やかで、どこか甘く優しい響きを帯びていた。
「キールさんなら、受け止めてくれる気がして……」
ルーチェは少し頬を赤らめる。
「そ、それに、ほら! 私はシアとも契約しましたから、風魔法も使えますし…! キールさんが受け止めてくれなくても、危なくないっていうか…!」
恥ずかしさを隠すように、ルーチェは早口で言い切る。
「大丈夫です。どんな時でも、必ず受け止めますよ」
そう言うキールの瞳が優しくて、ルーチェは思わず目を逸らせなかった。
庭のベンチにそっと下ろされ、二人は並んで腰を掛けた。
「でも、夜更かしは体に毒ですよ」
「今日の漁師さんの話、思い出してたら眠れなくて…」
キールは覗き込むようにルーチェを見つめると、穏やかに微笑んだ。
「蒼海獣の話ですね」
「海の守り神が、どうして船を襲うんだろうって…」
「確かに疑問ではありますが、分からないことを悩み続けても、疲れるだけです」
キールはそう言いながら、ルーチェの手をそっと取った。
「───その、ずっと気になっていたことがあるのですが」
不意の言葉にルーチェは驚いてキールを見上げる。
「……ルーチェさんは、テオのこと……どう思っているのですか?」
「テオさんのこと……?」
「……本当は、ずっと聞きたかったんです。セシの花祭りの際、夜のダンス──ルーチェさんはテオと踊っていた。……もし、私がセレナ様と踊っていなければ、あの夜、私と──踊ってくれましたか?」
キールの視線が真っ直ぐで、ルーチェは一瞬、返す言葉を見失った。
(……た、確かに、あの時はキールさんとも踊りたいって思ったけど……)
「その…えっと…」
言葉を選びながら、ルーチェは少し戸惑って口を開いた。
「私は、あの、キールさんもテオさんも……どっちも同じくらい大切で……」
その答えに、キールはふっと安堵したように息を吐いた。
「すみません。少し意地の悪い質問でしたね」
そして彼は、そっとルーチェの手を引き、手の甲に静かに唇を落とした。
「……ですが、その言葉が聞けて安心しました」
やわらかな微笑みと共に、キールは立ち上がる。
「もう遅いですから…そろそろ休みましょう」
そう言ってルーチェを軽々と抱き上げると、風の力で再び二階の部屋まで送り届けた。
「では、おやすみなさい、ルーチェさん」
「……はい。おやすみなさい、キールさん」
そっと閉じられた窓の向こう、ルーチェは触れた熱を胸の中に残したまま、ベッドへと潜り込んだ。
***
いよいよ、出航の朝───
波の音とともに、朝日が白い街並みに差し込む。
港では早朝から、船乗りたちの掛け声と荷の積み込みで慌ただしさが漂っていた。
「───おはよう、皆。準備は整っているか?」
港の桟橋で待っていたディアスが、無表情のまま告げる。相変わらず堅物然とした態度で、朝の日差しすらはね除けるような雰囲気だ。
「は、はいっ。荷物も全部ここにあります!」
ルーチェはふわっとリュックを背負い直しながら返事をする。
「どうやら風も穏やかですし、出航には支障はなさそうですね」
海を見つめるキールの表情はどこか堅い。
「でも油断は禁物、ってことでしょ?」
テオが小声でぼやく。
「……当然だ」
ディアスはそちらを一瞥して、すぐに視線を前に戻す。
その横で、オルトがじっと海を見つめていた。
波は確かに穏やかで、青く澄んでいる。けれど、いつ、
どこから蒼海獣が現れるかは誰にも分からない───
「船に乗るぞ」
ディアスの号令と共に、一行はゆっくりと桟橋を渡り始めた。
(───さあ、ヴァレンシュタイン王国を出て、獣王国へ……!)
ルーチェはそう心の中で呟いた。
さあ、いよいよ、次回からは船旅が始まります…




